「北方領土」についてのノート

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Notes on “the Northern Territories”

木村 英亮

 

1945年9月2日に日本が降伏文書に調印してすでに40年を経た。

この間、1951年9月にはアメリカ・イギリスなど連合国の大部分と講和条約を結んだが、ソ連とは1956年10月19日に共同宣言に調印し国交を回復したものの、講和条約はまだまとまっていない。

大部分の日本人は、このことをあまり深刻に考えていないように思われる。その理由は、

 

第1に、ソ連の宣戦布告が日本のポツダム宣言受諾の1週間前で、ソ連と戦って敗れたという意識が少ないことである。ソ連ほ戦わずに、領土などに関して漁夫の利を得たと感じている日本人が多いようである。

第2に、ソ連が対日宣戦によって日本との間に結ばれていた中立条約に違反したこと、戦後多くの日本人をシベリアに抑留したこと等によって、道義は日本の側にあると感じられていることである。日本「固有の領土」である「北方領土」を占領していることも非難の論点の1つである。

第3に、ソ連は現在、シベリア開発などに日本の経済力を必要としており、時はこちらに味方しているという判断である。

 

はじめに第1点については、次のことのみ述べておきたい。

第二次世界大戦は、ファシズムの枢軸国ドイツ・イタリア・日本を一方の側とし、反ファシズムのアメリカ・イギリス・ソ連を中核とする連合国との間で戦われたのであって、対米英戦における日本の敗北と、ソ連の対独戦勝利は結びついていたのである。

太平洋戦争開始に際し、日本は単独で米英に勝てると考えておらず、ドイツが短期間にソ連を破り 、米英に主力を向けることを期待していた。この期待が裏切られたことは日本にとって大きな痛手であった。

ソ連は、国内深く侵攻したドイツ軍を一手に引受けて押し戻し壊滅させ、連合国内に大きな発言権をえた。

短期とはいえ、社会主義国ソ連の対日宣戦は、日本の支配階級に恐怖を与え、ポツダム宣言受諾を決意させたのである。

 

第2点の、1941年4月13日締結した有効期間5年の中立条約を、1945年8月9日にソ連が破ったことに関し、11カ国代表による束京裁判は、

「日本はソビエト連邦と中立条約を締結することに誠意をもっていなかったが、ドイツとの協定がいっそう有利であると考えたからソビエト連邦に対する攻撃を容易にするために、中立条約に調印したように見受けられる。……本裁判所に提出された証拠は、日本がソビエト連邦との条約に従って中立であったどころか、その反対に、ドイツに対して実質的な援助を与えたということを示している」

(朝日新聞報道記者団『東京裁判』下, 1962, 80ページ)と判決している。

 

ソ連はこの中立条約の問題について次のように主張する。すなわち、

1. 日本政府は、1941年7月2日の御前会議で、独ソ戦の推移によっては北進すると定め、現に、独ソ戦開始後3週間のうちに満州駐留日本軍を2倍、70万人、1942年1月には関東軍を110万に増大させており、はじめから条約を守る意思をもたなかった。

2. 条約第2条は、「締約国ノ一方力一又ハニ以上ノ第三国ヨリノ軍事行動ノ対象卜為ル場合ニハ他方締約国ハ該紛争ノ全期間中中立ヲ守ルヘシ」と定めているが、日本は1941年12月8日に対米英宣戦布告によって、この条項に違反した。

3. 大戦中日本は、海軍基地をソ連沿岸永域に対して作動しているドイツのレーダーに提供した。日本海軍によるソ連商船の抑留は178隻にのぼり、18隻が沈没させられた。日本空軍による領空侵犯は433回、関東軍による陸上国境の侵犯は779回を数えた。また、津軽海峡など公海を結ぶ海峡の航行禁止は不当である。

4. 1945年8月8日、ソ連政府は、「連合国への義務に従って、」9日から日本と戦争状態に入ることを宣言し、「かかる政策こそ各国民をこれ以上の犠牲と苦難とから救い、日本人をしてドイツの無条件降伏後なめた危険と破壊とを回避させうる唯一の手段と思考する」とした。

 

大洋の出口に「錠をかけてとじる」 (スターリン『ソ同盟の偉大な祖国防衛戦争』,国民文庫, 209ページ)事態が2度と起こらないように――というソ連側の決意は、取り上げられることが少ないが、大戦中、下記のような諸海峡航行禁止とソ連商船抑留と攻撃問題によって強められたのである。

すなわち、日本は開戦と同時に、

(1)津軽海峡方面、

(2)宗谷海峡方面、

(3)東京湾方面

など12カ所の防御海面を設け、一般船舶の通航を禁止した。

ただポーツマス条約第9条第2項 「—両国-各宗谷海峡及鍵担海峡ノ自由航海ヲ防凝スルコトアル-キ何等ノ軍事上措置 ヲ執ラサルコトヲ約ス」を考慮して、宗谷海峡に限り、日本海軍の特許を受け、日の出から日没まで幅2海里の水路の通航を許すこととした。

