第一次モスクワ交渉の詳細

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日ソ国交回復交渉における平和条約方式の挫折
防衛大学校紀要(社会科学分冊) 第121・122輯(3.3)別刷
岡田 美保

はじめに

1.日ソ交渉の経緯と利害関係

2.第一次モスクワ交渉
(1)重光・アリソン会談
(2)第一次モスクワ交渉の開始
(3)重光のソ連案受諾決意

3.「ダレスの恫喝」と平和条約方式の挫折
(1)第一回重光・ダレス会談(8月19日)
(2)第二回重光・ダレス会談(8月24日)
(3)下田条約局長訪米(8月27日)

おわりに

はじめに

1955年6月1日から1956年10月19日にわたって断続的に行われた日ソ国交回復交渉(以下、「日ソ交渉」)は、サンフランシスコ平和条約(1951年9月8日調印、1952年4月28日発効)が取り残した、日本とソ連の間の戦後処理を課題とする外交交渉である。

この交渉の結果署名された日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言(1956年年10月19日署名、以下、「日ソ共同宣言」)によって、両国は法的な戦争状態の終結を宣言し、正式な外交関係を回復した。

これにより、日本は、ソ連に抑留されていた日本人の帰還と、国際社会への復帰のために切望していた国連加盟へのソ連の支持獲得という、差し迫った課題を解決することに成功した。

その一方で、日ソ両国は、国境の公的な画定には至らず、平和条約方式を断念して国交回復をすることとなった。

このような経緯があるものの、本稿では混乱を回避する観点から、交渉過程を一貫して「日ソ国交回復交渉」と呼称することとする。

日本にとってソ連との国交回復交渉は、単に独立の完成を進めるというだけにとどまらない、機微な外交課題であった。

日本はこの時すでに、サンフランシスコ平和条約を締結し、同条約と日米安全保障条約(以下、「日米安保」)の下で自らの安全保障を実現していくという、「日本という国家の在り方に関し最も重要な選択」を行っており、この基本線を狂わさずにソ連と交渉していくことが大前提となっていた。

西村熊雄『サンフランシスコ平和条約・日米安全保障条約』中公文庫、1999年、16頁。

一見、日米協調と、ソ連との国交回復とは、両立しえない目標ではないように思える。

1954年12月10日に成立した鳩山一郎内閣は、自主外交を旗印に支持を獲得し、日ソ国交回復を外交目標に掲げたが、米国との関係を犠牲にしてまで日ソ関係を是正するつもりはないというのが日本国内の大勢であり、重光葵外相も、日米協調という吉田茂内閣以来の外交方針の基調に変化がないことを繰り返し強調していた。

本稿は、日ソ交渉において平和条約方式が挫折するに至る過程の分析を通じて、サンフランシスコ平和条約と日米安保の下でソ連との国交回復を進めることが、予想以上に実現困難な課題であり、日本にとってほとんど身動きの取れない、やりようのない、厳しい交渉だったことを明らかにする。

それは、日ソ国交回復交渉における本質的な論争点が、ヤルタ合意で対日参戦の見返りとして約束された南樺太と千島列島に対するソ連の主権を承認するかしないかという点に関する米ソ対立にあり、この論争において、歯舞・色丹の引き渡しを見返りに日本から主権承認を獲得しようとするソ連と、これを阻止しようとする米国の立場とが真っ向から対立しているなかでの交渉だったからである。

以下では、日ソ交渉の経緯と関係各国の利害関係を整理したうえで、重光外相が全権として交渉を行った第一次モスクワ交渉と、これへの米国の関与の中で平和条約方式が挫折するまでを辿る。

1.日ソ交渉の経緯と利害関係

米国政府は、スターリン死後、米ソ関係が相対的に緊張緩和する中にあっても、自由主義諸国は対ソ優位を維持しつつ、団結して警戒を怠るべきではないとして、慎重な対ソ姿勢を崩さずにいた。

1955年1月7日、国家安全保障会議で採択された基本政策文書は、次のようにその外交方針を要約している。

ソ連の「柔軟」路線が支配的なところではどこにおいても、われわれの同盟国は、それを真剣に試してみようとするであろう。「共存」の基盤を求めていく中で、おそらく、米国が賢明であると判断する以上に進みたがるであろう。たとえソ連が何ら真の譲歩をしないとしても、おそらくこういう傾向は世論の広汎な支持に支えられて継続するであろう。どこであれ自由世界の連帯に必要な団結と決意を維持することが大きな課題となる。

“Basic National Security Policy,” Foreign Relations of the United States (以下、FRUS) 1955-1957, vol.XIX, pp.24-38.

こうした慎重論に立ちながらも米国は、米国自身国交のあるソ連との間に日本が国交を開くこと、それ自体には反対できないと判断していた。

そこで、日ソ交渉そのものには反対しない立場をとったうえで、早い段階から米国としての要求事項を日本政府に伝えることとしたのである。

1月25日に鳩山首相が、ドムニツキー元ソ連駐日代表部臨時代表の持参した日付も署名もない書簡を受け取ったその翌日、ダレス国務長官は、ソ連の新政策を受け入れるとの日本の決定に影響を及ぼす意図は持たないとする立場を明らかにしながらも、日ソ交渉が現存の条約関係、なかんずく日米安保と日華平和条約、そしてサンフランシスコ平和条約を変更するものとならないよう期待すること、歯舞群島及び色丹島は千島列島ではないという根拠に基づく日本の領土要求と、この点を国際法廷で検討することに関する日本の立場を引き続き支持することを、重光外相ないし谷正之外務省顧問に伝えるようアリソン駐日大使に指示した。

また、28日にはダレス自ら井口貞夫駐米日本大使と会談してこの点を伝えている。

“Telegram From the Department of State to the Embassy in Japan,” FRUS 1955-57, vol.XXIII, pp.11-12.

アリソン大使は、重光と26日、谷顧問と28日に面会し、すべての点において日本の対ソ政策と合致しているとの回答を得ている。

井口大使とダレスの会見、”Memorandum of a Conversation, Department of State, Washington,” 28 January, 1955, FRUS 1955-57, vol.XXIII, pp.12-15.

米国では、国家安全保障会議(NSC)における対日政策文書の策定と並行して日ソ交渉に関する本格的な検討が進められた。

4月7日のNSC第244回会合で採択されたNSC5516/1には、日本がソ連と外交関係を樹立することに反対しない立場とともに、ソ連に対する日本の歯舞・色丹返還要求を支持すること、南樺太及び千島列島に対するソ連の主権要求を認めないことが明記された。

“National Security Council Report,” 9 April 1955, FRUS 1955-1957, vol.XXIII, pp.52-62.

この「南樺太及び千島列島に対するソ連の主権要求を認めない」という点に、当初からダレスは強い関心を持っていた。

“Memorandum of Discussion at the 244th Meeting of the National Security Council,” 7 April 1955, FRUS 1955-1957, vol.XXIII, pp.40-49.

南樺太及び千島列島に関しては、SC5516/1の原案(NSC5516)では、ソ連の請求を「法的に無効なものとみなす」との強い表現がとられていたが、「認めない」にとどめる修正が加えられた。

この部分についてダレスは、南樺太及び千島列島に対するソ連の要求は、沖縄並びに小笠原諸島にとどまるという米国の要求と本質的には同じものであり、ソ連を追い出そうとすれば、米国が沖縄と小笠原から去ることを余儀なくされるだろうと述べた。

これに対して「法的に無効なものとみなす」を「認めない」とする提案がなされ、了承されたものである。

その一方、この時ダレスは、(微笑みながら)「千島列島からロシア人を追い出すことができないことは確かだ」とも述べている。

千島列島のソ連主権を決して「認めない」ために何らかの措置が指示された結果、4月20日のロバートソン覚書が案出されたと見ることができる。

ダレスは8月29日、「サンフランシスコ平和条約においては、千島・南樺太について極めて注意深く規定が設けられており、これらの地域は条約に調印しないいずれの国にも帰属することのないように規定されている」と訪米中の重光大臣に直接伝えている。

外務省外交史料館、A’1523-5 『重光外務大臣訪米関係一件』「重光・ダレス会談」第一回会談(1955年8月29日)記録(2019年12月25日開示)。28頁

https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/shozo/pdfs/2019/02_03-1.pdf

つまり、「サンフランシスコ平和条約の範囲内で」と米国が言う時、それは南樺太と千島列島に関するソ連の主権を容認してはならないということを意味していたのである。

国務省は、4月20日に覚書を作成し、その内容を谷に伝えた。

“Memorandum From the Deputy Assistant Secretary of State for Far Eastern Affairs (Sebald) to the Deputy Under Secretary of State for Political Affairs (Murphy),” 20 April 1955, FRUS 1955-1957, vol.XXIII, pp.65-68.

“Memorandum handed to Ambassador Tani by the Ambassador,Tokyo,” 28 April 1955, 661.941/10-2055, NA.

この覚書は、米国が、歯舞群島と色丹島に対する日本の領有権主張を、それらが千島の一部ではなく、日本本土の不可分の一部であるという根拠に基づいて支持するという従来の米国の方針を明らかにしつつ、サンフランシスコ平和条約の条項をふまえれば、米国が、千島列島のすべてあるいはその一部に対する日本の領有権主張を認めることは法的には困難であるものの、「千島列島は、自由主義世界にとって重要な戦略的価値を持っており、このまま何ら行動を起こさない状態が継続すればソ連による占領に対する暗黙の承認を構成することになる」ことから、「日本が千島列島の少なくとも一部を要求することを支援する強い政治的理由がある」としていた。

このロバートソン覚書に対応する形で、外務省で歯舞、色丹、国後、択捉の返還要求を内容とする「追加訓令」が案出され、これが8月30日にソ連提案に対する日本側回答として提示されたとする見方として、

Takahiko Tanaka, “The SovietJapanese Normalization in 1955-6 and US-Japanese Relations,” Hitotsubashi Journal of Law and Politics, No.21, February 1993, pp.65-93.

Tsuyoshi Hasegawa, “Treacherous Ground: Soviet-Japanese Relations and the United States,” in Klaus Larres and Kenneth Osgood(eds.), The Cold War after Stalin’s Death: A Missed Opportunity for Peace?, Lanham: Rowman & Littelfield Publishers. Inc., 2006, pp.277-302.

