領土権に関わる権原とは(固有の領土とは)

https://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/2020pdf/20201001158s.pdf

1955 年 11 月の保守合同による自由民主党の結党に際して決定された緊急政策の中でも、日ソ間の領土問題については「歯舞、色丹、南千島を無条件で返還せしめる」及び「その他領土の帰属は関係国間において国際的に決定する」との方針が定められた。

そして、同年 12 月7日の衆議院予算委員会において、上記緊急政策における方針を踏まえつつ、歯舞群島及び色丹島の二島返還で妥結する可能性等を問われた鳩山内閣総理大臣は、「戦争中に生じた日本固有の領土の占領等は、当然に解決しなければならない問題」と述べ、政府答弁として初めて「固有の領土」という語を用いている。

もっとも、この答弁自体では「固有の領土」の地理的な範囲や意味は必ずしも明確なものではなかったが、同月 10 日の衆議院外務委員会において、重光外務大臣は「日本の固有の領土、いまだかつて問題に従来なったことのない領土」の返還をソ連に主張していると述べ、より具体的な形で「固有の領土」の意味を述べている。

それと同時に、同大臣は、サンフランシスコ平和条約における「千島列島」の範囲について、条約上明確な規定がなく、日本としては「南千島は従来千島として取り扱われておらぬ、これは北海道として取り扱われておるのだ、日本とソ連との千島、樺太交換条約にもこれは規定がないのだという歴史をたどってそういうふうに定義」しているとした上で、「南千島は固有の領土だとして返還を主張するということにはアメリカもこれは異議はない」と述べ、「固有の領土」の地理的な範囲として南千島に言及しつつ、南千島が条約上の「千島列島」に含まれるとする従前の政府見解を実質的に修正するような答弁を行っている

この答弁以降、同大臣は、ソ連に対して「固有の領土」の返還を求めていく旨を繰り返し答弁している。

 


北方領土問題に関するQ&A より

Q2
北方四島が我が国の「固有の領土」であることの根拠は何ですか?

A2
北方四島はいまだかつて一度も外国の領土となったことがない我が国の領土です。

日露両国は、1855年2月7日に調印した日魯通好条約により、両国の国境を択捉島とウルップ島との間に定めました。

その後1875年の樺太千島交換条約において、我が国は千島列島(シュムシュ島からウルップ島までの18島。)をロシアから譲り受けるかわりに、ロシアに対して樺太全島に対する権原、権利を譲り渡しています。

ソ連は、第二次世界大戦末期の1945年8月9日、当時有効であった日ソ中立条約を無視して、我が国に対し宣戦布告し、我が国のポツダム宣言受諾後の8月18日には千島列島に侵攻し、その後28日から9月5日までの間に北方四島のすべてを占領し、一方的に自国に編入しました。

なお、1951年のサンフランシスコ平和条約で我が国が千島列島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄しましたが、そもそも北方四島は千島列島には含まれていません。

領土権

領土権とは、《権原の創設》に依って得られます
一度創設された権原は、明確に放棄、遺棄、移転、移譲が無い場合は効力を発揮し続けます
また、有効な権原が存在する場合、後発の権原は創設出来ません

SF条約起草国である米国は
『放棄する領土に北方四島を含めていない』
としています
従って、北方四島については放棄が為されていない為、千島樺太交換条約、日魯修好条約と言った法的権原が未だに効力を有しているとなります
ソ連はSF条約未署名国ですが、SF条約で放棄が確認されていない限り、上記法的権原が効力を有している為、日本の同意(割譲)無しに領有権は発生しません

 

国際法において、領域権原とは、国家による領域の支配を正当化する根拠のことである。先占、時効、併合、割譲、征服、添付がある。

樺太の領域権原
樺太は、江戸時代にはロシアと日本との国境線ははっきりとせず、明治政府はアイヌが居住していたという歴史的権原から樺太の領有をロシアに主張した。日露戦争後にポーツマス条約が締結されると、日本はこの条約を領域権原として領有した。
その後、サンフランシスコ講和条約により、日本は南樺太に対する一切の権利を放棄したため、現在日本は南樺太の領域権原を有していない。他方、現在南樺太を実効支配しているロシア(ソ連)はサンフランシスコ講和条約に調印していないため、日本政府は、南樺太の帰属は不確定であるとの立場をとっている。

領域権原とは、一定の地域について領域主権を有効に設定し、行使するための原因または根拠となる事実である。領土権原、領有権原、領土取得権原といわれることもある。
領域権原にもとづいて特定の地域が国家に帰属し、その地域に国家の主権的な権能が行使されることとなる。
国家が領域権原を取得する態様として、大きく二つに分けられる。
ひとつはいずれの国家にも帰属していない地域を新たに自国の領域に編入する原始取得であり、先占と添付がこれにあたる。
もうひとつは他国領域を自国領域に編入する承継取得であり、割譲、併合、征服、時効がこれにあたる。

 


北方領土問題をめぐる「固有の領土」論(上)
― 国会論議・政府資料及び国際法の観点からの整理 ―

 

1.はじめに
択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島の帰属をめぐる問題(北方領土問題)は、第二次
世界大戦後から今日に至るまで、我が国とロシア(ソ連)との間で最大の懸案であり続け
ている。2012 年 12 月の第二次安倍内閣発足後、計 24 回に及ぶ安倍内閣総理大臣とロシア
のプーチン大統領との間の首脳会談を含めた日露間での外交交渉が行われてきたものの、
この問題は今なお未解決のままとなっている。
四島について、これまで政府は「いまだかつて一度も外国の領土となったことがない我
が国固有の領土」としてきた1
。一方、日露関係(特に平和条約交渉)をめぐる近年の国会
論議では、安倍内閣総理大臣は、2017 年2月3日の衆議院予算委員会において「北方四島
は我が国固有の領土である2
」と答弁したのを最後に、北方領土については「固有の領土」
であると述べなくなっている。そして、2018 年 11 月の日露首脳会談で 1956 年宣言(日ソ
1
例えば、外務省が毎年発行している冊子『われらの北方領土』の最新版(2019 年版)においても、冒頭、そ
のように位置付けられている。
2
第 193 回国会衆議院予算委員会議録第6号 40、41 頁(平 29.2.3)
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共同宣言)を基礎として平和条約交渉を加速することを合意した後3
、同月 26 日の衆議院
予算委員会において、同内閣総理大臣は、「北方領土は、我が国が主権を有する島々4
」で
あると述べ、以降、同様の答弁を行っている5
。こうした答弁の変化については、ロシアへ
の配慮や交渉への影響を避ける意図があるとの指摘がなされている6

また、2020 年5月に刊行された最新版(2020 年版)の『外交青書』においても、上記の
答弁同様、「北方領土は我が国が主権を有する島々」とされている7
。この記述については、
2012 年版から 2018 年版までは「北方四島は我が国に帰属する」とされていた部分が 2019
年版ではロシアへの配慮から削除されたことに対して与党から大きく批判されたこと等か
ら、改めて設けられたとの指摘がなされている8

