不破哲三/著
「千島問題と平和条約」
日ロ平和交渉締結に向けた政府の交渉の論立てである「南千島は千島にあらず」ははたして世界に通用するのか? 千島列島をめぐる歴史、領土処理の国際的道理など、問題の核心に関わるすべてを解きあかし、対ロ領土交渉の道理と道筋を示す。
目次や構成
領土交渉の問題点 ―スターリンの横暴の是正こそが最大の焦点
・領土交渉では日本側の論立てが問題
・「南千島は千島にあらず」という議論は世界では通用しない
・千島列島の取り上げこそ「法と正義の原則」に反するスターリンの横暴だった
千島問題 ―その歴史と道理
1 二つの国境条約
2 ロシア側の記録は語る
3 サンフランシスコ条約と戦後処理の原則
4 千島放棄条項の廃棄は日本国民の正当な権利
5 「千島列島」の範囲について
6 「南千島は千島にあらず」
7 領土問題での現状打開と解決の道
日ソ領土交渉にあたっての提言(四つの提言)
日ソ交渉史と「四つの提言」
・日ソ交渉を前にした両国政府の状況
・1955~56年の日ソ交渉の経過と教訓
・日本共産党の領土交渉の経過から
・「四つの提言」をなぜおこなったか
領土問題の討論についての意見と感想
・千島放棄条項の廃棄問題をめぐって
・千島列島の歴史をめぐって
・ヤルタ会議とヤルタ協定の問題
・ソ連の安全保障の問題とのかかわり
・ソ連国内法による編入措置の問題
・「あいまいな取り引き」の危険の問題
・二島返還と中間条約の問題
・領土問題の最終的解決とは何か
千島問題 ―その歴史と道理
(1)二つの国境条約
―― 領土要求の原点をどこに ――
――日本政府は、二月七日を北方領土の日ときめて集会をおこないました〔一九八一年〕。これにたいして日本共産党は、すでに五月七日を千島の日として記念するのが国民的行事としてふさわしいという見解を発表していますが、最初にその根拠についておうかがいしたいと思います。
不破 日本は、ソ連とのあいだに、千島列島および歯舞・色丹の返還という大きな領土問題をかかえています。この問題は日本国民が今後努力をかたむけて解決すべき重大な国民的課題であって、そういう国民的な要求と運動を意義づける記念日を設定することについては、私たちは、国会でも、積極的に賛成してきました。この記念日の設定は、領土問題についての国民的な運動の原点を正確にとらえることにもかかわる問題であって、それを、そのときどきの政府がとる外交政策の上でのあれこれの当面的な政略に従属させてきめるべきではない。そういう見地から、私たちは、この記念日としていかなる日をえらぶかは、今後の国民運動の方向にもつながる重大な意味をもつと考えています。
ご承知のように、日本共産党は千島列島および歯舞・色丹は歴史的な日本の領土だとする立場から、国際的な道理にたってその返還を要求していますが、この見方は、多くの国民のみなさんと共通のものだと考えます。
では、この歴史的な領土がどのように形づくられたのか。日本が統一国家としてはじめてロシアとの外交的接触を開始したのは、幕末から明治にかけてのことですが、この過程で、日本と口シアとの国境が確定されていったのです。そこでは、二つの条約が結ばれました。一つはいわゆる下田条約で、一八五五年二月(安政元年十二月)に徳川幕府とロシア政府のあいだに結ばれた「日魯通好条約」、もう一つは、一八七五年(明治八年)五月に結ばれた「樺太・千島交換条約」です。
その経緯のあらましについて話しておきますと、封建日本がアメリカのペリー艦隊来航で二百余年にわたる鎖国の夢を破られたのは、一八五三年のことでしたが、アメリカが日本に迫って日米和親条約を結び、下田、箱館(現在の函館)二港を開港したことが国際的に伝えられると、他の外国からも同じような条約締結の圧力がつよくなりました。とくにブチャーチンのひきいる口シア艦隊は、ペリー来航の翌月には長崎にあらわれて条約締結をめぐる交渉をはじめます。このときの交渉はまとまらず、あらためて一八五四年末からこんどは伊豆の下田で交渉が継続され、翌年二月、ここで正式に調印されたのが「日本国魯ロ西シ亜ア国通好条約」です。この条約は全文九条、国交の基本に関するいろいろな事柄をきめると同時に、たがいに境を接する国として、第二条でつぎのように両国間境界をきめたのです。
「第二条 今より後日本国と魯西亜国との境『エトロブ』島と『ウルップ』島との間に在るへし『エトロブ』全島は日本に属し『ウルップ』全島夫それより北の方『クリル』諸島は魯西亜に属す『カラフト』島に至りては日本国と魯西亜国との間に於て界を分たす是迄仕来しきたりの通たるへし」
つまり、(1)千島問題については、千島列島を南北二つにわけて、ウルップ以北はロシア領、択捉以南は日本領とする、(2)樺太は日本とロシアの間で境界をきめないで従来通り日本人もロシア人も自由に活動できるところにする、これが、そのときの合意の内容でした。
この合意は、樺太をいわゆる「雑居の地」としたことにもみられるように、日露両国間の国境の最終画定とはまだいえない面をもっており、国境・領土問題をめぐる交渉が、それ以後も、幕末から明治初年にわたっていろいろとつづけられます。とくにその間、ロシアの側では樺太を独占したいという要求が非常につよくなり、かなりの国力をつぎこんで樺太経営をすすめ、樺太にいる日本人への圧迫がつよまります。そして、ロシアの方から、樺太をロシアにひきわたすなら、その代償として、一八五五年条約でロシア領とされた北千島の一部を日本に譲ってもよいという意向が示されます。日本政府の方では、現状維持論や樺太経営論などいろいろ出て議論がされますが、結局、当時の日本の国力からいってロシアに対抗して樺太経営に乗り出す力はない、それなら樺太を譲って交換条件に北千島を日本領にしようというのが、基本方針となります。詳しくいえば、両国の外交交渉のいきさつとかこれをとりまく諸外国の思惑とかいろいろありますが、結局、榎本武揚が全権としてペテルブルグ(ロシアの首都)にのりこみ、ここでの会談で一八七五年(明治八年)五月、「樺太・千島交換条約」が結ばれました。この条約は、(1)樺太全島を今後ロシア領とすること、(2)これまでロシア領だったグリル群島、すなわち、第一島のシュムシュ島から第十八島のウルップ島までを日本にゆずり、以後は「グリル全島」が日本に属することを、定めたのです。
第一款
大日本国皇帝陛下(其ノ後胤二至ル迄現今樺太島(即薩哈嗹島)ノー部ヲ所領スルノ権理及君主二属スルー切ノ権理ヲ全魯西亜国皇帝陛下二譲り而今而後樺太全島ハ悉ことごとク魯西亜帝国二属シ「ラペルーズ」海峡ヲ以テ両国ノ境界トス
第二款
全魯西亜皇帝陛下(第一款に(ママ)記セル樺太島(即薩哈嗹島)ノ権理ヲ受シ代トシテ其後胤二至ル迄現今所領「クリル」群島即チ第一「シユムシュ」島第二「アライド」島第三「パラムシル」島第四「マカンルシ」島第五「ヲ子コタン」島第六「ハリムコタン」島第七「エカルマ」島第八「シャスコタン」島第九「ムシル」島第十「ライコケ」島第十一「マツア」島第十二「ラスツア」島第十三「スレド子ワ」及「ウシシル」島第十四「ケトイ」島第十五「シムシル」島第十六「プロトン」島第十七「チェルポイ」並二「プラッド、チェルポエフ」島第十八「ウルップ」島共計十八島ノ権理及ビ君主二属スルー切ノ権理ヲ大日本国皇帝陛下二譲り而今而後「クリル」全島(日本帝国二属シ柬察加カムチヤツカ地方「ラパッカ」岬ト「シユムシュ」島ノ間ナル海峡ヲ以テ両国ノ境界トス
このように国境条約としては、二つの条約がありますが、日本とロシアが国家的接触を開始した最初の二十年間に、ともかく平和的な話し合いで最終的にきめられた国境がこの一八七五年条約であり、その結論が、千島列島全体を日本領とし樺太はロシア領とするということだったのです。ですから、日本の国民が、日本の歴史的な領土を回復するという立場から領土問題をとらえる場合、どこに原点をおくべきか、どの条約に依拠すべきかといえば、これは中間的な一八五五年条約ではなく、最終的に両国間の国境を確定した樺太・千島交換条約の到達点をえらぶべきだし、これが国民的な要求の基礎づけとなることは、自明だと思います。
政府は、安政の下田条約を原点にえらんで、これが一八五五年二月七日に結ばれたということから、二月七日を「北方領土の日」に設定しました。これは、日本国民の領土要求を国後、択捉の範囲に限定し、北千島放棄は当然のこととする立場になります。これにたいして、私たちは、国際的道理に立ち歴史的経緯もふまえて要求する以上、両国が統一国家として十九世紀にはじめて接触し交渉した最終的な到達点が千島列島全島の日本領有ということなのだから、その原点を正しくおさえるという意味で、樺太・千島交換条約が結ばれた日である五月七日を記念日にすべきであり、記念日の名称も、「北方領土の日」などあいまいな名称ではなく、「千島の日」とすべきだ、と主張しているのです。
(2)ロシア側の記録は語る
――この二つの国境条約について、ソ連側の方では、ロシアにおしつけられた不平等条約だったといって、その意義を否定する議論がさかんになったようですね。たとえば最近、二月三日付〔一九八一年〕の「プラウダ」でも、ラテイシェフという前のプラウダ東京特派員が、千島を最初に発見し領有したのはロシア人だとか、二つの国境条約は、弱体化したロシアが日本の圧力のもとでおこなった不法な領土的譲歩だったとかいった議論をもちだしています。こういう議論に根拠があるといえるでしょうか。
不破 これは、歴史の議論としても、たいへん無茶な議論だと思いますね。第一に、誰が最初の発見者かということは、国の領土をきめる決定的要因になりません、最初の発見者がその土地の領有者だというのなら、アメリカ大陸の最初の発見者はいまのインディアンの祖先です。あるいは原住民は別として、ヨーロッパの発見者に属するというなら、コロンブスはイタリアの人ですから、イタリアが領有権を主張しなければならないことになります。千島問題にしても、千島列島に最初に住みついたのが、ロシア人ではなく、ロシアの文献で「クリル人」とよんでいる人びとであったことは明白で、ロシア側の多くの記録者が、この「クリル人」は北海道から千島列島全域にわたって活動していたとしているのですから、発見者を問題にすることは少しもソ連領有論の助けにはならないでしょう。
結局、ソ連でのこれらの議論が主張しようとしているのは、当時、原住民を服属させて千島列島を支配していたのは、ロシアだったのに、一八五五年条約で、それが認められなかったのは不当だ、ということのようですが、これもまた、歴史の真実をまったくゆがめた議論であって、そのことは、当時のロシア側の文献をみても、すぐわかることです。
『日本幽囚記』と十九世紀初頭の千島事情
たとえば、十九世紀初頭の千島事情をしめすロシア側の記録に、ゴロブニンの『日本幽囚記』(一八一六年刊)という本があります。ゴロブニンというのは、ナポレオン戦争にも参加したロシア海軍の軍人です。軍艦ディアナ号で世界周航を命ぜられ、一八〇七年夏、ペテルブルグのクロンシュタット軍港を出航、途中アフリカ南端の喜望峰でイギリスの捕虜になったりしますが、一年余の抑留後、航海を再開、インド洋からオーストラリア、ニュージーランドの南をまわって、太平洋に入り、これを南から北に縦断してカムチャツカに一八〇九年九月到着します。ここでふた冬すごしたあと、千島南部や沿海州沿岸の測量を命ぜられ、千島列島を南下して一八一一年七月、国後島に上陸したところで日本側に逮捕され、一八一三年十月に釈放されるまで約二年間、正確には二十六ヵ月と二十六日間、日本の獄舎にとらわれの身となります。そのときのことを書いたのが『日本幽囚記』で、ここに書かれているのは、プチャーチンが日本に来航するより四十年も前、十九世紀初頭の千島事情としてたいへん興味深いものです。
そのゴロブニンの記録をみてみますと、冒頭の、千島をめぐる歴史事情や日露関係を説明した部分を、ゴロブニンがつぎのような言葉で結んでいるのが、まず目につきます。
「以上が、日本に所属する千島諸島の陸岸に向って、出発した当時、私の知っている限りの、日露関係であった」(岩波文庫版『日本幽囚記』上九〇ページ)。
これは、ゴロブニンたちが、自分たちの測量航海の対象とした南部千島、すなわち、択捉、国後などが「日本に所属する千島諸島」であったことをはじめから承知のうえで、この航海にのりだしたことを、率直にのべた文章です。
また、ゴロブニンたちは、択捉島に上陸してはじめて日本兵の部隊にあい、その隊長からなんのために来たかと質問されたとき、測量という「本当の目的」をかくし薪水の調達のためだと弁明します。ゴロブニンは、あとで、この択捉島での初会見のくだりに注釈を付して、そのとき本当の目的をかくした理由を、つぎのように説明しています。
「われわれが当地にやってきた本当の目的は、決して日本人には打明けるわけに行かなかった。他意なしに、単なる好奇心から、他国の領土を測量するために、ある国から船を出すなどということは、日本人には到底想像も出来ないことで、彼等はすぐさま猜疑をさしはさむであろう」 (同前九三ページ)。
また、『日本幽囚記』の第三編「日本国および日本人論」では、まず冒頭、「一、地理学的位置、面積および気候」の一節で、日本の領土について、つぎのように書いています。
「日本の領土は大小の島嶼から成り、そのうち最大で主位をしめる島は日本ニフホン島で、西南から東北に伸びた同島の最大延長は、一、三〇〇露里(一露里は一、〇六七米)、最大幅員は約二六〇露里に及んでいる。同島の北方、僅かに離れて、千島の第二十二島のマトマイまたはマツマイ(松前)があり、周囲一、四〇〇露里に及んでいる。松前の北方にサハリン島(これは南半だけが日本に属し、他の半分は支那に従属している)と、更に日本側の占拠した国後クナシル、色チ古コ丹タンおよび択捉イトルウプの三つの千島諸島がある」(岩波文庫版下九~一〇ページ)。
この文章は、色古丹ばかりか松前(北海道)まで千島列島に数えいれ、北海道を千島の第二十二島にするなどの地理的な混乱はあるものの、択捉、国後を、日本の領土にはっきり数えあげている点で、注目されます。また、日本の版図を論じた最後の一節「日本に貢納する諸民族と日本の植民地」では、「植民地」という表現ではありますが、「松前、国後、択捉およびサハリンの諸島は正当なところ、日本の植民地と云える」(同前一八〇ページ)とのべて、択捉、国後が日本の主権下にあることを明記し、さらに、日本が千島列島に進出していった経緯を、つぎのように説明しています。
「松前島の陸岸を囲む海中に夥しくとれる魚類、そして人口の多い日本人の栄養としてあれほど必要な魚類が、日本人をして松前の原住民と交易を開始させ、遂には原住民と契約を結んで松前の海岸で漁業を行い、その代償として原住民の必要とする一定量の商品を支払わせるに到った。こうして日本人は次第次第に松前島の全海岸に拡がって行ったのである。こうした漁区賃借によって挙げた多大の利益は更に日本人を鼓舞し、国後、択捉、得撫ウルツプその他の南部千島諸島ならびに南部サハリンの原住民と交易を開かせるようになった。日本政府はこの交易を一括しないで、分割して数名の商人に請負わせた。こういう訳で日本人は上記の島々の原住民と永いこと交渉し、通商関係を持っていたにも拘わらず、この地方への植民など少しも考えなかった。いわんやその住民をおのが王笏の下に征服するなど夢にも思わなかったのである。
その後、ロシア人がわれわれのいわゆる千 島 諸 島クリルスキエ・オストロヴアを北の方から征服し、その領土をはるか南の方へ広げているということを偶然知ったので、日本側では直ちにこの列島の南部諸島を占領して、爾後開戦の口実を与えないように(あるいは日本人にとってかくも重要な漁業を失わないように)したのである。原住民は日本側のその行動をまねいた直接の動機を知らないので、初めのうちは抵抗しようとしたが、間もなく打ち敗けて、日本皇帝の権力に服した。それ以来、日本側では上記諸島の便利な地点に要塞を築き、これに守備隊を配し、住民は日本君主の臣民と同様に統治し、そのために数々の特権を与えたが、これについては後述する」「同前一八一~二ページ)。
これらの文章は 千島問題をめぐる当時の事情についての、ロシア側の当事者による証言として、とくに鎖国という特殊な情況下の日本で、二年間余の投獄という不当な抑圧をうけたという点では、いわば”敵意ある証人”ともいえる立場にあるものの証言であるだけに、特別の値打ちをもっているといえるでしょう。
榎本武揚とポロンスキー『千島誌』
