正しい北方領土の歴史認識

https://www.pref.toyama.jp/documents/8576/01490589.pdf

 

平成 31 年「北方領土の日」記念大会 記念講演
「正しい北方領土の歴史認識」
講師 鈴木 宗男 氏(新党大地代表)
日時 平成 31 年 2 月 2 日(土)14:30~15:30
皆さん、こんにちは。私が本物の鈴木宗男です。約 50 分お話しして、10 分間質疑
応答と言われていますので、せっかくの機会でありますから皆さんと一緒に、時系列
に沿って北方領土問題の今日までの経緯をお互いに確認をしたいと思っています。
皆さんもご案内のとおり 1855 年、日露通好条約がいわゆる北方領土、当時の帝政
ロシアとの約束であります。ニコライ一世がプチャーチン提督を日本に派遣して、下
田で結んだ条約であります。そこで、国後、択捉、歯舞、色丹というところで線を引
いています。
同時に皆さん、その二十年後、樺太・千島交換条約があったこともお分かりですね。
ここで日本は樺太の一部、いわゆる南樺太と千島列島を交換しています。樺太はロシ
アのものだ、その代わり千島列島は日本のものだとなっています。その後、日露戦争
があって、また樺太は日本のものに一部したわけであります。そして、戦争状態に入
ります。
私は地元が根室、さらには羅臼、標津、別海、元島民の一番多い地域から出たもの
でありますから、誰よりも元島民に接してきたという自負もあるし、どの政治家より
も平和条約締結に向けて、北方領土問題解決に向けて取り組んできたという思いも
あります。今日は富山でありますので、率直にお話ししたいと思っています。
併せて、この富山と北海道はとても縁があります。私の師匠は中川一郎という政治
家ですが、中川先生のお父さんは福光の出身であります。ですから、今でも私は福光
なり、氷見なり、よくお邪魔させてもらっております。私の後援会も富山にもありま
すし、富山には私の秘書を務めてくれた人が二人もおりまして、今もしょっちゅう私
のところに来ていますから、ここは近くて近い関係です。また今日、黒部の市長さん
もお見えでありますが、黒部と根室は姉妹都市という関係もあります。特に黒部の議
長の辻さんは私の同級生で、富山とはひとかたならぬ人間関係があるということも
ご理解いただきたいと思います。
1.四島一括返還について
日本は戦争に負けた結果としてのこの北方領土問題だという位置付けは、皆さん
方もお分かりかと思います。よく四島一括返還という言葉が出ますが、この四島一括
返還という言葉はいつ出たかお分かりでしょうか。これは外務省にも責任があるし、
私は国民に対する説明が十分になされていなくて、これがまた領土問題の混乱を引
き起こしている面もあると思っているのです。
1943 年、カイロ宣言があります。これは、アメリカはルーズベルト大統領、イギ
リスはチャーチル首相、そして中華民国は蒋介石総統です。ここで、日本の領土は本
州、四国、九州、北海道、そしてその周辺の諸島から成るというしばりがあります。
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それを受けて、今度はヤルタ会談があります。ヤルタは 1945 年の 2 月です。日本
が戦争に負ける七カ月前です。ここでは、ルーズベルトアメリカ大統領がスターリン
に、5 月にはヨーロッパ戦線が終わる。その二カ月か三カ月後に日本を攻めろ。そし
て、取ったものはおまえのものだという約束をしたのがヤルタであります。ただ、当
時密約ですから、日本にアメリカ国務省から通告されるのは一年後なのです。日本は
ポツダム宣言を受諾しますが、そのポツダム宣言のときは分からないのであります。
ポツダム宣言も 1945 年 7 月に出来上がっています。昭和 20 年です。そして、よく
日本では 8 月 15 日が終戦だと思っていますが、国際法的には間違いであります。ポ
ツダム宣言受諾は 8 月 14 日です。それを受けて、あの陛下のお言葉でありました。
しかし、国際法的には 9 月 2 日、ミズーリ号で重光外務大臣が無条件降伏に署名を
して初めて、日本は戦いませんという国際的な決定なわけであります。
この点、15 日に戦争が終わったにもかかわらず攻めてきたという人がいますけれ
ども、それは勉強していない、正しい歴史を知らない人の話であるということです。
ミズーリ号での無条件降伏が署名された日は 9 月 2 日であるということ、ここを皆
さんしっかりご認識いただきたいと思っています。
そして、アメリカの占領下に日本があって、日本が国際社会に復帰したのがサンフ
ランシスコ平和条約であります。1951 年です。戦争が終わって六年後のことです。
そこで皆さん、あのときの日本国の全権代表は吉田茂総理でありました。このとき、
吉田総理は南樺太と国後島と択捉島は放棄しています。この事実もしっかり認識し
ていない政治家、マスコミの人が私は多すぎると思っています。
サンフランシスコ平和条約に書いてある一文は、「日本国は、千島列島並びに日本
国が 1905 年 9 月 5 日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及び
これに近接する諸島に対するすべての権利、権限及び請求権を放棄する」。これがサ
ンフランシスコ平和条約であります。