そこで、本稿では、第二次世界大戦後から最近までの国会論議や政府資料を中心に、北
方領土問題をめぐる「固有の領土」論がどのように展開されてきたのかを確認し、整理し
ていく。その上で、領土問題を考える際の最も基本的な根拠となる国際法の観点から、そ
うした「固有の領土」論と北方領土問題について整理していく。
2.北方領土問題をめぐる「固有の領土」論の展開
(1)第二次世界大戦後からサンフランシスコ平和条約の締結前後
国会論議の中では、1947 年 10 月の衆議院外務委員会での請願審査の際、紹介議員(坂
東幸太郎議員(北海道選出))の説明の中で「択捉島、国後島はこれが(中略)日本固有の
領土なることを厳然事実」という形で、「固有の領土」という語が初めて用いられている9

また、1951 年3月の衆議院本会議において可決された「歯舞諸島返還懇請に関する決議10」
では、「歯舞諸島は、地理的には花咲半島の延長であり、古来より根室の一部として日本人
が居住していたのである。又行政区域からも歯舞諸島は根室国であり、明らかに北海道本
土の一部をなしてわが国固有の領土」という形で、「固有の領土」が述べられている。
その後、1951 年9月に署名された「日本国との平和条約」(以下「サンフランシスコ平
和条約」という。)では、第2章に我が国領域についての規定が置かれ、四島との関連では、
「日本国は、千島列島並びに日本国が 1905 年9月5日のポーツマス条約の結果として主
3
外務省「日露首脳会談(平成 30 年 11 月 14 日)」<https://www.mofa.go.jp/mofaj/erp/rss/hoppo/page1_00
0697.html>(以下、最終アクセス日は全て 2020 年8月 31 日)
4
第 197 回国会衆議院予算委員会議録第4号 18 頁(平 30.11.26)
5
第 198 回国会衆議院本会議録第2号6、18、20 頁(平 31.1.30)及び第3号 12、19 頁(平 31.1.31)、同参
議院本会議録第3号4頁(平 31.1.31)及び第4号7、17 頁(平 31.2.1)、同参議院予算委員会会議録第1
号 11 頁(平 31.2.6)、同衆議院予算委員会議録第4号 39 頁(平 31.2.8)及び第 10 号 34 頁(平 31.2.20)、
同衆議院本会議録第 24 号 12 頁(令元.5.16)、第 200 回国会衆議院本会議録第3号8頁(令元.10.8)、同参
議院本会議録第2号5頁(令元.10.8)及び第3号 24 頁(令元.10.9)、第 201 回国会衆議院本会議録第2号
18 頁(令 2.1.22)、同参議院本会議録第2号9頁(令 2.1.23)及び第3号 23 頁(令 2.1.24)、同衆議院予算
委員会議録第3号4頁(令 2.1.28)及び第5号 42 頁(令 2.2.3)参照
6
『北海道新聞』(2019.2.8) 7
外務省『外交青書 2020』(令和2年版)112 頁 8
『朝日新聞』夕刊(2020.5.19)
9
第1回国会衆議院外務委員会議録第 12 号1頁(昭 22.10.6)
10 なお、決議中の「歯舞諸島」の範囲については、決議案提出者(冨永格五郎議員(北海道選出))による趣旨
弁明では、歯舞群島及び色丹島と説明されている(第 10 回国会衆議院本会議録第 29 号 13 頁(昭 26.3.31))。
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権を獲得した樺太の一部及びこれに接近する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権
を放棄する」(第2条(c))と規定された。
サンフランシスコ平和条約における「千島列島」の範囲については、サンフランシスコ
講和会議の受諾演説において、吉田全権が「千島列島および南樺太の地域は、日本が侵略
によって奪取したものだとのソ連全権の主張は承服いたしかねます。日本開国の当時、千
島南部の二島、択捉、国後両島が日本領であることについては、帝政ロシアもなんら異議
を挿さまなかったのであります。ただ得撫以北の北千島諸島と樺太南部は、当時日露両国
人の混住の地でありました」、「日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島および歯舞
諸島も終戦当時たまたま日本兵営が存在したためにソ連軍に占領されたままであります」
と述べ、色丹島及び歯舞群島については北海道の一部とした上で、千島列島を択捉島及び
国後島から成る千島南部(南千島)及びウルップ島以北の北千島諸島(北千島)として整
理し、特に南千島については開国当時からの日本領であることを強調したものの、最終的
にはサンフランシスコ平和条約中で具体的な定義は規定されなかった。
そのため、サンフランシスコ平和条約の国会審議においても「千島列島」の範囲は重要
な論点の一つとなり、この点について、西村外務省条約局長が「条約にある千島列島の範
囲については、北千島と南千島の両者を含むと考えております。しかし南千島と北千島は、
歴史的に見てまったくその立場が違うことは、すでに全権がサンフランシスコ会議の演説
において明らかにされた通りでございます。あの見解を日本政府としてもまた今後とも堅
持して行く方針である」と答弁している11。また、草葉外務政務次官も「国後及び択捉の問
題は国民的感情から申しますと、千島と違うという考え方を持って行くことがむしろ国民
的感情かも知れません。併し全体的な立場からすると、これはやっぱり千島としての解釈
の下にこの解釈を下すのが妥当」とした上で、歯舞群島及び色丹島の二島について「今後
は国際関係において努めて最大の努力をしながら、日本が、これは千島と違い日本の純然
たる領土であるということを了解してもらって、そうしてその了解が円満に解決する方法
をとる以外には方法はない」と答弁している12。したがって、この時点における政府見解と
しては、歴史的に見れば北千島と南千島の領有の根拠は異なるとしつつも、南千島はサン
フランシスコ平和条約における「千島列島」の中に含まれるものと解釈されていた。
こうした政府の見解に対しては、「固有の領土」に言及する形で「択捉、国後等は徳川初
代のころより日本人が領有し、いまだかつて他国人によって支配せられたことのない、(中
略)歴史的に見ても、民族的に見ても、日本の固有の領土であって、カイロ宣言にいわれ
る奪取したものでも、窃取したものでもなければ、暴力によって略取したもの」ではなく、
我が国が放棄すべき理由がないとの質疑がなされているほか13、「わが国の固有の領土であ
る千島、南樺太、沖縄及び小笠原、その他の日本領土の失地回復に全力を注ぐ」べきとの
意見も表明されている14。
11 第 12 回国会衆議院平和条約及び日米安全保障条約特別委員会議録第4号 19 頁(昭 26.10.19)
12 第 12 回国会参議院平和条約及び日米安全保障条約特別委員会会議録第 11 号 11~12 頁(昭 26.11.6)
13 第 12 回国会衆議院平和条約及び日米安全保障条約特別委員会議録第8号6頁(昭 26.10.24)
14 第 12 回国会衆議院平和条約及び日米安全保障条約特別委員会議録第9号8頁(昭 26.10.25)
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そうした国会審議を経て、サンフランシスコ平和条約は 1951 年 11 月 18 日に承認、批
准され、翌 1952 年4月に発効した。なお、その後の国会論議においても、樺太も含めた
「日本固有の領土をとるということは、カイロ宣言にはなかった15」、「わが国の民族的固有
領土でありますところの南樺太、千島、歯舞、色丹16」、「現にわが国固有の領土であります
南樺太、千島あるいは琉球、小笠原等の問題17」といった形で、「固有の領土」という語を
用いた言及がなされている。
もっとも、これまで見てきたとおり、終戦後からサンフランシスコ平和条約の締結前後