ゴロブニン以後の千島問題についてのロシア側文献で、最近読んで面白かったのは、榎本武揚らが訳したA・S・ポロンスキー『千島誌』(一八七一年刊)です。これは、樺太・千島交換条約の交渉でペテルブルグに滞在していた榎本武揚らがそこで見つけて翻訳にとりかかり、条約締結の年の十二月に訳了したもので、最近、「北方未公開古文書集成」の第七巻として刊行されました。原著『千島誌』が出版されたのは、一八七一年、一八五五年条約で千島が日本とロシアのあいだで南北分割されたあとの書物で、十八世紀中葉以来ゴロブニンにいたるロシア側の千島探査の歴史をまとめたものですが、ゴロブニン以後の問題として、注目すべき二つの点が記されています。
その一つは、ゴロブニンの報告をうけたイルクーツク鎮台(知事)トレスキンが一八一四年に今後の日露関係について総督に送った意見書の内容です。その第六項と第八項には、千島問題にたいする態度について、こう書かれています。
「第六、日本と魯西亜との境界を定る事。『ゴロウニン』の言によれば、日本政府にては魯国は十八番『ウルップ』島迄を領せりとし、其島と第十九番『エトロフ』島との間を以て境なりとせり、故に我れは其以南を領するの望を断ずべし」(『千島誌』二〇三ページ)
「第八、『クリル』諸島の事。通商の事に付ての日本の返答は未だ量り知り難けれども、日本政府は既に魯船の日本海岸に寄るを厳しく禁じたる事は明かなれば、今又更に不都合を生ぜしめぬ様、魯西亜、米利加商会へも厳命を下し、十八番以南の諸島に船を寄しむべからず」(同前、二〇三ページ)。
ロシア側に当時、あわよくば全千島の領有をという野心があったことは、ゴロブニンの記録にもふれられている点ですが、千島をめぐる事情を具体的に調査した結果として、択捉以南を「領するの望を断ずべし」というのが、ゴロブニンの報告をうけたイルクーツク鎮台の結論的方針だったわけです。
もう一つの点は、『千島誌』が、十九世紀におけるロシアと北千島との実際の関係について、率直に記述していることです。一八一三年のノビコフ一行の失敗をはじめ、日本との外交交渉が開かれないまま推移したことをのべたあと、ロシア側の北千島経営が失敗し、ついにまったくの空白状態におちいったことを、ポロンスキーはつぎのように記述しています。
「是より前『セリホフ』が企て『ウルップ』に殖民し、猟虎ラッコ猟及び貿易の通路を開かんとせしがども、其事未だ成らざるに、事全く破れ、千八百十二年には魯米商会にて『サガレン』島に殖民せん事を乞しかども、此時恰も囚人の還附を乞ふ談判の時なりしを以って、魯人の出没多きは害あるべきをおもひ、其乞ひを許さず其儘になりたり。是に於て、特に日本との通商の企中絶したるのみならず、毛モウ人〔原住民のこと〕を服属せしむるの企も茲に断絶せり。此時より以来は魯国の官吏も法師〔牧師のこと〕も『クリル島』に至るものは、唯『カムチャツカ』附近の島を巡回するのみにて、四番島〔北から数えて四番目の島、マカンルシ島のこと〕より南へ往くものは絶てなく、譬ば十四番島〔ヶトイ島〕の如きは魯国に服せる毛人の住せる島なれども、千八百三年以来は全く魯人の跡を絶せり」(同前二〇五ページ)。
つまり、十九世紀にはロシア人は北千島にも、北端の一部をのぞいてまったくいかなくなったと書いているのです。
このように、ロシア側の当時の文献をみても、いま、ソ連側から盛んに宣伝されているような”択捉、国後をふくめ、千島列島全体をロシアが支配していたのだ”というような主張は、まったく根拠のない歴史の改作であり、北千島についても、十八島全体がロシアの主権下にあったとはとてもいえないことがわかります。
「不平等条約」の被害者は誰か
いずれにしても、領土問題を歴史的に考えるうえで一番大事なことは、わが党が一貫して主張しているように、両国家間の平和的な話し合いで何が確定されたかを出発点にすべきであるということです。ソ連側は、この国境条約の意義を否定するために、千島列島を発見し経営してきたのはロシアなのに、日本の圧力のもとに不当な領土的譲歩をおこなって成立したのが二つの国境条約だといった議論をもちだすわけですが、一八五五年条約で、択捉、国後を日本領としたのが、ロシア側の不当な「領土的譲歩」でも何でもなく、四十年前のゴロブニンでさえ当然の事実としてうけいれていた現実を条約化したにすぎなかったことは、これ以上論じるまでもないところでしょう。かえって、数十年にわたって「全く魯人の跡を絶せり」(ポロンスキー)という状態だった北千島の領有権を日本側に認めさせた点では、ロシア側にとってきわめて成功的な交渉だったといってもよいでしょう。
だいたい、下田条約を、日本側の圧力による不平等条約のおしつけとしてえがきだすなどは、多少とも当時の日本歴史を知っている人には、笑いを禁じえない、こっけいきわまる議論です。当時の条約交渉は、幕末、それまでごく部分的にしか外国との交渉がなく、国際的な知識もなかった日本に、アメリカの艦隊、ロシアの艦隊があいついで来て、開港と条約締結をせまる、まさに典型的な「砲艦外交」でした。こうして結ばれた諸条約が、日本の主権や国家間の対等・平等をおかす不平等条約で、この不平等性をなくす「条約改正」がその後の日本外交の大問題となったことは、歴史の常識です。それを、ロシアの方が、「弱体化」につけこまれたとか「日本の圧力」で不平等条約をおしつけられたなどというのは、まさに歴史をさかだちさせるものです。だいたいこうした”歴史”をとなえる人たちは、帝政ロシアがわざわざ軍艦を長崎や下田まで派遣して不平等条約をおしつけられたといったばかげた話が、世間に通用するとでも思っているのでしょうか。
下田条約自体をみても、境界をきめた第二条のほか、第八条では、相互主義的なよそおいのもとではありましたが、日本にいるロシア人が法をおかしたときは、「本国の法度を以て」処置するという領事裁判権に通じる条項がきめられていました。これは、アメリカやイギリスとの条約になかった条項で、樺太を混住の地としたこととの関連があったとはいえ、一八五七年以後諸外国に治外法権をみとめるさきがけとなったものでした。
また、第九条には「両国近隣の故を以て日本国にて向後他国へ許す処の諸件は同時に魯西亜人にも差免すへし」という最恵国約款の条項があります。これを結んだとき、おそらく日本側は、その深い意味を理解できなかったでしょうが、その後、ハリスがきて、まず日米条約(一八五七年)が、ついで日米修好通商条約(一ハ五八年)が押しつけられると、これが大問題になります。新しい日米条約は、治外法権の問題とか、関税自主権がないとか、居留地制や外国軍隊の日本駐留とか、独立国の主権をおかす条項を何重にもふくんだいっそう明白な不平等条約でした。ところが、当時の幕府はこれが不平等条約であることをよくわからないで、ただ、開港問題だけを問題にしたというのですから、黒船の圧力と同時に無知につけこまれて、不平等条約を締結させられたといってもよいでしょう。しかも、これまでの条約上のとりきめから、アメリカに認めたのと同じ条件をロシアなどにも「差免さしゆる」さなければならなくなり、諸外国の全体と基本的に同じ性格の不平等条約を結ばされてしまいました。「条約改正」に成功して、日本がこの不平等条約の体制から基本的に脱却するのは、それから三十年後の一八九〇年代も半ばになってのことです。さらに一八五八年条約以後も、一八六一年のロシア軍艦による対馬の一部占領など、不法な主権侵害事件がおこったことは、周知の事実です。
この歴史上の自明の事実をさかだちさせ、日本が圧迫者であったかのように幕末の日露関係をえがきだすことは、ソ連による千島占有という不法な現状に無理やり歴史をあわせ、「不平等条約」の被害者を加害者にしたてあげようとする許しがたい歴史の偽造だというほかありません。
ソ連でも、以前には、この時期の日露外交史について、より健全な見方が歴史学界で公認されていたことを指摘しておくのは、無駄ではないでしょう。たとえば、戦後早い時期に日本に翻訳紹介されたソ連科学アカデミー歴史研究所編『世界史教程』は、この時代の日露関係を、つぎのように記述していました。
「一八五三年、四隻のアメリカ軍艦が日本に姿を見せ、海外貿易のために日本の港を開放せよと迫った。それから間もなく、ブチャチン提督のロシア艦隊が日本沿岸を訪れ、同様の要求を提出した。日本は大船を建造することを禁ぜられていたから、日本には艦隊がなく、大砲もなかった。だから戦うわけに行かなかった。将軍は中国と同じようなヨーロッパ人の攻撃を恐れ、帝ミカドの名において、アメリカ合衆国、イギリス、ロシア、その他の諸国との通商条約に調印した。すなわち、外部の世界との通商のために開国したのである。
一八五八年に結ばれた追加条約は、日本にとって不平等条約であった。外国人は日本の法律にも裁判にも服さなかった。外国人を裁くことができたのは、領事(通商代表)だけであった。日本は外国商品に高い関税を課する権利を奪われた」(『世界史教程』近世2、青木文庫版一六三ページ)。
これは、最近の歴史改作者にたいする、歴史科学の名によるもっとも適切な回答ではないでし
ょうか。
(3)サンフランシスコ条約と戦後処理の原則
――歴史的な経過からいっても千島列島全体が日本の歴史的な領土であること、領土返還の国民的要求の原点を一八七五年条約におくべきことは、まったく明白だと思いますが、日本政府が、一八五五年条約に固執し、「北方領土の日」を二月七日にあえて設定した理由は、どこにあるのですか。
不破 先日も国会でそのことを質問しました(一九八一年二月四日、衆院予算委総括質問)。政府はいろいろいいますが、結局、唯一最大の理由は、一九五一年のサンフランシスコ講和会議で結んだ「平和条約」で千島列島を放棄したのだから、千島列島は要求できない、しかし択捉、国後は放棄した千島列島に含まれないという”解釈”で、この択捉、国後を日本領として確定した一八五五年の条約を領土要求の原点にしようということです。要するに歴史はともあれ、千島列島は、サンフランシスコ条約で放棄したのだから、一八七五年条約を問題にするわけにはゆかないということです。誰でもわかるように、これは、まったくあからさまな北千島放棄論です。
私たちがこれまでも国会でくりかえし指摘してきたことですが、自民党はなにしろ吉田自由党を源流とする政党ですから、開祖である吉田茂の内閣のときに結んだサンフランシスコ条約を批判することができないのかも知れません。しかし日本国民の運動や要求を、その時どきの政府の誤った政治的立場に永久に拘束したりすることは、誰もできないはずです。三十年前に吉田内閣がサンフランシスコ条約で千島列島を放棄したからといって、これを国民的な運動に前提としておしつけるというのは、民族の将来を誤る大間違いをおかすことになります。
――では、サンフランシスコ条約の千島放棄条項の問題は、国際的な条約論の立場から、どうみたらよいのですか。
不破 サンフランシスコ「平和」条約の第二条の領土条項C項には、「日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」とうたわれています。
樺太は歴史的事情が別ですが、千島列島についていえば、この条項で、日本は「千島列島」にたいする「すべての権利、権原、請求権を放棄する」ことを、国際条約として、世界に宣言してしまった。これは、吉田自由党政府が結んだものですが、この条項が日本政府を拘束していることは、明白な事実だし、政府自身、これを順守する意思を、最近の国会でもくりかえし言明しています。
しかし、ここで大切なことは、いったん結んだからといってすべての条約を無条件に絶対化する必要はないということです。日本政府自体も、たとえば台湾の国民党政府との間に、一九五一年、日華条約を結んだけれども、日中国交回復とともに、事情に合わなくなったといって、一方的に宣言して廃棄してしまいました。このように、条約というのは不変不動のものではありません。もちろん、一般的にいって、外国と結んだ条約を順守するというのは、すべての政府が負うべき当然の国際的な責任に属することですが、国際的な道理に反する条約や条項を絶対化せず、誤りが明白になったときに、これをあらためる必要な措置をとることは、これまた当然のことです。問題は、条約を国際社会の正義にかなっているかどうかという尺度で考えることであって、そういう道理に照らして誤っている条約は、道理にもとづいて直すなり、廃棄するなりする、これが、国際的な権利でもあれば責任でもあります。
サンフランシスコ条約の千島列島放棄条項についても、そういう道理に照らして国民的検討をくわえる必要があります。
第二次世界大戦は、二つの陣営のあいだの帝国主義戦争であった第一次世界大戦とちがって、基本的には、日本、ドイツ、イタリアを中心とするファッショ、軍国主義の侵略国家にたいする反ファッショ連合国の戦争という性格を持っていました。そして、反ファッショ連合国は、大戦中に、戦争目的とか、領土問題の原則とかについてくりかえし明らかにし、それが、戦後処理のすべてを律すべき民主主義的な原則として、国際的にも確認されてきました。だから、そういう戦後処理の民主主義的原則に照らして、千島放棄条項を検討することが、この問題を考える中心点にすえられなければなりません。
第二次世界大戦の終結時に、日本は、連合国のポツダム宣言を受諾して降伏しました。ポツダム宣言は、降伏した日本をどう処理しようが、連合国の勝手だということではなく、「われらの条件は左の如し」として、一連の条件を明確に定めています。領土問題についても第八項に、「カイロ宣言の条項は履行せらるべく又日本国の主権は本州、北海道、九州及四国並に吾等の決定する諸小島に局限せらるべし」とうたっていました。一口でいえば、カイロ宣言を戦後の領土問題処理の大原則にするということです。
カイロ宣言というのは、一九四三年にカイロでアメリカ、イギリス、中国の三国首脳が集まって発表した宣言で、対日戦の戦争目的を明確にしたものですが、戦後解決すべき領土問題の原則を、まずつぎのようにのべています。
こうして、日本との戦争をすすめている同盟国は、自国のための特別な利得は求めない、「領土拡張」のなんらの意図ももたないということを明確に宣言したうえで、具体的な内容にうつっています。
前記三大国は朝鮮の人民の奴隷状態に留意し軈て朝鮮を自由且独立のものたらしむるの決意を有す」
このカイロ宣言がだされた当時、ソ連はまだ対日戦にくわわっていませんでしたから、この宣言は、日本とソ連のあいだの領土問題にはふれていません。しかし、ソ連も参加したポツダム宣言が、「『カイロ宣言』の条項は履行せらるべく」とうたい、これが、ソ連をふくむ連合国全体の共同のプログラムとなった以上、日ソ間の領土問題も、カイロ宜言に明記された諸原則、すなわち連合国側の「領土拡張」の意図を否定し、日本が駆逐されるべき地域を「暴力及貪欲に依り日本国が略取したる」地域と規定した「領土不拡大」の原則によって、律せられるべきことは明白です。
カイロ宣言のこれらの原則に照らして、日ソ間の領土問題をみてみますと、南樺太は、日露戦争の結果、日本が手に入れたところです。日露戦争は、日本の側からも、ロシアの側からも、帝国主義戦争の性格をもった戦争でしたが、樺太は、一八七五年の条約で全島をロシア領とすることを確認しあったものです。その南半分を、戦争の結果、日本がとりあげてしまったのですから、これは「暴力及貪欲に依り日本国が略取したる」地域にあてはまります。
しかし千島列島はまったく事情がちがいます。いまくわしくみてきたように、話し合いを通じて結ばれた一八五五年と一八七五年の二つの国境条約で、最初は、択捉以南、ついで、ウルップ以北、結局は列島全体が日本領として確認されたものですから、「暴力及貪欲に依り日本国が略取したる」地域には、絶対にふくまれえない。ソ連が戦勝国としてこの千島列島をとりあげたり、あるいは連合国として日本にその放棄を求めたりすることは、カイロ宣言で明確に否定した連合国側の「領土拡張」に属する行為です。カイロ宣言の原則に反して千島放棄条項をサンフランシスコ「平和」条約のなかに織り込んだのですから、日本の国民が、これを戦後処理の誤りとしてその是正を主張するのは、国際的にも十分な根拠と正当性をもっていることです。
――アメリカが、サンフランシスコ条約に、千島放棄条項をおりこんで、それを日本におしつけたのは、ヤルタ協定が根拠になっている、といわれますが。
不破 その通りです。しかし、結論的にいえば、ヤルタ協定をもちだしたからといって、ソ連の千島占有を正当化することはできません。
