日ソ国交回復交渉の経緯

北方領土問題

日ソ国交回復交渉(以下、「日ソ交渉」)は、1955年6月1日~1956年10月19日にわたって断続的に行われた。

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吉田茂内閣にかわって登場した鳩山一郎内閣は、当時、ソ連との国交回復を外交方針に掲げ、1955年6月からロンドンで松本俊一代表とマリク代表との間で会談を開始せしめたが、領土問題で行き詰まり、1956年3月に無期休会となった。

同年7月、モスクワで重光葵外相とシェピーロフ外相との交渉が再開され、その結果、平和条約の締結を棚上げして、共同宣言に合意するに至った。

 

第一次ロンドン交渉(1955年6月~9月) 松本・マリク会談(日ソ)

「サンフランシスコ平和条約(日本国との平和条約)」への署名を拒否したソ連と個別に平和条約を結ぶため、1955年(昭和30年)6月からロンドンにおいて、日ソ国交調整交渉が日本の松本全権とソ連のマリク全権との間で行われ、翌1956年(昭和31年)3月までに23回の会談が行われた。

交渉はロンドンのソ連大使館で始まった。日本側全権は外務次官や駐英大使を務めた衆院議員の松本俊一。ソ連側全権は元駐日大使のヤコブ・マリクだった。

1955年5月28日 松本全権がロンドンへ出発

6月3日 第1回

追加訓令で日本は「北方四島のみ主張し、残りは将来開催されるべき国際会議の決定にゆだねる」で譲歩した

https://core.ac.uk/download/pdf/145785706.pdf

6月7日 第2回

松本は7ヶ条の覚書を手渡し、日本側の考えを説明した。

6月14日 第3回

ソ連側が12ヶ条からなる平和条約草案を提示した。これ南樺太と千島列島に対するソ連の完全な主権承認を要求していた。

6月21日 第4回

6月24日 第5回

6月28日 第6回

7月15日 第7回

7月26日 第8回

8月2日 第9回

8月9日 第10回

1955年8月16日 第11回

日本は平和条約案を提示した

8月23日 第12回

8月30日 第13回

9月6日 第14回

9月13日 第15回

1955年10月1日 松本全権が帰国

第二次ロンドン交渉(1956年1月~3月) 松本・マリク会談(日ソ)

1955年1月7日 松本全権がロンドンへ出発

1月17日 第16回

1月24日 第17回

1月31日 第18回

2月7日 第19回

2月10日 第20回

3月9日 第21回

3月13日 第22回

3月20日 第23回

1956年3月30日 松本全権が帰国
第二次ロンドン交渉でソ連側は、南樺太と千島列島のソ連の主権承認、引き渡す二島の非軍事化、二島引き渡しによる領土問題の最終的解決といった重要な諸点について明文化を回避するという、ソ連としては大きな譲歩を行っていた。
明文化を回避したことは、これらの要求を取り下げたことを意味していたのではなく、国境線が明確に引かれる限りにおいて、南樺太と千島列島に対するソ連の主権承認、領土問題の最終的解決を同時に確保することができると考えたからに他ならない。

第一次モスクワ交渉(1956年7月~8月) 重光・アリソン会談(日米)

http://fxtrader.wp.xdomain.jp/?p=973 

第一次モスクワ交渉に際しての日本政府の方針では、少なくとも将来において南千島の返還を要求できるような可能性を残せれば、南千島の返還要求を取り下げて交渉の妥結を図ることは重光には許されていた。

 

1956年7月24日

重光は出発を目前に控え、最終調整のためアリソン大使を往訪した。

その席でまず重光は、1955年10月21日に国務省から谷大使に対して伝えられた、千島列島の範囲についての日本政府からの照会に対する関する回答の再確認を求めた。

1956年7月26日 重光首相・全権 モスクワへ出発

7月31日 第一回 公式会談 重光・シェピーロフ全権

ソ連は歯舞・色丹の引き渡しが最大限の譲歩であることを強調

日本は、国後・択捉を日本に返還することにソ連が合意すれば、北千島及び南樺太に対するソ連の主権を黙認する提案。また、ロンドン交渉で主張してきた千島列島と南樺太の帰属を連合諸国の国際会議で決定するという点は取り下げた。