の時期において、「固有の領土」という語は、政府の答弁では用いられておらず、あくまで
個々の議員によって用いられているものであり、かつその地理的な範囲は一定したもので
はなく、その意味も必ずしも明確なものではなかった。
(2)日ソ国交回復に向けた交渉と日ソ共同宣言
ア ソ連との交渉開始前(1954 年 12 月~1955 年5月)
1954 年 12 月の第1次鳩山内閣発足後、鳩山内閣総理大臣は、「ソ連や中共との交通を
自由にし、貿易を盛んにいたしたい」と述べ18、その後、第 27 回衆議院議員総選挙を経
て第2次鳩山内閣が発足した 1955 年3月には、同年1月にソ連側からの非公式な国交
正常化の打診を受けたことに関連して、「両国の国際関係の正常化を目的として」日ソ間
の交渉に向けた調整を行っている旨述べた19。
なお、領土問題について、鳩山内閣総理大臣は、歯舞群島及び色丹島の所属は明瞭で
あり、ソ連との交渉において当然にそのことを主張しなければならないとする一方、「南
樺太、千島については、サンフランシスコの条約があるものでありまするから、ソ連は
その当事者となっておらない関係上20、これに対しても話し合いをする一つの問題には
なりますけれども、直ちに歯舞、色丹と同様なことで主張するわけには参らない」と述
べており21、そこではサンフランシスコ平和条約における「千島列島」の範囲に南千島が
含まれるとの従前の政府見解が反映されていると見られる。
その後、開催地等の調整を経て、1955 年5月、重光外務大臣による日ソ国交問題に関
する政府の方針等の説明が、衆参本会議においてそれぞれ行われ、その中で、日ソ間の
交渉は「戦争状態を終結して、平和を回復するための平和条約を締結して、もって国交
を樹立して外交使節を交換し得るようにすること」を目的とし、「北海道所属の島々、千
島、南樺太等のいわゆる領土問題」等の解決を目指すものとされた22。これに対して、歯
舞群島及び色丹島のみならず、「千島、樺太交換条約以前から長年わが国固有の領土で
15 第 15 回国会衆議院文部委員会議録第 10 号5頁(昭 28.2.19)
16 第 16 回国会衆議院本会議録第8号1頁(昭 28.6.17)
17 第 16 回国会衆議院予算委員会議録第 14 号9頁(昭 28.7.3)
18 第 21 回国会参議院本会議録第6号5頁(昭 30.1.23)
19 第 22 回国会衆議院本会議録第5号2頁(昭 30.3.24)
20 ソ連は、サンフランシスコ講和会議に参加したものの、最終的にサンフランシスコ平和条約の調印を拒否し
ている。
21 第 22 回国会参議院本会議録第5号3頁(昭 30.3.25)
22 第 22 回国会衆議院本会議録第 19 号 12~13 頁(昭 30.5.26)、同参議院本会議録第 16 号2頁(昭 30.5.27)
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あった」南千島、更には北千島及び南樺太についてソ連に主張していくべきとの質疑が
なされている23。
イ ソ連との交渉過程①(1955 年6月~1956 年6月)
1955 年6月から開始された平和条約交渉については、まず日本の松本全権委員とソ連
のマリク全権代表との間での交渉がロンドンで行われ、同年8月にはソ連側が歯舞群島
及び色丹島の二島返還を示唆したことに対して、日本側は①四島返還並びに②北千島及
び南樺太の所属を関係国の国際会議で決定するとの方針を取り、ソ連側の態度が硬化す
る中で交渉は一時中断することとなった24。
その後、1955 年 11 月の保守合同による自由民主党の結党に際して決定された緊急政
策の中でも、日ソ間の領土問題については「歯舞、色丹、南千島を無条件で返還せしめ
る」及び「その他領土の帰属は関係国間において国際的に決定する」との方針が定めら
れた25。そして、同年 12 月7日の衆議院予算委員会において、上記緊急政策における方
針を踏まえつつ、歯舞群島及び色丹島の二島返還で妥結する可能性等を問われた鳩山内
閣総理大臣は、「戦争中に生じた日本固有の領土の占領等は、当然に解決しなければなら
ない問題」と述べ26、政府答弁として初めて「固有の領土」という語を用いている。
もっとも、この答弁自体では「固有の領土」の地理的な範囲や意味は必ずしも明確な
ものではなかったが、同月 10 日の衆議院外務委員会において、重光外務大臣は「日本の
固有の領土、いまだかつて問題に従来なったことのない領土」の返還をソ連に主張して
いると述べ、より具体的な形で「固有の領土」の意味を述べている。それと同時に、同
大臣は、サンフランシスコ平和条約における「千島列島」の範囲について、条約上明確
な規定がなく、日本としては「南千島は従来千島として取り扱われておらぬ、これは北
海道として取り扱われておるのだ、日本とソ連との千島、樺太交換条約にもこれは規定
がないのだという歴史をたどってそういうふうに定義」しているとした上で、「南千島は
固有の領土だとして返還を主張するということにはアメリカもこれは異議はない」と述
べ27、「固有の領土」の地理的な範囲として南千島に言及しつつ、南千島が条約上の「千
島列島」に含まれるとする従前の政府見解を実質的に修正するような答弁を行っている。
この答弁以降、同大臣は、ソ連に対して「固有の領土」の返還を求めていく旨を繰り返
し答弁している。
その後、翌 1956 年1月から3月にかけて再び行われた両国全権代表間での交渉が行
き詰まる中、同年2月 11 日の衆議院外務委員会において、南千島の返還を求める上での
根拠を国民に対して明確にすべきとの指摘に対し、森下外務政務次官は、1855 年の日魯
通好条約及び 1875 年の樺太千島交換条約を踏まえて「南千島、すなわち国後、択捉の両
島は常に日本の領土であったもので、この点についてかつていささかも疑念を差しはさ
まれたことがなく、返還は当然」であるとした上で、「平和条約にいう千島列島の中にも
23 第 22 回国会衆議院本会議録第 19 号 14 頁(昭 30.5.26)(大橋武夫衆議院議員(自由党)の質疑) 24 松本俊一『日ソ国交回復秘録 北方領土交渉の真実』(朝日新聞出版社、2019 年)39~59 頁 25 前掲注 24、71 頁
26 第 23 回国会衆議院予算委員会議録第2号 12 頁(昭 30.12.7)
27 第 23 回国会衆議院外務委員会議録第7号8頁(昭 30.12.10)
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両島は含まれていないというのが政府の見解」であると述べ28、以降、この答弁が政府の
公式見解として位置付けられている。また、この答弁においても、「日本の固有の領土た
る南千島をソ連が自国領土であると主張することは、日本国民一人として納得し得ない」
と述べる形で、改めて南千島が「固有の領土」であると述べている29。
森下外務政務次官が示したサンフランシスコ平和条約における「千島列島」と南千島
に関する解釈については、外交の統一性という観点から解釈を変更することは問題では
ないかとの質疑がなされている。これに対して、重光外務大臣及び下田外務省条約局長
は、既にサンフランシスコ講和会議における吉田全権の受諾演説において南千島が固有
の領土であると説明している旨答弁しており30、南千島が「千島列島」に含まれていると
する 1951 年の政府答弁への直接の言及は行わず、政府としての立場の一貫性を強調し
ている。
ただし、この時期の政府答弁では、南千島の返還を求める根拠について、重光外務大
臣が繰り返し述べているように31、それらが北海道の一部であることからサンフランシ
スコ平和条約における「千島列島」には含まれないとする主張と、先述の森下外務政務
次官の答弁のように、択捉島及び国後島が日魯通好条約において日本の領土であること
をロシア自身が認めており、樺太千島交換条約においても対象とならなかったとする歴