ソ連側は津軽海峡の自由航行と、宗谷海峡の制限撤廃を要求したが、日本側は1942年3月14日付口上書で、「太平洋が戦場となっている以上、自国沿岸防護の措置は当然の権利に基づくものであり、宗谷および津軽両海峡にほ日本海軍の特許によって通航できる途を開いている」 (12-13)とし、数度のやりとりの後、1943年1月21日、谷外相はマリク大使に津軽海峡通過の特許を与える意思のないことを伝え、ソ連の漂流機雷・航行危険区域・間宮海峡の航行不許可等に言及し、その注意を喚起した。

ソ連側はこの問題を漁業交渉(第8次暫定取極め)、シベリアからトルコ経由で渡欧しようとしていた日高大使と軍人一行の通過査証発給ともからめたが、結局日本側が押し切った形となった。

 

米軍機が1943年8月12日に1機、9月12日に7機、北千島爆撃後カムチャツカに着陸し、日本側はこのような事件が繰り返されるとソ連がアメリカに軍事基地を提供しているのと同じ結果になるとしたが、ソ連側は、中立国として国際法の原則によって処理したとした。

また、日本海軍は数隻のソ連船を開戦後アメリカから移籍されたものとして抑留し、1943年4月から8月まで交渉が行なわれた。日本側は、

(a)アメリカは自国船で行なうべき援ソ物資輸送をソ連船で行なうことによって、日本軍の攻撃をまぬかれている、

(b)日米交戦地域とソ連領内に大量の兵器弾薬が蓄積され、日本の脅威となる、

(c)転籍船はソ連国旗の下にアメリカ人によって運航される可能性があり、これも日本の脅威となりうる(12-97)

等々とし、ソ連側は、不法な抑留と拘束は中立条約違反であると主張した。

 

ソ連の主張する1941年8月から1944年までの日本潜水艦・航空機によるソ連船の抑留と攻撃については、前記転籍船の場合の他、米英航空機による爆撃の誤認、日本軍の香港攻略の際の戦禍もあるようであるが、隻数に大きな開きがあり、事実は不明である。

 

これらの経験を理由として、「1978年、ソ連外務省の高官の一人はオホーツク海の地図を手でたたき、『戦略的理由から』これらの島々を『決して』放棄することばないだろうといい放った」とアメリカの一研究者が記している(アレソ・S・ホワイティソグ『シベリア開発の構図』,日本経済新聞社, 1983, 180ページ)。

スターリンは、日本が降伏文書に調印した1945年9月2日、「–今後は南樺太と千島列島が,ソヴィエト連邦を大洋から切りほなす手段、わが極東に対する日本の攻撃基地としてではなくて、わがソヴィエト連邦を大洋と直接に結びつける手段、日本の侵略からわが国を防衛する基地として役立つようになるということを意味している」 (スターリン, 前掲書, 210-211ページ)と声明した。

このように、ソ連が千島列島を獲得した大きな理由は軍事的なものであった。

そしてこれは、戦後は返さない理由の一つとなっている。

日本認識は、1974年9月30日来日中のアメリカ国務次官補の発言「歯舞・色丹が日本に返還されても米国はこれを軍事基地に利用するつもりはない」に対するモスクワ放送の反論「日本は安保条約の下に共同防衛という理由がつけば、米国防総省が日本で何をしても黙って見ていなければならない状態だから、歯舞・色丹に米軍を寄せつけないということも恐らくできまい」(行政資料調査会北方領土返還促進部『北方領土関係資料総覧』, 1977, 482ページ)からも明らかである。

北方領土の獲得はソ連側にとっては、重光元駐ソ大使の言葉では「対日戦参加の目的そのもの」 (5-28)という側面さえ持っているのである。

 

Ⅰ. 「北方領土」の国際法的側面について

北方領土問題を考える場合の出発点は、サンフランシスコ条約第2章第2条Cの規定 「日本国は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。」である。

 

この規定について、高野雄一(高野 雄一「北方領土の法理」 8-231-233)は

1.この条約に加わっていないソ連に対しては法的効果を生じず、ソ連に対する関係では、南樺太・千島は日本領にとどまる。

2.これはソ連への譲渡を予定しており、日ソ平和条約を結べばそれが確定する。それまでは日本領にとどまり、日本はソ連を相手に適宜処理しうる。

3.条約によって無主物となった南樺太・千島をソ連が先占し占有していることによって、領土権を取得した。

という3つの解釈を挙げ検討している。すなわち、

1. の解釈は、「ソ連がサンフランシスコ条約の非当事国であることの効果は,日本の手を離れた南樺太・千島について、ソ連が同条約上はなんらの発言権を持たない(同条約に参加し、または同条約を受けて同一の規定を含む日ソ平和条約を結ばない限り)ということでなければならない(他の条約、例えば、ヤルタ協定やポツダム宣言上、ソ連が発言権を持ち得る可能性は別である)。」