ヤルタ協定というのは、第二次世界大戦の最後の年、一九四五年の二月にソ連のヤルタ(クリミヤ半島)で開かれたルーズベルトとチャーチル、スターリンの米英ソ三国の首脳会談で結ばれた協定です。このヤルタ会談は表むきは対ドイツ戦争の問題を討議した会談ということになっており、公式にはその関係の協定だけが、当時発表されたのですが、実際には、三国首脳間で、ソ連の対日戦への参戦問題やその条件が議論され、秘密協定が結ばれていた。千島問題は、この秘密協定でとりきめられたことなのです。
なぜ、ここでソ連の対日戦参加問題がとりあげられたかといういきさつを簡単にいうと、第二次世界大戦は全体としては、米英ソを中心とした反ファッショ連合国と、日独伊「枢軸」諸国とのあいだの戦争でしたが、太平洋で日本と戦っていたのは、アメリカ、イギリス、中国で、日本とソ連との間には戦争関係はありませんでした。
ところがアメリカは、太平洋戦争で日本を打ち破り、第二次世界大戦を早く終結させるには、どうしてもソ連の参戦が必要だと考えて、一九四三年、ヨーロッパでもまだ戦争の決着がつかず、ソ連の国土ではげしく対ドイツ戦がたたかわれている頃から、ソ連にたいして、日本との戦争に加わるよう、くりかえし要請をする。そして、この問題に結論をだし、ドイツ降伏後のソ連の対日参戦の時期と条件を決定したのが、一九四五年二月のヤルタ首脳会談だったのです。
ルーズベルトとともにヤルタ会談に参加したアメリカの国務長官ステチニアスが、のちに、ヤルタ会談についての回想記『ルーズベルトとロシア人』(邦訳『ヤルタ会談の秘密』一九五三年、六興出版社刊)を発表しましたが、ステチニアスは、ソ連の対日参戦を求めたアメリカ側の事情※注1をつぎのように説明しています。
アメリカの統合参謀本部ではわれわれ一行がヤルタヘ向けて出発する直前に、ソ連の対日参戦に関する文書の写しを国務相に送付してきた。その文書は次のように述べていた。
……われわれは、ソ連ができるだけ早い時期に攻勢作戦を決行する能力に応じて参戦することを切望する。そしてわれわれは対日戦争のわが主な遂行力に支障をきたすことなく、できる限り最大限の支援を与える用意がある……
この問題については、すでに一九四三年(昭和十八年)八月のケベック会談で、ホプキンス特使は次のような軍用文書を携行していったものだ。
最後に、アメリカがソ連関係で考慮せねばならぬ最も重大な要素は、太平洋戦争の遂行である。もしソ連が対日戦争で同盟軍となれば、そうならない場合よりも戦争はより早く且つ人命資材においても、より安く終結することができる。万一、太平洋戦争でソ連側か非友好的か、もしくは反対の態度をとるならば、はかりしれない困難が増大して作戦は失敗に帰するかもしれない」(邦訳八二~ニページ)。
この問題は、一九四三年のテヘラン会談や一九四四年十月のモスクワ会談などでも検討されました。とくに、モスクワ会談では、スターリンは、ドイツの崩壊後二ヵ月か三ヵ月で参戦できるという見解を、アメリカ、イギリス側にしめしていました。ヤルタ会談では、米ソ両首脳の秘密会談でこの問題が決着がつけられました。ステチニアスは、その模様をつぎのように書いています。
「さてルーズヴェルト大統領はヤルタに到着後ただちに、ソ連が対日戦争に参戦する問題についてスターリン元帥と最高秘密会談を行ったのであった。この討議については、ヤルタ会談に出席したアメリカ代表団の大半はなにも知らなかったし、また三巨頭会談の本会議でも、三国外相会議でも、全然問題にはならなかったのだ」(同前、八三ページ)
ヤルタ会談は、二月四日から二月十一日にかけておこなわれましたが、チャーチルによると、ソ連の参戦問題でのルーズベルトとスターリンとの会談は、二月八日と十日におこなわれ、ここで協定草案がつくりあげられました。そしてチャーチルは、翌二月十一日の三国首脳会談の席で、米ソ間でつくった協定の草案をはじめてみせられ、署名を求められたとのことです。※注2
この協定は、「三大国、すなわちソヴィエト連邦、アメリカ合衆国及び英国の指導者は、ドイツ国が降伏し且つヨーロッパにおける戦争が終結した後二箇月又は三箇月を経て、ソヴィエト連邦が次の条件で連合国側において日本国に対する戦争に参加することを協定した」として、ソ連の対日戦参加の三つの条件をつぎのように規定しています。
二、千九百四年の日本国の背信的攻撃により侵害されたロシア国の旧権利は、次のように回復される。
(イ)樺太の南部及びこれに隣接するすべての島を、ソヴィエト連邦に返還する。
(ロ)大連商港におけるソヴィエト連邦の優先的利益は擁護し、この港は国際化し、また、ソヴイェト社会主義共和国連邦の海軍基地として旅順口の租借権は回復する。
(ハ)東清鉄道及び大連に出口を供与する南満州鉄道は、中ソ合弁会社を設立して共同に運営する。但し、ソヴィエト連邦の優先的利益は保障し、また、中華民国は、満州における完全な主権を保有する。
三、千島列島は、ソヴィエト連邦に引渡す」。
こうして、米英ソ三国間で、千島列島のソ連へのひきわたしがきめられたのですが、興味あることは、この協定の文章自体が、千島条項がカイロ宣言という連合国の民主的な原則からの逸脱であることを、告白するものとなっていることです。実際、南樺太などの条項は「千九百四年の日本国の背信的攻撃により侵害されたロシヤ国の旧権利」の回復として扱われ、ソ連への「返還」と表現されているのにたいし、千島条項は、大義名分の説明を何らつけずに、「千島列島はソヴィエト連邦に引渡す」という文章になっています。このように、ソ連に歴史的権利のない領土の割譲を求めたものだということが、協定の文書にもこういう形で表明されているのです。
この協定は、日本にもれることをおそれて、ヤルタ会談後も秘密にされ、世界がその存在を知ったのは、大戦終結の六ヵ月後、一九四六年二月十一日のアメリカ国務相の公表によってでした。ステチニアスは、アメリカの政府部内でも、この協定について知っていたのはごく少数で、副大統領のトルーマンでさえ、ルーズベルトが死んで大統領に就任し、ホワイトハウスの金庫を開けるまで、協定の存在を知らされていなかったと書いています。
「この『日本国に関する協定』は最高機密の文書であったが、それはヤルタ会談の議定書の中にもあらわれていなかった。それは調印後、ただちにワシントンに持ち帰られて大統領の個人用金庫の中にしまい込まれた。そして大統領の最も親密な側近連中の中でも、この協定文書の存在を知るものはほとんどいなかったのだ」(同前、八五ページ)。
「すでに述べたように、私はこの秘密交渉について知らされていたが、アメリカ代表団の他の主要な連中は全然、知らされていなかったのだ。ルーズヴェルト大統領が亡くなった時、この重大文書はホワイトハウスの金庫の中にしまってあった。私は実際にこの文書を見たことがなかったが、私が信ずる限りでは、後任のトルーマン大統領もホワイトハウス入りをした時にはまだこれを知らなかったようだ」(同前、八六~七ページ)。
――スターリンが、ヤルタ会談で、千島の割譲を要求したさい、根拠にしたのは、どういうことだったのでしょう。
不破 公式の説明や記録は公表されていませんが、ステチニアスは、ルーズベルトとともに秘密会談に参加したハリマン大使やホプキンス顧問から聞いた話として、スターリンは、秘密会談で「ソ連が対日戦争に参戦するためには、ソ連が極東で欲している一定の利権が認められることが肝要であるのは明白である。もしこの条件がつかなければ、ソ連最高人民会議も国民大衆も、一体なんのためにソ連が極東で参戦したのか怪しむだろう」とのべ、ソ連の対日参戦の正当化のために「利権の譲渡」の必要性を力説したと書いています(同前、八三~四ページ)。
ドイツ降伏後に、最後に残った侵略国日本を早く降伏させ、第二次世界大戦を終結させて一日も早く世界の平和を回復する。これが、ソ連の対日参戦の果たすべき役割であるはずなのに、この世界史的な大義を国民に堂々と明らかにするのではなく、反対に、こういう利権が手にはいるのだということを明示しなければ国民は納得しないといって、領土拡張を要求する―スターリンのこの主張は、国際的道理とも科学的社会主義とも縁のない話で、「ソ連国民」の世論を口実に、カイロ宣言が否定した戦争による利権の獲得を合理化しようとする、大国主義の本性むきだしの議論です。もちろん、この証言はステチニアスが会談で直接聞いたものではなく、いわば伝聞による記録だということは、考慮にいれなければなりませんが、秘密会談にルーズベルト、ハリマンとともに出席したボーレン政治顧問の記録とも一致しているし、※注3その後のスターリンの言動をみても、真相に近い話だと思います。
たとえば、日本がポツダム宣言を受諾して降伏し、連合国間で、どの地域の日本軍がどの国の軍隊に降伏するか、いいかえれば、連合国のそれぞれが、どの地域を占領するかが問題になったときに、スターリンはトルーマン大統領への一九四五年八月十六日付の書簡で、「ソヴェト軍にたいする日本国軍隊の降伏区域」に、第一に、千島列島の全部をくわえること、第二に北海道の北半分をくわえることを「提案」します(ソ同盟外務省編『米英ソ秘密外交書簡 米ソ篇』邦訳大月書店刊、二四六~七ページ)。
スターリンはこの書簡で、第一の提案の根拠としては、ヤルタ協定をあげていますが、第二の提案の理由づけとしては、革命後のシベリア出兵で、日本は「全ソヴェト極東」を占領したことがあるのだから、「もしロシア軍が日本本土のいずれかの部分に占領地域を持たないならば、口シアの世論は大いに憤慨するでしょう」とのべています。トルーマンは、第一の要求はうけいれ、第二の要求は拒否するのですが(八月十八日付書簡、同前二四七ページ)、ここで自分の領土要求の理由づけに「ロシアの世論」をもちだしたスターリンの論法は、ステチニアスが記述したヤルタ会談でのスターリンの主張と軌を一にしたものです。
さらに、スターリンは、日本がミズーリー艦上で降伏文書に署名した九月二日、「国民にたいする呼びかけ」を発表し、そのなかで、双方の側からみて帝国主義戦争であった日露戦争での帝政ロシアの敗北を、「わが国に汚点をしるし」た「敗北」、「日本にたいする特別の貸し」の一つと特徴づけたうえで、「わが国民は、日本が粉砕され、汚点が一掃される日がくることを信じ、そして待っていた。四十年間、われわれ古い世代のものはこの日を待っていた。そして、ここにその日はおとずれた」と宣言し、千島列島のひきわたしを、こうした歴史的文脈で正当化しようとしました。ここには、帝国主義戦争にたいする科学的社会主義の原則的見地をなげすてたスターリンの大国主義がもっともあからさまな形で表明されています。
スターリンのこれらの言動は、対日戦参加の条件として千島列島を求めたソ連政府の態度が、大国主義的逸脱の所産以外のなにものでもなかったこと、千島占有の正当化のためにいまもちだされている歴史論などは、あとからこじつけられた大国主義の弁護論にすぎないことを、端的に裏書きしたものといえるでしょう。
以上にみてきたように、サンフランシスコ条約の千島放棄条項が、千島をソ連にひきわたすという大戦中の連合国間のとりきめ(ヤルタ協定)にもとづくものであることは、まちがいありませんが、このとりきめ自体がカイロ宣言にいう「領土不拡大の原則」にそむいた不公正なものであり、それによってひきおこされた戦後処理の不公正さは、当然、国際的正義の立場にたって是正されなければならないというのが、私たちの見地です。日本共産党は、千島問題のたちいった研究の結果、この結論に達し、一九六九年三月にそれを発表しましたが(「千島問題についての日本共産党の政策と主張」、新日本文庫『日本共産党と領土問題』所収)、ソ連共産党にたいしても、くりかえし、この見地を明らかにしてきました。
なお、ヤルタ協定に関連して、もう一つ指摘しなければならない問題は、この協定の拘束力の問題です。米英ソ三国が、ヤルタ協定で、日本の歴史的な領土である千島列島をソ連にひきわたすという不当なことをきめた。しかしこれは、三国の協定ですから、これに署名したアメリカとイギリスとソ連の政府を拘束するものであっても、それだけでは、日本にたいする拘束力はもたない。千島列島ひきわたしをとりきめた三国が、日本との講和条約に具体化して、日本がそれを受諾したときに、はじめてこれは日本にとっても拘束力をもつ、国際的に有効なものとなるのです。
ソ連は、国際的にも当然の、そういう手続きさえ待たないで、千島列島を一方的にソ連領に編入してしまったのです。
日本が降伏した後、ソ連が千島列島を占領したのは、さきほどスターリンとトルーマンの往復書簡の内容として紹介したように、連合国のとりきめによるものです。ところがソ連は、こうして千島列島を占領したあと、一九四六年の二月には、南樺太とともに千島をロシア共和国領にさっさと編入してしまい、一九四七年二月に連邦憲法を、四八年三月にはロシア共和国憲法を修正するという憲法上の措置までとって、ここをソ連領としてしまいました。そして、そのさい、北海道の一部であり、ヤルタ協定で「引渡し」の対象にさえなっていない歯舞、色丹についても、ロシア共和国領への編入を強行したのてす。
ソ連側は、千島問題が「解決すみ」だという議論の根拠として、サンフランシスコ条約をもちだすことがよくありますが、しかし、そもそも講和会議を待たずに、一九四六年に、千島、歯舞、色丹の自国領編入を一方的に強行してしまったソ連が、五年後に結ばれた条約(それもソ連自身参加していない条約)によって千島領有を正当化しようなどというのは、まさにこっけいな自己矛盾といわなければならないでしょう。
(注1)ステチニアスが、これにつづいて、ソ連の対日戦参加がアメリカの犠牲を少なくして勝利するための絶対条件とする米軍部の考え方が、トルーマン政権になってからも、さらに原子爆弾の開発に成功した七月以後にも変わらなかったことを、指摘しているのは、注目すべき点である。
われわれが七月中に承知していたところでは、日本政府がその支配下にある極東の全地域にわたって、最後の一兵まて徹底的に抗戦する覚悟をきめる公算がはなはだ大であった。このような場合には、連合国軍は五〇〇万の人間と五千の特攻機よりなる大軍を撃滅するという大変な仕事に直面したであろう。しかもこの大軍こそ、文字通り玉砕するまで戦い抜く能力をすでに十二分に誇示してきた恐るベき民族に属していたのてある。
七月中にきまっていたところでは、日本を敗北させるためわが軍の戦略計画は、原子爆弾に依存せずにすでに立案ずみであった。当時、原子爆弾はまだニューメキシコ州で実験されていなかったのだ。したがってわが方としては、この年の夏から初秋にかけて、海上封鎖と航空封鎖を強化し、さらに戦略爆撃を大いに激化する計画を立てていた。そしてこれに続いて、十一月一日を期して九州南部に進攻上陸作戦を敢行する予定であった。
この作戦に引続いて一九四六年(昭和二十一年)春には本州本土へ進攻することになっていた。この大作戦計画に要するアメリカ陸海軍の総兵力は五〇〇万に達し、さらに間接の関係人員を含めると、これよりさらに大きな数字となった。
わが方の判断によれば、もしこの大作戦計画を完遂することを余儀なくされたならば、主戦闘はいくら早くとも一九四六年の後半まで終らないであろうと考えていた。そして私は、このような作戦はアメリカ軍だけでも一〇〇万以上の死傷者を出すことを予想されることを聞いていた。これに加えて、わが連合国軍の間の大損害も予期されたのだ。もちろんわが方の戦闘が首尾よく成功した場合には、これまでの経験から判断するならば、敵軍の死傷者はわが軍の死傷者よりもはるかに甚大であろう……(ヘンリー・スチムソン著『平時と戦時の現役につきて』 一九四八年刊より)」(『ヤルタ会談の秘密』八七~八ページ)。
「この年の七月十六日にニューメキシコ州のロス・アラモスで最初の原子爆弾が爆発した後で開かれたポツダム会議においてさえも、軍部では相変わらずソ連を対日戦争に引入れなければならぬと主張していた。ヤルタ会談でもポツダム会議でも、軍部代表は満洲に駐屯する日本軍部隊についてとくに関心を示していた。この自立した関東軍は日本軍の最精鋭部隊といわれていて、独自の自主的な指揮権と軍需産業基地を備えており、ソ連が参戦してこの関東軍と対戦しない限りは、たとえ日本本土が征圧された以後でも戦争を長引かせることができるものと信じられていた。
ルーズヴェルト大統領の軍事顧問たちは、このような信念をもっていたので、ソ連の参戦をしきりに熱望したのだ。もし日本軍が北方より攻撃するソ連軍と対戦するために、その兵力を転用せねばならぬ場合が生ずれば、わが軍の死傷者はずっと減少するであろうと考えられた」(同前、八八ページ)。