そして、このこと(国後島と択捉島を放棄していること)は吉田茂総理も国会で認
めています。当時は西村熊雄という条約局長であります。日本の法律の番人は裁判所
でありますけれども、国際法の最高責任者は条約局長であります。当時、西村熊雄条
約局長は、1952 年の 2 月の国会の委員会で、放棄しております、さようでございま
すという答弁をして、それは今も議事録として残っています。こういう事実を正確に
踏まえなければ、外交交渉にはならないのです。
そして 1956 年、日ソ共同宣言が発せられました。その一年前、正確には二年前で
すが、1954 年 11 月に森下國雄という外務政務次官が、国後も択捉も放棄はしていま
せんというすり替えの議論をしています。それは当時、アメリカとソ連の東西対立、
冷戦構造が動き始めてきたからです。アメリカは、日本とソ連が仲良くなって、日本
国が共産国家になるのを恐れたのであります。だから、アメリカも応援するから、お
まえら四島で頑張れというねじまきが始まったのです。
しかし、時の鳩山一郎総理、河野一郎農水大臣は、日露関係の正常化を図らなけれ
ばいけない。何とか平和条約を結びたい。二島ででも平和条約という機運がありまし
た。しかし、吉田茂一派が反対して政局に持ち込んで、二島での平和条約はなくなっ
たのであります。
平和条約というのは四つの大きな意味があります。一つは、戦争状態をなくすとい
うことです。一つは、捕虜等がいればその解決であります。一つは、賠償等の問題が
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あればその解決であります。この三つだけは 1956 年 11 月 19 日の日ソ共同宣言でク
リアされています。このとき、唯一解決できなかったのが国境線確定でありました。
これが今も引き継いでいるということ、同時にここでも皆さん大事なことは、(日ソ
共同宣言の)第 9 条に歯舞群島、色丹島においては、日本の国益をかんがみて、日本
の利益をかんがみて、引き渡しをする。これは引き渡しと返還は大事な表現ですか
ら、よく返還されると言われますが、返還というのは元々持っていたものを返すのが
返還です。この点、引き渡しというのは、われわれのものだけれどもソ連の善意で引
き渡す。これが引き渡しであります。
ですから、ヤルタの会談では明確に、樺太はソ連に返還させる。千島列島はソ連に
引き渡すという表現になっているのです。だから樺太は元々ソ連のものだから、日本
が戦争で取ったものだから返させる。千島列島は引き渡すということは、日本のもの
だったけれども、戦果としてソ連に引き渡すとなっているわけです。返還と引き渡し
の意味合いは大きく違うということも明確にしておかなければ、私は交渉にはなら
ないということを明記しておきたいと思っています。
1956 年の有名な「ダレスの恫喝」という言葉は、皆さんはご存じでしょうか。ア
メリカ国務長官ダレスは、わが重光大臣に対してロンドンで、もし二島で平和条約を
結ぶならば沖縄は返さないぞと、これが「ダレスの恫喝」であります。アメリカがさ
まざまな意味で、冷戦構造の中で日本にプレッシャーをかけてきました。同時に、日
本も国力が弱かったという当時の状況でなかったかと考えるのであります。
先ほど言った 1951 年、日本はサンフランシスコ平和条約で国際社会に復帰しまし
たが、国連には入れませんでした。それはソ連が拒否権を使ったからです。ところが、
日ソ共同宣言が発せられた二カ月後の 12 月、ソ連は日本の国連加盟を認めるのであ
ります。拒否権を使わなかったのです。国連加盟に同意してくれたのです。この事実
もどうぞ皆さん、しっかり認識いただきたいと思っています。
そして、だんだん冷戦構造が厳しくなった。そして来たのが 1960 年、安保条約が
改定されました。アメリカ軍が日本の政権下において駐留できることになりました。
この改定で、今度はソ連が強く出てくるのです。外国軍が駐留する国とは領土問題は
ない。外国軍が撤退しない限り平和条約の締結はない。ソ連が強く出てきたのです。
そこで皆さん、初めて四島一括返還です。その上に即時という言葉を付けたのです。
戦後から四島一括返還と言ってきたかというと、言ってきていないのです。この 1960
年からの造語であるということです。歴史の事実だけは、ぜひともしっかり認識いた
だきたいと思います。
1956 年、平和条約が結ばれれば歯舞と色丹が返ってくるぞというとき、あの根室
市では提灯行列でした。平和条約が結ばれれば歯舞と色丹が返ってくる。国後の「く」
の字も択捉の「え」の字も出なかったのであります。それはサンフランシスコ平和条
約からの流れ、さらにさかのぼればカイロ宣言、ヤルタ協定の枠の中で今の国際社会
の諸手続きが来ているものでありますから、この点は残念ながら、地元根室でも冷静
に厳粛に受け止めていたということです。今でも新聞等の記録が残っておりますけ
れども、歯舞と色丹にしか触れていないのであります。ですから、ソ連時代は平和条
約の交渉とか領土問題解決の交渉はなかったと言ってもいいのが、安保条約改定以
来の流れであります。
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2.ソ連崩壊後の北方領土問題
そこで大きな変化が起きました。それは 1991 年であります。ソ連が崩壊しました。