史的な主張が併存している32。
ウ ソ連との交渉過程②(1956 年7月~10 月)
1956 年7月から8月にかけて行われた重光・シュピーロフ両国外相を全権代表とする
交渉では、交渉がこう着する中で、重光外務大臣が二島返還で妥結する方針に転換した
が、鳩山内閣総理大臣は臨時閣議を開いた上で、閣内の反対及び国内世論を理由に妥結
を認めず、スエズ問題に関する国際会議出席のためロンドンへ赴くよう訓令した33。
8月 19 日、ロンドンにおいて重光外務大臣がダレス米国国務長官を訪問し、交渉の経
過について説明した際、ダレス長官は、サンフランシスコ平和条約第 26 条34を根拠とし
て、日本がソ連に対してクリル諸島(千島列島)の完全な主権を認めた場合、米国に対
しても琉球(沖縄)の完全な主権が同様に認められることが推定されうるとし、第3条
28 第 24 回国会衆議院外務委員会議録第4号 10 頁(昭 31.2.11)
29 前掲注 28、10 頁
30 第 24 回国会衆議院外務委員会議録第 18 号 10~11 頁(昭 31.3.10)
31 重光外務大臣は、本文中で引用した答弁(1955 年 12 月 10 日衆議院外務委員会答弁(前掲注 27))のほか、
1956 年2月 15 日の参議院予算委員会においても、「南千島はこれは北海道直属、最も近接したる島であって、
北海道直属の島である。そうして歴史上いまだかって日本固有の北海道直属の島として認められなかったこ
とはないという歴史を持っている」と答弁している。(第 24 回国会参議院予算委員会会議録第5号6頁(昭
31.2.15)) 32 この点について、松本全権委員は、「千島列島」の範囲に国後島及び択捉島は含まれていないという主張の
ほか、「最も強い主張としましては、千島樺太交換条約の際に、国後、択捉はその目的になっていない。従っ
て日本固有の領土である、いまだかつて人手に渡ったことのない領土であるという主張、この二つの主張が
根幹になっている」と述べている。(第 24 回国会衆議院外務委員会議録第 31 号 14 頁(昭 31.4.11))
33 前掲注 24、118~124 頁
34 同条では「日本国が、いずれかの国との間で、この条約で定めるところよりも大きな利益をその国に与える
平和処理又は戦争請求権処理を行ったときは、これと同一の利益は、この条約の当事国にも及ぼさなければ
ならない」としている。
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によって琉球の問題は完全に解決しているとの重光外務大臣の反論に対しても、改めて
第 26 条の問題であるとした35(同長官は、前年8月の同大臣等との会談の際にも、第 26
条は非署名国がサンフランシスコ平和条約からいかなる利益も得ることがないよう保証
するために入れられたことを述べており36、8月 19 日の発言は更に踏み込んだ形での言
及となっている)。
そして、8月 24 日の会談時にも、同長官は、千島列島はソ連に引き渡されないとした
サンフランシスコ平和条約批准時の「了解」(understanding)を改めて述べている。さ
らに、同長官は、サンフランシスコ講和会議において、日本が歯舞群島及び色丹島は千
島列島の一部ではないとする立場を米国に取るよう求めた一方で、択捉島及び国後島に
ついてはそうした要求をしなかったことに言及しつつ、択捉島及び国後島が千島列島の
一部ではないとするのは困難であると述べている37。
その上で、9月7日付で出された日ソ交渉に対する米国覚書では、「米国は、歴史上の
事実を注意深く検討した結果、択捉、国後両島は(北海道の一部たる歯舞群島及び色丹
島とともに)常に固有の
...
日本領土の一部をなしてきたものであり、かつ、正当に日本国
の主権下にあるものとして認められなければならないものであるとの結論に到達した
(傍点筆者)」とされ、同覚書は改めて米国が日本の立場を支持したものとされている38。
もっとも、同覚書では、歯舞群島及び色丹島が北海道の一部と位置付けられた一方で、
択捉島及び国後島についてはそうした形での位置付けはなされておらず、この点はそれ
らを千島列島に含めたダレス長官の上述の言及と軌を一にしていると考えられる。また、
「固有の領土」論との関係では、四島が「固有の日本領土の一部」として言及されてい
る箇所は、原文では“part of Japan proper(日本本土)”となっており39、外務省がこ
の部分を意訳したのではないかとの指摘もなされている40。
35 いわゆる「ダレスの恫喝」と言われる、二島返還での妥結に対する米国からの圧力として、当時の報道や各
種著作等(前掲注 23 含む)を通じて広く知られているものであるが、公的な一次資料では、「米国外交文書」
において言及されている。(Foreign Relations of the United States (FRUS), 1955-1957, JAPAN, VOLUME
XXII, PART1, “89. Memorandum of a Conversation Between Secretary of State Dulles and Foreign M
inister Shigemitsu, Ambassador Aldrich’s Residence, London, August 19, 1956, 6 p.m.”<https://h
istory.state.gov/historicaldocuments/frus1955-57v23p1/d89>(米国国務省広報局歴史部ウェブサイト)) 36 FRUS, 1955–1957, Japan, Volume XXIII, Part 1, “44. Memorandum of a Conversation, Department of
State, Washington, August 29, 1955”<https://history.state.gov/historicaldocuments/frus1955-
57v23p1/d44>
37 FRUS, 1955–1957, Japan, Volume XXIII, Part 1, “92. Memorandum of a Conversation, Ambassador Al
drich’s Residence, London, August 24, 1956, 2:30 p.m.”<https://history.state.gov/historicaldoc
uments/frus1955-57v23p1/d92>
38 外務省『われらの北方領土』(2019 年版)11 頁 39 FRUS, 1955-1957, JAPAN, VOLUME XXII, PART1, “101. Editorial Note”<https://history.state.gov/h
istoricaldocuments/frus1955-57v23p1/d101>
40 原貴美恵カナダ・ウォータールー大学教授による指摘(『読売新聞』(2019.2.27))。実際、その他の「米国外
交文書」における“Japan proper”の用例としては、①台湾、朝鮮と並列する形(Japan proper, Formosa,
and Korea)若しくは②小笠原諸島及び琉球諸島と並列する形(in Japan proper, in the Bonins, and in
the Ryukyus)で用いられているものもあり、それらは「日本本土」と訳するのが適当と考えられる。(①に
ついては、FRUS, 1945, The Far East, China, Volume VII, “Memorandum by the Secretaries of War (P
atterson) and Navy (Forrestal) to the Secretary of State(Washington, 26 Nov 1945)”<https://hist