ところが、6月1日から始まった第一次ロンドン交渉の推移は、米国を不安に陥れた。

ソ連側が6月14日に行われた第3回会談で提示した平和条約草案は、南樺太と千島列島に対するソ連の完全な主権承認を要求していたからである。

さらに、ソ連側は、8月5日には漠然と、9日にはより明確に、「その他の諸問題との関連において」歯舞群島と色丹島を引き渡すことを示唆した。日本側は、交渉開始時点において歯舞・色丹二島の返還を日ソ国交回復の最低条件としていたため、二島引き渡しの示唆を受けた松本俊一全権は、「これでこの交渉も双方の主張が歩みより、交渉の終結も間近いのではないかと考えた。」

松本俊一『モスクワにかける虹 日ソ国交回復秘録』朝日新聞社、1966年、44頁。

「訓令第16号」と呼ばれる、日本政府の方針を示した文書の存在を最初に指摘したのは、久保田正明『クレムリンへの使節―北方領土交渉1955-1983』文藝春秋、1983年、32-34頁。である。

田中孝彦『日ソ国交回復の史的研究-戦後日ソ関係の起点:1945~1956-』有斐閣、1993年、95-106頁。は、この訓令の内容とほぼ一致する交渉方針が国務省に伝達されていたことを示す米国史料(1955年6月2日付)によってこれを実証した。

また、泉川泰博「日ソ国交回復交渉をめぐる日本の自主外交模索とアメリカの対日戦略」『国際政治』144号、2006年2月、130-145頁。は、同じ事実を示す別の米国史料(1955年6月25日付)を用いている。

ところが、日本はソ連側に対し、8月30日、「国後・択捉・歯舞・色丹の返還」を要求するとともに、「南樺太及び千島列島の帰属については、ソ連を含む連合国と日本との間の交渉により決定する」ことを内容とする回答を行った。

この回答が提示されるに際し、日米間にいかなるやり取りがあったかは、未解明の重要論点となっている。

そこで米国は9月22日、「日本が南樺太と千島列島に対するソ連の主権を承認することを意味するいかなる行動もとらないことを希望する。」と、一層強い表現による警告をアリソン大使から重光外相及び谷顧問に伝えたのである。

“Memorandum From the Assistant Secretary of State for Far Eastern Affairs(Robertson) to the Secretary of State,” FRUS 1955-1957, vol.XXIII, pp.122-123.

他方、ソ連の関心の中心にあったのは、南樺太及び千島列島の主権承認による「最終的」かつ「明確な」国境画定による、ソ連極東への米国艦艇の接近阻止という安全保障上の要求であった。

この目的のためには、国後・択捉がソ連領として確定されることが不可欠であり、その返還を新たに加えた日本側の領土要求は検討対象にすらならないものであった。

ソ連提案は、国後・択捉を含む千島列島と南樺太がソ連領として確定される限りにおいて歯舞・色丹の二島を引き渡すこと、ただし、二島の引き渡しで領土問題は最終的に解決するものとし、引き渡す二島を軍事化しないことを条件としていた。

ソ連提案の詳細については、拙稿「日ソ国交回復交渉の再検討-ソ連による日米安保の「受容」-」『国際政治』第200号、2020年3月、84-100頁。を参照。

このようにソ連提案には、日本にとって受け入れ難いいくつかの条件が付されており、とてもそのまま受諾できるようなものではなかったのである。

日本政府はこの後、新たな領土要求への国際的な支持を獲得すべく、千島列島の範囲について、米英仏に対してその立場についての照会を行った。

このうち英仏の回答は、日本の立場に積極的な支持を与えるものではなかった一方、米国の回答は二面的であった。それは、一方で、南千島(国後・択捉)が千島列島の一部ではないという理由で日本が両島の返還を主張することに反対するものではないとしながら、この「企て」は成功することはないであろうと明しており、日本の主張は現実性を伴っていないことを申し渡していた。

松本、前掲書、62-64頁。

米国の回答は、その反面、国後・択捉の返還について、両島が千島列島ではないという理由で日本とソ連が合意に達するとすればそれに反対はしないとしていた。

他方、日本国内では、抑留者の早期帰還を要求する声が高まるとともに、ソ連が北洋漁業制限の一方的措置を取ったことを契機として、領土問題の棚上げによる早期妥結を主張する鳩山ら旧民主党の勢力が、社会党を巻き込んで強まっていた。

重光外相から見れば、少なくとも歯舞・色丹の返還を確保するという当初の方針を修正する意図はなく、鳩山首相のように歯舞・色丹の返還というソ連の譲歩をも水泡に帰して妥結するなど考えられないことであった。

ソ連の脅威認識やそれを取り巻く国際情勢を冷静に見極め、日本として確実に得られる最大限を確保しようとするならば、この時、「やむを得ざる譲歩として国後・択捉に関する現状を黙認しながらも歯舞・色丹をいかに確保するか」に目標を再設定することは不可欠であった。

他方で、そのような対ソ譲歩に強く反対する吉田ら旧自由党勢力は、引き続き強硬な交渉姿勢で臨むことを強く主張していた。

こうした諸勢力の間に立って重光外相は、領土的要求に何らかの折り合いをつけつつ平和条約方式での解決を目指し、しかも早期に妥結しなければならないという、極めて困難な任務を負って交渉せざるを得ない立場に立たされていた。

このような国際情勢と国内情勢をあとに、重光全権は7月26日、モスクワへ向かったのである。

2.第一次モスクワ交渉

(1)重光・アリソン会談

1956年7月24日午後、重光は出発を目前に控え、最終調整のためアリソン大使を往訪した。

その席でまず重光は、1955年10月21日に国務省から谷大使に対して伝えられた、千島列島の範囲についての日本政府からの照会に対する関する回答の再確認を求めた。

“Robertson to Hoover,” 24 July 1956, 661, 941/7-2456, NA.

ここで重光は、米国回答における「米国は国後・択捉に関する日本の返還要求について、これら諸島が千島の一部でないという理由に基づいて、また日本が千島及び南樺太に対する主権を放棄することを日ソ平和条約で日本が確認する代わりに、ソ連と協定に達することに反対はしない」という最後の一文を念頭に置いていた。

つまり、重光は、来るべきモスクワでの交渉において、日本がサンフランシスコ平和条約においてすでに南樺太及び千島列島に対する権利、権限、請求権を放棄している点を、ソ連に対しても確認する形であれば、これらの領土に対するソ連の主権承認と解されることなくソ連との合意を形成することができると考えたのである。

これに対してアリソンは、それ以前に行われた日本政府からの照会に対する1955年7月1日付の回答を重光に想起させ、手元に持っていたそのコピーを示した。

アリソンがここで重光に強調したのは、「南樺太と千島列島の最終的処分はなされておらず、国際的協定によって決定される問題」であり、日本は、千島列島と南樺太に対するソ連の主権を承認できる立場にはない、ということであった。

“Memo from Hemenginder to Fite,” August 3, 1956, 661.941/8-356, NA.

重光とアリソンが提示した二つの文章の間には、重大な矛盾が隠されていた。

重光の推した一文は、米国が、日本の南千島返還要求について、ソ連がこれに応じることはあるまいと思う、という見方とともに日本側に伝えられたものであり、そのうえで米国は「日本が千島及び南樺太に対する領土権を放棄することを日ソ平和条約で日本が確認する代わりに、ソ連と協定に達することに反対はしない」と述べたものであった。

だが、アリソンの推した一文は、日本は千島列島と南樺太に対するソ連の主権を承認できる立場にはない、と述べていた。

日本は千島列島と南樺太に対するソ連の主権を承認できる立場にはないが、日本が南樺太と千島列島の放棄を確認してソ連と協定に達することはできる。重光は米国の立場に残されていたこの曖昧さにわずかな光明を見出してソ連との交渉に臨もうとしていたのである。

続いて重光は、法律的観点から見て、サンフランシスコ平和条約に従えば千島と南樺太の最終的処理はこの条約に調印した連合諸国の同意なしに行うことができないことを理解していると述べた。

しかしながら重光は、日本が日本にできる限り有利な処理にソ連の同意をとりつけようとすることには異議が唱えられないことを希望する、と述べた。

アリソンは、自身はこれに公的な答えを出す立場にはないが、個人的な見解では日本とソ連は互いに満足のいく領土処理に合意することができるし、連合国がこれに異議を唱えるとは思わない、と述べた。

“Robertson to Hoover,” 24 July 1956, 661, 941/7-2456, NA.

重光はこのように尋ねることで、モスクワで何らかの領土的譲歩を行ってソ連と合意に達することについて、米国の事前承認を取っておこうとしたのである。

重光は、対米信頼を確保しつつ、モスクワで交渉を妥結させるとの強い決意を持って交渉に臨んだ。

日ソ交渉は、日本とソ連との間の問題であり、交渉に対しての直接的な圧力の行使は回避するという立場に米国政府が立っている以上、余程のことがない限り、日ソ間に成立した合意に対して反対するとは言えないはずであったし、重光がどのような条件でソ連と合意することを意図していたのかについては、この質問では伏せられていた。

米国が日ソ合意に賛成するとの原則的意向を重光に示した以上、事実上、日本の対ソ譲歩に異議を差
し挟むことは難しくなる

アリソンは、日ソ交渉に対する不介入方針を堅持する「建前」から、この重光の質問に対して、私見としながらも「異議を唱えるとは思わない」と回答したのである。

重光はこの日の日記に、アリソンと「日米関係の根本精神に触れて」会談し、「十分了解を得た」と記している。

伊藤隆、渡辺行男編『続重光手記』中央公論社、1988年、789頁。

(2)第一次モスクワ交渉の開始

第一次モスクワ交渉に際し、ソ連政府は、

第一に、第二次ロンドン交渉において形成された合意事項をもとに、引き続き平和条約草案について交渉を継続すること、

第二に、第二次ロンドン交渉の最終段階において「平和条約のその他の問題が片付けば」取り下げることを示唆していた海峡通航問題については再度提起して妥結を促進すること、

第三に、領土条項に関しては、第二次ロンドン交渉で日本側に提示したソ連案を基本としつつ、日本側の提案に合わせた文言の公式化に応じる、とする交渉方針を立て臨んだ。

РГАНИ,Ф.3,О.12, Д.126, л.51-52.