そして自由と民主のロシア共和国連邦が誕生しました。エリツィン大統領は、戦後の
国際社会の枠組みは戦勝国、敗戦国のやる枠になっているけれども、私はその垣根を
取り払う。北方地域は未解決の地域である。法と正義に基づいて話し合いで解決をす
ると言ってきたのであります。
そこで日本国は四島一括返還の旗を降ろして、四島の帰属の問題を解決して平和
条約、四島の帰属が認められれば島の返還時期は柔軟にします、いつ返ってきてもい
いですよというふうに表現を改めているのです。今でも日本国政府の方針は四島一
括だなんて国会でぬけぬけと言っている野党の政治家、自民党の一部政治家がいま
すけれども、あまりにもそれはおそまつだと言いたいのです。日本国政府は、ソ連時
代は四島一括、それも 1960 年以降であります。1960 年から 1991 年までのソ連時代
は四島一括と言ったけれども、海部内閣のとき、当時の中山外務大臣でありますけれ
ども、四島の帰属の問題を解決して平和条約、これが今の流れであるということを、
ぜひとも富山の皆さん方、お集まりの皆さん方には事実として受け止めていただき
たいと思っています。
今の私の言っている話も、外務省が出している資料集であります「われらの北方領
土」に、外務省はここにちゃんと書いているのです。「交渉に当たり、我が国は、ロ
シア側が九一年後半以降示してきた新たなアプローチを踏まえ」、それはエリツィン
大統領がさっき言った話です。「北方四島に居住するロシア国民の人権、利益及び希
望は返還後も十分に尊重していくこと、また、四島の日本への帰属が確認されれば、
実際の返還の時期、態様及び条件については柔軟に対応する考えであることを明示
しつつ、柔軟かつ理性的な対応をとりました」。これが外務省の、政府の正式な方針
であるということをお分かりおきいただきたいと思います。
そして、海部政権から宮澤政権になりました。宮澤政権のときにエリツィン大統領
が来るという話があったけれども、ドタキャンされました。そして、1993 年 11 月、
細川内閣のときにエリツィン大統領が来られました。ここで発せられたのが東京宣
言というものであります。よく東京宣言は交渉に出てきます。皆さん、この東京宣言
では四つの島の名前が挙げられています。話し合いで解決することになっています。
そこで歯舞、国後、択捉、色丹の名前が挙げられています。
四島の帰属というのは五通りのシナリオがあるということを、ぜひとも頭に入れ
ておいてください。四島の帰属の解決、日本に四つとも来ると思ったら大間違いであ
ります。五通りあります。日本が 4 のときはロシアは 0 です。日本が 3 のときはロ
シア 1 です。日本が 2 のときはロシアも 2 です。日本が 1 のときはロシアは 3 にな
ります。そしてロシアが 4 のときは日本が 0。五通りのシナリオがあるということで
す。四島の帰属の問題を解決して、平和条約というのは。
この東京宣言、当時自民党は野党でしたから、連立政権の弱みが出たと思っている
のです。なぜかというと、1956 年宣言では、平和条約締結の後には、歯舞群島と色
丹島は日本に引き渡しをするとなっているわけですから、ここは担保されているわ
けですから触れなくて良かったと思うのです。しかしあえて四島の名前を入れたの
は、妥協の産物ではあるけれども、私は当時の連立政権の外交力のなさだと思ってい
ます。
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しかしこの東京宣言は、その後の例えば橋本総理のときも小渕総理のときも森総
理のときも出てくる一つの言葉であるし、約束であることは事実であります。まずは
四島の帰属の問題の解決、これが四つとも日本に来ると思ったら大間違いであると
いうこと、五通りのシナリオがあるということが正しい解釈だということをお分か
りいただきたいと思います。
3.エリツィン大統領、プーチン大統領との交渉
橋本政権、小渕政権、森政権のとき、私はまさに日露交渉の真ん中にいました。当
時の私の考えは、二島を何とか 56 年宣言に基づいて早く引き渡してもらう。残り二
島を何とかしたい。いわゆる「2 プラス 2」の考えでした。橋本総理も小渕総理も森
総理まで私はうまくいったと思っています。橋本総理は 1997 年 11 月、あのクラス
ノヤツルクで 2000 年までに平和条約の締結に向けて全力を尽くすという一札を取っ
たわけですから。あと三年ある、三年あれば何とかなるという思いで一生懸命取り組
みました。
しかし、1998 年 4 月、川奈にエリツィンさんが来られて、橋本総理は択捉島とウ
ルップ島の間に国境線を引こうという提案をしました。これは、まだ外務省も公にし
ていませんけれども、簡単に言えばそういう提案です。エリツィンさんは答えてもい
いと言ったけれども、当時、側にいるヤストルジェムスキーという大統領補佐官が持
ち帰りましょうと言って持ち帰られた。これが大きな失敗でした。あのとき、橋本さ
んの側には丹波という後にモスクワ大使になる男が外務審議官でいるわけですから、
これがさえぎるべきでした。ヤストルジェムスキー、口をはさむな。ここは首脳同士
の話だ。大統領が答えたいというのなら、答えさせろと言えばいいものを黙ってしま
いました。そこで魚釣りをして終わってしまいました。
そしてその三カ月後、参議院選挙で橋本さんは負けてしまって退陣であります。小