2.の解釈は、「サンフランシスコ条約の放棄の規定が、日本に関する限り最終的な効果を実現するという客観的意義を持っているのと合致しない。それだけでなく、さらに同じ規定が放棄した領土の帰属を未定のまま他の国際的解決に訴えようという明確な意図をもっているのにも矛盾する。その上、この規定をソ連が受入れるならば、それによって両地域がソ連領となる意味にとることによって、アメリカなどの条約当事国の意思だけでなく、ソ連などがこの規定について理解していた意味にも矛盾する。なによりも、仮にこの規定がそのような意味を客観的に持つものであれば、ソ連はこれに反対しない筈である。しかるに、事実ほ全くこれに反している。」

3.の解釈は、「それと異なる効果に対する意図を公にして行われた客観的情況を無視することはできない。そのような規定の意味は、アメリカ等規定の当事国はもとより、ソ連等の規定の反対国によっても、正しくとらえられていたのである。」

 

1.について前原光雄も、「領域権の放棄は条約の相手国に対してのみ効力を発生する相対的な関係ではなく、総ての国に効果が発生する絶対的な関係である」 (前原光雄「北方領土の法的地位」 8-190)と述べている。

 

サンフランシスコ条約の根拠となったのは、1945年7月26日米英中によって発せられ、8月8日ソ連が加わり、8月15日に日本が受諾を公表したポツダム宣言である。

この宣言は、領土問題に関し日ソ両国を拘束する唯一の国際協定であるが、その第8項は次のように規定している。

 

「『カイロ』宣言ノ条項-履行セラル-ク又日本国ノ主権-本州,北海 道,九州及四国並二吾等ノ決定スル諸小島二局限セラル-シ」。

 

そしてこの規定によって、1943年11月27日米英申のカイロ宣言も、日本と連合国を拘束するのであるが、そこでは、

「右同盟国-自国ノ為二何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ス。又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ 有スルモノニ非ス.右同盟国ノ目的-日本国ヨリ1914年ノ第一次世界戦争ノ開始以後二於 テ日本国力奪取シ又-占領シタル太平洋二於ケルー切ノ島幌ヲ剥奪スルコト並二清洲,台 湾及ヒ潜湖島ノ如キ日本国力漕国人ヨリ盗取シタルー切ノ地域ヲ中華民国二返還スルコトニ在り。日本国-又暴力及貴欲二依り日本国ノ略取シタル他ノー切ノ地域ヨリ駆逐セラル -シ」

と規定している。

 

千島は全体として、日本が侵略によって取得した領土ではないが、1945年2月米英ソ首脳間で決定され、ポツダム宣言に先立って中国が受諾したヤルタ協定によって、ソ連に引渡しが約束されていた。

これはポツダム宣言の「吾等ノ決定」ノといえないこともない(高野8-215)が、領土不拡大の原則には矛盾している。

 

ヤルタ協定の北方領土に関する条項は次の通りである。

「2. 1904年ノ日本国ノ背信的攻撃二依り侵害セラレタル『ロシア』国ノ旧権利-左ノ如ク回復セラル-シ(1)樺太ノ南部及乏二 隣接スルー切ノ島喚- 『ソゲィ-ト』連邦二返還セラルへシ

3.千島列島-『ソヴィユト』連邦二引渡サルシ」。

重光晶はヤルタ協定について、

「米英両国も、はじめから北方領土問題が、連合国が世界に向かって宣言した原則からははみ出したケースであることを承知の上で、対日戦遂行のための協定にふみ切ったのである」

(5-16)と記している。

 

高野はこの矛盾について次のように述べる。

「連合国に対する法的関係において、連合国は日本が『侵略』によって取得した領土以外は取得することはない、という意味で領土不拡大の原則を日本に約したのである。

しかし、固有の領土を含む非侵略領土についても、併合以外の措置が加えられないことまで、右の領土不拡大原則は法的に約しているのではない。

領土権『放棄』は、併合以外の措置としては極限的な措置であるが、それほやはり併合でほない。そこではなお連合国(例えばソ連)による取得は消極的に避けられている。

そして、別に国際的手段でその地位を考える意思が公にされている。したがって『固有の領土』論をいくら強調し繰返しても、それが直ち にサンフランシスコ条約の『放棄』を否定し制限する法的な力は持ち得ない。」 (8-237-238)

 

放棄した千島の範囲に

1.国後・択捉の2島が含まれるのか

2.歯舞群島・色丹島が含まれるのか

という問題がある。

I.国後・択捉

田村幸策「北方領土問題の起因と経過」は、1.につき、2島が千島に含まれない理由として次の6点をあげている。 (8-160-161)