ソ連側は第二次ロンドン交渉の段階で、南樺太と千島列島の主権承認、二島引き渡しによる領土問題の最終解決、引き渡す二島の非軍事化について明文化しない領土条項案を採択しており、ソ連としては重要な譲歩に踏み切っていた。

РГАНИ, Ф.3, О.8, Д.356, л.22-32.

ソ連側はこれを基本的に踏襲して第一次モスクワ交渉に臨んだのであり、特に重光に対して条件を引き上げたとは言えなかった。

後述するように、問題は別のところにあった。

重光外相の率いる日本政府全権団は、1956年7月29日、モスクワに到着した。

重光は、空港で簡単な声明を発表し、今回の訪ソの目的が国交回復を達成することにあり、将来の日ソ関係にとって障害となる問題を、すべて解決することであると述べて、交渉妥結に向けての決意を表明した。

重光は、日ソ間に将来懸案を残さない、完結的な日ソ関係の基礎となりうる平和条約方式による国交回復を実現する決意を、モスクワ到着早々宣言したのである。

第一回公式会談は7月31日に開かれた。

まず、6月1日に外相に就任したばかりのシェピーロフ全権が発言し、次の三点についてソ連側の見解を述べた。

第一に、ソ連はこれまで日本側に対して歯舞・色丹の引き渡しを含むもろもろの譲歩を行ってきた、第二に、今回のモスクワ交渉の主な目的は、領土問題と海峡通航問題について平和条約でどのように表現するかを決定することである、そして第三に、歯舞・色丹の引き渡しがソ連にとって可能な最大限の譲歩であることを強調した。

«Соглашается на передачу Японии островов Хабомаи и Сикотан» Источник, №6, 1996г., с.107-136.

これに対し、重光は長文の声明を読み上げた。この声明は、日本側がソ連に対していくつかの譲歩を行うことを示唆していた。

第一に、日本側が、通商問題について、ソ連側の主張を大幅に取り入れた新しい条約草案を提出することが示されていた。第二に、重光は領土問題に触れ、詳細な条約の解釈論を展開した。それによれば、ソ連はサンフランシスコ平和条約に調印していないために、日ソ両国の関係に限って言えば、日本は千島列島も南樺太も放棄すらしていないことになるというのである。この主張はこれまでの日本側の領土返還要求の理論的支柱となってきた議論を繰り返したに過ぎなかった。

しかし、次に続いたのは、従来の日本側の主張を大きく修正したものであった。

すなわち、重光は、サンフランシスコ平和条約で日本政府はこれらの島々を放棄したが、ある条件が満たされれば、この規定をソ連との関係においても適用することにやぶさかではないと述べた。

この条件とは、国後・択捉を日本に返還することにソ連が合意することであった。

南千島の返還と引き換えに日本は北千島及び南樺太に対するソ連の主権を黙認しようというのがこの提案の主張であった。

ソ連の関心が、南樺太と千島列島の主権承認にあることを十分認識していた重光は、これらの領土の帰属については国際会議によって決定されるという従来の主張を翻し、日本がその放棄を確認することを通じて黙認する意向を示すことによって国後・択捉の返還を実現しようと試みたのである。

“Japanese-Soviet Negotiations,” 15 August 1956, FO371 121040, FJ10338/41, PRO. 外務省情報文化局『外務省発表集』第4号、1957年、38-41頁。

国後及び択捉について重光は、次のような条約論を展開して返還要求の正当性を強く主張した。

すなわち、国後と択捉の両島は、日本の固有の領土であり、また大西洋憲章とカイロ宣言によってこの日本の主張は正当化されている。もともと日本の領土であった南千島を、第二次世界大戦の結果ソ連が領有するということは、大西洋憲章とカイロ宣言において明示されていた「領土不拡大原則」と抵触するというのである。

このように南千島の返還要求の正当性を主張した後、重光は領土条項に関する新たな草案を提示する。その内容は次のようなものであった。

『毎日新聞』 1956年8月2日、1頁。“Memorandum of Conversation,” 1 August 1956, 661.94/8-156, N.A.

戦争の結果としてソ連邦が占領している歯舞諸島、色丹島、択捉島および国後島に対する日本国の主権は、平和条約の発効と同時に完全に日本に回復されねばならない。日本は、1905年9月5日のポーツマス条約の結果獲得した樺太の一部と、千島列島に対するすべての権利を放棄する。ソ連邦の軍隊は、上記の日本国領土から平和条約発効後90日以内に撤退を完了するものとする。

重光は、従来の国際会議案を取り下げ、北千島及び南樺太をソ連との関係において放棄することを提案することによって、交渉妥結への前向きの姿勢をソ連側に提示し、それによって南千島の返還を強く主張する交渉方針を採用したのである。

この方針は、ソ連が持ち掛けてきた、南樺太と千島列島に対する主権承認と歯舞・色丹の引き渡しの取引に対し、これを日本に有利な形に書き換えて正面から応じようとするものであったと言える。

ソ連側も、重光声明における日本の従来方針からの変化を認識していた。ソ連側調書によれば、この交渉で日本側が提示した新たな領土条項は、「日本に歯舞、色丹に加えて国後と択捉を引き渡すこと、日本側はサンフランシスコ平和条約第二条に沿って南樺太とその他の千島列島を放棄すること」としており、千島列島と南樺太の帰属を連合諸国の国際会議で決定するという、日本がロンドン交渉で主張してきた点は取り下げた、と記している。

РГАНИ,Ф.3,О.12, Д.126, л.51-52.

その一方で、この方針はいくつかの危うさを孕んでいた。

第一に、この対ソ提案は、日本が南樺太と千島列島の放棄を確認してソ連と協定に達することができる、という重光の解釈に沿ったものではあったが、果たしてこれは「ソ連の主権を承認することを意味するいかなる行動もとらないことを希望する」米国の許容範囲内にあったかどうか、という点である。

この点はまだ明確にはされていなかった。

おそらく、米国の不信を喚起しないためであろう、8月3日、日本政府は、重光の声明が国際会議案を撤回したことを意味しない旨の公式声明を発表した。

吉沢清次郎監修『日本外交史29 講和後の外交I 対列国関係』鹿島研究所出版会、
1973年、208-209頁。

第二に、ソ連側から見れば、日本側のこの譲歩案は、南千島の返還を要求していた点で検討対象とならないものであった。

そして、第三に、日本が対米信頼を失うまいとして発表した声明は、交渉相手であるソ連の不信を買うものに他ならなかった。

それでも、「交渉をする場合に、かような問題についておのおの交渉する国の立場があることは、これは当然でございますが、その交渉の前から、相手国の言うことを全部承認しなければならぬ、その意向をくんでこっちの主張をしないほうがよかったのだという議論には、私は何も賛成するわけには参りません。私は日本の正当と信ずる立場は十分に、またあくまで主張することがいいと思う。またそれが私の義務であると考えます。しかしながら日本の国際関係の全局を失ってはなりません。それは常に考えて、最後の場合には十分それを考えて処理しなければならぬ」と、重光はこのような覚悟のもとに交渉に臨んだのである。

第22回国会衆議院予算委員会第19号、1955年5月25日。

そうは言っても重光の新たな提案は交渉のたたき台にすらならなかった。ソ連側は8月3日、第二回公式会談の席上、重光声明を明確に拒絶した。

このソ連側回答は、領土問題は解決済みであるとの従来のソ連の立場を繰り返すものであった。

また、日本政府が千島列島に対する日本の主権の存在を主張するに際して、千島列島は、1875年に締結された樺太千島交換条約によって日本が平和裏に獲得したものであるとの議論を援用していることに対しても批判が向けられた。

すなわち、日本は1904年にロシアに対して侵略戦争を行ったのであり、それゆえ、それ以前の条約によって獲得した権利を主張することはできないというのである。

ただし、歯舞・色丹については、日本がこれらの島々の返還を要求していることに鑑み、ソ連政府の平和的外交方針にのっとってこれらの領土を日本に返還することをシェピーロフは再度強調した。

吉沢、前掲書、210頁。

このように、ソ連側の回答は、日本側の主張を真っ向から否定するものであり、交渉難航は改めて明らかとなった。

この会談の後、両国の全権は、領土問題について自国の主張を繰り返すにとどまり、6日に行われた第三回公式会談でも交渉は完全な停滞状況を呈した。

ここで重光は、非公式会談によってこの停滞を打開しようとする

8月7日、第一回非公式会談がソ連外務省で開かれたが、ここでも交渉はまったく進まなかった。

久保田正明『クレムリンへの使節 北方領土交渉1955-1983』文藝春秋、1983年、133頁。

8月8日の第二回の非公式会談では、双方がさらに硬直的傾向を見せ、シェピーロフは、日本がこのまま南千島に固執した場合は、ソ連政府は歯舞・色丹の返還提案すら撤回する可能性のあることを示唆した。

そしてソ連政府は、現在の条件以外では、これら二島を引き渡すことはないであろうと述べ、かりに交渉が決裂したとしてもソ連政府には何ら不利益はないとまで述べた。

同上。

このように、シェピーロフの交渉姿勢は、ロンドン交渉におけるマリク全権とはうってかわって強硬であった。

その理由としては、次の3つが考えられる。第一は、ソ連側は、モスクワ漁業交渉の際、5月9日に行われたブルガーニン首相との会談における河野一郎農相の発言(失言)から、日本側は南千島返還要求をすでに取り下げたと認識しており、重光がまた南千島返還要求を提起してきたことに不信と苛立ちを持ったと考えられることである。