ory.state.gov/historicaldocuments/frus1945v07/d497>、②については、FRUS, 1955–1957, Japan, Volum
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165
1956 年8月末までに重光・シュピーロフ両国外相間での交渉が中断された後、日本側
は領土問題を棚上げし、まずは国交の回復、シベリアに抑留されている日本人の引き揚
げ、国連加盟等の問題を解決する方針に転じ、9月 29 日に松本全権委員とグロムイコ第
一外務次官との間で交換された「松本・グロムイコ書簡」において、領土問題を含む平
和条約締結に関する交渉は両国間の正常な外交関係の再開後に継続することに同意する
旨が確認され41、平和条約を結ぶための交渉は、国交を回復するための交渉に切り替えら
れた。
翌 10 月には鳩山内閣総理大臣らがモスクワ入りし、ブルガーニン首相やフルシチョ
フ第一書記らとの間で交渉が行われた結果、10 月 19 日に「日本国とソヴィエト社会主
義共和国連邦との共同宣言」(日ソ共同宣言)が署名された。同宣言では、領土問題につ
いて、両国に正常な外交関係が回復された後、平和条約の締結に関する交渉を継続する
ことに同意するとした上で、ソ連は「日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮し
て、歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、
日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き
渡されるものとする」(第9項)と規定された。
エ 日ソ共同宣言の国会審議(1956 年 11 月~12 月)
1956 年 11 月から 12 月にかけて行われた日ソ共同宣言の国会審議において、鳩山内閣
総理大臣は、「今回の日ソ交渉において、わが方は、固有の領土である歯舞、色丹並びに
択捉、国後の返還を要求した」と述べ、「固有の領土」である四島の返還要求を強調する
形で日ソ交渉の内容について説明している42。
この「固有の領土」の地理的な範囲に関して、重光外務大臣は、「固有の領土」である
国後島及び択捉島の返還を主張した一方、「日本の固有の領土でない以外のものである
北千島並びに南樺太」については、カイロ宣言やポツダム宣言を踏まえて、「ソ連側に譲
渡してもいいという考え方」で交渉が進んでいたと述べ43、北千島及び南樺太は「固有の
領土」に含まれない旨答弁している。その上で、「日本の固有の領土として譲歩しないと
主張したのは、日ソ交渉においては国後、択捉の問題であった」と述べ44、「固有の領土」
の地理的な焦点は国後島及び択捉島の二島に当てられている。
このように「固有の領土」論を前面に出して、日ソ交渉において四島の返還を主張し
たとする政府の説明に対して、交渉を始める段階では、歯舞群島及び色丹島の二島を最
低ラインとしており、択捉島及び国後島の二島については「固有の領土」として強く打
ち出していなかったのではないかとの質疑がなされている。これに対して、重光外務大
臣は、領土問題については、戦前の領土を回復してもらうとの方針で交渉に臨んだとし
e XXIII, Part 1, “174. Memorandum From the Joint Chiefs of Staff to the Secretary of Defense (W
ilson) (Washington, June 13, 1957)”<https://history.state.gov/historicaldocuments/frus1955-57v2
3p1/d174>をそれぞれ参照。) 41 前掲注 24、129~137 頁
42 第 25 回国会参議院本会議録第5号3頁(昭 31.11.17)
43 第 25 回国会参議院外務委員会会議録第5号 11 頁(昭 31.11.28)
44 第 25 回国会衆議院予算委員会議録第1号4頁(昭 31.11.30)
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166
た上で、「交渉の進行するにつれて、日本の主張する主張の理由が、固有の領土というと
ころに非常に重きを置くようになりまして、歯舞、色丹はむろんのこと、択捉、国後も
十分にその趣旨で論議を尽した」と述べており、日ソ交渉の過程において日本側が「固
有の領土」論に重点を置くようになったことを率直に認めている45。
更に、この答弁を受け、交渉を始める段階では択捉島及び国後島の二島の返還は強く
要求されておらず、ソ連側の歯舞群島及び色丹島の二島返還の示唆に対して、日本側が
四島返還を求めた 1955 年8月の時点から、択捉島及び国後島の二島が「固有の領土」と
して位置付けられたのではないかとの質疑がなされている。これに対して、松本全権委
員は、重光外務大臣の答弁同様、1955 年6月の交渉開始から8月 30 日までの間は、南
樺太、千島全体の返還を要求していたとした上で、ソ連側の譲歩を受けて、「日本がさし
あたって返還を要求するものは歯舞、色丹だ、それに加えて国後、択捉ということにい
たしました。その他の部分につきましては、国際会議等、日本も入りました国際的の協
議でこれを決定するという案を8月 30 日に私が出した」と述べている46。
もっとも、これら質疑の前提である歯舞群島及び色丹島の二島を最低ラインとしてい
たとする点に関して、重光外務大臣や松本全権委員の答弁では、ソ連との交渉開始前に、
鳩山内閣総理大臣が、サンフランシスコ平和条約との関係から南千島を含めた千島及び
南樺太については所属が明瞭な歯舞群島及び色丹島と同様には主張できないとしていた
ことには触れておらず、ソ連との交渉過程で歯舞群島及び色丹島のみならず、択捉島及
び国後島の二島返還も要求していく中で「固有の領土」論が用いられるようになったの
ではないかとの問いに、必ずしも明確な回答は示されていないように思われる47。
なお、南千島の返還を求める根拠については、前述の通り、ソ連との交渉過程では、
それらが北海道の一部であるとする主張と、外国の領土になったことがないとする歴史
的な主張が、国会論議における政府答弁の中では併存していた。しかし、日ソ共同宣言
の国会審議が行われる中では、前者は個々の議員においてなされたものの、政府答弁で
は述べられなくなっている。この点については、後に、1958 年2月 22 日の衆議院外務
委員会において、松本外務政務次官が、千島列島の定義及び範囲に関して「政府のとっ
ております態度は、歯舞並びに色丹は北海道の一部分である、国後、択捉両島は昔から
日本の固有の領土であるので、従って千島列島の中には、サンフランシスコ講和条約の
あの精神にのっとって締結されました文章には該当しないという考えで参りました」と
述べており48、政府見解においては、その根拠がもっぱら歴史的な主張、すなわち「固有
の領土」であることに置かれるようになったことが改めて示されている。
こうした国会審議を経て、日ソ共同宣言は 1956 年 12 月5日に承認され、同月 12 日
に批准、発効した。
45 第 25 回国会参議院外務委員会会議録第9号4頁(昭 31.12.3)
46 前掲注 45、4~5頁
47 この点について、交渉過程の分析から、「固有の領土」論と四島返還論はセットであり、択捉島及び国後島
が地理的に千島列島に含まれることから交渉の足場が弱く、それをカバーするのが「固有の領土」の観念で
あったとの指摘がなされている。(『読売新聞』(2019.2.27)) 48 第 28 回国会衆議院外務委員会議録第6号7~8頁(昭 33.2.22)
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(3)国交回復後の日ソ交渉
ア 新日米安保条約をめぐるソ連の立場の変化