渕さんが総理になりました。小渕さんはまた橋本さん以上に熱心にロシアをやりた
い、やるという決意を持っていました。私は大臣から内閣官房副長官に横すべりし
て、11 月、小渕さんと一緒にモスクワに行ったものであります。エリツィンさんと
会談したけれども、今度はエリツィンさんの健康状態が良くなくて駄目になってし
まいました。もう役人の言うとおりの答えで、前進がありませんでした。
今度は 1999 年の 12 月 31 日、エリツィンさんが、自分は大統領をやめる、大統領
代行はプーチンだということで、あの大晦日の電撃的なニュースがモスクワから流
れてきました。そして 2000 年 3 月 26 日、大統領選挙が行われて、プーチンさんが
大統領になりました。そして、小渕さんが翌 27 日、夕方の 5 時でした。総理官邸か
らプーチン大統領に当選のお祝いの電話をされました。そして、私が最も信頼する政
治家、鈴木宗男を派遣するから、首脳会談の日程を付けてくれという電話をしたら、
プーチンさんは分かりましたと外交ルートですぐ返事をします。4 月 4 日午後 3 時、
クレムリンで鈴木特使を受けましょうということで返事は来ました。ところが 4 月
1 日、小渕さんは倒れてしまう。私は特使でなくなると思ったら、次期総理の森さん
が、予定どおり行ってくれ、そして日程を付けてくれと言われて、私は予定どおり行
ったものであります。プーチンさんは大統領に当選してまだ九日目でしたから、恐ら
く外国の政治家でプーチンさんに会った第一号は私ではないかと思って、この点は
めぐり合わせに感謝をするものであります。
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よくプーチンさんは KGB 出身だ、情報機関上がりだから冷たいと言いますが、私
は四回しか会ったことがありませんが、私の四回の印象は人情家というのが私の思
いであります。一回目に会ったのが 1999 年の 8 月、プーチンさんがまだ首相で、ニ
ュージーランドでの APEC においてです。このとき日本は、キルギスで四人の金属事
業団の技師がテロリストに誘拐されていました。情報はロシアが持っている、何とか
その情報をもらって無事助けだそうと思って構えておりました。首脳会談で小渕さ
んから提案する予定だったのです。ところが、これはプーチンさんの方から先に言っ
てくれました。われわれは全て情報を持っている、全て日本に協力すると。おかげさ
まで無事四人とも無傷で解放させることができたのであります。
そして二回目が、この私の 2000 年 4 月 4 日 3 時からのクレムリンの会談でした。
このとき、向こうは大統領です。私は大臣をやって官房副長官をやった。そして当時
は総務局長でした。相撲の格で言えば、向こうは横綱、私はまだ幕内の上位ぐらいの
ものです。三役になったかどうかぐらいの格ですから、向こうはいすにふんぞり返っ
ていました。聞いているか、聞いていないか分からないな、困ったなと思ったのです。
ちょうどこの部屋の三分の二ぐらいの大きな部屋での会談でした。エカテリーナの
間です。
10 分ぐらい経ってから私ははっと気がついた。なんとその部屋は一年半前、小渕・
エリツィン会談をやった部屋だったのです。そこに私が気がついたのです。そこで私
はプーチン大統領に言ったのです。大統領、一年半前あなたの席にエリツィンさんが
いた。私の席に小渕総理がいた。当時、私は官房副長官でその横にいた。今、その光
景を思い出している。大統領ご案内のとおり、小渕総理は今生死をさまよっている。
それでもあえて私は小渕総理の特使として来た。それは次期総理の森総理は、小渕ラ
インを引き継ぐ。日本の総理は総理になるとアメリカに行くのが一つの定番になっ
ているけれども、次期森総理は一番最初に訪問するのはロシアと決めている。日本に
は四月末から五月にかけて大型連休がある。ぜひともそこで受け入れてほしい。大統
領、今ここに私は小渕恵三がいるという思いであなたと接しているのだと言って涙
をぽとっと落したのです。そうしたらふんぞり返っていたプーチンさんが前かがみ
になって、手を前に組んでその話を聞いてくれて、手帳を出して、4 月 29 日、サン
クトペテルブルクで世界アイスホッケー選手権試合がある。そこで、次期森総理をご
招待しましょうということになったのです。そして、森・プーチン関係が出来上がっ
ていくのです。
今でも、安倍総理がプーチンさんに会ったら、プーチン大統領は、ヨシは元気かと
必ず聞かれるそうであります。森さんのことを「ヨシ」と言うのです。私は、今でも
森先生とはしょっちゅう連絡を取り合いながら、この日露の関係と他の政治の問題
についても協議はしていますけれども、プーチンさんはやはり森さんと一番いいの
です。
そこで皆さんしっかりとご理解いただきたいのは、森・プーチン会談の最後が 2001
年 3 月 26 日にイルクーツクで行われました。このときが私は領土問題が一番解決に
近づいたときだと思っています。森さんは言ったのです。歯舞、色丹を具体的に日本
に返す協議をしよう。国後、択捉はどちらに帰属するか、日本かロシアか、その協議
をしようと、いわゆる車の両輪論、並行協議をしようと言ったのです。そうしたらプ
ーチン大統領は承ったと言って引き取ってくれました。
