プーチン氏登場、交渉再び
日本とソ連は1956年の日ソ共同宣言で戦争状態を終結させ、国交を回復した。
しかし、ソ連は60年の日米安保条約改定に反発し、歯舞、色丹の2島引き渡しの条件に「日本領土からの全外国軍の撤退」を一方的に追加。北方領土交渉は長く停滞した。
89年に冷戦が終結し、90年代に入ると事態が動き始めた。
91年4月にソ連の最高指導者として初めて来日したゴルバチョフ大統領は、海部俊樹首相と6回にわたる会談を重ね、領土画定の対象を北方四島と明記した日ソ共同声明に署名。
ソ連崩壊後の93年10月には、細川護熙首相とロシアのエリツィン大統領は、北方四島の名前を列挙し、「4島の帰属の問題を解決して平和条約を締結する」とした東京宣言に署名した。
日本政府はこうした動きに合わせ、4島の日本への帰属が確認されれば実際の返還時期や条件については柔軟に対応する方針を決め、それまでの「4島一括返還」から事実上転換。
経済や安全保障など多くの分野で関係を発展させる「重層的アプローチ」も打ち出し、ロシアとの関係改善を通じての領土返還を目指した。
97年11月には橋本龍太郎首相がエリツィン氏とロシア・シベリアのクラスノヤルスクで会談し、「東京宣言に基づき、2000年までに平和条約を締結するよう全力を尽くす」ことで合意(クラスノヤルスク合意)。条約締結の目標年次が初めて盛り込まれた。
さらに橋本氏は98年4月、エリツィン氏と静岡県伊東市川奈で会談した際、北方四島の北側(択捉島とウルップ島の間)で日露間の国境線を画定し、当面はロシアによる4島の施政権を認めるという非公式の「川奈提案」を行った。
「ロシアは4島を不法占拠している」との主張を事実上取り下げる譲歩案だったが、ロシア側はこれを拒否。領土交渉は暗礁に乗り上げた。
交渉を再起動させるきっかけとなったのは、プーチン大統領の登場だ。
00年5月に大統領に就任すると同年9月に来日し、歴代のソ連・ロシア指導者が言及を避けてきた日ソ共同宣言の有効性を認めた。
森喜朗首相とプーチン氏は01年3月、東シベリア・イルクーツクでの会談で共同宣言を「交渉の出発点」と位置付けるとともに、東京宣言に基づいて4島の帰属の問題を解決して平和条約を締結する方針を再確認する「イルクーツク声明」で合意した。
12月会談が山場
あわせて森氏は、歯舞、色丹両島の返還交渉と残る国後、択捉両島の帰属問題の交渉を同時に行う「並行協議」を提案。
まずは2島返還を実現する「2島先行返還論」のアプローチを取った形だが、この返還論を主導した鈴木宗男衆院議員と田中真紀子外相の対立による混乱で立ち消えとなった。
また、プーチン氏に代わって08〜12年に大統領を務めたメドベージェフ氏がロシア首脳として初めて北方領土を訪問したこともあり、交渉は10年以上停滞した。
12年末に再登板した安倍晋三首相は関係改善に乗り出す。
13年4月にモスクワを訪問してプーチン大統領と会談し、交渉の活性化で合意。
14年に始まったウクライナ紛争の影響で一時中断したが、首相は今年5月のロシア南部ソチでの首脳会談で「新しいアプローチ」による交渉推進を提案し、プーチン氏も同意した。
首相の地元・山口県で12月15日に予定されている首脳会談で交渉が進展するか、平和条約締結に向けた山場となりそうだ。
平和条約後、2島引き渡し 共同宣言
共同宣言には、戦争状態を終わらせ
▽国交を回復し
▽ソ連が日本の国連加盟を支持し
▽ソ連に残された日本人の抑留者の送還を促進し
▽相互に第二次大戦時の賠償請求権を放棄し
▽国交回復後に平和条約締結交渉を再開し、歯舞群島と色丹島について、平和条約を結んだ後に引き渡す
ことなどが明記された。両国の議会と国会が批准し、1956年12月12日に発効、国交を回復させた。
モスクワ交渉のソ連側記録は96年に雑誌「イストーチニク」で公表された。
日本側記録は通訳を務めた外務省の野口芳雄氏が作成し、保管していた河野氏の元秘書、石川達男氏が自民党機関誌「月刊自由民主」2005年7月号で公表した。