(注2) のちにヤルタ秘密協定が公表されてから、その是非は、一つの国際的な議論になったが、チャーチルは『第二次大戦回顧録』で、自分がこれに署名した事情をつぎのように弁明している。
(注3) アメリカ国務省が一九五五年三月に発表した外交文書集『一九四五年マルタ及びヤルタ会議』のうちに、「一九四五年二月八日午後三時三十分リヴァディア宮におけるルーズヴェルト=スターリンの会合。ボーレン議事録。極秘」という記録がある。それによると、この日の会談の出席者は、「(アメリカ側)ルーズヴェルト大統領、ハリマン氏、ボーレン氏、(ソヴェト側)スターリン元帥、モロトフ外務人民委員、パヴロフ氏」で、ソ連の対日戦参加の条件についての討議は、つぎのように記録されている。
極東に関連しての二三軍事問題の討議につづいて、スターリン元帥は、ソヴェトが対日戦に介入するについての政治的条件を討議したいと述べた。元帥は、この問題については、すでにハリマン大使と話し合った旨をいった。
大統領は、その話し合いの報告は受け取ったといい、サハリンの南半分と千島列島が戦後、ソヴェトに行くことについては、なんらの困難もないと思うといった。大統領は、ソヴェトに極東で不凍港を与えることについて語り、元帥は、そのことはテヘランで、両人が討議したことを指摘した。……
スターリン元帥は、以上の条件が容れられないならば、なぜソヴェトが日本に対する戦争に参加するのか、その理由をソヴェト国民に説明することが、元帥にとっても、モロトフにとってもむずかしいといった。ソヴェト国民はソヴェトの存在そのものを脅やかしたドイツに対する戦争については、はっきりと理解しているが、大した紛争もない国に対する戦争に、ソヴェトがなぜ介入するのかは理解しないだろう。けれども、以上の政治的条件が容れられれば、国民は国家利益がふくまれているのを理解するだろうし、ソヴェト最高会議に決定を説明するにも、はるかにやさしいだろうと、元帥はいった」(『世界週報』 一九五五年四月こ十一日号付録『アメリカ国務省 ヤルタ秘録-日本関係』六八ページ)。
ここでスターリンが「ハリマン大使と話し合った」とのべているのは、一九四四年十二月、モスクワで駐ソ大使ハリマンとおこなった会談のことで、スターリンは、十二月十四日の会談ではじめて対日参戦の政治的条件として、千島列島と樺太南部の領土問題をもちだした。前記の外交文書集によれば、ハリマンは十二月十五日付、ルーズベルト大統領あての極秘電報でスターリンの提案を、つぎのように報告している。
私は貴下とスターリンとがテヘランで、この問題について談合されたのを思い出したことをいい、私の記憶に誤りなくば、事実、ソヴェトが太平洋の不凍港に出口を持つ必要の問題は、貴下自らがまず持ち出されたものだったことを述べ、しかしながら一方、貴下の念頭にあったのは、ソヴェトによるこれらの地域の租借というより、むしろ国際自由港だったと思う旨を述べた。私はまた、この方法によればソヴェトはその必要とする保護が得られるし、またこの種の国際的問題をいかように取扱うのが最も善いかという現在の通念に一層一致すると貴下は考えられている旨を述べた。スターリンは『この問題は話し合いの余地がある』といった」(同前、二四~五ページ)。
(4)千島放棄条項の廃棄は日本国民の正当な権利
――千島放棄条項の不当性はよくわかりましたが、政府は、いったん「平和」条約として
締結した以上、廃棄するわけにはゆかない、という立場をとっていますね。
不破 私たちは、日本がサンフランシスコの講和会議で一連の国ぐにと結んだ「平和」条約の全体を廃棄しようというわけではありません。サンフランシスコ「平和」条約にたいする日本共産党の態度は、そのなかにある国際的道理とも日本の主権や正当な歴史的権利とも一致しない部分を、廃棄しようということです。
条約であれ、その一部であれ、国際的正義に反する条件や条項にかんしては、その国民の意思でこれを是正する権利があるということは、国際法のうえでも一般に認められていることです。たとえば、国連の条約委員会で、一九六九年に「条約法にかんするウィーン条約」というものが採択され、一九八〇年一月発効しました。ここでも、ある条約を終了させることができる根拠の一つに、「一般国際法の強行規範」、つまり「いかなる逸脱も許容されず」「国際社会全体によって受諾され、かつ、承認された規範」に「抵触するときは、無効である」ということをあげています※注4(第五十三条)。
サンフランシスコ「平和」条約のなかで、私たちが廃棄しなければならないと考えているのは、たとえば外国軍隊の日本駐留に道をひらいて日米軍事同盟の条約上の基礎となっている第六条a項や、沖縄や小笠原にたいするアメリカの統治権を認めた第三条などですが、第二条c項の千島放棄条項も、廃棄すべき重要な条項の一つです。
私たちの千島放棄条項廃棄論にたいし、自民党ばかりか、社会党のなかからさえ、「そこまでいわないでも」といった議論が出ましたが、千島列島にたいする「一切の権利、権原、請求権を放棄」した条項をそのままにしておいて、その政府が千島列島の返還を要求するわけにゆかないことは明白ですから、千島放棄宣言の不当な拘束から自由になって、日本国民の歴史的権利を確固として主張できる国際法上の立場を確立することは、真剣に領土問題にとりくもうとするなら、さけることのできない自明の課題だといってよいと思います。そして、千島放棄条項は、「領土不拡大」の原則という、犯してはならない原理として国際的に異論なしに認められた原則、「一般国際法の強行規範」に反するものですから、さきに紹介した「ウィーン条約」にてらしても、日本国民は国際的正義の立場からこれを廃棄する堂々の権利をもっているのです。
サンフランシスコ条約の問題については、自民党政府自身が、これを不動のものとしない態度を事実上とってきたことも、注目に値することでしょう。それは第三条の沖縄、小笠原条項の問題です。実際、サンフランシスコ条約では、沖縄と小笠原は条約上日本へ帰る余地がないように、きめられていました。すなわち、(1)日本は、沖縄、小笠原を、アメリカを「唯一の施政権者」とする信託統治制度のもとにおく、アメリカの国際連合へのいかなる提案にも同意する、(2)このような提案がおこなわれて国連で可決されるまでは、アメリカが沖縄、小笠原にたいして、「行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部」を行使するというのが、第三条の内容でした。これは、将来は沖縄を国連の信託統治のもとにおくが、その「唯一の施政権者」はアメリカである、このことが国連で可決されるまでは、アメリカが統治権を行使する、というのですから、どうころんでも、アメリカが統治権をもちつづけるということであって、施政権が日本へ帰ってくる道は条約上まったくとざされていたのです。
もともと、不当であるにせよヤルタで戦後処理をきめた千島などの場合とはちがって、沖縄や小笠原については、大戦中、これをアメリカに引き渡すといったとりきめは連合国の間にまったくありませんでした。それを強引に占領しつづける理屈づけのために、アメリカは、沖縄・小笠原条項としてこんないりくんだしくみをつくりあげたのです。
ところが、小笠原や沖縄の本土復帰を実現するとき、日本政府は、この条項を廃棄することをしないで、アメリカとの取り引きでこの沖縄・小笠原条項をのこしたまま、条約の規定を無視して、施政権を日本にうつすということをやってしまった。いわゆる”立ち枯れ”という方式です。こういう取り引きをやったために、アメリカが占領中につくった太平洋最大の軍事基地を全部かかえこまさせられ、それによって日本全体が、アメリカの核戦略、世界戦略により深くくみこまれてゆくという、今日のたいへんな事態をひきおこしたのですが、これをやったとき、日本政府が、サンフランシスコ条約の沖縄条項を事実上否定する行動をとったことは間違いないところです。だから、日本政府自身、サンフランシスコ条約を不動のものとする絶対化論で首尾一貫しているわけではないのです。その政府が、なぜ千島放棄条項についてだけは、サンフランシスコ条約のとりきめを絶対視して、少しも変えるわけにゆかないというのか、きわめて不思議な話です。
もう一つよくだされる問題に、第二次世界大戦の結果としてきめられた講和条約を尊重し、とくに戦後処理の重要な内容として画定された国境の変更を問題にすべきでないという議論があります。その論拠としてヨーロッパでの国境の不可侵をうたったヘルシンキ条約などもしばしば引用されますが、これも千島放棄条項の”不可侵性”の根拠となるものではありません。
ヘルシンキ条約というのは、一九七三年七月から七五年七月まで、二年間にわたってつづけられた「欧州安全保障・協力会議」の結論として、一九七五年八月一日に米ソをふくむ三十五力国の合意によって採択された「最終文書」のことです。
この文書は、第三章で「国境の不可侵」、第四章で「国家の領土保全」をうたっていますが、他国の国境にたいするあらゆる攻撃を差し控えるとか、他国の領土を武力占領の対象にしないなどを宣言しているのは、平和的な国際関係の維持のために当然至極のことです。ところがこの文章は、現状の国境は永遠に動かしえない不動のものとするような立場はまったくとっていないで、反対に、国境は変更しうるものだということを宣言しているのです。すなわち、第一章の「主権平等、主権に固有の諸権利の尊重」というところで、「参加国は国際法に従い、平和的手段と合意によって、国境が変更され得ると考える」と、国境の可変性を明記しています。これはたいへん重要なことです。ヨーロッパは、第二次世界大戦の主戦場となったところですが、大戦の戦後処理は基本的に終わって、大戦に参加したすべての国の間で条約によって国境が確定しています。その意味では国境問題は、”解決ずみ”といってよいのです。ところが、第二次世界大戦の戦後処理が終わって、国境が画定されているヨーロッパでも、その国境を永久に不変のものとはみなさない、「国境が変更され得る」という見地を、ヘルシンキ条約は明記しているのです。
ましてや日本の場合は、ソ連との間ではまだ平和条約が結ばれておらず、条約による国境の画定ということ自体が、両国間の未解決問題になっています。その過程で、連合国の他の部分とのあいだで結んだ「平和」条約のなかに、日ソの国境問題にかかわる誤った条項がもちこまれたというのが今日の千島放棄条項の問題なのですから、これをそのままソ連との平和条約交渉の前提にしないで、国際的道理にたった立場でソ連との平和条約交渉にのぞめるよう、千島放棄条項を廃棄してその拘束から自由になる、それによって千島列島の返還を要求できる国際法上の立場を確立する、これが当然の方向だということは、ヘルシンキ条約の研究からもいえることです。
実際、サ条約の千島放棄条項のわく内では、国民的要求である千島問題が、一歩も解決できないことは明白です。自民党政府は、「択捉、国後は千島にあらず」という論法で、サ条約のわく内での領土問題交渉をやろうとしていますが、この論法は、二重、三重の意味で、領土問題解決の障害となるものだということが、指摘されなければなりません。
第一に、これは、「千島列島」は放棄するという立場に立っているのですから、政府自身が「千島列島」と認めている得撫以北の北千島は、最初から領土要求の対象としないという、あからさまな北千島放棄論です。
第二に、択捉、国後の南千島についても、これが「千島列島」に属さないというのは、歴史的にも、サンフランシスコ会議の経過からいっても、きわめて無理な、国際的に通用しえない議論で、こうした論法で対ソ交渉を前進させることができないことは、二十余年にわたる日ソ交渉史が示していることです。
第三に、本来、北海道の一部であって、ヤルタ協定やサンフランシスコ条約の千島放棄条項の対象になっていない歯舞、色丹についても、自民党政府が、南千島と一体に扱う「四島一括」論をわくとして固執している結果、その性格にふさわしい独自の返還交渉の可能性をも日本側がみずからとざす結果となっています。
こういう見地から、私たちは、千島放棄条項の廃棄の重要性を強調しているのです。
(注4) 「ウィーン条約」は、一九六九年五月二十二日、ウィーンの国連条約法会議で採択され、三十五番目の批准書が寄託された一九八〇年一月二十七日に発効した。現在、三十八力国が当事国となっており、日本はこの第九十四国会に、加入についての承認を求めることになっている〔一九八一年五月、批准承認〕。条約の第五部が「条約の無効、終了及び運用停止」の問題にあてられ、第五三条に「強行規範」に抵触する条約の無効が、規定されている。
なお、「ウィーン条約」の第六五条以下には、条約の無効を主張する国は、他の当事国にその主張を執るべき措置やその理由を付して通告しなければならないことや、それにたいする異論の申し入れの取り扱いなど、手続きが定められており、さらに第七一条第一項では、その条約が無効となったとき、「当事国の相互関係」を「一般国際法の強行規範」に合わせて是正すべきことも、明確にしている。
(a) 一般国際法の強行規範に抵触するいずれかの規定を信頼しておこなわれたいかなる行為の効果をも、可能な限り除去し、かつ
(b) 当事国の相互関係を一般国際法の強行規範に合致させること」。
(5)「千島列島」の範囲について
――サンフランシスコ会議の経過からいっても、自民党政府の議論はなりたたない、というのはどういうことですか。
不破 自民党政府は、サンフランシスコ条約で日本はたしかに「千島列島」を放棄したが、そこでは「千島列島」の範囲についてはなにもきめられなかったと主張して、「千島列島」の範囲についての日本政府の今日の解釈をなりたたせる根拠をここに求めようとしています。
しかし、サンフランシスコ会議の記録をよくしらべてみると、「千島列島」が南北千島をふくむことは、いまさら議論するまでもない国際的な常識になっていましたから、特別の議論がなかっただけのことで、いちばんの当事者であるアメリカと日本の政府代表も、条約できめられた「千島列島」は、南北千島をさすものとして発言していたこと、問題になったのは、歯舞・色丹が「千島列島」にふくまれるかどうかという点だけだったことが、わかります。
たとえば、アメリカを代表して会議に参加したのは、サンフランシスコ「平和」条約の草案作成の中心人物であるダレス国務長官でしたが、そのダレスが、第二日目の一九五一年九月五日の全体会議で演説をした。そのなかに、「千島列島」の範囲をダレスがどう考えていたかをしめす個所が二つあります。
一つは「千島列島」に歯舞諸島がふくまれるかどうかについて、アメリカの見解をのべた部分で、こういっています。
これは、サンフランシスコ会議でのダレスの発言としてよく引用される部分ですが、ダレスは、もう一ヵ所で、千島列島に論及している、これが重要です。
「日本の領域をポツダム降伏条項によって制限すれば、現に八千万を越える増大してやまない人口が、日本本土で生きていけるか」という疑問にたいして答えた部分で、ダレスの答えは、「日本人が自由に移住できる植民帝国時代にもあまり移住しなかった」のだから、その心配はいらない、ということでした。そのさいダレスは、植民帝国時代の人口移住の数字をあげて「台湾は五十五年間に三十五万の日本人しか入っていない。朝鮮は一九〇五年以来六十五万。南樺太には三十五万人。千島列島には一万一千。日本の植民地は、食糧や原料の供給源であったが、人口の捌け口ではなかった」とのべています(同前、二〇五ページ)。「千島列島には一万一千」というのは、実際の人口よりも少なく見積もった不正確な数字です(一九四〇年現在、南北千島で、一万六千五十人)。しかし千島の日本人の大部分は、択捉、国後に住んでいて、得撫以北には二千人ほどの日本人(一九四〇年現在千九百三十三人)しかいなかったのですから、ダレスがこの会議で、「千島列島に一万一千」とのべたとき、択捉、国後をふくむ南北千島全体が条約にいう「千島列島」に属するものとして発言していたこと、アメリカとして「千島列島」の範囲外にしたのは歯舞諸島だけであったことは、明らかです。
日本代表として、吉田首相は、九月十日夜の全体会議で受諾演説をおこないました。この演説が、「択捉、国後は千島列島に属しない」ことを主張した最初であるかのようにいわれることがありますが、これはまったく誤解にたった議論です。吉田演説がのべたのは、千島列島および南樺太の地域を「日本が侵略によって奪取したもの」とするソ連の主張への抗議的反論であって、これらの地域の放棄を規定した条項の受諾を保留する意見をのべたものでもなければ、択捉、国後は「千島列島」の範囲にふくまれないという主張をのべたものでもありません。範囲についていえば、歯舞、色丹が北海道の一部であることを主張したのが、吉田発言における唯一の指摘でした。吉田首相の演説のその部分の全文はつぎの通りです。