1957 年9月に刊行された『わが外交の近況』(『外交青書』の旧称)第1号(1957 年版)
では、ソ連との間の領土問題に関して、「南千島がわが国固有の領土である」と記述され
ている。「日本の固有の領土である国後、択捉、歯舞、色丹」とした米国の見解も引用さ
れる形で言及されているものの、「固有の領土」論の地理的な範囲の焦点は、引き続き択
捉島及び国後島の二島に当てられている49。
しかし、1960 年1月の「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」
(新日米安保条約)の署名後、ソ連は、日ソ共同宣言に規定された歯舞群島及び色丹島
の返還条件として、平和条約の締結に加えて、新たに日本領土からの全外国軍隊の撤退
を条件の一つとすることを一方的に表明した。これに対して、日本は、日ソ共同宣言が
両国の合意に基づく国際約束であり一方的に変更し得ないとするとともに、宣言が調印
された際、既に無期限に有効な現行安全保障条約(旧日米安保条約)が存在し、宣言は
そのことを前提として締結されたものであると反論した。その後、米ソの対立が深まる
中で、ソ連は、1961 年9月 25 日付のフルシチョフ首相発池田総理宛書簡において「領
土問題は、一連の国際協定によって久しき以前に解決済みである」と主張し50、その立場
は二島の引渡しを規定した日ソ共同宣言から、領土問題は存在しないとするものへと変
化した。
こうした情勢は、『わが外交の近況』の記述ぶりにも反映されている。初期の『わが外
交の近況』では、主にソ連側に対する口上書や覚書の引用という形で日ソ間の領土問題
が記述されているが、前述した 1957 年版以降、「固有の領土」については、1959 年版に
おいて「日本の固有の領土である島嶼」の不当な占有の中止を求める旨、1961 年版では
「(歯舞群島及び色丹島以外の)その他固有の領土」を主張する旨がそれぞれ記述されて
いるのみであった。しかし、1962 年版では、「古来日本人のみが居住し、しかもかつて
他国に領有されたことのないクナシリ、エトロフ両島」、「これ等諸島は幕府時代の 19 世
紀中頃よりすでに日本固有の領土として国際的にも認められていたもの」であり、「日本
政府がサン・フランシスコ条約によってその権利を放棄した『千島列島』は、この歴史
的にも明らかな概念であるウルップ以北の 18 島を指すものであって、元来『千島列島』
に含まれぬ固有の日本領土であるクナシリ、ニトロフ両島(原文ママ)については、日
本政府は何等の権利をも放棄したものではない」とする池田総理発フルシチョフ首相宛
書簡(1961 年 11 月 15 日付)を引用する形で、「固有の領土」の具体的な意味や地理的
範囲への言及がなされている。その後、1964 年版においても、「国後、択捉両島は歴史
上未だ曾って帝政ロシアないしソ連またはいかなる他の第三国の領土であったこともな
く、日本国民はすべてこれらの日本固有の領土の返還」を望む旨が記述されている。
49 以下、『わが外交の近況』及び『外交青書』の記述については、いずれも外務省ウェブサイトに掲載された
電子版を参照。<https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/index.html>
50 『わが外交の近況』(1962 年版)
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168
イ 「北方領土」問題の定式化
これまで見てきたとおり、日ソ間の領土問題は、当初、南千島の帰属に最も焦点が当
てられてきた。そうした中、国会論議では、国交回復に向けた日ソ交渉が行われていた
1956 年3月 10 日の衆議院外務委員会において、下田外務省条約局長が「講和会議では、
日本政府の希望するような北方領土の定義は下されませんでした」と述べ51、初めて「北
方領土」という語を用いている。日ソ共同宣言調印後の審議においても、同局長は「北
方領土」と度々述べているものの52、当時のほかの政府答弁では用いられておらず、また
個々の議員で用いた例も限られたものであった。
しかし、前述の通り、1960 年1月以降、ソ連の態度が硬化していく中で、同年2月の
藤山外務大臣による外交演説において、改めて「北方領土」という語が政府答弁として
用いられている53。また、その後の質疑においても、岸内閣総理大臣が「北方領土」と述
べ54、以降、政府答弁において「北方領土」という語が定着していく一方で、南千島とい
う語は用いられなくなっていっている。
その後、1964 年6月 17 日付外務事務次官通達「国後・択捉両島の名称について」(欧
東合第 1831 号)55では、「北方領土問題に関連して、国後・択捉両島を指すものとして
『南千島』という用語が使用されている場合が散見されるところ、このようなことは下
記の理由から一切避けることが適当であり、また、地図等における表示においても、国
後・択捉両島(止むを得ない場合を除き漢字表示とする)が千島列島とは明確に区別さ
れて表示されていることが望ましいので、関係機関に対してしかるべく御指導方御配慮
を煩わしたい」としている。そして、その理由として「わが国は、サンフランシスコ平
和条約によって『Kurile Islands』(日本語訳「千島列島」)を放棄したが、わが国固有
の領土である国後・択捉両島は、同条約で放棄した『Kurile Islands』の範囲の中には
含まれていないとの立場をとっている。上記立場からして、国後・択捉両島を「南千島」
と呼ぶことは、これら両島があたかもサンフランシスコ条約によりわが国の放棄した
『Kurile Islands』の一部であるかのごとき印象を与え、無用の誤解を招くおそれがあ
り、北方領土問題に関するわが方の立場上好しくない」と説明し、改めて日本の択捉島
及び国後島に対する領有権の主張に沿った整理が図られている。
この通達後に刊行された『わが外交の近況』1965 年版では、「国連における日本政府
の北方領土問題に関する主張表明」を説明する中で、初めて日ソ間の領土問題を「北方
領土問題」として記述している。以後の『わが外交の近況』及び『外交青書』において
51 第 24 回国会衆議院外務委員会議録第 18 号 11 頁(昭 31.3.10)
52 第 25 回国会衆議院日ソ共同宣言等特別委員会議録第6号3頁(昭 31.11.24)、同参議院予算委員会会議録
第3号9頁、10 頁(昭 31.12.6)
53 第 34 回国会衆議院本会議録第3号6頁(昭 35.2.1)、同参議院本会議録第3号9頁(昭 35.2.2) 54 第 34 回国会参議院本会議録第5号 11 頁(昭 35.2.4)
55 本外務事務次官通達の内容については、浦野起央『日本の国境:分析・資料・文献』(三和書籍、2013 年)
174 頁及び第 90 回国会参議院内閣委員会会議録第1号6頁(昭 54.12.6)の山崎昇参議院議員による本通達
を引用した発言部分をそれぞれ参照。(なお、本通達の原本の写し又はその内容について、本稿著者が外務省
欧州局ロシア課に提供を依頼したところ、2020 年8月末までの時点で、外交史料館も含めてその所在を確認
できなかったとの回答があった。)
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169
も、「北方領土問題」の語が用いられるようになり、四島をめぐる領土問題は「北方領土」
問題として定式化されている。
ウ 「北方四島」の定式化と「固有の領土」論の変化
『わが外交の近況』1965 年版では、「日本の固有の領土である国後、択捉」と記述さ
れ、従前と同様、「固有の領土」の地理的な焦点はそれら二島に当てられていたが、1968
年版では、「国後・択捉両島は歯舞群島・色丹島とともに日本固有の領土」と記述されて
いる。その後も、1969 年版から 1973 年版にかけて、1971 年版を除いて同様の記述がな