これについては、交渉開始の当日、7月31日の重光の日記には、「ブルガーニンより河野に述べたとおりと云ふ一節あり」と記されている31。

伊藤隆、前掲書、792頁。

同行の久保田正明記者も、重光の声明に対し、ソ連側は「河野がすでに約束したではないか。あなたは知らないのか」と言って攻め立ててきたことを記している。

久保田、前掲書、154頁。

だが、5月9日の河野・ブルガーニン会談には、日本側通訳が同席しなかったため、河野が何を言ったのか、重光には確かめる術がなかった。

真相は、後日、第一次モスクワ交渉が中断し、重光、シェピーロフがともにロンドンに滞在していた時に判明することになる。

重光外相が、河野・ブルガーニン会談における密約の噂についてシェピーロフに尋ねたところ、「河野さんが東京で言われていることは私も知っているが、とんでもない間違いです。私はいま手元に会談の議事録をもってきていないが、会談の内容はほぼ間違いなく、そのとおりにお伝えすることができる。ブルガーニン首相は領土問題についてこう述べた。『ハボマイ、シコタンは本来ソ連領であるが、ロンドンでの交渉で日ソ国交回復のために、あえてソ連が譲歩して日本側に引き渡すことにした。これに対し日本側はさらにクナシリ、エトロフを返せと言いだし、このためロンドン交渉は中断した。クナシリ、エトロフはすでにソ連領として確定しており、この原則はソ連として絶対に変更できない。』これに対して河野さんは『ブルガーニン首相の今の提案は理解しうるものであり、かつ実際的なものであって、わが方として受諾しうるものとして評価する』と発言された。

これはわが方の会談議事録にちゃんとのっている明白な事実です。もし重光さんが必要とあらば、議事録をモスクワから取り寄せてお見せしましょうか」と申し出、重光外相は取り寄せについては辞退したとされている。

同上、154-155頁。

ブルガーニンとの会談で河野が言ったのは、日本語としての「御説御尤も」であり(河野は、「ご意見は一つ一つごもっともだ。」と述べたという。『朝日新聞』1955年5月15日、1頁。)、相手の主張を一応受けとめながらも、現実には、そのままでは受け入れられない場合に使われる言葉である。

だが、ソ連側通訳しか同席しなかったために、上記のソ連側記録のみが残されることになったのである。

これでは、仮に河野に国後・択捉についての日本側の要求を放棄することを示す意図がなかったとしても、ソ連側に日本はすでに南千島返還要求を取り下げたという認識が形成されていて当然であった。

もとより重光に良い印象を抱いていないソ連側が※、重光声明の意図を疑いの目で見たとしても致し方なかったと言える。

※「重光外相は、駐ソ大使を長年勤めて、その在任中は日ソ間の関係がきわめて緊張した時代であった。従って重光外相はソ連に対して、決していい感じを持っていなかったようであった。ことに、張鼓峰事件でソ連ときわめて激しい外交折衝を行い、ついに妥結を見たものの、ソ連側からもきわめて非友好的な人物と見られておったようである。」松本、前掲書、105頁

第二には、重光は、ソ連との交渉に関する自分の経験から、最初にきわめて強硬な態度を示さなければ妥結に至らないという信念を持っていた。

松本は「私から見ると、ほとんど不必要に思われるまで強硬な態度を示した」と述べている。

同上、106頁。

重光の強硬な態度は、「日本の世論からは拍手を受けたが、ソ連側はすぐその翌日に政府機関紙でこれまた不必要なばかりに強い調子で反発した。そのため全権団間の対立が強く表に出て引き返せないところまで来てしまった。ことに、ちょうどその頃スエズ運河の問題で緊張した国際情勢が展開しており、モスクワの空気はすこぶる神経質で、重光外相の強硬な声明は一層強くソ連側を刺激した。」

同上。

歯舞・色丹の引き渡し提案すら反故にするというソ連側の強迫的な態度に接して、重光は、南千島返還要求を取り下げざるを得ない状況におかれた。

重光自身、モスクワで交渉を妥結する強い決意を抱いており、交渉の決裂は避けなければならなかった。また、第一次モスクワ交渉に際しての日本政府の方針では、少なくとも将来において南千島の返還を要求できるような可能性を残せれば、南千島の返還要求を取り下げて交渉の妥結を図ることは重光には許されていた。

この膠着状態を打開するために、重光はソ連の指導者との政治的決着を図ろうとする。

彼は、フルシチョフとブルガーニンとの非公式会談を提案した。

ソ連側は、重光の非公式会談開催の申し入れを受け入れ、8月10日に会談がもたれることになった。

この非公式会談を翌日に控え、重光は、モスクワに同行していた日本人記者団を招集した。

彼は、集まった記者団に対して、翌日の非公式会談に臨む自らの心境を明らかにした。すなわち、日本政府は自国の主張の貫徹のためにこれまで努力してきたが、ソ連が態度を変更するとは考えられず、今や「刀折れ、矢尽きた」状況であると述べたのである。そしてこの上は東京に請訓せず、自らの責任で最終的決断を下すと述べた。彼は、たとえ羽田で爆弾を投げつけられても、断固とした決断を行うとの決意を記者団に表明したのである。

久保田、前掲書、134頁。

重光は、南千島返還の要求を、翌日のフルシチョフらとの非公式会談で撤回することを記者団に告げ、歯舞・色丹の返還という条件で日ソ平和条約を締結するよう努力することを暗示したのである。重光は、南千島返還要求を放棄することが、彼の政治生命に致命的な打撃を与えることを十分認識していたであろう。

そして彼は、この記者団との会見で、彼が終戦の際に、ミズーリ号の甲板で降伏文書に署名したことを持ち出し、その時日本が再度日本民族の精神を取り戻したと述べ、今回も日本は涙を呑んで領土的譲歩を行うことによって同じような成果を獲得するのだと述べた。

同上

8月10日、重光はクレムリンでフルシチョフ党第一書記及びブルガ-ニン首相との非公式会談に臨んだ。

この会談は、ソ連側は主にフルシチョフが強硬論を主張し、これに対して重光が反論、強硬論を応酬するという形で進行したが、領土問題に関するソ連の態度は、これまでの会談において提示されたものとまったく変わらなかった。

まず、ブルガーニンは、シェピーロフ外相が主張した見解はソ連政府が全会一致で採択したもので、最終的なものであると述べた。続いてフルシチョフも、ソ連はこれ以上の譲歩を行うことはないと断言し、さらには日露戦争の事例を持ち出して日本の侵略的態度を強く非難した。

これに対して重光は論駁を加え、また領土問題に関する日本側見解を繰り返し述べた。

両者に歩み寄りの気配は見られなかった。

松本、前掲書、107-109頁。

重光は、ここに至って南千島返還要求の撤回を決意し、ソ連案が提示した条件を「基本的に」了承すると述べたうえで、シェピーロフ外相との間で領土条項の文言の調整を行い、日本側が受け入れ易い表現を検討することを提案した。

フルシチョフとブルガーニンはこれを受け入れ、南千島の帰属が解決済みであるとするソ連側の原則に基づく限りにおいて、両国がともに受諾可能な領土条項の表現を模索することに合意した。

久保田、前掲書、137頁。

重光は、これで平和条約の締結は間近いと思ったであろう。

ソ連側が8月3日に提示してきていた領土条項は、第二次ロンドン交渉で松本に提示されたものと変わっていなかった。この条項は、千島列島と南樺太の主権承認に関する明文を含んでおらず、従って、南千島を含む千島列島と南樺太がソ連領であることを日本側が認めるものと解されずに済みそうであった。

日本の主張と矛盾せず、かつ、米国の要求と大きくは矛盾しない条項を成立させることは可能であるように思われた。

 

ソ連側草案は、下記のとおりであった。

РГАНИ, Ф.3, О.8, Д.356, л.22-32.

1.ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望に応え、かつ日本国の利益を考慮して、小千島列島を日本国に引き渡すものとする。本条に掲げる諸島嶼の引き渡し方法は、この条約に付属する議定書により定めるものとする。

2.ソ連と日本国との国境は、付属地図に示す通り、クナシルスキー海峡(根室海峡)およびイズメーナ海峡(野付海峡)の中央線とする。

 

8月11日、第三回目の非公式会談が行われた。重光は、このソ連草案に修正を試みたものを持参した(重光第一案)。

まず、日本側は、第一項にある「日本国の要望に応え、かつ日本国の利益を考慮して」という文言を削除することを要求した。

日本政府の立場からは、歯舞・色丹は本来日本領土なのであり、それをソ連は「返還」しなければならないのである。

すでにソ連領土になっていたものを日本に「引き渡す」というソ連側の態度を受け入れることはできなかった。

日本側が提示した修正案の、より重要な部分は次であった。

すなわち日本側は、ソ連草案の第二項全部を削除するよう要求したのである。

重光は、南千島を含む千島列島及び南樺太の帰属先に関しては、平和条約は何も言及しないこととし、そうすることによっこれらの領土の帰属は未解決であるとの国内向けの説明を可能にしようとした。そのためには、国境線が明確になってしまっては困るのだった。そして同時に、ソ連に対しては、日本政府は南千島における現状を黙認するという態度を示そうとしたのである。

しかしこの修正は、ソ連側には受け入れられるものではなかった。シェピーロフ外相は、ソ連側の意図は、歯舞・色丹の引き渡しにより、両国間の領土問題を解決するにあり、将来疑問の余地を残す如きはまったく意味をなさず、第二項はその意味において絶対に必要である。第一項についても、日本国の要望及び利益を考慮して云々の削除を求めるのはこれまたソ連の根本的な立場を無視するものであり、同意しない旨を述べた。

松本、前掲書、109頁。

第二次ロンドン交渉でソ連側は、南樺太と千島列島のソ連の主権承認、引き渡す二島の非軍事化、二島引き渡しによる領土問題の最終的解決といった重要な諸点について明文化を回避するという、ソ連としては大きな譲歩を行っていたが、明文化を回避したことは、これらの要求を取り下げたことを意味していたのではなく、国境線が明確に引かれる限りにおいて、南樺太と千島列島に対するソ連の主権承認、領土問題の最終的解決を同時に確保することができると考えたからに他ならない。

従って第一に、国境線画定を含まないのであれば、ソ連にとって平和条約を締結する意味はなかった

第二に、ソ連から見れば、重光の修正案は、南千島の帰属について将来再び問題提起をする余地を日本側に与えるものであった。そもそも、ソ連の安全保障上、南千島を確保することは最低限の要求であり、平和条約は、領土問題に最終解決を与え、南千島のソ連領有を確実に明確化するものでなければならなかった。これは重光の修正案に対する明確な拒絶であった。