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そして、その会談の二週間後、東郷さんというロシア担当の局長をモスクワに派遣
して、ロシュコフという外務次官に会ってあのラインでいけるかという事務的な確
認をさせたら、これでいけるとなったのです。
4.小泉政権後の空白の時代
ところが、日本ではその一カ月後、森総理が退陣されて小泉総理が誕生しました。
小泉総理は外交をやっていませんから、四島一括返還というソ連時代のフレーズを
プーチンさんとの最初の会談で使ってしまった。プーチンさんは驚きます。おいお
い、日本は政権交代したけれども、同じ自民党政権なのに、人が代われば俺とヨシと
の約束も反故になるのかとなります。
田中真紀子外務大臣にいたっては、日露関係の原点は、1972 年の田中・ブレジネ
フ会談だとまで言いました。時計の針を三十年戻してしまった。おいおい、日本はど
うなっているのだとなります。そして翌年、私は権力闘争に巻き込まれてパージされ
ます。佐藤優さんという、今日本一の人気作家ですけれども、ロシアに一番人脈を持
って、情報を持っていた男もパージされる。東郷さんは東郷さんで首になってしま
う。おいおい、日本はどうなっているんだ。これがロシアの受け止めであります。
そして、田中さんも、鈴木宗男がアフガン復興 NGO を排除したなどという嘘の話
を、しかも辻本清美さんに裏で、あんたこういうことを聞きなさい、私はこう答える
からという出来レースをやってしまって、当時官房副長官だった安倍晋三、今の総理
が外務省に全部当たったら、田中外務大臣の嘘話だということが分かって、田中さん
は更迭されます。
その後、川口順子さんが外務大臣になります。この川口さんはロシアに行って、ラ
ブロフ外務大臣との会談で森総理のイルクーツク提案を取り下げたのです。よくプ
ーチン大統領が日本が断ってきたのではないかという話をします。それはこのこと
であります。これも外務省は皆さん方に説明していない。皆さん方もこういった事実
は分からないのではないですか。私は森さんが提案した、歯舞と色丹は日本に引き渡
す協議をしよう。国後、択捉はどちらに付くか、その協議をしよう。これが一番現実
的だったと思うのです。まさに「2 プラス 2」なのです。
そして川口さんがそれを取り下げてから、空白の日露関係十年であります。小泉さ
んはアメリカ一辺倒ですからロシアに関心を持たない。そして、自民党政権もその後
三年続くけれども、そして民主党政権が三年ですから、全くこの十年間は動かなかっ
たのです。
5.プーチン大統領の「引き分け」「始め!」
六年前、正確には年が明けましたから七年前、プーチン大統領が二回目の大統領に
戻られます。2012 年 3 月です。そのとき皆さん方も覚えているのではないのでしょ
うか。「引き分け」「始め!」という言葉です。
3 月 4 日が大統領選の投票日です。その四日前に世界の主要なメディアの代表を集
めてプーチンさんは懇談を持ちます。日本から行ったのは朝日新聞の主筆、一番偉い
若宮啓文さんという人です。この若宮啓文さんのお父さんが鳩山一郎総理の秘書官
だったのです。ですから、ロシアはちゃんと人脈を見ながら呼んでいるのです。アメ
リカは「ウォールストリート・ジャーナル」、イギリスは「ロンドン・タイムズ」、あ
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るいは(フランスの)「ル・モンド」とか。そこでプーチンさんは言うのです。外交
は引き分けが一番いいのだ、負けなかったと自国民に説明できる、引き分けがいいと
こう言うと、若宮さんが言うんです。引き分けだと二島対二島で日本は納得できない
とこう言ったら、プーチン大統領は、ちょっと待て、俺はまだ大統領になっていない
のだ。選挙は四日後だ。じゃあこうしよう。俺が大統領になったらロシア外務省を位
置につかせる。日本は日本で日本外務省を位置につかせろ。そこで「始め!」と号令
をかけようじゃないかと言うのです。当時は民主党野田政権ですから、全く対露外交
なんてありませんでしたから、そこはそのまま行ってしまうのです。
6. 「二島返還プラスアルファ」の考え
ところが、2012 年 12 月、安倍晋三現総理が二度目の総理に返り咲く。そこからも
のは動くのです。年が明けて、六年前の二月ちょうどです。森善朗先生が安倍総理の
特使としてプーチン大統領に会うのです。そのとき聞くのです。ウラジミル、「引き
分け」「始め!」の意味を教えてくれ。日本も協力できることは協力したいと言った
ら、プーチン大統領は白い紙に柔道場を書いて、今、日本とロシアは場外すれすれの
所で組み合っている。すぐ場外に出る危険性があって危ない。真ん中に持ってきてし
っかり組もうじゃないかと言ったそうです。
何を意味するかというと、二つは返す義務がある。残り二つは英知を結集しようと
いう意味だと森総理は私に説明してくれました。併せて皆さん、2000 年です。プー
チン大統領は 2000 年に大統領になりました。2000 年の 9 月に東京に来られました。
このとき、ソ連の最高指導者、ロシアの最高指導者を通じて初めて、1956 年宣言は
日本の国会も、ソ連の最高会議、今のロシアの国会に当たるものも批准している法的
義務、これは約束なのだと記者会見で明言されたのであります。このとき森総理は総
理ですから、当然首脳会談をしました。