されており、歯舞群島及び色丹島にも「固有の領土」の焦点が当てられるようになって
いる。更に、1972 年版及び 1973 年版では、「わが国固有の領土である歯舞群島、色丹島、
国後島、択捉島」との旨の記述もなされており、択捉島及び国後島の二島に焦点が当て
られていた「固有の領土」論は、四島全体へ言及する方向へと変化している。
こうした変化の背景としては、この時期の日ソ間の外交交渉における特に大きな動き
である 1973 年 10 月の田中内閣総理大臣のソ連公式訪問が挙げられる。この訪問中、4
回にわたって行われた首脳会談の結果として出された「日ソ共同声明」(1973 年 10 月 10
日署名)第1項では、「双方は、第2次大戦の時からの未解決の諸問題を解決して平和条
約を締結することが、両国間の真の善隣友好関係の確立に寄与することを認識し、平和
条約の内容に関する諸問題について交渉した。双方は 1974 年の適当な時期に両国間で
平和条約の締結交渉を継続することに合意した」と規定された。とりわけ、未解決の諸
問題については、最終会談時に田中内閣総理大臣がブレジネフ書記長に対して四島の問
題が含まれることを確認したと外務省は説明している56。
その後、国会論議においても、『わが外交の近況』の記述と同様の変化が生じている。
国会論議では、1970 年4月 27 日の参議院沖縄及び北方問題に関する特別委員会におい
て、山野総理府特別地域連絡局長が「北方四島」という語を初めて用いているが57、当時
のほかの政府答弁では用いられてはいなかった58。しかし、田中内閣総理大臣の訪ソ後、
1973 年 11 月 27 日の衆議院沖縄及び北方問題に関する特別委員会において、その報告と
して、大和田外務省欧亜局長が「首脳会談におきましては、田中総理からは、歯舞群島、
色丹島、国後島及び択捉島の北方四島はわが国固有の領土であり、これら諸島の返還は
国民の悲願であるという点を強くかつ正確に主張し、北方領土問題を解決して平和条約
を締結することが日ソ間の真の善隣関係の確立に不可欠である、この立場からソ連の決
断を求めた」と述べている59。また、田中内閣総理大臣自身も、翌 1974 年1月 23 日の衆
議院本会議において、訪ソ時に「北方四島の返還を強く要求した」と述べ60、以降、政府
答弁において「北方四島」との語が用いられるようになっている。
56 外務省『われらの北方領土』(2019 年版)13 頁、『わが外交の近況』(1974 年版) 57 第 63 回国会参議院沖縄及び北方問題に関する特別委員会会議録第8号 18 頁(昭 45.4.27)
58 その他の例としては、同年5月の参議院沖縄及び北方問題に関する特別委員会において、同局長が同様に「北
方四島」と述べているのみとなっている。(第 63 回国会参議院沖縄及び北方問題に関する特別委員会会議録
第9号7頁(昭 45.5.11)) 59 第 71 回国会衆議院沖縄及び北方問題に関する特別委員会議録第 14 号2頁(昭 48.11.27)
60 第 72 回国会衆議院本会議録第9号7頁(昭 49.1.23)
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170
こうした政府答弁は『わが外交の近況』1975 年版においても反映されており、そこで
は「北方四島たる歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島」及び「わが国固有の領土である
北方四島」との記述がなされている。その後、1976 年版から 1980 年版にかけて、いず
れも「北方四島」との記述がなされている。また、「固有の領土」論との関係では、1978
年版において「わが国固有の領土である北方四島」、1979 年版において「北方四島がわ
が国固有の領土であることは歴史的、法的にも明白」と記述され、歯舞群島、色丹島、
国後島及び択捉島が「北方四島」として定式化されていくとともに、「固有の領土」論と
「北方四島」が結び付けられるようになっている。
エ 「四島一括返還」方針の明確化
1973 年の日ソ共同声明後、日ソ間の領土問題に関する交渉が進展しない状況が続く中
で、1975 年 10 月 20 日の参議院本会議において、三木内閣総理大臣は、「四島はわが国
固有の領土であり、一貫した立場で一括返還を実現をすべきである」との見解を示して
いる61。翌 1976 年1月 28 日の参議院本会議においても、「(四島)一括返還を得てから
平和条約を結ぶというのが政府の基本的立場」であると述べ62、1960 年以降の四島一括
返還の方針を明示的に示すようになっている。
この点は、先述した「北方四島」の定式化と併せて、『わが外交の近況』にも反映され
ており、1979 年版、1980 年版、1987 年版及び『外交青書』1988 年版において、「北方四
島一括返還」を求める政府の基本的立場が記述されている。
他方、1980 年代の『わが外交の近況』及び『外交青書』では、「固有の領土」への言及
はなされておらず、1986 年版では「北方四島は我が国の領土である」とのみ記述されて
いるものの、国会論議においては、「歴史的にも、また国際法理の上からもわが国固有の
領土である歯舞、色丹、国後、択捉の北方四島の一括返還を実現して日ソ平和条約の締
結を図る」(1980 年 10 月 24 日の参議院安全保障及び沖縄・北方問題に関する特別委員
会における中山総理府総務長官答弁63)との政府の方針が繰り返し示されており64、「固
有の領土」論は「北方四島」・「北方領土」及び「四島一括返還」と結び付けられている。
こう着していた日ソ間の交渉については、1985 年に「新思考外交」を提唱したゴルバ
チョフ書記長が就任した後に動き出すことになり、1991 年4月のゴルバチョフ訪日の際
に海部内閣総理大臣との間で計6回にわたる首脳会談が行われた結果、「日ソ共同声明」
が署名され、領土交渉の文脈で初めて択捉島及び国後島の名前が両国の署名文書で明示
61 第 76 回国会参議院本会議録第8号 10 頁(昭 50.10.20)
62 第 77 回国会参議院本会議録第4号5頁(昭 51.1.28)
63 第 93 回国会参議院安全保障及び沖縄・北方問題に関する特別委員会会議録第2号4頁(昭 55.10.24)
64 具体的には、中山総理府総務長官答弁(第 94 回国会衆議院沖縄及び北方問題に関する特別委員会議録第2
号2頁(昭 56.2.24))、田邉総理府総務長官答弁(第 96 回国会参議院沖縄及び北方問題に関する特別委員会
会議録第2号2頁(昭 57.2.17))、後藤田総務庁長官答弁(第 102 回国会参議院沖縄及び北方問題に関する
特別委員会会議録第4号2頁(昭 60.4.4))、安倍外務大臣答弁(第 104 回国会衆議院予算委員会議録第9号
7頁(昭 61.2.13))、長谷川外務省欧亜局長答弁(第 109 回国会衆議院沖縄及び北方問題に関する特別委員
会議録第3号3頁(昭 62.9.2))、竹下内閣総理大臣答弁(第 113回国会衆議院本会議録第5号8頁(昭 63.8.2))、
中山外務大臣答弁(第 116 回国会衆議院沖縄及び北方問題に関する特別委員会議録第2号1頁(平元.10.12))、
都甲外務省欧亜局長答弁(第 118 回国会参議院予算委員会会議録第 13 号5頁(平 2.5.25))及び高島外務省
欧亜局長答弁(第 120 回国会衆議院安全保障特別委員会議録第6号9頁(平 3.4.26))等を参照。
立法と調査 2020. 10 No. 428
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されたものの、二島の引渡しを規定した日ソ共同宣言の有効性を確認するには至らな
かった。しかし、同年後半にはソ連国内の情勢が流動化し、12 月にはソ連が崩壊するに
至り、領土問題についての交渉は、ソ連の後継国家であるロシア連邦との間で行われる
こととなった。(以下、次稿に続く)
(ふじう しょうじ)