重光もこのようなソ連側の反応は予想していたであろう。シェピーロフの拒否に対して重光は、以下のような第二の修正案を提出する。

同上。

重光第二案

1.ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望に応え、かつ日本国の利益を考慮して、小千島列島を日本国に引き渡すものとする。本条に掲げる諸島嶼の引き渡し方法は、この条約に付属する議定書により定めるものとする。

2.日本国は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権限及び請求権を放棄する。ソ連と日本国との国境は、付属地図に示す通り、クナシルスキー海峡(根室海峡)およびイズメーナ海峡(野付海峡)の中央線とする

これは、前述のソ連案から第二項を削除し、その代わりにサンフランシスコ平和条約の第二条c項を挿入するというものであった。

この修正案によって日本はソ連との関係においても南千島を含む千島列島と南樺太を放棄したことを認めることとなる。日本にとってこれは、実質的には南千島を放棄することを意味する、きわめて大きな譲歩であった。

しかし、この譲歩案でもこれらの島々の帰属先は、平和条約上は明文では規定されないことになるのであり、その意味で、将来における南千島の返還を否定したわけではないと辛くも説明することが可能であった。

また、サンフランシスコ平和条約の条文を活用することで、米国が異議を差し挟む余地を限定することができるはずであった。

ソ連の関心から見れば、一見、重光第二案は日本の南樺太及び千島列島放棄が明記されることによって、ソ連主権の黙認と領土問題の最終解決が、かなりの明確さをもって確保される点で受け入れの余地がありそうに見える。

ソ連側はなぜ、この重光第二案を拒否したのか。

ソ連側調書によれば、この時、ソ連側は日本側に、通境管理に関する条項を入れることを提案したが、日本側がこれを拒否したために、ソ連側は重光第二案を拒否したとされる。

«Соглашается на передачу Японии островов Хабомаи и Сикотан» Источник, №6, 1996г., с.107-136.

つまり、重光第二案では、国境線が明確ではないものの、通境管理条項が加わる限り、ソ連としては受け入れ可能と考えていた。

ではなぜ、日本側は通境管理条項の付加を拒否したのか。それは、通境管理条項を加えることで国境線が事実上明確になることが、南千島放棄の明確化に等しいと解釈したからであろう。

だが、ここに、南千島という日本固有の地に固執するあまり、国境を画定するという行為に伴う国際関係の現実を曖昧に済ませ、あるいは意図的に見ないようにする、日本外交の甘さを見ることができる。

国家間に境界線が引かれるのは、その範囲内のあらゆる資源についての帰属を明確にするとともに、その範囲内で起こる出来事についての管轄権の所在を明確にすることが合理的であると考えられるからである。

境界線が明確に引かれることによって初めて特定の空間・領域を接収し管理することが可能になり、その空間をめぐる社会的相互作用の制御を通じた、空間・領域の内部の人・物・事に対する権力の行使が可能となる。

山﨑孝史「政治地理学から見た領土論の罠」岩下明裕編著『領土という病』北海道大学出版会、2014年、7-26頁。

空間を明確に境界づけ、その空間内の人・物を排他的に管理する権限を国家に一元化し、境界を明確化することが近代主権国家体系における併存の根本原則であり、日本もその一員として戦後社会に復帰を果たし、ソ連との関係において国家間関係を回復させようとしているのであった。

ソ連にとってのみならず、あらゆる近代主権国家にとって境界は、内部と外部を区別し、望まない要素(人、物、武器、情報等)の侵入を防ぐ防御壁として、国家安全保障の中核的概念となってきた。

David Newman, “On borders and power: A theoretical framework,” Journal of Borderlands Studies, Vol.18, No.1, spring 2003, pp.13-25.

ソ連から見れば、日本側が提示した領土条項によって南千島の主権が黙認されるとしても、その境界がソ連の国境警備隊、陸海空軍の軍事力で防御されるのでなければ、そして、日本との境界周辺において今やもっとも差し迫った脅威となっている米軍艦艇・航空機の侵入を力によって当然に排除できる状況が確保されるのでなければ、ソ連がわざわざ平和条約で国境を画定する意味はな
のであった。

ソ連にとって重要なのは、小うるさい条文解釈論や抽象的なお題目ではなく、明確かつ最終的な国境画定であった。

ここに、やたら法律論を展開してソ連の主権承認を回避しようとする米国と、リアルな安全保障の問題として南樺太と南千島を含む千島列島の主権承認を捉えていたソ連との最大の違いを見ることができる。

 

シェピーロフはソ連の草案をそのまま受諾するよう重光に迫った。

松本、前掲書、109頁。

歯舞・色丹を確保し、南千島返還要求を完全には封じないという、閣議決定に沿った形での平和条約を締結し、アデナウアー方式による国交回復を阻止するという重光の期待は、8月11日のシェピーロフとの会談で完全に打ち砕かれたのである。

平和条約方式
平和条約方式とは、戦争状熊にある両国の懸案の一切を解決して平和条約を結び、大使を交換して正常な国交関係に入ろうとする通常の戦争終結の方式です。1955年6月以降のロンドンでの日ソ交渉はこの方式を目標としたために、ロンドン方式とも言われます。

(3)重光のソ連案受諾決意

ここで重光は、ソ連案を全面的に受け入れて、平和条約を締結するという方
針を選択し、8月12日、この決断を全権団に明かした。

同上、110-111頁。

だが、ソ連案受諾は、南千島返還の要求が貫徹できない場合も将来の国際会議における南千島の最終的帰属決定という可能性を残したうえで平和条約を締結すべし、との政府方針から大きく逸脱するものであった。

それにもかかわらずなぜ、重光はこのような選択を行ったのか。

その理由として考えられるのは、第一に、これまでの交渉の過程で日本側が獲得した歯舞・色丹の返還を確実に掌中に収めようとした、ということである。

鳩山が主張する「アデナウアー方式」による国交回復では、歯舞・色丹も領土問題の一環として棚上げにされるのであり、実質的に日本はこれらの島々の返還を断念せざるを得なくなると重光は考えていた。

また、8月8日にシェピーロフは、日本がこれ以上南千島に固執すれば、歯舞・色丹の返還を取り下げると述べていた。

これまでの日ソ交渉の成果を確保するためには、ソ連の提示した条件を受諾する以外に方法はなかったと言える。

事実、松本によれば、重光は松本に促され、東京の高碕達之助外相代理に次のような報告電を送ったという。

同上、111頁。

「交渉の模様はご承知の通りで、既に議論は尽くしとるべき手段はとったわ
けで、今は我がほうの態度を決すべく迫られている次第である。この上遷延し
てもただ体面を害し、我が立場を不利にするのみで、歯舞、色丹すら危険にな
る恐れがある。」

つまり、交渉を決裂させて日本に帰れば、次の交渉段階で「アデナウアー方式」が浮上してくることは必至であり、重光は、これを防がなければならないと考えたのであろう。

第二に、重光は、対米信頼確保の観点から、ことさら対ソ強硬姿勢をとってきた。

だが、すでに交渉開始から1年以上が経過しており、ソ連に対して十分強硬な姿勢をとり続けたとの判断が重光にはあったと考えられる。

また、モスクワへ発つ前に、重光はアリソンと会談して米国の立場を確認し、米国の基本的利益が損なわれない限り、また、これまでの米国の要求から大きく外れない限り、米国が異を唱えることはしないだろうと考えたのではないだろうか。

しかし、同行していた全権団の中には、松本をはじめとして、重光の決断に強い反対意見を持つ者もいた。

特に松本は、日本国内の対ソ世論は、領土問題をめぐって硬化しており、そのような背景の下では、ソ連案の全面的受諾は非現実的であると考えていた。

重光の提示した二案はもとより松本の念頭にもあったものであったが、南千島返還要求を封じてしまうソ連案の受諾は、松本さえも考えてはいなかったのである。

松本は、重光の翻意を促すべく説得を試みた。

全権として、交渉妥結については白紙委任状を受け取っていると主張する重光は、東京に請訓せずに自らの全責任を持って、ソ連案を受諾して平和条約を締
結することを断固として主張したが、結局、松本の説得に応じ、東京に自らの
見解を報告することに同意した。

同上。

重光は、8月12日と13日に東京に報告を打電するが、この報告電で彼が述べた内容は、次のようなものであった。

同上、112頁。

第一に、領土問題に関するソ連側の態度は不動のものであり、もはやこれを
変更せしめることは不可能であって、これ以上交渉の余地はなく、決裂を避け
ようとすれば先方の主張を容認する以外に方途がない現実に当面するに至った。

第二に、本日までに行われた条件で国交を正常化することは、わが政府とし
ても、また一般国民としても忍にたえないところであるが、事態を冷厳に観察
すれば、問題の実態はソ連との間にのみ取り残されている降伏の後始末をつけ
ことに他ならない。いまや難きをしのんで断を下すべき時期であると信ずる。

だが、重光の請訓に対する日本政府の反応は極めて否定的なものであった。

この臨時閣議で重光の請訓が否決された背景として一般には、現地における交渉の進展と、東京における状況把握にタイムラグがあり、東京では「まだ交渉は始まったばかり」であり、これから本格的に日本側の主張をぶつけようという時にいきなりソ連案受諾の請訓があったことが挙げられている。

だが加えて、下記の河野発言の影響も看過できない。

この河野発言は、ソ連側発言の不正確な解釈に基づくものであったが、米国にも伝えられ、日米の対応に一定の影響を及ぼしたと考えられる。

久保田正明によれば、「重光がモスクワで妥結の腹を固め、東京に請訓した時、河野は閣議の席上、重光請訓に強く反対して、『まだ妥結すべき時機ではない。もうひと押しすれば領土問題について打開の見込みがあるという確信がある。河野・ブルガーニン会談の内容はこれまで秘密にしてきたが、実はあの時ブルガーニンはクナシリ、エトロフは今すぐ解決することは困難だから、この問題は後日に譲って他の懸案問題を片付けようじゃないか、と提案してきたのが真相だ。

最高責任者のブルガーニンが約束したのだから、クナシリ、エトロフを放棄することなしに平和条約を結べるはずである』とぶった。

閣僚たちは『そうか、そんな約束があったのなら…』と思い、官房長官の根本は党の総務会にでかけていって河野発言を披露したりした。」

久保田、前掲書、153-154頁。

 

さらに、この時の河野の発言は、松本滝蔵官房副長官を介して米国にも伝えられた。

松本はアリソンに対し、8月14日、「河野は(重光のソ連案受諾決意に)反対する立場をリードした。

5月にブルガーニンが河野に語ったところでは、国後・択捉は双方譲らず解決困難だから棚上げにしようということになっていた。」と伝えた。

“Allisonto Dulles,” 14 August 1956, 661.941/8-1456, NA.

