樺太千島交換条約

なぜ樺太放棄した? 面積だけでは測れない「樺太千島交換条約」の真意(THE PAGE) - Yahoo!ニュース
 新政府にとり、財政力でも防衛力でも広大な樺太を統括する力がなかったとはいえ、面積的に見れば7万6400平方キロメートルある樺太を放棄し、総面積1万数千平方キロメートルしかない千島列島との交換は割に

 

日魯通好条約の後、樺太は松前藩領から江戸幕府の直轄地に。その後、明治政府の成立に伴い、1869(明治2)年には太政官直属の開拓使所管となります。一方、両国民混住の地と決めたロシアは、クリミア戦争終結後、樺太開発に乗り出し、たびたび両国間の紛争が起こるようになりました。

事態を受け、両国間で樺太の国境線を決めることは重要な問題でした。新政府には、樺太全島もしくは半分で境界線を引き、南半分を日本のものとするという意見と、遠隔地である樺太を放棄し、北海道開拓に注力する、という2つの意見がありましたが結局、樺太放棄論が優勢になりました。

交渉は1874(明治7)年から、ロシアのサンクトペテルブルクで行われました。日本から派遣された旧幕府海軍副総裁・榎本武揚です。

榎本は新政府と旧幕府側の最後の戦いとなった箱館戦争(五稜郭の戦い)で破れ、投獄されますが、オランダ留学中から肌身離さず海洋法に関する「海律全書(海上国際条規)」を持つなど国際法に通じていたことから、助命され、明治政府の一員となりました。

交渉時は日本初の海軍中将、駐ロ特命全権公使に任命され、約1年近い交渉の末に、ロシア外務大臣ゴルチャコフとの「樺太千島交換条約」締結にこぎつけます。

新政府にとり、財政力でも防衛力でも広大な樺太を統括する力がなかったとはいえ、面積的に見れば7万6400平方キロメートルある樺太を放棄し、総面積1万数千平方キロメートルしかない千島列島との交換は割に合わないようにみえます。

しかし、ロシアの海洋進出を警戒していた英国政府のアドバイスもあり、地政学上、オホーツク海と太平洋を分ける千島列島は海洋戦略上、重要な地点という認識を、明治政府が持っていたとみられます。また千島列島は南北に約1200キロの長さがあり、水産業にとっては大きな意味を持ちました。

 

「樺太千島交換条約」の文面をみると、日本に譲渡されるウルップ島以北の18島の名称はありますが、択捉・国後・色丹・歯舞の北方四島は含まれていません。既に先の「日魯通好条約」で択捉島以南が日本領であるということが両国間で明確に認識されていたようです。


https://worldjpn.grips.ac.jp/documents/texts/pw/18750507.T1J.html

 

第一款 大日本国皇帝陛下は子々孫々に至るまで,現在の樺太島(サハリン島)の一部を領有する権利及び君主に所属する一切の権利を全ロシア国皇帝陛下に譲り,今後,樺太全島はすべてロシア帝国に属し,ラペル-ズ海峡(宗谷海峡)を両国の境界とする。

第二款 全ロシア国皇帝陛下は,第一款に記した樺太島(サハリン島)の権利を受領した代わりとして,子孫に至るまで現有所領のクリル群島,すなわち第一番目の「シユムシユ」島、第二「アライド」島、第三「パラムシル」島、第四「マカンルシ」島、第五「ヲネコタン」島、第六「ハリムコタン」島、第七「ヱカルマ」島、第八「シャスコタン」島、第九「ムシル」島、第十「ライコケ」島、第十一「マツア」島、第十二「ラスツア」島、第十三「スレドネワ」及「ウシシル」島、第十四「ケトイ」島、第十五「シムシル」島、第十六「ブロトン」島、第十七「チヱルポイ」竝ニ「ブラット、チヱルボヱフ」島、第十八「ウルップ」島まで計18島の領有権及び君主に属する一切の権利を大日本国皇帝陛下に譲り,今後はクリル群島全島は日本帝国に属し,カムチャッカ地方のラパッカ岬とシュムシュ島間の海峡を両国の境界とする。

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