おかげさまで私も、プーチン大統領の鈴木に会いたいという指名を受けて、会談の
機会を賜りました。このときも私は 56 年宣言(の有効性)を文書にしてもらいたい
と思ったのですが、プーチン大統領は、まだ俺は大統領になって半年だ、他にも領土
問題があるやの声もある。精査しなければいけない。同時に俺は二期やる。年々力は
持つ。今回は記者会見で言う。次の首脳会談では文書にすると言ってくれました。そ
れはイルクーツク声明ではちゃんと文書になっているのであります。
十八年間、プーチンさんはこの 56 年宣言の有効性については一切ぶれていないと
いうことも、ぜひとも皆さん方にはお分かりおきいただきたいのです。このイルクー
ツク声明は領土問題解決に一番近づいたのですけれども、残念ながら駄目になって、
空白の十年があって、安倍総理になって今、正常なまともな日露関係の、しかも平和
条約締結に向けて大きな前進をしているということを、私はここは 1000%の安倍総
理に対する信頼を持って皆さん方に訴えるものであります。
そして、安倍総理も総理になってからは、イルクーツク声明を元に平和条約の締結
に向けていろいろ考えました。しかし、時がだんだんたってロシアも力を持ってきま
した。逆に、日本はエリツィン大統領の時代に比べたら国力は今落ちています。韓国
がいろいろ言ってくるのも、力を持ってきたからです。これが残念ながら国際関係で
あります。これは冷静に受け止めなくてはいけないと思っています。
そこで安倍総理もいろいろ考えました。考えた上での結果として、昨年 11 月 14
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日、シンガポールで 56 年宣言を基礎にして、平和条約の締結に向けて交渉を加速す
ることで合意しました。これがシンガポールでの安倍総理の記者会見であります。
私は、現実的な対応をしなければ領土問題は解決しないと思っています。日本が
100 点でロシアが 0 点という外交はありません。逆に、ロシアが 100 点で日本は 0 点
もないのであります。折り合いを付けるしかない。私の考えは「二島返還プラスアル
ファ」であります。歯舞、色丹は返してもらって日本の主権にする。国後、択捉はロ
シアの主権を認めて国境線を引く。その代わり、国後、択捉においては、日本人が行
って仕事をする場合は特例を作ってもらう。税制の面でも仕事をやる件についても
特別な優遇措置をしてもらう。共同経済活動という言葉を皆さんもよく聞いている
と思いますけれども、ここは日本の技術を活かすことが大事でありますから、そのこ
とによってまたロシアの日本に対する見方も変わってくるわけでありますから、私
は現実的に対応するしかないと思っています。
私は誰よりも元島民に会っている者として、富山の皆さん方に訴えたい。元島民の
一番の願いは、いつでも島に自由に行きたいというものです。元島民は平均年齢 83
歳です。鈴木先生、島が返ってきても住もうとは思いません。自由に行ければいいの
です。自由に行きたいのです。これが元島民の一番の願いです。二つ目は、一島でも
二島でも返してもらうものは返してもらいたい。これが最大公約数であります。三つ
目は、あの海を使わせてほしい。国後島という島は羅臼、標津町、別海町、根室市か
ら朝に夕に見える島です。先祖の墓を置いて、生まれ故郷を捨てざるを得なかった元
島民の皆さん方の願いはどんな願いかということを考えるとき、私は申し訳ないと
いう思いでいっぱいであります。今生きる者として、私は元島民のこの三つの最大公
約数に応えるのが責任ある政治ではないかと思っています。
同時に四島といった段階で、プーチンさんは交渉をやめてしまう。ロシアは返す必
要はないわけですから。先ほど私が言ったように国際的な諸手続きで手にした領土
でありますから。皆さん、戦争で失った領土は戦争して取り返してきたのが歴史では
ないでしょうか。一滴の血も流さずに話し合いで解決する。この安倍総理の懸命な努
力はノーベル平和賞ものだと思っているのです。
この事実をもっと厳粛に考えてください。ロシア人の大方は一島も返すなという
声が多いのです。それをプーチン大統領は、1956 年宣言は国会が批准している約束
なのだ、法的義務なのだと言ってくれている。このプーチンさんの勇気と覚悟をもっ
とわれわれは重く受け止めなければ、私は平和条約の締結も領土問題の解決もない。
私はそんなふうに思っているのであります。
いろいろなお考えがあるかと思いますけれども、私も四島で解決するならば四島
で行きます。しかし、戦後 74 年目に入りました。一ミリも動いていないことは事実
なのです。私は安倍総理のシンガポールでの決断しか、平和条約の締結と領土問題の
解決はない。これだけは、私は長年ロシアと向き合ってきて、ロシアと向き合ったが
ゆえに逮捕までされてきた政治家、鈴木宗男でありますから、安倍総理には全幅の信
頼を持っておりますし、安倍総理のやり方しか締結はないと明言しておきたいと思
います。
どうぞ皆さん、この点、歴史の事実だけは正確に把握していただきたい。83 歳、
人生限られている元島民の皆さん方の三分の二は亡くなってしまいました。私の後
援会長をやった志発島出身の濱谷政次郎さんというおじいちゃんは 94 歳で亡くなっ
– 10 –
たのですが、私はいつも言われました。鈴木さん、俺の代で駄目なら息子の代で、息