 

しかしながら、5月9日の会談で河野がそのように受け取った会話は、10月17日のフルシチョフとの会談の場で、次のように明示的に否定されている。河野はフルシチョフに対し、「その時ブルガーニン首相は私にこう言った。ソ連政府は日本に歯舞・色丹を引き渡す。これについてはすでにロンドンで何度か話し合った。だが、この領土引き渡しはソ連政府が領土問題で譲ることができる最大限のものだ。自分は日本国民が国後・択捉の返還を求めていることは知っているが、これら領土の日本への引き渡しはまったく考えられないし不可能だ。今話し合っているのは歯舞・色丹の日本への引き渡しであり、残りのすべては後で解決されよう。われわれは見解が一致している点について合意するべきだ、と。」ここで河野が指しているのは「残りのすべては後で解決されよう」という一節である。

ブルガーニンは、先に国後・択捉についてはまったく問題にしえないことを明確にしており、「残りのすべて」に国後・択捉が含まれないという前提での会話である。

この河野の発言についてフルシチョフは「河野さん、あなたはブルガーニンとの会話を不正確に解釈しているようだ。ソ連政府は日本政府に対して繰り返し、ロンドンではマリク全権を通じて、モスクワでも何度も、平和条約締結を条件として歯舞・色丹を引き渡す、それで外交関係を回復しようと言ってきた」と答えている。

«Соглашается на передачу Японии островов Хабомаи и Сикотан» Источник, №6, 1996г., с.107-136.

根本竜太郎官房長官は重光に対し、日本政府は、8月10日のソ連首脳と重光の非公式会談をもって交渉が本格的に一歩入った、と観察しており、重光が早々にソ連案の全面的受諾に傾いたことを、驚きをもって受け止めたのであって、あまりに早い譲歩の風評は、政府党内事情からしてもきわめてまずい、先方首脳との会談はその都度報告ありたく、なんらか従来の態度変更の際は請訓ありたい、と伝えてきた。

そして政府は、ソ連側の強硬な態度に対して一時的に冷却期間を置くため、重光に対して、ロンドンでのスエズ運河問題に関する国際会議に出席すべきであるとの訓令をモスクワに送った。

松本、前掲書、113頁。

続いて高碕大臣は重光宛に、12日の閣僚党三役等の協議の模様について、ソ連案は原案のままではとうてい受諾できないとの意見で一致した、と伝えてきた。

また、次いで13日午後に開かれた臨時閣議では、「この際直ちにソ連案に同意することについては閣内挙って強く反対し、また国内世論もすこぶる強硬であると判断されるについてはソ連案に同意することは差し控えられ、貴全権は直ちにロンドンへ赴かれたい」と重光に訓電することとなった。

この時、日本の世論は重光外相の強硬な対ソ主張をすこぶる痛快に考えており、これを全面的に支持していた。

ソ連の態度には何ら柔軟性がなく、ソ連案をそのまま押し付けようとするソ連の力の外交を毅然として排除する、という態度を日本の世論は望んでおり、決して早急の妥結を許すような空気ではなかったのである。

同上、112-113頁。

重光は、東京からの訓令に従って日ソ交渉の一時中断をシェピーロフに申し入れ、スエズ運河利用国連盟による国際会議に出席するため、ロンドンへと向かったのである。

 

3.「ダレスの恫喝」と平和条約方式の挫折

(1)第一回重光・ダレス会談(8月19日)

ワシントンでは、島重信駐米公使が8月10日に日ソ交渉の経過を米国に報告し、交渉の見通しとして、歯舞・色丹が日本領であることのみ明確にし、国後・択捉を含む千島列島の処理についてはサンフランシスコ平和条約の条文によって曖昧な形で残すことになるだろうと述べた。

“Soviet-Japanese Negotiation in Moscow,” 10 August 1956, 661.941/8-1056, NA.

重光は、サンフランシスコ平和条約の条文を活用することで、日ソ平和条約がサンフランシスコ条約の枠内にあることを米国に対して示しつつ、歯舞・色丹を確保し、かつ国後・択捉の地位に曖昧さが残るような妥結を考えていたのである。

だがこれが、通境条項に関する日本側の態度によってソ連側の受け入れるところとなかった以上、歯舞・色丹を確保するために国境線を引くことは、もはややむを得ざる選択であると重光は考えたことは、前述のとおりである。

だが、その場合も対米信頼を失わないことを重要志した重光は、明確な支持は
得られずとも、米国が少なくとも異を唱えないやり方がないか、思いつく限り
の思案を凝らしたと言える。

8月13日、島公使は国務省を往訪してシーボルト極東問題担当国務次官補と会談し、「日本が南樺太と千島列島に対するソ連の主権獲得に異存はないとすることに同意するとしたら、米国はいかなる立場に立つか」と尋ねた。

島公使は、この会談で求めているのは米国政府の公式な立場ではなく、あくまで非公式な照会であると表明した。

島公使は、ソ連が最終案として示している領土条項は南樺太と千島列島の主権
承認を含むと考えられるので、米国に確認したほうがいいと考えたのだと語っ
た。

“From State Department to US Embassy in London,” 14 August 1956, 661.941/8-1456, NA.

ソ連案が、文面上は国境線を記すだけのものであったことをふまえるならば、この条文は南樺太千島列島の主権承認を含まないと言い張ることもできたように思われる。

これに対してシーボルトは、日本はサンフランシスコ平和条約第2条において南樺太と千島列島に対する権利、権原、請求権を放棄したのだから、これを誰に対しても引き渡すことのできる立場にはない

日本がソ連の主権を承認するなら、日本はソ連に平和条約におけるよりもより好意的な取り扱いをすることとなり、われわれはサンフランシスコ平和条約第26条に基づく権利を留保することになる。そのような権利は沖縄と台湾を含むと解釈され得る、と答えた。

島公使は、重ねて、ソ連の主権獲得に日本としては異存がないとするだけだとしたら、米国はいかなる反応をするか、尋ねた。

シーボルトもまた重ねて、日本はソ連に平和条約におけるよりもより好意的な取り扱いをすることとなり、われわれは第26条に基づく権利を留保することになる。

われわれは、ソ連が千島列島の定義の問題の解決と、南樺太及び千島列島に関する主権承認への同意を日本に強いているのだと認識している。

日本の立場を擁護するために国際司法裁判所への付託が条約で確保されているのだ、と答えた。

“Memorandum of Conversation,” August 13, 1956, 661.941/8-1456, NA.

なお、“Notes Prepared in the Office of Northeast Asian Affairs,” 27 August 1956, FRUS 1955-1957, Vol. XXIII, pp.210-211.

は、ダレス発言は、国務省スタッフの案出したものではなく、もっぱらダレス長官自身の発案によるものだとしているが、島・シーボルト会談録は、国務省内にダレス発言の発想がもとから存在していたことを示唆している。

重光は、

①南樺太及び千島列島に対するソ連主権の承認ないしソ連主権に異を唱えない旨の確約はサンフランシスコ平和条約に反するか、

②海峡通航を日本海沿岸諸国の軍艦に限定する旨の海峡通航条項を日本は受け入れることができるか(すでにこの条項が日米安保条約に反するとの示唆は受けているが)、

の2点について、日本大使館経由で国務省に照会している。

“Hoover to Amembassy London,” August 16, 1956, 661.941/8-1456, NA.

このうち、①については、上述のとおり島公使がいち早く国務省に確認を行って否定的な回答を得ていた。

重光からの照会を受けてフーバー国務次官は8月16日、重光が海峡通航条項での譲歩を日本政府に進言したかどうかは分からないとしながらも、少なくとも日本政府は、そのような印象を受けていると在ロンドン、在モスクワ、在東京の米国大使館に伝達している。

Ibid.

②は、後述する下田武三条約局長訪米時の記録をふまえるならば、①に対する米国の回答が否定的であることを念頭に、すでにソ連が海峡通航条項の取り下げを示唆していたことをふまえてこれを強調し、ソ連案受諾について米国の了解を促す観点から行われた照会であると考えられる。

しかしながら、米軍艦艇の行動規制に関わるソ連の要求は、明らかに日米安保と両立しえないものであり、その容認を示唆する重光の照会は、交渉戦術のためとはいえ日米の信頼関係の根幹に触れる危険性があった

政府の訓令により、モスクワ交渉を中断してロンドンで開かれたスエズ運河問題に関する国際会議に出席していた重光のもとには、すでにワシントンの大使館を通じて、①の照会に否定的なシーボルトの見解が伝えられていた。

“Memorandum of Conversation Between Secretary of State Dulles and Foreign Minister Shigemitsu, Ambassador Aldrich’s Residence, London,” 19 August 1956, FRUS, pp.202-204.

8月22日の会談で重光は、まずダレスに質問した。

「ソ連は歯舞と色丹の北に国境線を引くことを望んでいるが、サンフランシスコ平和条約から見てそれは合法であろうか」という質問である。

Ibid.

ダレスはこの質問には答えず、「千島と沖縄は降伏条件の中では同じように
扱われた。そして米国は、平和条約で沖縄の潜在主権が日本に残るかもしれな
いということに同意したが、同時に26条で、もし日本がロシアに対してより
良い条件を与えるならば我々も同じ条件を要求できると規定している。」

「これは、もし日本が千島の完全な主権がソ連にあることを認めるならば、同じようにわれわれも沖縄に対する完全な主権が米国にあると考えることを意味するであろう」と述べた。

Ibid.