しかも重要なことは、吉田首相が、この演説で「千島南部の二島、択捉・国後両島」、「得撫以北の北千島諸島」とのべて、択捉・国後と得撫以北とを千島列島の南部、北部と規定していることです。だから、吉田首相も、これらの島々が日本に属した歴史的な事情について意見をのべても、条約で放棄を規定した「千島列島」が、択捉、国後をふくむ千島全体をさすことは自明のこととしていたわけで、「千島列島」の範囲という問題では、色丹および歯舞諸島が「北海道の一部」を構成して、「千島列島」に属さないことについて、指摘しただけだったのです。
このように、「千島列島」に択捉、国後がふくまれることは、当のアメリカと日本の代表自身がその立場で発言していた問題でした。もちろん、これにたいしては会議参加者のだれからも異論はありませんでした。これが、「千島列島」の範囲問題についての、サンフランシスコ会議でとられた解釈でした。
それでは、サンフランシスコ条約が日本の国会で批准されたとき、どういう解釈のもとで承認されたのか、これがつぎの問題です。ここで日本政府が表明した公式見解も、条約上の「千島列島」は、南北千島全体をふくむという見解でした。当時の議事録から、重要な部分を紹介しておきましょう。
まず、農民協同党の高倉定助議員(衆院)が、「条約の原文にはクリル・アイランド、いわゆるクリル群島と明記されているように思いますが、このクリル・アイランドとは一体どこをさすのか」と質問したのにこたえて、西村熊雄条約局長は、「条約にある千島列島の範囲については、北千島と南千島の両者を含むと考えております」と明確にこたえ、そのあとで、南千島と北千島は、歴史的にみてその立場が違うこと、歯舞、色丹は千島にふくまれないことを、説明しています(一九五一年十月十九日)。これは、条約局長だけの見解ではなく、草葉隆円外務政務次官も、十一月六日の参議院特別委員会で、国後、択捉は千島の範囲外ではないかとする緑風会楠見義男議員の質問にたいして、国後、択捉だけを切り離すことは却って「無理なこじつけ」になってくるのではないか、「千島という言葉の中で指しております条約のクリル・アイランズというのは、千島全体についての表示だと考えざるを得ない」と答えています。これが、一九五一年の批准国会での日本政府の統一解釈でした。
なお、ここで興味があるのは、いま政府が「択捉、国後は千島に属さない」という論法の最大の論拠としている樺太・千島交換条約の解釈論※注5も、すでにこの国会で質問者からもちだされ、日本政府自身が明確に否定した議論だということです。この問題での高倉議員と西村条約局長の論議の内容は、つぎの通りです。
西村熊雄 平和条約は一九五一年九月に調印されたものであります。従ってこの条約にいう千島がいずれの地域をさすかという判定は現在に立って判定すべきだと考えます。従って先刻申上げましたように、この条約に千島とあるのは、北千島及び南千島を含む意味であると解釈しております。但し、両地域について、歴史的に全然違った事態にあるという政府の考え方は将来も変えません」。
もう一つ、批准国会での論戦で重要な点は、日本が、放棄した千島列島の問題で、将来発言権をもちうるかどうかの問題についての議論です。この問題は、サンフランシスコ条約では、日本が放棄した千島がどこの国に属するかは具体的に規定されていない、その最終帰属は、将来、連合国の間で決定されることになるが、そのさい、日本は何らかの発言権をもてるかどうかという形で議論されました。そのときの西村条約局長の答弁は、「主権を放棄させられますので、最終帰属については、日本は発言権がないことになります」(十一月六日、参院特別委員会)というもので、千島列島の処理にたいする発言権さえ否定したものでした。千島放棄条項が、いっさいの発言権さえ否定する意味をもつことを明確にしたこの答弁は、日本国民が千島列島の返還を真剣に問題にしようとするなら、サ条約の千島放棄条項を廃棄してその拘束から自由になる必要があることを、あらためて裏づけるものです。
第二条c項の「千島列島」の範囲についての解釈は、サンフランシスコ会議でも、条約を批准した日本国会でも、南北千島をふくむものであることが、一致して確認されていました。条約というのは、それを締結した国際会議での解釈やこれを批准した時点での政府の解釈がもっとも重要ですが、今日の自民党政府の”解釈”論が、サンフランシスコ条約締結当時の国際的解釈とも日本政府自身の解釈とも、まったく異なるものであることは、これ以上論証するまでもないでしょう。
(6)「南千島は千島にあらず」
――では、サンフランシスコ条約締結時のこうした解釈をあらためて、日本政府がいまのようなことをいいだしたのはいつからなのですか。
不破 先日(一九八一年二月四日)の予算委員会総括質問でも話したのですが、私は、十一年前、当選して最初の国会で、当時の愛知外相に、政府が、放棄した千島は南千島をふくむという五一年国会での解釈を公式に改めて、択捉、国後は千島列島にふくまれないという見解を公式に表明したのは、いつの時点からか、ときいたことがあります。そのときの愛知外相の答弁はこうでした。
では、愛知外相が解釈変更の起点だという一九五五年とは、どういう年かというと、鳩山内閣のもとで日ソ国交回復の交渉がはじまった年です。
この日ソ交渉の経過については、日本の全権として最初からこれに参加した、松本俊一氏の回顧録『モスクワにかける虹―日ソ国交回復秘録』(一九六六年、朝日新聞社刊)に、くわしく出ています。このときの日ソ交渉は、一九五五年六月三日、ロンドンで開始され、日本側は松本全権、ソ連側はマリク全権で交渉にあたるのですが、その記録を読んでみると、初めの段階では、サンフランシスコ条約の解釈論など、日本側はまったく問題にしていない。なにしろ、六月七日の第三回会議で日本側がマリク全権に手渡した七項目の覚書では、領土問題の項では、「歯舞諸島、色丹島、千島列島及び南樺太は歴史的にみて日本の領土であるが、平和回復に際しこれら地域の帰属に関し隔意なき意見の交換をすることを提案する」(前掲書、三〇ページ)となっています。サ条約第二条c項を前提に、放棄していない領土を返せという論理ではなく、千島列島から南樺太までふくめて、二条c項で放棄した全領土について、その帰属を議論しようという、条約論としてはたいへん乱暴なものでした。もっとも松本全権は、これで最後までつっぱるのではなく、一応こういう主張はするが、「交渉の終局においてこれを全面的に返還させるという考えではなく、弾力性をもって交渉にあたる」考えだったと、自分で解説しています(三一ページ)。
いずれにしても、日本政府が、最初から今日のような択捉、国後論を用意して、日ソ交渉にのぞんだわけでないことは、明白です。もし初めから日本側が、千島と択捉、国後は別だと考えていたとしたら、会談の最初にソ連側にしめした覚書では、領土問題は「歯舞諸島、色丹島、千島列島及び南樺太」となっているのですから、択捉、国後はその帰属を問題にしなかったという、奇妙な結果になります。実際、交渉の過程での日本側の発言をみても、千島列島を南と北とわけて議論したという記述はまったくありません。
ところが、交渉をにつめているうちに、八月九日の第十回会談で、ソ連側から歯舞、色丹については放棄する意思があることが、ほのめかされます。それで松本全権は、「これでこの交渉も双方の主張が歩みより、交渉の終結も間近いのではないか」(四四ページ)と考えて、東京に訓令をあおぐのですが、これにたいして政府がしめした訓令のなかで、はじめて、国後、択捉は千島にあらずという新見解か登場するのです。
重大な国交回復交渉を日ソ間でやろうというのに、全権が交渉にのぞむ出発点ではなんの相談も議論もなかった話が、交渉のいわば最終段階―当の全権自身が「終結も間近い」と判断するようになった段階で、いきなり政府の訓令として飛びだしてくるというのは、たいへん驚くべきことですが、こういう唐突なやり方で、一九五五年に千島放棄条項の解釈変更がおこなわれたということは、記録に値するでしょう。
この訓令をうけた松本全権は、八月三十日の第十三回会談ではじめてこの新見解をソ連側に示します。この会談で、ソ連側が「歯舞、色丹に関する言明について日本側の意見を聞きたい」というのにたいして、松本全権は、はじめて択捉、国後を歯舞、色丹と同列視する新条文を提示します。これにたいし、ソ連側は話がちがうと、急変した日本側の態度を強い調子で非難するという具合で、結局、ロンドン交渉は、九月二十一日、中断せざるをえなくなり、日ソ交渉は、第二次ロンドン交渉(一九五六年一月~二月)、第一次モスクワ交渉(同年七月)、第二次モスクワ交渉(同年九月~十月)と、「日ソ共同宣言」による妥結にいたるまで、その後一年余にわたる複雑な経過をたどることになります。
政府は、その後、国会でも新しい立場での解釈を説明しはじめ、その最初が一九五五年十二月の衆院外務委での政府答弁ということになるのですが、とくにまとまった形で、これがのべられたのが、一九五六年二月十一日の衆院外務委員会に提出された政府見解※注6でした。
ところが、この解釈変更は、国内法規の問題ではなく、サンフランシスコ会議という国際会議できめられた条約についての解釈変更ですから、日本だけで主張しても値打ちがない。それで、サンフランシスコ会議に参加した主要国の見解をただそうということになったのです。
このときの「打診」は、二段階にわけておこなわれました。一九五五年六月、七月の第一回の「打診」は、ヤルタ協定とポツダム宣言の関係などで、まだ「千島列島」の解釈論は問題にしていません。松本全権に新見解を訓令した二ヵ月後の同年十月の二回目の質問ではじめて、”サ条約でいう「クリル諸島」とは、国後、択捉両島を含まないものと理解していたか”という質問を、米英仏三国におこないます※注7。しかし、三国の回答は日本政府を喜ばせるものではありませんでした。アメリカの回答も、当時は、積極的支持論ではなく、「千島の定義は対日平和条約でも、サン・フランシスコ会議の議事録にも決められていない。米国の見解は、『千島諸島』に関するいかなる紛争も、平和条約二十二条の定めるところに従って国際司法裁判所に付託することが出来るということにある」、しかし司法裁判所への提訴はいま現実性がないから、米国は、日本がその「代案」として、「択捉、国後をこれら諸島が千島列島の一部でないという理由で日本に返還するよう、ソ連を説くことになんら反対するものではない」(六三ページ)というものでした。
ところが、イギリスからは、「米国の見解に同意を表明し得ない」という回答、フランスからの回答は、もっとつっこんで、「サン・フランシスコ会議の議事録は、千島の範囲に関して言及している。特に日本代表が国後、択捉を南千島として言及しているところに注意を喚起する」(六四ページ)と、さきほど紹介したサンフランシスコ会議での吉田首相の発言という日本側にとって痛いところを指摘し、新見解に道理がないことを、えん曲に批判したものでした。
こうして、三国の全面支持をとりつけられなかったために、いまでも国会で質問すると、政府はアメリカの回答を説明するだけで、イギリス、フランスの回答については、「英、仏の回答を公にすることについて先方の了承が取れませんでしたので、ご報告は差し控えている」(武藤外務省欧亜局長、一九八一年二月四日、衆院予算委)と、内容をひたかくしにしています。しかし、その当時の交渉当事者だった松本全権が、回顧録に記録しているのですから、かくしても無駄でしょう。
日本側の新見解が、このとき、サンフランシスコ会議に参加した主要国の同意さええられなかったということは、これが国際的に通用する道理をもたないということの、なによりの証明にほかなりません。
(注6) 一九五六年二月十一日の衆院外務委で、南千島を要求する根拠を明確にせよという自民党池田正之輔議員の質問にこたえて、森下外務政務次官が説明した政府の正式見解。
二、第二次大戦で連合国は領土の不拡大方針を決め、また大西洋憲章、ヤルタ宣言でも日本が暴力で奪取したものだけを返還させるといっている。従って日本の固有の領土と考えている南千島を、ソ連がソ連領だというのは国民の納得のできないところである。政府としてはどこまでも日ソ交渉で南千島の返還を要求することを声明する」。
(7)領土問題での現状打開と解決の道
――自民党政府が解釈変更したあと、日ソ交渉は、結局、どうなっていったのですか。
不破 一九五五~五六年の国交回復交渉では、領土問題の結論は、「日ソ共同宣言」で、平和条約を結んだとき、歯舞、色丹を日本に返すということを約束させたことにとどまりました。そして、この条項も、一九六〇年、安保改定を理由にソ連が一方的に取り消し宣言をしてしまったことは、よく知られている通りです。それ以来二十五年、自民党政府の領土交渉は一歩も前進せず、交渉の中身をみても、田中内閣のときに、「未解決の諸問題をふくむ平和条約交渉」を共同声明で一応認めさせた以外には、交渉らしい交渉がほとんどできないで推移してきています。その根本が、領土問題は”解決ずみ”と称して不法な現状に固執するソ連側の態度にあることはもちろんですが、日本側の事情としては、自民党政府が、サンフランシスコ条約で千島を放棄してしまい、そのことを反省しないまま、「南千島は千島にあらず」という、国際的にも通用しえない議論をくりかえすだけで、領土交渉にのぞむ国際法上の立場を確立しえないでいることに、最大の問題があります。そのために、自民党政府は、「北方領土」問題を、国内向けの宣伝として大いに強調し、これを”ソ連脅威論”と結びつけて軍拡推進キャンペーンの道具にしたりすることには熱心ですが、領土問題そのものについては、これを解決するための本格的な外交戦略さえたてえないでいるのです。
――最後に、日ソ交渉のこの現状を打破して、千島問題や歯舞・色丹問題の解決に道をひらくための、日本共産党の主張をきかせてください。
不破 いままで詳しく話してきたように、千島問題の根本は、一九五一年のサンフランシスコ条約が、スターリンの大国主義的要求をもとにした米英ソ三国の不公正なとりきめ(ヤルタ協定)を、日本にとって拘束力ある国際条約の形で追認してしまったところにあります。当時の吉田内閣が、この「平和」条約にそのまま調印し、千島列島にたいするいっさいの権利の放棄を国際的に約束したことは、日本の主権と民族の利益に背反する大きな誤りでした。そして、領土不拡大の原則に反する第二次世界大戦の戦後処理のこの誤りをただすことは、日本国民の正当な利益であるだけでなく、国際的な正義と道理にもかなうことです。反対に、サンフランシスコ条約での千島放棄の誤りをそのままにして、そのわく内で領土問題の解決をはかろうという方針が、道理ももたず、現実性もない不毛なものであることは、この二十五年間、歴代自民党内閣による日ソ交渉の歴史そのものが、雄弁に証明しているところです。
ですから、サンフランシスコ条約第二条c項の千島放棄条項を廃棄して、日本がこの条項による不当な拘束から離脱し、千島列島にたいする領有権を全面的に主張できる国際法上の立場を確立して、今後の外交交渉にあたることは、領土問題解決の大前提をなす急務といわなければなりません。
日本共産党は、こういう立場から、具体的には、領土問題解決のためのつぎの政策、方針をうちだしています。
第一に、歯舞、色丹の問題です。
これは、千島列島に属する島ではなく、北海道の一部であって、ヤルタ協定やサンフランシスコ条約の千島放棄条項の対象となっていない島々です。それが、たまたま第二次大戦終結時に、南千島に駐留していた日本の陸軍師団が、歯舞、色丹にも駐留していた(当時、得撫以北には第九十一師団、南千島の択捉、国後、色丹、歯舞には第八十九師団が配備されており、それぞれ八月末までにソ連軍に降伏した)ために、南千島といっしょにソ連が戦時占領する地域となっただけのことでした。ですから、国交回復して戦時占領が終わったら、当然、日本に返されてしかるべき島々だったわけです。一九五六年の日ソ共同宣言で、ソ連側も、平和条約を結んだら歯舞、色丹を返すと認めたことは、これが北海道の一部であることを、ソ連側もある程度認めていたということです。