8月3日 第二回 公式会談 重光・シェピーロフ全権

ソ連側回答は、領土問題は解決済みであるとの従来のソ連の立場を繰り返すものであった。

歯舞・色丹については、日本がこれらの島々の返還を要求していることに鑑み、ソ連政府の平和的外交方針にのっとってこれらの領土を日本に返還することを再度強調した。

この日ソ連が提示した領土条項は、第二次ロンドン交渉で松本に提示されたものと変わっていなかった。

8月6日 第三回 公式会談 重光・シェピーロフ全権

両国の全権は、領土問題について自国の主張を繰り返すにとどまり、交渉は完全な停滞状況を呈した。

8月7日 非公式会談 重光・シェピーロフ全権

ここでも交渉はまったく進まなかった。

8月8日 第4回公式会談 重光・シェピーロフ全権

日本がこのまま南千島に固執した場合は、ソ連政府は歯舞・色丹の返還提案すら撤回する可能性のあることを示唆した。

8月9日 会談 重光・シェピーロフ全権

ソ連側は、より明確に「その他の諸問題との関連において」歯舞群島と色丹島を引き渡すことを示唆した。

8月10日 会談 重光・フルシチョフ及びブルガ-ニン首相

膠着状態を打開するために、重光はソ連の指導者との政治的決着を図る。

この非公式会談の前日、重光は、集まった記者団に対して、ソ連が態度を変更するとは考えられないため、南千島返還の要求を撤回することを告げ、歯舞・色丹の返還という条件で日ソ平和条約を締結するよう努力することを暗示した。

両者に歩み寄りの気配は見られなかった。

重光は、南千島返還要求の撤回を決意し、ソ連案が提示した条件を「基本的に」了承すると述べたうえで、シェピーロフ外相との間で領土条項の文言の調整を行い、日本側が受け入れ易い表現を検討することを提案した。

フルシチョフとブルガーニンはこれを受け入れ、南千島の帰属が解決済みであるとするソ連側の原則に基づく限りにおいて、両国がともに受諾可能な領土条項の表現を模索することに合意した。

8月11日 会談 重光・シェピーロフ

重光は、このソ連草案に修正を試みたものを持参した(重光第一案)

しかしこの修正は、ソ連側には受け入れられるものではなかった。ソ連側の意図は、歯舞・色丹の引き渡しにより、両国間の領土問題を解決するにあり、将来疑問の余地を残す如きはまったく意味をなさず、第二項はその意味において絶対に必要である。第一項についても、日本国の要望及び利益を考慮して云々の削除を求めるのはこれまたソ連の根本的な立場を無視するものであり、同意しない旨を述べた。

シェピーロフの拒否に対して重光は、第二の修正案を提出する。

この修正案によって日本はソ連との関係においても南千島を含む千島列島と南樺太を放棄したことを認めることとなる。日本にとってこれは、実質的には南千島を放棄することを意味する、きわめて大きな譲歩であった。

ソ連側調書によれば、この時、ソ連側は日本側に、通境管理に関する条項を入れることを提案したが、日本側がこれを拒否したために、ソ連側は重光第二案を拒否したとされる。

シェピーロフはソ連の草案をそのまま受諾するよう重光に迫った。

 

重光は、ソ連案を全面的に受け入れて、平和条約を締結するという方針を選択し、この決断を全権団に明かした。重光は自らの全責任を持って、ソ連案を受諾して平和条約を締結することを断固として主張したが、結局、松本の説得に応じ、東京に自らの見解を報告(1956年8月12日)することに同意した。

報告を受けた政府は、ソ連側の強硬な態度に対して一時的に冷却期間を置くため、重光に対して、ロンドンでのスエズ運河問題に関する国際会議に出席すべきであるとの訓令をモスクワに送った。続いて高碕大臣は重光宛に、12日の閣僚党三役等の協議の模様について、ソ連案は原案のままではとうてい受諾できないとの意見で一致した、と伝えてきた。重光は、東京からの訓令に従って日ソ交渉の一時中断をシェピーロフに申し入れた(1956年8月13日)。

 

1956年8月2日 重光・松本全権 モスクワからロンドンへ出発

1956年8月13日 島公使とシーボルト極東問題担当国務次官補の会談

シーボルトは、日本はサンフランシスコ平和条約第2条において南樺太と千島列島に対する権利、権原、請求権を放棄したのだから、これを誰に対しても引き渡すことのできる立場にはない。日本がソ連の主権を承認するなら、日本はソ連に平和条約におけるよりもより好意的な取り扱いをすることとなり、われわれはサンフランシスコ平和条約第26条に基づく権利を留保することになる。そのような権利は沖縄と台湾を含むと解釈され得る、と答えた。

1956年8月19日 第一回 重光・ダレス会談(日米)

ダレスから「もし日本が国後、択捉をソ連に帰属せしめたなら、沖縄を米国の領土とする」と圧力をかけられた。これが「ダレスの恫喝」といわれる。

1956年8月22日の会談

重光は、まずダレスに質問した。「ソ連は歯舞と色丹の北に国境線を引くことを望んでいるが、サンフランシスコ平和条約から見てそれは合法であろうか」という質問である。「これは、もし日本が千島の完全な主権がソ連にあることを認めるならば、同じようにわれわれも沖縄に対する完全な主権が米国にあると考えることを意味するであろう」と述べた。