子の代で駄目なら孫の代で、孫の代で駄目ならひ孫の代でと言って亡くなっていき
ました。もうひ孫の代に入ってきました。私は終止符を打つときに来ていると思って
います。
7.安倍晋太郎の遺志を継ぐ安倍総理
私は安倍総理を見ていて一つ感じることがあるのは、お父上、安倍晋太郎先生の姿
であります。あれは 1991 年の 4 月でした。ゴルバチョフ大統領がソ連邦の最高首脳
として日本に来たとき、議長主催の歓迎式典がありました。そのとき安倍晋太郎先生
は順天堂大学に入院されておりました。そして、余命いくばくもという状況でありま
した。海部総理、櫻内議長は、歓迎式典に安倍晋太郎先生は来られないと思っていま
したけれども、来られました。車いすでした。そして、そのとき付いておられたのが
今の安倍晋三、当時の秘書であります。総理であります。安倍晋太郎先生は、痩せ衰
えて風が吹けば倒れるのではないかというぐらい細っておられました。それでもゴ
ルバチョフさんが来たら正対で握手をされました。
当時、私は外務政務次官でゴルバチョフさんと四日間付き合っていたものですか
ら、私は先導役をしながら、安倍晋太郎先生の政治家としての魂というか、決意とい
うか、まさに命懸けで出てこられた本物の政治家の姿を見て涙が出ました。奥さんも
お医者さんも、出たら命にかかわると言って止められたそうであります。しかし、安
倍晋太郎先生は、俺は行く、俺が日本国外務大臣として初めて会った大統領がゴルバ
チョフだという強い思いがあったのであります。次の日の新聞の、お腹にはサラシを
巻いて、肩にはパットを入れて、少しでも見てくれを良くしようとして出掛けたので
すという奥さまや関係者の話を読んで、また涙したものであります。
その一カ月後、晋太郎先生は亡くなられました。今年の 1 月 6 日、安倍総理はお
父上のお墓参りをしながら、記者団の何をお参りしましたかという質問に、父に日露
平和条約を自分の手で仕上げると誓ってまいりましたと答えています。私はその言
葉に嘘はないと思っています。
どうぞ皆さん、この富山の地から、安倍総理頑張れ、安倍総理に任せると応援して
いただきたい。今のままで行ったらゼロなのです。私はゼロよりも 50 点いただいた
方が国益だと思います。国会で野田なにがしという元総理は、たかだか 7%の面積だ
という話をしています。北方四島は土地よりも海の面積が重要であります。あの場所
は世界の三大漁場の一つであります。尖閣はあの下にガスや油があるから、台湾も手
を挙げれば、中国も手を挙げるのであります。しかし、日本は実効支配しているから、
誰も手も足も出ません。あの北方四島には地下資源はないのであります。資源は海の
資源であります。
私は色丹島が戻ってくるだけでも 200 海里の経済水域が増えるということの意味
を、総理大臣経験者たる者が全く頭に入っていないだけでも、一年足らずで、そして
惨敗をして今立ち上がれなくなっている政党の姿ではないかと思っているのです。
どうぞ皆さん、事実は小説よりも奇なりであります。歴史の事実を正確に認識され
て、安倍総理を応援していただきたい。安倍総理とプーチン大統領で解決できなけれ
ば、私はもう領土問題も平和条約もないと思っています。今が最後のチャンスである
ということ、この 16 日には河野・ラブロフ会談もあります。私は 6 月 28、29 日、プ
– 11 –
ーチン大統領が大阪 G20 に来られますから、その前に成り行き次第によっては安倍
総理にもう一回ロシアに行ってもらって最後の詰めをしてもらいたいという思いを
持っているところであります。
時間が来ましたのでこれで終わらせていただきますけれども、質疑応答を 10 分取
っていますので、何かあれば分かる範囲でお答えしたいと思っています。ありがとう
ございました。
<質疑応答>
(Q1)鈴木先生、本当によく分かりました。ありがとうございました。先生のいわゆ
る二島返還というのは、私は実は五師団の帯広に六年ほどいたのですが、中隊長をや
っていたり、防衛班長などをやっていたりしました。先生が中川一郎先生の秘書をや
っておられて、よく帯広の駐屯地に来られたことをよく覚えています。
あのころから二島ということを言っておられましたけれども、私たちは防衛とい
う立場でいうと、ちょうど私が防衛班長などをやっていた時期は、北方四島に師団級
の部隊が入ると。それまでは警備の大隊ぐらいしかいなかったというところで、とこ
ろが国後とか択捉にだんだんと兵力が増強されてくるというときに、歯舞、色丹の小
さい二島だけでいいのかなという気持ちがずっとありました。二対二といっても国
後ぐらいを含んでの二対二じゃないと、これは防衛上も無理かなと思っているわけ
です。
先生のお話でいくと、本当に今は小さい 7%の二島だけで、あとの大きな二島は完
全に放棄してしまうという決心をここでしなければならないということです。いま
だに、国後、択捉の軍事的な価値からいって、日本はあの付近をどういうふうにすれ
ばいいかと思っているわけです。
今までの私の認識では、小さな島 7%と、あとの大きなやつは話し合いをさらに続
けようということで落ち着いてもらいたいと思っていたのですが、そういうところ
は無理なことですか、そのあたりをお伺いしたいと思います。
(鈴木)私は率直にもう歯舞、色丹は日本の主権、国後、択捉はロシアの主権という