国後・択捉も千島列島ではなかった⁈ これで四島戻ってくるか?
4月19日の産経デジタルが「日露和親条約以前から北方4島日本領 『大英帝国』作成地図で明示」との見出しで、四島一括返還の重要証拠となり得る特大スクープ記事を報じた。【大英帝国が北方四島を日本領と認定】19世紀前半に英国王付きの地理学者が北方

4月19日の産経デジタルが「日露和親条約以前から北方4島日本領 『大英帝国』作成地図で明示」との見出しで、四島一括返還の重要証拠となり得る特大スクープ記事を報じた。

英国外務省が英国国立公文書館で保管していた二種類の「日本、クリル(千島)列島」と題する地図が、どちらも国後・択捉・歯舞・色丹の四島が日本領として同じ色に塗られ、千島列島と峻別されているというのだ。

二枚の地図は1811年にアーロン・アロースミスが作製した「日本、クリル(千島)列島」と、1840年にジェームズ・ワイルドが作製した「日本、クリル(同)列島」。記事によれば製作者二人は当時ともに国王付きの学者として活躍した信頼のおける人物という。

筆者は北方領土問題のポイントが、ヤルタ会談やポツダム宣言を踏まえて1951年9月に結ばれたサンフランシスコ平和条約(以下、サ条約)に次のように書かれていることにある、と2月18日の投稿「台湾と千島、その法的地位」で書いた。(太字は筆者)

第二章 領域 第二条

(a) 日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。

(b) 日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。

(c) 日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する

つまり、我が国が返還を主張する北方四島、すなわち国後・択捉・歯舞・色丹の何れもが千島列島でない日本固有の領土であることの証拠が示せれば、それら四島をサ条約で放棄したことにならないという訳だ。が、原貴美恵『サンフランシスコ平和条約の盲点』(渓水社)には以下のように書かれていた。

・・占領期間中に作成された一連の英文調書に北方領土に関するものは七冊あり、そのうち三冊が北方の領土を扱っていた。それらは1946年11月作成の「千島列島、歯舞、色丹」、1949年1月作成の「樺太」、同年4月作成の「南千島、歯舞、色丹」であるが、日本では全て非公開であり、その内容については長い間想像の域を出なかった。1994年、作成から約半世紀を経て、このうち最初の「千島列島、歯舞、色丹」がオーストラリア公文書館で発見された。この調書は、北方領土問題を理解する上で貴重な資料であるが、その内容は現在の「四島返還論」に不都合なものを含んでおり、政府が非公開にせざるを得なかったのは理解できる。

中でも特筆すべきは、この問題の争点の一つ「千島の範囲」であり、国後・択捉が千島列島の一部として扱われている点である。千島の範囲に関しては、国際法、言語学、歴史、地理学及び政治学的見地等々、これまで様々な議論がなされてきた。しかし、外務省自ら国後・択捉は千島列島の一部であるという認識をしていたことを証明する資料が発見された以上、この問題に関する議論の余地は基本的に消滅したといえよう。

同調書では歯舞・色丹の二島群が千島列島の一部でない点が強調されている。「歯舞群島及び色丹島」と題された第二章では、ロシアや米国の航行要覧等を含んだ様々な国の史料及び百科事典を参照し、この二島群は千島列島とは異なり、北海道の一部である点を強調している。・・

この様な経緯を踏まえれば、今回、英国の公文書たる大英帝国時代の地図が歯舞・色丹のみならず国後・択捉まで日本固有の領土として色分けしていたことが、どれほど今後の日露交渉の援軍になるか計り知れない。

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