1956年8月24日 第二回 重光・ダレス会談(日米)

米国の領土問題に対する強硬な態度は、日本のソ連に対する立場を強めるためのものであると説明した。

ダレスは、日ソ交渉に対する立場をより明確な形で示すための検討を国務省スタッフに対して指示

1956年8月27日 下田条約局長訪米(日米)

モスクワで重光外相に随行していた下田条約局長は、帰路訪米して8月27日、国務省でダレス発言の真意を確認した。

ダレスの立場は、ポツダム宣言とサンフランシスコ平和条約によって日本が放棄した南樺太と千島列島の帰属は確定していないし確定させるつもりはない、ましてやヤルタ合意を根拠にこれらの領土の主権を日本に認めさせようとするソ連の主張を米国は決して認めないし、日本がこれを受け入れることにも反対であり、日本にはそもそもその権限がない、ということであった。

1956年8月29日

米国のダレス国務長官が、ワシントンでの日米外相会談で「小さな譲歩をいくら与えてもソ連からは何も得ることはできない」と二島返還で妥結しないよう、日本に要求した。

1956年8月30日

日本はソ連側に対し、「国後・択捉・歯舞・色丹の返還」を要求するとともに、「南樺太及び千島列島の帰属については、ソ連を含む連合国と日本との間の交渉により決定する」ことを内容とする回答を行った。

1956年8月31日

アリソン大使は国務省に宛てて、岸信介自民党幹事長、根本竜太郎内閣官房長官、松本滝蔵官房副長官との会談結果を報告した。アリソン大使は、米国が単独で、ないしサンフランシスコ平和条約に調印した他の国々とともに、国後・択捉に対する日本の要求に対する支持を表明する可能性を提案した。

1956年9月3日 重光・松本全権帰国

1956年9月7日

ダレスは、次の内容を持った覚書を谷大使に手交した。日本の主張が歴史的に見て正当であるということのみを強調していた。法はともかく正義によれば両島は日本領であるというのがアメリカの立場であった。

1956年9月22日

米国は「日本が南樺太と千島列島に対するソ連の主権を承認することを意味するいかなる行動もとらないことを希望する。」と、一層強い表現による警告をアリソン大使から重光外相及び谷顧問に伝えた。

 

第二次モスクワ交渉(1956年9月~10月)

1956年10月7日 鳩山・河野全権モスクワへ出発
(1956年9月20日 松本全権モスクワへ出発)

1956年10月15日 第1回公式会談 河野全権・フルシチョフ

鳩山首相(第3次鳩山一郎内閣)は河野農林大臣などの随行団と共にモスクワを訪問し、ニキータ・フルシチョフ第一書記などとの首脳会談が続けられた。

1956年10月16日 会談 河野全権・フルシチョフ

1956年10月17日 会談 河野全権・フルシチョフ

政府全権として交渉した河野一郎農相は、日本案を示した。同じく政府全権だった松本俊一氏は回顧録でこの案について、4島返還を求める立場から、歯舞、色丹2島の引き渡しに加え、「国交回復後も領土問題の処理を含む平和条約締結交渉を継続する」と記したと説明している。

だが、今回明らかになった「日ソ交渉会談録」によると、この案には「領土問題の処理を含む」の文言がなかった。河野氏は自民党の強硬論に押され、16日のフルシチョフ氏との初会談で条件をつけずに2島を引き渡すよう求めて反発されたため、2回目の会談で残り2島の交渉継続をあいまいにする譲歩案を示したとみられる。

翌日以降も「領土問題を含む」を共同宣言に記すかどうかの調整は続いたが、自案で言及をやめていた日本側は結局記さないことを受け入れた。

最終的に、領土問題では「国交回復後に平和条約締結交渉を継続し、締結後に2島を引き渡す」と記しただけの日ソ共同宣言が19日に調印された。

1956年10月18日 会談 河野全権・フルシチョフ

両者間で3回目となったこの会談の後、日本側は「領土問題を含む」との語句の削除をやむなく認める方針を決定。代わりに、9月29日に全権の一人、松本俊一衆院議員がグロムイコ・ソ連第1外務次官と交わした書簡を公表すると決めた。この書簡には「領土問題を含む平和条約交渉の継続に同意する」と明記されている。日ソ交渉はこうして妥結したが、国後、択捉両島の扱いについては日ソの間で解釈が異なる結果となった。

 

1956年10月19日 日ソ共同宣言の署名

モスクワにおいて鳩山一郎首相とソ連のニコライ・ブルガーニン閣僚会議議長が「日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言(通称:日ソ共同宣言)」に署名し、両国での批准を経て12月12日に東京において批准書が交換されて発効した。

1956年(昭和31)10月19日に署名され、12月12日批准書が交換されて発効。

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