この会談の席上重光は、ソ連が南千島を返還する見込みがない以上、日本と
してはソ連案を受諾する以外に道はないとの判断を述べた。

これに対してダレスは極めて否定的な反応を見せた。

重光は、米国が千島と沖縄の地位について話し合う会議を開催するイニシアティブをとる用意があるか、問いただしたが、ダレスはこの提案にも消極的であった。

Ibid.

ダレスは、重光と会談する以前に、「重光以外の閣僚たちがソ連側の条件で協定に調印することにこぞって反対だった」ことを把握していた。

8月14日、アリソン駐日大使は、日本の情報筋からとして、この件を国務省に伝えていたのである。

Ibid.

重光外相が「これら(琉球)諸島の地位は第三条に明確に規定されており、見直すことなどありえない」と述べたことに対し、ダレス長官は、「これはサンフランシスコ平和条約第26条によるものではない」と訂正しながらも、なお沖縄問題と千島問題を直接結びつけつつ、「日本はこのサンフランシスコ条約第26条をソ連との交渉で利用することができる」と述べた。すなわち、「日本はソ連に対して、千島をあきらめれば沖縄もあきらめなければならなくなるから譲歩はできない、と言って粘ることができる」として、強硬な姿勢でソ連との交渉を続けるように促した。

Ibid.

重光は、ダレスがここまで強硬な立場を表明するとは考えていなかったのであろう、「長官が仰ったような厳密な解釈をとられるのであれば、日本として
は改めてソ連と(の交渉を)やり直さなければならない。日本の立場は、国後・択捉は正当に日本の領土であり続けてきたのであり、ソ連によっても一度も疑問に付されたことはないというものである。だが、ソ連は米英との戦時の合意によってこれらの島の処理は決定済みであるとしている」と述べた。

これに対してダレスは、そうではない、戦時の合意は平和条約における検討のための勧告に過ぎない、トルーマン大統領は一度もこれらの島に対する権原(title)がソ連にあると認めたことはない、と述べた。

Ibid.

ここに至って重光は漸く、問題の根底にあるのがヤルタ合意であることに気
づいたのではないか。

ソ連案を受諾することは、ヤルタ合意を南樺太及び千島列島領有の根拠とするソ連の主張を認めることであった。

ヤルタ合意を承認しない立場をとっているからこそ米国は、サンフランシスコ平和条約で放棄した南樺太と千島列島のソ連帰属を日本に認めてもらっては困るのであった。

サンフランシスコ平和条約体制それ自体が重要なのであれば、日本は千島列島と南樺太に対するソ連の主権を承認できる立場にないとしても、日本がサンフランシスコ平和条約におけると同様に南樺太と千島列島の放棄を確認してソ連と協定に達することは、日米間に少々の解釈の相違を生むとしても、できないことではなく、ましてや違法であるとは言いえなかったはずである。

だからこそダレスは、国境線を引くことがサンフランシスコ条約の違反かどうかという重光の問いに答えなかったのである。

「ソ連の主権を承認することを意味するいかなる行動もとらないことを希望する」とは、詰まる所ヤルタ合意を認めてくれるなという意味であり、そのためには、日本が南樺太と千島列島の放棄を確認してソ連と協定に達することはもとより、国境線を引くことさえ許されないのであった。

ダレスとの会談を終え、やや青ざめた顔でホテルに戻ってきた重光は、「ダレスはまったくひどいことを言う。『もし日本が国後、択捉をソ連に帰属せしめたら、沖縄をアメリカの領土にする』ということを言った」と言って、松本
に「すこぶる興奮した顔つき」でダレスの言い分を説明した。

松本、前掲書、117頁。

松本は、もとより重光の交渉姿勢には疑念を抱いていたが、ダレスのこの脅しに対しては重光同様、強い反感を持った。

FNNニュース、2019年1月18日。は、「ダレスの恫喝」に関する新史料として、この時期松本が妻に宛てて認めた私信を紹介している。「米国は、ソ連が千島列島をとるなら琉球は米国がとると乱暴なことを言い始めた。」「全く泥仕合になってしまった。」「譲歩はするな、しかし決裂するなというのですから、ばかばかしいような気もします。」といった言葉が綴られているという。

<https://www.youtube.com/watch?v=PHaH2lMwueU>(2020年8月29日最終アクセス)

ダレス発言が報じられると日本国内は騒然とした。

衆議院外務委員会の場においては、菊池義郎自由民主党衆議院議員より、「ダレス長官の警告はまことにずさんなものであって、まるで日ソ交渉に水をさすような疎漏な、理論的にも何もなっていない」発言であるとの問題提起がなされた。

第24回国会衆議院外務委員会1956年8月30日。

さらに岡田春夫日本社会党衆議院議員は、米国の動機そのものに対し、次のように強い不信を表明した。

南千島の領土問題について、ダレス長官が、南千島の領土は日本に明らかに主権がある、固有の領土であるというようなことをもし言ったんだとするならば、これは明らかに日本を支援している態度だと思う。ところがダレス長官の言ったのはどうですか。ソビエトが南千島をとったならば、それと同一の利益をアメリカがとるであろう。これはどういう支援の仕方だ。あなたの背後から銃剣を突きつけて、ソビエトと決戦をしなければうしろの銃剣がこわいのだぞという、こういう支援の仕方なんですが、これはどういう支援の仕方なんですか。アメリカが日本の国を植民地のような形でこき使おうという、そういう支援の形じゃないですか。そういう支援の仕方でけっこうだとあなたはお考えになっているのですか。これはほんとうの支援じゃないのです。アメリカの言っているのは、領土根性がアメリカにもあるということを言っているのですよ。南千島をとろうというなら、アメリカは沖繩をとろうということを言っているんですよ。火事場どろぼうの根性ですよ。こういう根性に対して、日本政府がほんとうに自主独立の考えがあるならば、いかにアメリカといえども、日本と友好関係にあるアメリカであるならばなおさら、はっきりと日本はそういうような支援では困るという立場を断言すべきじゃないかと思うのです。

同上。

また、第26条の解釈についても、「これは一党一派や一国の便宜のために解釈さるべきものではない」「これを領土にひっかけようとすることは、この26条の曲解である」といった問題提起がなされ、高橋通敏外務省条約局次長が、「私どもとしましては、第26条は前段も後段もやはり3年で満了するのじゃないか、たとい満了しない場合でも、領土問題のごとき特殊な問題には適用がないのじゃないかと考えております」

と回答するなど、日本政府も含めて、ダレス発言はすこぶる評判が悪かった。

同上。

(2)第二回重光・ダレス会談(8月24日)

ダレスは、自らの発言が日本で反米感情を引き起こしてしまったことを苦々
しく思ったに相異ない。

8月24日に重光が再びダレスと会談した際、ダレスは「19日の会談とは余程違った態度で」、むしろ米国の領土問題に対する強硬な態度は、日本のソ連に対する立場を強めるためのものであると説明した。

松本、前掲書、117頁。

この会談で重光は、ダレスに「千島列島の問題は、サンフランシスコ平和条約締約国の問題であり、日本がソ連に対して権原を付与する立場にあるかが焦点である、として関係国による国際会議の開催を再度提案した。

“Memorandum of a Conversation, Ambassador Aldrich’s Residence, London,” 24 August 1956, FRUS 1955-1957, vol. XXIII, pp.207-209

重光が国際会議案を再度提案した背景には、依然として重光は、日ソ国交回
復は領土問題の解決を前提とした平和条約の締結によって実現されるべきであ
ると考えていたことがあったと考えられる。

つまり、日本が仮にソ連案受諾によって南樺太と千島列島に対するソ連の主権を認める形となったとしても、日本がサンフランシスコ平和条約でこれらの領土を放棄している以上、日本にはこれらの領土の最終的帰属を決定する権限はないのであり、日本が放棄した後、帰属が決定していない領土について、その帰属はサンフランシスコ平和条約締約国の合意に基づく国際取り決めによって決定されるという形をとることができたならば、米国の要求から逸脱することなくソ連案を受諾して歯舞・色丹の返還を確保することができるのである。

重光はここに平和条約方式の生き残りの最後の方途を見出したのである。

他方ダレスは、国際会議案には慎重な態度を取りつつ、日ソ交渉に対する立
場をより明確な形で示すための検討を国務省スタッフに対して指示してい
た。

“Telagram From the Secretary of State to the Department of State,” 22 August 1956, FRUS 1955-1957, vol.XXIII, pp.204-205

検討における争点は、

①サンフランシスコ平和条約第26条の有用性、

②国際会議案の是非、

③国後・択捉に関する米国の立場、

の3点であった。

梶浦篤「日ソ復交交渉に対する米国の戦略(I) – (IV)」『政治経済史学』第546-549号、2012年。

8月25日、ロバートソン国務次官補は、ダレスに対し、

①について、第26条という具体的な条項や沖縄に対する主権を示唆することは逆効果であり、米国は、条約上の権利を留保すると言及するにとどめるべきである。

②について、ソ連がこの会議に参加する可能性は低く、仮に参加してもソ連は中国政府の参加を要求し、台湾、沖縄等の問題を提起する可能性があるため、これには強く反対し、日本独自の判断を促すべきである、

③について、重光のソ連案受諾決意に対して日本政府が見せた反応の如く、国後・択捉について日本は譲歩しないとの立場を日本自身が維持するのであれば、米国は従来の立場を変更する必要はない

との見解を伝えた。

“Japan-USSR Peace Treaty Negotiations,” 661.941/8-2556, August 25, 1956, Central Files, NA.

また、8月30日、アリソン大使はダレスに対し、国際会議開催は、サンフラ
ンシスコ平和条約の規定に沿った法的には正当なやり方であり、また、結果と
して未解決に終わった場合、その責めを転嫁することができるという利点はあ
るが、そのような会議にソ連が参加するはずがなく、仮に参加してもソ連は台
湾と沖縄の問題をこの国際会議の議題に含めるよう要求し、中国の会議参加も
要請するであろうとして、否定的な見解を伝えた。

“Allison to Dulles,” August 31, 1956, 661.941/8-3056,NA.