私たちは、こういう性格の問題である以上、国民外交としては、日ソ平和条約の締結による両国間の国境画定を待つことなく、日本の主権として、歯舞、色丹の返還を要求すべきだと主張します。そのために、条約が必要ならば、それは、平和条約による領土画定以前の、友好関係の規定を主な内容とする中間的条約を結べばよいでしょう。これは中間的条約といっても、ソ連が提案してきたいわゆる「善隣友好条約」とは別個のものです。ソ連の提案は、軍事条項などをふくんだもので、わが党は、これにたいする批判をすでに幾度も表明してきました。ともかく歯舞、色丹については、平和条約を待たないでただちに返還せよというのが私たちの主張です。
第二に、千島列島全体については、サンフランシスコ条約の千島放棄条項を廃棄することがまず重要です。具体的には、国民的な討論と合意のもとに、国会で決定し、政府が、関係各国に、サ条約第二条c項の千島放棄関係部分を廃棄するという、日本国民の意思を通告することです。こうして、千島返還を要求する国際法上の権利を確立して、千島列島の全面返還を内容とする平和条約締結の交渉をソ連とおこなう。この領土交渉は、相手国があることですから、日本側として千島放棄条項を廃棄したからすぐに進展するという、単純なものでないことは明白ですが、こういう立場を確立してはじめて、積極的な展望をもちうるということは、日本共産党のこの二十余年来の領土交渉のいきさつによっても、裏づけられていることです。
日本共産党の領土交渉は、一九五九年一月、宮本委員長(当時、書記長)を団長とする代表団の最初の訪ソのときにはじまりました。当時はまだわが党が、千島放棄条項の廃棄という方針をうちだす以前の時期でしたが、サンフランシスコ条約に反対した党として、これに拘束されない立場は明白でしたから、そういう立場から、択捉、国後の返還問題を堂々と提起しました。ソ連側も、その日本共産党にたいして、サ条約による千島放棄の現状を永久不変のものとして固執することはできず、結局、将来日本が日米軍事同盟のくびきから離れて、独立・平和・中立の日本になったあかつきには、「南千島諸島の問題にたいして新しい態度をとる可能性がうまれる」ことを合意の文書として確認しあいました。ここでいう「新しい態度」が、返還問題の検討を意味していることは、いうまでもありません。
一九七九年十二月のモスクワの日ソ両党首脳会談―宮本・ブレジネフ会談でも、日本側は領土問題について全面的な議論を展開し、日ソ間の領土問題は、平和条約で国境を画定してはじめて解決されるものであり、日ソ平和条約が結ばれていない以上、領土問題は未解決だということを明確にして、領土問題をふくむ平和条約締結の協議を、日ソ両党間で今後とも継続することを、確認しました。
日本共産党のこのような対ソ交渉史は、日本政府が、サ条約に拘束されない立場を確立してこそ、領土問題での本格的な外交交渉を展開できるし、新しい展望をひらきうることをしめすものです。
第三に、日本自身が、日本を侵略戦争の危険な基地としている日米軍事同盟から離脱し、非同盟・中立の進路をかちとる国民的なたたかいを前進させることです。領土問題の正しい解決こそ、日ソ間の真の友好の基盤となるものですが、自民党政府がいまとっている路線、アメリカの世界戦略の一翼をになう軍拡路線をすすむことが領土問題の解決に逆行し、政治的障害をいよいよ大きくする方向であることは明白です。わが党は、これまでも一貫して千島問題解決の国際法上の障害である千島放棄条項の廃棄を主張すると同時に、領土問題解決の政治的障害である日米軍事同盟を廃棄して、日本が、非同盟・中立の道にすすむことの重要性を明確にしてきました。今回のこのインタビューでは、国際法上の問題に焦点をしぼって話してきましたが、日本国民の民族的課題である日米安保条約廃棄、軍国主義復活強化反対のたたかいは、日本の独立と平和、民主主義と安全のためのたたかいであると同時に、領土問題の解決のためにも、その政治的障害をとりのぞくたたかいとして、きわめて重大な意義をもっているのです。
以上、千島問題について、いろいろな角度から問題点を解明してきましたが、それらが、千島、歯舞・色丹の返還を求める国民的な討議と運動の前進に、少しでも役だてば、幸いだと思います。
日ソ領土交渉にあたっての提言(四つの提言)
まもなく開始される日ソ交渉では、領土問題が一つの中心の主題となることはまちがいない。
これは、日ソ間の領土交渉としては、一九五六年の国交回復以後、最初の本格的な交渉となるものである。国民の年来の念願であるこの問題を、筋道のあいまいな取引に終始させることなく、国際的な正義と民主主義の道理にたって解決するためには、交渉において立脚すべき基本点を、国際法的にも明確に整理してのぞむこと、とくに国際法上の基準を無視しないかぎり、相手側も客観的には認めざるをえないようなところまでつめた形で提起することが不可欠である。
日本共産党は、党独自の政策としては、領土問題の解決の政策をすでに早くから発表しているが((1)中間的な友好条約の締結による歯舞・色丹の返還、(2)千島列島返還を内容とする日ソ平和条約)、日ソ領土交渉の開始にさきだって、この交渉が当然ふまえるべき原則的な立脚点について、以上の見地からの四つの提言をおこないたい。これらは、具体的な政策内容において日本共産党の立場とかならずしもー致しない場合でも、ソ連とのあいだで本格的な領土交渉をすすめようとするなら、避けてとおるわけにゆかない問題であり、対ソ交渉の前提となるべき国民的な合意の形成のためにも、これらの諸点について広範な討論がおこなわれることを期待するものである。
いったん戦争状態にはいった国の戦後の国境が、平和条約によってはじめて画定されるということは、国際法の原則に属する事項である。これまでソ連側は、(1)ヤルタ協定(一九四五年)や (2)ソ連国内法でのロシア共和国の領土への編入(一九四六~四八年)※注1をその「解決ずみ」論の根拠としてきた。しかし、ヤルタ協定は戦後処理の条件についての連合国間の協定にすぎず、そこで戦敗国の領土のどのような変更がとりきめられようと、それは、当該国間の平和条約の締結をまってはじめて国際法のうえでの有効性をもちうるのである。ソ連が参加せず、日本が千島列島についての権原を「放棄する」ことだけをとりきめたサンフランシスコ平和条約(一九五一年)が、日ソ平和条約にかわって、日ソ間の国境を画定する役割を果たしえないことは、いうまでもない。
また、ソ連の国内法による領土編入措置についていえば、それは、国査法上ソ連への帰属が確定しない領土を一方的に編入しただけのものである。この措置が、日ソ両国間の領土交渉の内容にたいする国際法的な拘束力をもちえないことは、言をまたないところである。
日ソ間に領土問題がおこった根本は、第二次世界大戦の戦後処理の不公正にある。周知のように、第二次世界大戦では、対日戦の戦後処理についての連合国側の基本態度として、「カイロ宣言」が発表され(一九四三年)、のちにソ連もこの宣言に加盟した。この宣言は、戦後の領土処理について、太平洋諸島のはく奪、満州・台湾・澎湖島の中国への返還、朝鮮の独立について個別に明記するとともに、一般原則として、「同盟国は自国のためには利得も求めず、また領土拡張の念も有しない」こと、日本は「暴力及び強慾により日本国の略取したる……一切の地域から駆逐される」ことをうたっていた。これは、領土不拡大という国際的な民主主義の道理に合致した原則宣言であった。
一九四五年のヤルタ会談で、ソ連側が、対日参戦の条件として、日露戦争で日本がロシアから奪った南サハリンの返還をもとめただけでなく、「千島列島のひきわたし」を要求したことは、その要求に米英側か応じたこととともに、「領土不拡大」という戦後処理のこの原則に明白に違反したことだった。その後、サンフランシスコ平和条約のさい、アメリカの要求で、その第二条C項には、「日本国は、千島列島……に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」との条項がいれられた。これは、ヤルタ協定の当事国であるアメリカが、ヤルタ協定との整合性をはかるためにとった措置であり、ソ連への引き渡しを規定したものではなかったが、日本の千島放棄を条文化したものとして、明らかにヤルタ協定での不公正の延長線上にたったものであった。
日ソ間の領土問題の中心点は、戦後処理のこの不公正を国際的な民主主義の道理にたって是正するところにある。そのことに正面からとりくむことを避けて、ヤルタ協定やサンフランシスコ平和条約での諸規定を動かしがたいものとすることは、結局、不公正な領土処理の現状そのものを固定化することとなり、それは、領土問題の解決にこえがたい障害をもうけるものとならざるをえない。
自民党政府は、サンフランシスコ会議から四年たった一九五五年に、”サンフランシスコ平和条約で日本が放棄した「千島列島」には択捉、国後などの南千島はふくまれていない”という千島放棄条項の新解釈をしめし、それ以来、この解釈をソ連にたいする領土要求の根拠にする態度をとってきた。これは、ヤルタ・サンフランシスコでのとりきめの不公正を正面から問題にすることなく、サンフランシスコ条約の「解釈」変更(これはヤルタ協定の「解釈」変更にもつうじる)で、日本国民の領土要求を基礎づけようとするものである。この態度には、まずウルップ以北の北千島をはじめから領土要求の枠外においているという根本問題があるが、そのことにくわえ、問題を南千島問題にかぎってみても、つぎのような、国際法的に大きな矛盾をきたす重大な弱点が、日本側の主張に内包されていることを、指摘せざるをえない。
(1)サンフランシスコ条約を批准した日本の一九五一年国会では、放棄した千島列島には択捉、国後など南千島もふくまれているというのが、日本政府の公式解釈としてくりかえし言明されていること。※注2
(2)サンフランシスコ会議自体においても、日本側全権(吉田首相)とアメリカ側全権ダレスがともに、「千島列島」という言葉を南北千島の全体をさす意味で使っていること。※注3
(3)一九五五年に「解釈」変更の態度を明らかにしたとき、日本政府はアメリカ、イギリス、フランスの三力国に、この「解釈」変更への支持をもとめる「質問」を出したが、好意的な回答を寄せたのはアメリカだけで、イギリス、フランスはともに不同意の回答をしめしてきたこと。※注4
こうした経過は、サンフランシスコ条約の千島条項を絶対不動のものとする立場にとどまっていたのでは、歯舞・色丹の返還要求は国際法的に根拠づけられても、千島列島の一部である択捉、国後については、日本側の要求を国際的に通用する内容で根拠づけることができず、交渉の過程でさまざまな自己矛盾を露呈せざるをえなくなる危険が十分にあることをしめしている。
ここに、領土問題の本格交渉にあたって、政府・自民党が、一九五五年以来の従来型の主張からの大胆な脱却を検討すべき問題の一つがある。
領土不拡大の原則にたつ以上、両国が戦争などの手段に訴えることなしに国境を画定しあった、十九世紀後半、幕末から明治初年にかけての平和的な領土交渉の到達点を、日ソ両国間の国境画定の基準とするのは、歴史的にも当然の道理である。
この時期の国境画定に関しては、二つの条約がある。一つは、一八五五年の「日魯通好条約」、いわゆる下田条約で、ここでは、千島列島については、これを南北にわけ、エトロフ以南を日本領、ウルップ以北をロシア領と定めた。ただし、このときは、樺太については、国境をきめないで、日本人もロシア人も自由に行動できるいわゆる「雑居の地」と定めた。その意味では、この条約は、国境画定という点では、まだ最終的なものではなく、その後も国境・領土問題をめぐる交渉はつづけられた。そして、両国間の国境を最終的に画定する条約となったのが、一八七五年の「樺太・千島交換条約」で、樺太全島を今後ロシア領とするかわりに、これまでロシア領だったウルップ以北の北千島を日本にゆずること、すなわち「千島列島」の全体が日本に属することが、とりきめられた。
これが、十九世紀後半の日本とロシアの間の平和的な領土交渉の経過と到達点である。自民党政府は、領土交渉の基準として、一八五五年条約をとっているが、これは、歴史論を、「南千島は千島でない」というサンフランシスコ条約の「解釈」変更論にあわせたものである。日本共産党は、領土問題解決の歴史的な基準としては、十九世紀後半の領土交渉の最終的な到達点である一八七五年条約をとるべきだと考え、一貫してそのことを主張してきた。
いずれにしても、領土交渉にあたってまず重要なことは、日口両国が平和的な話し合いで合意した近代史上の到達点を国境画定の基準として尊重するという立場を、確立することである。
スターリン以来の大国主義的な立場に固執するこれまでのソ連側の態度が頑強であったうえ、日本側の従来の交渉態度にも国際法上さまざまな問題点があり、また千島・歯舞・色丹がソ連領に一方的に編入されてから四十数年たったという歴史的な経過もある。こうした事情から、領土交渉がはじまっても、その最終的な解決がいっきょにえられるとは予想されがたい。そして、交渉の過程で、さまざまな中間的、あるいは妥協的な解決策が浮上してくることが想定されるし、日本側からそういう措置を積極的に提起することが必要となる場合も、当然ありうることである。日本共産党も、一九七九年のソ連共産党との首脳会談で、千島列島返還への過渡的な措置として、歯舞・色丹の返還を要求した。こういう過渡的な措置を検討するにあたって必要なことは、その措置が日本国民の利益からも国際的な道理からも適切で合理的なものであるかどうかをよく検討することであるが、同時に、その過渡的措置が事実上、領土交渉の終着にならないようにこれを平和条約の締結と安易に結びつけないことである。平和条約が締結されれば、それはどんな留保条件をつけようと、両国間の国境の公式の画定という意義を事実上もつことになるからである。日本共産党が、一九七九年の首脳会談で、領土問題解決の第一歩として、歯舞、色丹の返還を提案したさい、これを平和条約とではなく、日ソ友好条約などの中間的な条約と結びつけておこなうことを提起したのは、そういう見地からだった。※注5
今後、どのような中間的あるいは過渡的な措置が問題になるにせよ、領土問題の公正な解決を積極的にはかってゆくためには、このことは、きちんと堅持してゆくべき基本点の一つである。
「一九四六年二月三日ロシア共和国が両地域〔樺太と千島-不破〕を同国領に編入、同二月二〇日(ヤルタ協定は二月一一日にはじめて発表)ソ連邦最高会議幹部会が同幹部会令をもってこれを確認、かつ効力を一九四五年九月二〇日に遡及せしめた。憲法上の措置としても、一九四七年二月二五日にこのための連邦憲法の修正が行われ、一九四八年三月一三日には同じくロシア共和国憲法の修正が行われた。
なお、このさいのソ連領編入措置においては、千島に関し、ソ連が現実に占領しているエトロフ(択捉島)以南はもとより、ハボマイ群島、シコタン島を含めて編入の措置がとられたことを注意しておく必要がある」(三三ページ)。(注2) たとえば、「条約にある千島列島の範囲については、北千島と南千島の両者を含むと考えております」(西村熊雄条約局長答弁、一九五一年十月一九日、衆院特別委員会)。(注3) 吉田首相は、「千島南部の二島、択捉・国後両島」を「日本が侵略によって奪取したもの」だとするソ連代表の主張には抗議したが、引用したこの文章にもみられるように、択捉・国後の両島を「千島列島」の一部とする見地は、発言の全体をつうじて一貫していた(一九五一年九月十日の全体会議での受諾演説)。またダレス全権は、歯舞諸島が千島列島に属さないことは指摘したものの、千島列島については、平和条約で問題になる各地での人口の分布を紹介したさい、「千島列島」の言葉を南北千島の全体をさすものとして使用した(九月五日の全体会議での演説)。(注4) 米英仏三国へのこの質問は、一九五五~五六年の日ソ国交回復交渉のさなかにおこなわれた。