ことで国境線を決めることが一番お互い受け入れるぎりぎりにあると思います。そ
して、先ほど言った「プラスアルファ」です。
よく共同経済活動とか経済協力というと皆さん方の税金を使うことを想像します
が、ロシアは先進国ですから、皆さん方の税金は使えないのです。ODA 対象国ではな
いのです。これもよく覚えておいてください。経済協力とか共同経済活動でお金だけ
を取られると各新聞にありますが、ロシアはお金を持っていますから、油・ガスを持
っていますから、これからだんだん値段が上がってきますから、ロシアの優位性は高
まるのです。中国とも向こう三十年間で 40 兆円の契約をしているのです。韓国も今、
サハ共和国からのパイプラインでロシアの油、ガスで生きているのです。これは今イ
スラム国の問題があるから油の値段を抑えていますけれども、イスラム国の問題が
解決すればぐっとエネルギー資源が上がって、ロシアの優位性はもっともっと高ま
るのです。
そして、北方四島によく安保条約の関係で言われますけれども、アメリカ軍は北海
道にいませんから、あの島にアメリカ軍が駐留することはないのです。私は、ここは
– 12 –
日本側から、歯舞、色丹にも自衛隊は置かない、非軍事化だ。だからロシアも軍隊を
置くな、国境警備隊でいいのではないかという非軍事化の話し合いをするのが一番
いいと思っています。併せて国後、択捉にミサイルがあると言いますけれども、あれ
はみんな北海道に向いていません、海を向いています。対艦ミサイルなのです。です
からここも脅威ではない。NATO のヨーロッパのミサイルはみんなロシアに向いてい
るから、プーチンは神経質になっているわけです。
私は、もっともっと冷静に考えれば、戦略的な位置付けはもう北方四島にはない、
まさに平和条約が結ばれれば平和の海になると思います。同時に今、日本とロシアは
自衛隊も統幕議長が交流するぐらいの関係ですし、「2+2」といって外務大臣・防衛
大臣会合を定期的にやっている仲であります。この「2+2」をやっているのは、ロシ
アとアメリカとオーストラリアしかないのです。そのぐらいソ連ではなくて、ロシア
だということを覚えておいてください。
日本人が今でも不幸なのは、ソ連=ロシアと思っている人が多いのです。シベリア
抑留などがあったものですから、やはり非常にロシアに対してイコールで見る人が
いるけれども、これはもうはるか昔の話として、今、自由と民主で日本と同じ政治体
制、同じ経済体制だということも頭に入れて向き合えばいいし、ロシア人は正直で
す。明るいし、隠し事がないです。この点も昔から日本人は「露助」などという差別
用語を使っていましたが、今でもそれを古い人が言ったりするけれども、私はいけな
いと、ここは非常に明るくてオープンな国だという理解が正しいのではないかと思
っています。

(Q2)大変力の入った講演をいただきましてありがとうございます。私は今日来てび
っくりしたのは、私はずっとロシアが日ソ不可侵条約を破って、日本が終戦になって
からソ連が入ってきたということで、私はロシアは嘘をついて入ってきたと思って
いたのですが、今日の講演でミズーリ号で署名したのが終戦ということで、国際的に
はそういう評価になっていることを聞きまして本当にびっくりしました。鈴木先生
の思いは、産経新聞などでたまに読んでいるのですが、今日お聞きして、国際的な評
価がそういうことであるということを初めて聞きました。どうもありがとうござい
ました。安倍総理頑張れでいきます。
(鈴木)よろしくお願いします。私は先ほど四島一括返還はソ連時代の表現、フレー
ズだと言いました。1991 年、四島の帰属の問題を解決して平和条約だと方針転換し
たときも、外務省は恐らく皆さん方に、あなた方は四島一括で運動しなさい。交渉は
われわれだから、あなた方が強く言うことによってわれわれは交渉しやすくなるの
ですという説明をしているはずなのです。それは東郷和彦が根室に来て言ったとい
うのです。当時、東郷はソ連課長なのです。いわゆる最後のソ連課長なのです。だか
ら元島民は私に去年初めてこう言いました。先生、東郷さんと近しいでしょう。近し
いからわれわれは言わなかったけれども、実は東郷ソ連課長が、四島一括の主張をあ
なた方はしなさい。交渉はわれわれだから、あなた方が強く出ることによってわれわ
れは交渉しやすくなるという説明だったのですよと。私は先月、東郷本人を叱りつけ
たものです。おまえたちがそういうダブルスタンダード、二枚舌を使っているから、
逆に国民が惑わされていたのだと。

どうぞ、皆さん、事実だけは覚えておいてください。四島の帰属の問題を解決して
平和条約になるのです。四島の帰属というのは、四つとも向こうにいく可能性がある
のですから、今も国会で方針転換したのかと聞くけれども、交渉の中身は総理は言え
ません。相手があるのですから、言ってしまったら交渉がなくなってしまいますか
ら。もうやめましょうと言われたら終わりなのです。だから、安倍総理も我慢しなが
ら答弁しているけれども、四島の帰属というのは五通りあるということをよく覚え
ておいてください。そして 56 年宣言を基礎にということは、まずは二島しかないの
です。56 年宣言には他は書いていないのです。この事実を私は冷静に受け止めてい
ただきたいと思っています。

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