さらに、アリソンは、日本社会党がこの機会を捉えて、沖縄の全面的返還を米国に要求する可能性について懸念を伝えている。つまり、国際会議を開催しても何ら実質的な結果は得られないにもかかわらず、米国が会議の敗者の立場に置かれることになるだろうというのがアリソンの結論であった。

Ibid.

以上の分析に基づいてアリソンは、ダレス発言がリークされて日本国内に知れ渡ってしまっている状況下では、米国政府は、これまで維持してきた不介入政策をとり続けるよりも、より積極的に介入すべきである。その具体的方法としてアリソンは、日本の領土的要求を明確に支持する声明を米国政府が公表するように提案した。つまり、択捉と国後の両島は、サンフランシスコ平和条約の第2条に規定された千島列島には含まれないとの日本政府の解釈を米国政府は支持し、また、道義的、歴史的、法的な立場からこれらの島々が日本に即時返還されるべきであると米国政府は信じるという内容の声明を公表するよう進言した。

ダレスはこれを容れ、国務省は声明文の作成に取り掛かった。同時にアリソン大使は、この件に関して自分が日本政界の要人たちと会見し、その結果を報告するまでは、いかなる決定も控えるよう進言したのである。

“Telegram From the Embassy in Japan to the Department of State,” 30 August 1956, FRUS 1955-1957, vol.XXIII, pp.212-213.

8月31日、アリソン大使は国務省に宛てて、岸信介自民党幹事長、根本竜太
郎内閣官房長官、松本滝蔵官房副長官との会談結果を報告した。

アリソン大使は、これはあくまでも自分個人の提案であるとしながら、米国が単独で、ないしサンフランシスコ平和条約に調印した他の国々とともに、国後・択捉に対する日本の要求に対する支持を表明する可能性を提案した。

“Telegram from Allison to Dulles,” 31 August 1956, 661,941/8-3156, NA.

アリソンによれば、岸も根本もこのような文書は内容と発表のタイミングが重要だと強調しつつ、「大変に有益なこと」であるとして賛同した。

岸は、そのような内容の決定が行われる場合には、日本のリーダーたちとの事前協議が行われることを期待すると述べた。

これらをふまえ、アリソンは、有害な国際会議の開催を追求するよりも、日本のリーダーたちと協議しながらこのような声明を発表することで、ダレス発言のリークによって大きく騒がれた不運な米国の失敗を挽回するべきであると進言したのである82。

Ibid.

(3)下田条約局長訪米(8月27日)

一方、モスクワで重光外相に随行していた下田条約局長は、帰路訪米して8月27日、国務省でダレス発言の真意を確認した

この場でシーボルト極東問題担当国務次官は下田に対し、「ダレス長官は重光外相に、米国はヤルタ合意に拘束されないということを伝えたのだと私は理解している」と語った。

“Soviet-Japanese Peace Treaty Negotiations,” 661.941/8-2756, August 27, 1956, Central Files, RG59, NA.

要するに、ダレスの立場は、ポツダム宣言とサンフランシスコ平和条約によって日本が放棄した南樺太と千島列島の帰属は確定していないし確定させるつも
りはない、ましてやヤルタ合意を根拠にこれらの領土の主権を日本に認めさせ
ようとするソ連の主張を米国は決して認めないし、日本がこれを受け入れるこ
とにも反対であり、日本にはそもそもその権限がない、ということなのであっ
た。

下田は、自分は政府の立場を代弁しているわけではないとしながらも、日本の採り得る選択肢は、

①ソ連案を受諾する、

②ソ連案を拒絶し、いつまでも国交回復できないリスクに直面する、

③連合諸国、特にサンフランシスコ平和条約に責任を持つ米国に対し、領土問題の国際的な解決を委ねる、

の3つに限られているとし、

②には抑留者が帰還できない、国連加盟が遅れる、漁業協定の発効遅延、といった深刻な不利益がある。

③についても、ソ連がすでに力で手にした領土の帰属について話し合う国際会議に出席するとは思えず、困難である。

日本にはソ連案受諾しか残されていないのだと説明した。

これに対してシーボルトは、国後・択捉に関する米国の立場について現在検討中であり、これには少し時間がかかると答えた。

Ibid.

下田は、海峡通航条項に話題を移し、この条項については早期からソ連側が取り下げを示唆しており、自分がモスクワを発つ前にクルジュコフ極東課長から再度取り下げの示唆があったことを米国側に伝え、海峡通航条項は米国にとって領土問題よりも重要である、海峡通航条項でソ連が譲歩するなら米国も領土問題で譲歩できるはずであると述べて、ソ連案受諾を再度押した。

Ibid.

だが、シーボルトは、米国は、海峡通航に関するソ連の主張に対しサンフランシスコ講和会議の時点から常に反対してきたとして下田の主張を退けた。

この会談において、重光の試みた平和条約方式は最終的に潰えたと言えるであろう。事態はすでに、米国による日本の国後・択捉返還要求支持表明に向かって確実に動き始めていたのである。

この後ダレスは、9月7日、次の内容を持った覚書(Aide-Memoire)を谷大使に手交した(公表は13日)。

“Memorandum of a Conversation, Secretary Dulles’ Residence,” 7 September 1956, FRUS 1955-1957, vol. XXIII, pp.227-232.

この覚書は、「ダレス発言の棘を抜き、日本支援の立場を明らかにしつつも、ダレス発言の主旨を曲げないように配慮されたもの」であった。

坂元一哉「日ソ国交回復交渉とアメリカーダレスはなぜ介入したか―」『国際政治』第105号、1994年1月、144-162頁。

それは第一に、ヤルタ合意は領土処分の最終決定ではないこと、日本はサンフランシスコ平和条約で放棄した領土に対する主権を他に引き渡す権利を有していないこと、仮にそのような行為がなされたとしても、それは条約調印国を拘束しないし、それらの国は自らの条約上の権利を留保するであろう、という従来からの米国の立場を確認している。

“Memorandum of a Conversation, Secretary Dulles’ Residence,” 7 September 1956, op.cit.

そして第二に、日本がソ連に引き渡す権利のない領土の帰属決定について、従来の米国の立場に沿って「国際的解決手段」によることを確認している。

しかし同時に、重光が提起したこの問題を議題とする国際会議の開催については、米国政府は否定的な態度を明らかにしている。

覚書とともに日本政府に渡された口上書(OralPoints)は、そのような会議を開いても現在のところは望ましい結果が得られないであろうとしている89。

Ibid.

しかし、米国にとってより重要な理由は、そのような国際会議を開けば台湾や沖縄の帰属の問題が提起される危険性にあった。これを回避せんがために、国際会議開催による日ソ間の領土帰属問題の解決は先送りにされたのである。

第三に、従来、米国が日本の返還要求に「反対しない」という立場をとってきた国後・択捉について、歴史的事実の慎重な検討の結果、これらの島はこれまで常に「日本固有の領土」の一部であり「正当に日本国の主権下にある」ものとして認められるべきであるという、新たな立場を打ち出していた。

Ibid.

これは、もちろん、両島に関する日本の主張を従来よりも強く支持する見解である。ただし、この時点では、国後と択捉は放棄した千島列島に含まれていないという日本の主張をそのまま認めたわけではなかった

覚書の基礎になったメモは、日本は国後・択捉について、「歴史的に常に日本
領であって、決して日本が力によって奪ったものではなく、公平に見て日本領
とみなされるべきである、という優れた言い分を日本は持っている。しかし、
両島は日本および国際的な慣習では千島列島の一部として記述されてきたので
あり、サンフランシスコ平和条約で言うところの千島列島の一部でないと証明
することは難しいであろう」と記している。

“Memorandum From the Assistane Secretary of State for Far Eastern Affairs(Robertson) to the Secretary of State,” 3 September 1956, FRUS 1955-1957, vol. XXIII, pp.216-222.

そのため覚書は、法的な問題には直接触れず、日本の主張が歴史的に見て正当であるということのみを強調したのである。法はともかく正義によれば両島は日本領であるというのがアメリカの立場であった。

溝口修平「日ソ国交正常化交渉に対する米国の政策の変化と連続性」『国際政治』176号、2014年3月、111-125頁。

日本がこのような形で対ソ姿勢を強化することは、米国の利益に適っていた

口上書において米国は、その戦略的価値から判断してソ連が国後・択捉をあきらめることはないであろうと述べている。

そのうえで、米国によって「固有の領土」と認められた以上、日本が国後・択捉をあきらめることが難しくなる状況を期待したのである。

実質的にこれは千島の現状維持を意味していた。

おわりに

二度のロンドン交渉で全権を務めた松本は、重光による第一次モスクワ交渉
について、「きわめて不幸な交渉であって、はじめから双方けんか腰であったし、最後は重光さんは意外な譲歩をあえてしようと試みた。そうしてその結果何ら得るところはなかった」と述べている。

松本俊一「日ソ国交回復と北方領土」鹿島平和研究所編『現代日本の外交』 182-193頁。

しかしながら、この交渉の後、日本国内が急速に「アデナウアー方式」での妥結支持に傾いていた状況をふまえるならば、第一次モスクワ交渉は、戦後の不当な現状に少しなりとも変更を加え得る最後の機会だったと言える。

そして、現実を冷静に見据えたとき、日本外交が直面していたのは、「やむを得ざる譲歩として国後・択捉の現状を黙認しながらも歯舞・色丹をいかに確保するか」という、仮に成功裏に果たしたとしても批判しか受けようのない課題であった。

しかも、歯舞・色丹の返還は、容易に達成可能な目標では決してなかった。

ソ連は、南樺太と千島列島の主権承認につながる、そしてソ連の安全保障上の要求に応える国境線を画定すべく、日本に二島引き渡しを提案した。

他方、米国は南樺太と千島列島に対するソ連の主権をいかなる意味においても認めようとしなかった。

第一次モスクワ交渉は、ヤルタ合意の評価をめぐって米ソの主張が真っ向から対立するなかで展開された、日本としてはきわめて厳しい状況下での交渉だったのである。

本稿は、「北方領土問題」についていかなる立場をとるべきかという問題を論じてはいない。

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