日本の全権としてこの交渉に参加した松本俊一氏の回顧録『モスクワにかける虹―日ソ国交回復秘録』(一九六六年)によれば、”サ条約でいう「グリル諸島」とは、国後、択捉両島をふくまないものと理解していたか”との日本外務省の一九五五年十月付の質問にたいし、(1)アメリカの回答は、「千島の定義は対日平和条約でも、サン・フランシスコ会議での議事録にも決められていない」、米国は、日本が「択捉、国後をこれら諸島が千島列島の一部でないという理由で日本に返還するよう、ソ連を説くことになんら反対するものではない」というものだったのにたいし(米国のこの回答も、日本の解釈変更への直接的な支持論でなかったことに注意)、(2)イギリスからは「米国の見解に同意を表明し得ない」という回答、(3)フランスからは「サン・フランシスコ会議の事議録は、千島の範囲に関して言及している。特に日本代表が国後、択捉を南千島として言及しているところに注意を喚起する」というよりたちいった否定論が、回答として寄せられた。(注5) 一九七九年十二月の日ソ両党首脳会談で、日本共産党の宮本委員長(当時)は、領土問題では千島列島全体の返還を日ソ平和条約の内容とすることを主張すると同時に、より当面的な問題として、北海道の一部であり、サンフランシスコ条約で日本が放棄した千島のなかに入らない歯舞・色丹の返還を提案した。そして、最終的な平和条約の締結にはいたらないが、両国の友好・親善をかためるという趣旨の中間的な条約の締結と、歯舞・色丹の返還問題とを、日ソ両国間であわせて協議することを提案した。
日ソ交渉史と「四つの提言」
本日は、私どもの呼びかけに応じて、シンポジウムにたくさんの方がたがご参加いただき、本当にありがとうございます。
日ソ交渉を前にした両国政府の状況
九月三日に「日ソ領土交渉にあたっての提言」を発表したものとして、「提言」の趣旨や領土問題のいきさつなどについて、若干の報告を最初におこないたいと思います。
いま志位書記局長から申しましたように、日ソ間で両国関係についての本格的な交渉がはじまろうとしていますが、これは、一九五五~五六年の日ソ共同宣言にいたる交渉以来三十数年ぶりにおこなわれる交渉といえます。ここで領土問題が大きな主題の一つになることは双方が認めています。ですから本来なら、三十数年ぶりに領土問題での本格交渉がおこなわれるはずです。ところが、実際には、双方の状況を見てみますと、ソ連の側は、いろんな発言がされていますが、スターリンが大国主義のやり方で千島、歯舞、色丹をおさえてしまったことについての反省というものは、責任ある当局者の側からは誰の口からも言明されていません。一部の研究者からは、個人的な見解として、多少の反省的な発言がありますが、公式の言明では、領土問題の根底にある大国主義への反省はまったく聞かれません。
奇妙なことですが、千島、歯舞、色丹というのは、ソ連の国内の編成としては、はるかに遠くロシア共和国に属しているのだそうです。そのロシア共和国のエリツィン議長は、よく「改革派」の旗頭などといわれていますが、彼は領土問題については一番の大国主義的強硬派で、「口シア共和国には返すべきいかなる領土もない」ということをスローガンにしているといわれています。ですから、相手のソ連の側には、現在、この問題について本格的に、本当に筋道をたてて議論する用意があるとは思えません。
では、日本の側はどうかというと、これまでの日本政府の対ソ交渉の経過をずっと調べてみても、それから現在、これらの交渉にのぞむ用意の仕方を見てみても、この重大問題―ほとんど半世紀にわたって日ソ間に存在している重大問題をどうやって解決するのか、日本として国際法上どのような道理を明確にしてこれにのぞむのか、こういうことについて、少なくともわれわれの目にふれているかぎりでは、本格的な準備はされていません。
ここに今後の日ソ間の領土交渉の最大の問題点があると思います。
一九五五~五六年の日ソ交渉の経過と教訓
その点で私はまず、一九五五~五六年の日ソ交渉の経過から教訓を汲み取る必要があると思います。
このときの交渉の経過については、当時の松本俊一全権―ロンドン交渉では一次(五五年六月~九月)、二次(五六年一月~三月)にわたって全権をつとめ、第一次モスクワ交渉(五六年七月)では重光外相と同時に二人の全権の一人となり、それから最後の第二次モスクワ交渉(五六年九月~十月)にも参加した外交官ですが、彼が非常にくわしい記録を残しています(『モスクワにかける虹―日ソ国交回復秘録』、一九六六年、朝日新聞社刊)。その記録をあらためて吟味してみると、日本がこの領土交渉にたいして、まったく無準備といっていいような状況、つまり日本側の国際法上の立場をしっかりと確立することなしにのぞんだ実情が、生きいきと具体的に分かります。
ちょっと紹介しますと、一九五五年六月のはじめに、第一次ロンドン交渉の最初の内容的な会談がおこなわれるのですけれど、そのとき日本側がもちだした領土主張というのは、「歯舞諸島、色丹島、千島列島および南樺太は歴史的にみて日本の領土である」というものです(六月七日の第二回会談)。つまり、日露戦争の戦利品として奪い取った南樺太(サハリン南部)までふくめて日本の歴史的領土だから返せという主張をするわけです。それに松本氏が解説をして、「しかし交渉の終局でこれを全面的に返還させるという考えではなく、弾力性をもって当たる」つもりだった、とのべています。ここで「弾力性」というのは、その後の交渉の経過からみると、全権団の気持ちとしては、歯舞、色丹返還という線だったようです。だから、南樺太まで風呂敷は広げたが、これに確固とした根拠があるわけではない、団体交渉みたいなもので、最初にがんと押しておいて、最後に落ち着くところが歯舞、色丹ぐらいになれば結構だ、というつもりの交渉ですから、この「弾力」的な目標のほうも、国際法的に吟味した形跡はまったくありません。
そこから約二ヵ月交渉したあと、八月はじめにソ連側から歯舞、色丹だけなら返していいという話が打診的にあります(八月五日)。それを聞いた松本全権は、「最初自分の耳を疑った」というほどで、「内心非常に喜んだ」わけで、大体これで「交渉の終結も間近い」と考えて、東京にソ連側の提案を報告、政府の訓令をあおぐのです。ところが、政府から返ってきた訓令(八月二十七日)は予想外の強硬なもので、「それではまかりならん」、しかも「国後、択捉は日本の固有の領土であって、千島列島には含まれていない」、例の「南千島は千島でない」という新解釈を突如としてしめしてきて、この立場であらためて交渉をやりなおせ、というものでした。さらに、北千島および南樺太についても、ソ連に渡す取り決めは駄目、関係国の国際会議でどこに属するかを決定する方式で行け、こういう強硬訓令がくる。それまでは、つぎの交渉で、いままで提案していた日本側の条約案に、領土条項だけはこの線で書きかえたものを、突如として持ち出す(八月三十日)。これまで、南も北もふくめて全体が千島列島だということで交渉してきたものが、急に「南千島は千島ではない」という新解釈で交渉しなおす羽目になったのですから、松本全権も立場がなかったでしょうが、それで、このときの交渉は事実上の決裂にいたるわけです。
これは内輪話なのでしょうが、松本氏は、当時の農林大臣だった河野農相がロンドンに寄って(八月十一日)、これから日本側とアメリカとの会談があるから、それがすむまでは深入りするなという忠告を受けた話を書いています。この日米会談のあとで、突然の追加訓令です。だから、私は、この方針転換には、アメリカからの入れ知恵があったに違いないと思います。※注1ともかく、第一次ロンドン交渉はこれでこわれ、その後一連のいきさつがあって、結局、歯舞群島および色丹島を日ソ平和条約締結後に日本に返すということで、翌年十月に日ソ共同宣言が結ばれるというのが、このときの日ソ交渉の到達点となります。
こうした経過の全体を見ますと、最初に南樺太まで領土要求を広げたときの根拠もはっきりしない、それから歯舞、色丹で結構となりかけたときの根拠もはっきりしない、その後、「択捉、国後は千島にあらず」ということを言い出した根拠はいよいよはっきりしない。第一次ロンドン交渉のわずか二ヵ月間の交渉のなかで、日本側の立場がこのように次からつぎへと変転し、そのどれも国際法上の道理がはっきりしない話ばかりということでした。こういう交渉が、日本とソ連のあいだの最初の本格交渉だったというのは、その後の領土交渉にとって、非常に不幸な幕開けだったといわなければならないでしょう。
それから三十数年たち、その間の日ソ交渉では、田中首相がソ連を訪問して交渉したとかいろいろありますけれども、その交渉は結局、日ソ間に領土問題が存在しているか存在していないか、領土問題の存在を認めるか認めないか、それだけにつきて、内容にわたる問題は日ソ両国政府の間ではいままで一度も話題にならなかったというのが、実情だと思います。
ですから私は、五五~五六年の日ソ交渉の経験というのは、これからの交渉を考える場合、日本の道理である立場を明確にすることがいかに重要であるかをしめすものとして、たいへん大事な教訓をふくんでいると考えます。
日本共産党の領土交渉の経過から
それからもう一つ私がここで報告、紹介しておきたいのは、その間に、日本共産党もソ連共産党とのあいだで、とくに日ソ共同宣言以後さまざまな交渉をしてきたことです。
その内容はこれまでいろんな機会に紹介していますので、くわしいことは申しませんが、日本共産党は、別に日本政府がアメリカその他と結んだサンフランシスコ平和条約、とくにその千島放棄条項などに拘束される立場ではありませんから、わが党の領土問題研究のそのときどきの到達点にたって、国際的な正義と民主主義の道理をふまえた問題提起を、ソ連側におこなってきました。
一九五九年の日ソ両党交渉―これは日本共産党とソ連共産党との最初の公式会談でした―でまず、宮本書記長(当時)が領土問題を提起しました。安保条約の改定とともに、日米軍事同盟の強化の道をすすむか、この道をたちきって真の独立・平和・中立の道をすすむかが、大問題になっていたときでしたが、日本がそういう軍事同盟の道をはなれ平和的・民主的な発展の道にすすんだ場合には、南千島の問題に新しい接近の可能性が生まれるということを、両党でたがいに確認しあいました。これは、日ソの政府間交渉の三年後のことでした。こちらが、道理ある立場を明確にして交渉した場合には、ソ連側も、「解決ずみ」論とか、歯舞、色丹以外は一切不動だとかいう立場はとれなかったということを、しめしています。
つぎに、七一年の両党会談があります。このときは、日ソ両党の間では、フルシチョフ時代以来のソ連からの干渉問題が未解決で、両党の関係がまだ不正常な時期でした。その時期におこなわれた首脳会談でも、宮本委員長(当時)が領土問題を提起し、とくに、日米安保条約改定のときにソ連が日ソ共同宣言の歯舞、色丹返還を約束した部分について棄却するという通告をしてきた問題をとりあげて、これを「考え直す」よう主張しました。これにたいして、ソ連側も、会談のなかで、「外務省で検討させる」ことを言明せざるをえませんでした。
つづいて一九七九年の両党首脳会談です。この会談は、フルシチョフ以来の十五年間にわたる干渉にソ連側が反省を表明したことで、一応、党と党との間の関係を正常化した会談だったのですが、このときの宮本・ブレジネフ会談では、最大の問題の一つとして領土問題を取り上げて、非常に立ち入った交渉をやりました。もちろんソ連側はわが党の主張にたいして「解決ずみ」論をとなえる。それにたいして宮本委員長(当時)の方から、ソ連側の議論の一つひとつについて全部反論する、こういうやりとりが長時間にわたっておこなわれたのです。宮本委員長が、ソ連側の「解決ずみ」論の根拠を世界の民主主義と国際法の道理ある立場から全部論破したら、結局、相手はそれについて一言も反論できないで、日本側の主張への弁明として、もっぱら軍事情勢だけを語るようになったのが、特徴でした。すなわち、いまのような緊張した軍事情勢のもとで日本に島を返したらどうなるかという、情勢論だけしか訴えられなかったのです。これにも、もちろん反論しましたが、こういう会談でした。
そのときのエピソードですが、ソ連は日本側がなにをいっても「解決ずみ」という態度をとることについて、「あなた方がそういう『聞く耳をもたん』という態度をとり続けるなら、日本国民のソ連にたいする不信は大きくなるだけだ。そういう態度をやめなさい」ということを、日本側がのべたのです。そのあとで、領土問題についてかなり長い宮本発言がおこなわれたわけですが、それを受けての発言でソ連の代表が「宮本委員長の長い発言をわれわれは忍耐強くきいた、これは、ソ連側がいかに『聞く耳』をもっているかということのあらわれだ」とわざわざ強調したのです。そのときもそれで大笑いになったそうですが、そのあとの会談などでは、「聞く耳を大きくせよ」というのが、はやり言葉になったと聞きました。
このときの会談では、未解決の領土問題をふくめ、「日ソ平和条約の締結」問題について、今後とも意見交換をつづけてゆくことを、共同声明で確認しあいました。
そういう日本共産党自身の経験からいっても、道理をもった交渉がいかに大事かということです。これは、私たち自身がソ連側とこの問題で直接交渉をくりかえすなかで痛感してきたことであります。
「四つの提言」をなぜおこなったか
いよいよ日ソ間の交渉がはじまろうとしています。このあいだのシェワルナゼ・ソ連外相の訪日では、まだ入り口の手前ぐらいのところでしたが、これからの外相レベルの交渉、あるいはゴルバチョフ大統領の訪日、そういうなかでは領土交渉は当然もっと本格的な軌道に乗るでしょうし、それにたいして日本側が最初からどういう態度、どういう立場でのぞむかは、今後の帰趨に大きな影響を与えるものとなります。現在は、そういう重大な時期だと思います。
ソ連側は経済的な困難もあって、日本との関係の強化について非常に強い要望があります。しかしだからといって、領土問題についてのスターリン以来の大国主義・覇権主義にたいする基本的な反省はない。これは、さきほども指摘したとおり、明瞭な事実です。
そういう状況のなかで、日本側がきちんとした態度をもたないまま、ムードに流されたような交渉をやったのでは、せっかくの三十数年ぶりの本格的な領土問題交渉が空転するおそれがあります。日本共産党は、そういう事態を重視して、シェワルナゼ訪日の前日、九月三日に、私の「提言」として「四つの提言」をおこないました。
領土問題の政策については、われわれは以前から明確な政策を提起しています。一つは、歯舞、色丹は北海道の一部であって、これまでサンフランシスコ条約などで問題になった千島列島とは無縁のものだから、無条件にただちに返還せよ、必要なら友好条約などの中間条約と結びつけて解決せよ、ということです。二つは、日本がサンフランシスコ条約で千島列島の放棄を国際的に約束した、それが日本の外交的立場を縛っているのだから、この千島放棄条項を廃棄することで、領土要求の国際法上の道理もきちんと確立して、全千島列島の返還交渉を堂々とやり、それを内容とした平和条約を締結せよというものです。これが日本共産党の領土政策です。
いまの政界をみても、あるいは国民のみなさんのあいだでも、必ずしも日本共産党のこの政策で一致が見られるという状況ではありません。しかし、たとえわが党の政策と一致する立場にたたないでも、本格的にソ連と領土問題の交渉をやろうとしたら、避けてはとおれない問題、そこを明確にしないと必ず交渉のなかでそれが一つのネックとも争点ともなるという問題、これらを私は四つの点にしぼって提起したわけです。その内容は、お読みいただきたいと思いますが、以下、提起した四つの点について、若干の解説的な報告をしたいと思います。
第一の問題は、ソ連がいう「解決ずみ」論をどう見るかということです。
ソ連側が領土問題を「解決ずみ」だとする論拠には二つあって、一つは、「これは国際条約で決着ずみだ」という議論で、ヤルタ協定があり、サンフランシスコ条約があるから決着ずみだということを論拠にしています。もう一つは、「ソ連の国内法でロシア共和国の領土に編入しているのだから変更の余地なし」というもので、この二つが「解決ずみ」論のおもな論拠です。
これについていいますと、だいたい戦争状態にあった二つの国が戦争のあとで国境をきめる、領土をきめるというときには、平和条約なしには、きまりようがないのです。ヤルタ協定にしても連合国側の取り決めで、日本が参加した取り決めではありません。それからまた、ソ連の国内法で何をきめようと、国際的に間違ったことをきめたのなら、これが無効になるのは当然です。日ソ両国の間には平和条約が現にないのです。つまり、戦争状態にあった国のあいだで平和条約がないのですから、両国が合意した国境線がないことは明瞭なのです。
これも七九年の日ソ両党会談のときに話題になったことでした。ソ連がいろいろいうので、「ソ連の百科事典を見てみなさい、戦後の国境を画定するのが平和条約だとソ連の百科事典にも書いてあるじやないか」、日本側のこの指摘には、ソ連側も一言もありませんでした。これは天下の公理であって、日ソ両国間に平和条約が結ばれていないのに、領土問題は「解決ずみ」などということは、国内向けにはいえても、国際的に通用する道理ではありません。ここをきちんとおさえて議論しないと、既成事実をたてにとっての「解決ずみ」論に押しまくられる危険は十分にあります。
もう一つ、ソ連がよくいうのは、「戦後の国境変更をするということになると、問題は日ソ関係だけにとどまらない、国際的にも戦後体制の変更という大問題になる」ということです。ヨーロッパについてのヘルシンキ条約(一九七五年)では、戦後の「国境の不可侵」が確認されているともいいます。しかし、ヘルシンキ条約をもちだしてのこの議論にも、二つの大きな問題点があります。一つは、ヘルシンキ条約が対象としたヨーロッパでは、双方の国が合意しないままでいる国境というのはどこにも存在していないということです。つまり、第二次世界大戦に参加したすべての国のあいだで、平和条約による国境の画定は、実際に解決ずみの問題なのです。だからヨーロッパでいま国境変更が問題になるとしたら、これはいったん合意した国境をあらためて画定しなおすという議論となります。ところが日本の領土問題というのは、日ソ間には両国で合意した国境がないわけですから、新たに国境を画定するという問題なのです。だからヘルシンキ条約をもちだしての議論は、日本には当てはまりません。しかもそのヘルシンキ条約でさえ、いったん画定した国境であっても協議して相互の関係諸国が合意して変更することができるのだということが明記されています。「参加国は国際法に従い、平和的手段と合意によって、国境が変更され得ると考える」(第一章)。ですから、この点でも、ヘルシンキ条約は「解決ずみ」論の根拠にはなりえません。
こういう点を条約上の基本問題として、きっちり押さえて対処することが、まず重要だということです。
第二の問題は、ヤルタ協定やサンフランシスコの講和条約の千島放棄条項をこれからの領土交渉の不動の前提にしないという立場が大事だということです。
日本共産党は、党としては、サンフランシスコ条約の千島放棄条項を廃棄し、その拘束から自由になってこそ、本腰をいれた領土交渉ができるという政策を主張していますから、「不動の前提にしない」というのは、私たちとしては、ずいぶん遠慮した言い方をしているのですが、はじめにいいましたように、わが党の政策と一致しない場合でも、こういう問題点をよく考えないと道理ある交渉はできないという形で、この「提言」を定式化したものですから、こういう表現をしました。
これは、言い換えれば、こんどの領土交渉に、第二次世界大戦の戦後処理の不公正を是正するという立場からのぞむということです。
第二次世界大戦は、日本の側からは侵略戦争でしたが、連合国の側からは反侵略の正義の戦争でした。その戦争の性格にふさわしく、領土不拡大の原則が確認され、なんども宣言されました。ソ連もふくめて連合国側は、この戦争で勝ったからといって、自国の領土の不当な拡張はしないということを国際公約にしたのです。
ところが千島列島をよこせというのは、まさにソ連の側の不当な領土拡張でした。ヤルタ協定は、ヤルタでルーズベルトから対日参戦を要請されたとき、スターリンが、参戦したことによる利権が得られないとソ連の国民が納得しないという議論をとなえ、それで日本にたいする領土要求とか日本が中国にもっていた領土的な特権の引き継ぎを参戦の条件として持ち出した、それをスターリンのいうがままに確認したといういきさつで生まれたものです。
実は、ソ連自身も千島列島を要求することは「横取り」だということを自覚していました。そのことは、ヤルタ協定の文書にもあらわれています。すなわち、ヤルタ協定の文章では、南樺太は「返還」ですが、千島列島は「引き渡し」となっています。これは、南樺太については日露戦争で取り上げられたものを取り返す、千島列島はもともと権利がないものを引き渡す、こういう違いがあることを彼らも自覚していたことの証拠だといってよいでしょう。
これがまさに、世界の民主主義の原則にも連合国の立場にも反した戦後処理の不公正でした。これを是正して、民主主義をつらぬく、民族自決をつらぬく、それを日本にとってもソ連にとっても世界の民主的な秩序の基本にする、こういう姿勢でのぞまないと、この領土交渉は成り立たないということが、いちばん大事な問題の一つだと思います。
サンフランシスコ平和条約にはソ連は参加しなかったのですが、アメリカはこの条約の第二条C項で千島列島の放棄を日本に認めさせました。アメリカとしてはソ連とヤルタ協定を結んでいるわけですから、それとのツジツマを合わせるための最小限の手立てとしてやったのでしょう。このことは、サンフランシスコ平和条約の千島放棄条項そのものが、スターリンによって侵された大国主義・覇権主義の誤りの延長線上にあるということであって、これに日本がいつまでも縛られたままだったら、もともとスターリンの大国主義の要求から起きた領土問題を、まともな立場でただしてゆく交渉ができないことは、自明の理でしょう。
ところがいま、日本の自民党政府の交渉態度の最大の問題点というのは、この基本問題をあくまで避けて、サンフランシスコ平和条約というもの、そこにふくまれた千島放棄条項は絶対動かし難いものだという立場にたって、領土交渉をすすめようとしていることです。実は私は、一九八一年二月、鈴木内閣のときでしたが、衆議院の予算委員会で領土問題でかなり立ち入った論戦をしたことがあります。当時、外務大臣は伊東正義氏でしたが、サンフランシスコ条約で千島列島を放棄したことの不公正さを具体化にしめしての質問をしたのにたいして、「これは日本が世界に宣言したものですからこれを守ってこそ日本の信頼が保てるんだ」といって千島放棄条項の永久遵守論をしきりにとなえました。その枠のなかでの対ソ交渉ということが、いまの自民党政府の領土交渉の大枠だということをよく見る必要があります。
では、自民党政府は、千島列島放棄の宣言を守りぬくといいながら、その枠のなかでどんな交渉をやろうとしてきたのかというと、そこで考えだされたのが、「千島列島」の範囲を主観的に限定するという論法だったのです。日本の国民は、普通は誰でも、北は占守から南は択捉、国後までを千島列島と呼んでいるわけですが、それは誤解だった、実は「千島列島」というのは得撫から北の部分であって、択捉、国後は千島ではなかったんだ、だからこれはサンフランシスコ条約でも放棄していないし、ヤルタ協定の対象にもなっていないものであって、日本に返すのは当然だ、こういう論法が、日本政府が対ソ外交で領土交渉をやるときの唯一の論拠になっています。
ところが、こういう論法が国際的に成り立つものかどうか、通用しうるかどうかが大問題なのです。
この解釈をいつ日本が言い出したかというと、さっきいいましたように、一九五五年の日ソ交渉の最中、交渉開始から二ヵ月もたった八月三十日に、突然、日本が持ち出した議論です。それまでは松本全権は、択捉、国後をふくむ全体を千島列島と呼んでずっと交渉してきました。そこへ八月二十七日にいきなり「択捉、国後は千島にあらず」という訓令がきたものだから、あわてて八月三十日になって、いままでの交渉の概念をすっかり変えて「択捉、国後は千島にあらず」と急に言い出したのですから、最初から道理の通らない無理な話だったのです。
そういう経過から見ても、これは、はじめから自己矛盾をふくんだ立場だったのですが、日本として本格交渉をやろうとしたら、避けるわけにはゆかない矛盾がこの解釈にはふくまれています。
その矛盾を、「提言」では、大きくいって三つの点で指摘しました。
一つは、千島放棄条項をきめたサンフランシスコ条約の会議自体での問題です。この会議で日本の吉田全権も、アメリカのダレス全権も千島列島についていろいろ言及しています。吉田全権は演説で、歯舞、色丹は日本の領土であって、放棄した千島列島にふくまれないということや、千島・南樺太を「侵略によって奪取した地域」だとする主張には抗議するといった言明はしていますけれども、択捉、国後を論じるときには「南千島」、得撫から北は「北千島」という名前ではっきり呼んでいます。※注2だから吉田全権自体が、択捉、国後をふくめた全島を千島列島だという立場で発言し、千島放棄条項の対象は南千島をふくむ全千島だということを承知のうえでこれに調印したのだということは、この会議の記録に国際的にも書き残されていることです。
それから、アメリカのダレス全権も発言で千島に触れています(九月五日の全体会議での演説)。これは領土問題として正面から千島を論じたのではないのですが、この会議で、いったい日本には八千万を超える人口があるのに、領土をこれだけ制限して生きていけるのかといった議論が出され、このことをめぐっての発言で、ダレスが日本の人口の分布を説明したのです。つまり、制限したといっても、日本がこの条約で放棄する地域にはもともとこれこれの人口しかいなかったという議論を数字をあげてやったわけですが、そのとき、千島列島の人口を一万一千人と説明しているのです。この一万一千というのは実は間違いで、一万六千人ぐらいいたのですけども、その大部分は択捉、国後に住んでいて、いまの北千島には約二千人ぐらいしかいませんでした。だからダレスが「千島列島」といったときには、南北をふくめて論じていたことは、明瞭でした。これらの発言が後のち、サンフランシスコ会議での日本とアメリカ側の解釈として問題になるのです。
二つ目には、その条約を批准する国会での政府の公式解釈です。この国会では、「千島列島の範囲はいかん」ということがずいぶん問題になったのですが、そのとき、政府を代表して答弁にたった西村熊雄さんという外務省条約局長が、「これは択捉、国後をふくみます」と何回も言明しています。そのうえで日本の国会はこの条約を批准したのですから、これも動かしがたい歴史の事実です。
三つ目には、日本が一九五五年にサ条約の解釈変更をおこなったとき、その裏づけをとろうとして、サンフランシスコ会議に参加した主な国として、アメリカ、イギリス、フランスをあげ、この三国に、千島列島の範囲についての日本側の新解釈を認めるかという質問をしたのです。この回答は、政府にとって、思わしいものではありませんでした。だから、国会で質問しても、政府は、アメリカの回答を紹介するだけで、フランス、イギリスの回答については、「相手の国の了解を得ていないから」という口実で公表をいまだに拒否しつづけています。ところが、松本全権のさきの回想録には、三国の回答が全部のっていて、それを見ると、フランス、イギリスの回答は、たいへん自民党政府にとってきびしいものでした。
イギリスは、「米国の見解には同意を表明し得ない」という回答。フランスは、さらに突っ込んで、「サン・フランシスコ会議の議事録は、千島の範囲に関して言及している。特に日本代表が国後、択捉を南千島として言及しているところに注意を喚起する」と、日本側の新解釈をきっぱりと否定しています。
こういうことは国際的な記録でも明らかなことですから、サンフランシスコ条約やヤルタ協定の枠内での領土交渉というものは、否応なしに自己矛盾にぶつからざるをえません。ですから、私たちは、本来ならば、事前にこの問題を正したうえで、正面から交渉すべきものだと考えていますが、歴史的な経緯もあり立場上最初からそういうことはできないという場合でも、少なくとも、これを「不動の前提にしない」という立場で交渉にのぞまないと、日本が、世界に説得力をもつ、しかも国際法上堂々たる論理を明確にしての交渉にならない、ここに非常に大事な点があると思います。
第三の問題は、領土問題解決の内容の基準についてです。これにも、いろいろな議論があり、ソ連なども、最初に千島列島、とくに択捉、国後に上陸したのはだれかとかの議論をよくやりますが(この歴史も、別にソ連にとって有利な結論になるわけではありません)、いま領土交渉をやるときには、双方が近代国家として接触しあったときに、その平和的交渉でどういう国境線に到達したかということ、これを基準とすべきであって、これも国際的な原理に属することです。
択捉にだれがいちばん最初に上陸したかということになると、江戸時代のはじめにオランダ人が先だという話もありますから、オランダに権利があるなどという議論も出てきます。ですから、近代国家として平和的な交渉で国境の画定をした到達点を、領土問題解決の基準とするのは、当然のことです。幕末の日本を、国内の体制として近代国家といえるかどうかは、おのずから別個の問題であって、日本とロシアの国境画定の交渉は、ともかくその時期にはじまったのですから。
この点では、私たちは、一八七五年(明治八年)の千島・樺太交換条約、これが平和的な交渉の最終的な到達点とすべきだと思っています。ところが政府側は、幕末の一八五五年の下田条約(安政元年)をあげています。下田条約というのは、たしかに千島を北と南に分けて北をロシア領、南を日本領ときめたものですが、それには付帯条件がついていて、樺太全島を「日露雑居の地」とするとなっていました。つまり、樺太を両国のいわば共同の土地だとしたこととの見合いで、千島の南北分割をきめたのです。その後、明治になってからの交渉で、日本が樺太を放棄する代わりに、日本に北千島を渡すということで成立したのが、一八七五年の千島・樺太交換条約ですから、ここに、近代国家としての領土交渉の平和的な到達点があることは、明瞭です。
ですから私たちは、当然、日本の歴史的領土としては全千島列島を要求するということをいっているわけですが、政府は別の見解をとっています。政府の見解は、われわれにいわせると、「南千島は千島にあらず」というのに合わせた歴史解釈ということになりますが、いずれにしても、そういう歴史的な到達点を基準にするという態度は欠かせない大事な柱だと思います。
最後の問題は、中間条約の問題です。両国間の領土問題の交渉の前途は非常に複雑になると思います。ですから、二度目の外相会談をやる、あるいはゴルバチョフ大統領がくる、それでいっきょに解決ということにはならないでしょう。当然その過程では、いろんな中間案がでたり中間的な段階があったり、過渡的措置をとったりしなければいけなくなると思います。われわれは当然そういう予想をしますが、そのときの中間案の取り扱いにたいしてどういう態度をとるかを、あらかじめ考えておく必要があります。
中間案がでて、それで平和条約を結んで、平和条約後に領土交渉をつづけましょうということでは、これはかりに領土交渉の継続についての口約束があったとしても、事実問題としてはそれでおしまいだということになります。
両国間の交渉で、日本の国民として、これが領土交渉の最終的な限界だと判断されるときに、平和条約を結ぶべきです。領土問題でこれからなお交渉を続けるつもりでいながら、中間段階で平和条約を結ぶわけにはゆきません。
だから、私どもはこの「提言」で、平和条約は領土問題が最終的な解決にいたった時点で結ぶこととし、それ以前の過度的な措置は、条約が必要なら中間的な友好協力条約とかいろんなものがありますから、それでやろうという姿勢を、あらかじめきちんとしておくことが大事だと指摘しているのです。
七九年の日ソ両党会談のときに、私どもは「ソ連側が、歯舞、色丹はいっぺん返すことをきめたのだから、返しなさい」、そしてソ連側が日米軍事同盟があって心配だというのなら、そのときに善隣友好の条約を結んで、そういう心配がないような関係を結べばいいではないかという提案をしたのですが、そういうことが必要だと思います。
五五~五六年交渉での日ソ共同宣言というのは、歯舞、色丹という日本側からいえば中間案を、「平和条約締結後に返す」という形で、平和条約と結びつけてしまったものでした。これでは、事実上それでおしまいということになるわけで、これは、現在のわれわれの認識からいえば、日ソ共同宣言の弱点になっています。その反省のうえにたって、中間条約の問題をふくめ、領土問題の最終的な解決と平和条約の関係の問題をきちんとしてのぞめば、今後の交渉の過程ででてくるであろうさまざまな問題―経済問題もからんで、いろんな妥協とか中間措置があり得るでしょうが、そういう問題にたいして、領土問題の根本的な展望を見失わないで対処してゆくことができます。
以上、四つの点が私どもの「提言」の中心的な内容です。これは冒頭にも申しましたように、自民党政府の立場がわれわれと政策的にちがっても、この点だけは押さえて、しっかりした交渉をしないと、せっかくの三十数年ぶりの機会が実らないことになると考えて提起したものであって、みなさん方のご検討をいただければ幸いだと思います。