 

1.両島に日本人以外の民族が定住したことがないこと、

2.両島が日本以外の国の主権下にあった事実のないこと、

3.両島が日本固有の領土であることをロシア政府も2度承認していること、

4.ソ連と日本を拘束する唯一の国際上の政策『力イロ宣言』の原則にあわないこと、

5.大西洋憲章、連合国共同宣言にもとづく連合国間相互の誓約に背反すること、

6.国連憲章の基本原則の1つである民族自決主義に反すること。

 

1. 2.の歴史的事実については後述年表等にゆずる。

3.の1855年の下田条約第2条では、

「今より後、日本国と魯西亜国との境『エトロプ』島と『ウルップ』島との間に在る-し,・ 『エトロプ』全島は日本に属し『ウルップ』全島夫より北の方『クリル』諸島ほ魯西亜に 属す『カラフト』島に至りてほ日本国と魯西亜国との間に於て界を分たす是迄仕来の通た るへし」とし, 1875年の樺太千島交換条約第3款ほ, 「全魯西亜皇帝陛下-第1款二記セ ル樺太島(即薩瞭健島)ノ権理ヲ受シ代トンテ其後胤二至ル迄現今所領『ク7)ル』群島即チ第1 『シュムシュ』島—第18 『ウルップ』島共計18島ノ権理及ビ君主二属スルー切ノ 権理ヲ大日本皇帝陛下二譲り而今而後『クリル』全島-日本帝国二属シ東寮加地方『ラパッカ』岬ト『シュムシュ』島ノ問ナル海峡ヲ以テ両国の境界トス」

と定めており、2島は交換取引の対象になっていない。

4.カイロ宣言は前述,

5.大西洋憲章は, 「1.両国-領土的其ノ他ノ増大ヲ求メス両国-関係国民ノ自由二表明セル希望卜一致セサル領土的変更 ノ行-ルルコトヲ欲セス」としている。

4. 5. 6.について,千島全体について問題のあることほ前述した。 1. 2. 3.によって, 2島が,ウルップ島より北の千島より歴史的古い時代から日本の領土であることはあきら かであるが, 「固有の領土であったか否かということば時間的に長期に亘って領域権をもっているか否かで決せらるべきものでなく,法的な立場からは,それほ外国の領域であっ たものを強力によって取得したものであるか香かがむしろ重要な点である。

この意味にお いて,千島列島全部が固有の領土であるということができる。」 (前原8-192)千島列島の 解釈について日本と連合国(平和条約批准の)問に争があるならば,第22粂の規定により 国際司法裁判所等に付託して解決すべきであり,その決定をまって対ソ交渉を行なうとい う順序をふむべきであろう。

2.歯舞群島・色丹島

連合国の公文書、たとえば1946年1月29日付占領軍最高司令官指令「若干の外廓地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書」は、千島列島と並んで歯舞群島、色丹島をあげている。

サンフランシスコ会議のアメリカ代表の演説も歯舞を含まないとしている(8-186~187)。

戦前、歯舞群島(水晶諸島)は根室国花咲村歯舞村、色丹島は千島国色丹郡色丹村であった(『大日本分県地図併地名総攬』,国際地学協会, 1937)。

このように分けられた理由は35ページに後述。

吉田東伍『増補大日本地名辞書,第8巻』 (富山房, 1912)は,色丹島が千島国に編入された理由を述べたあと、

「本篇は、水晶諸島をも根室花咲郡より割き色丹郡の中に列せしむ、もと一列の群嶼にして分つべからざれば也。享保の蝦夷志に、五島相錯といふもの、即是也。」

と記している(356ページ).

ソ連の占領は、南千島に展開していた日本の第89師団部隊が、これらの島を同一指拝下においていたためであって、独白の根拠はもっていないようである(8-238)。

敗戦時8月15日,日本の大本営ほ全部隊に16日を期しての戦闘行為の即時停止を命令 し, 「各部隊の停戦協定成立までの間,敵の来攻に当たってほ,止むを得ざる自衛のため の戦闘行動ほこれを妨げず」とした。

米国政府は8月15日,連合国最高司令官から日本にあてた「一般命令第一号」の原案をつくり連合国の意見を求めたが,ここでほ降伏受理のためのソ連の受け持ち区域に千島列 島が含まれていなかったので,翌16日ソ連側は受け持ち区域に(j)すべての千島諸島および (I,)釧路と留粛を結ぷ線以北の北海道の北半分(ただし釧路市と留粛市を含む)を含めるよ う要求したo

米国政府ほ18日に回答して(r])8ま拒否, (Jl)についてほ千島列島のどこか中央部 に軍事的商業的な目的のために米国が航空基地を造ることを条件に同意するとした。

この 条件について,ソ連ほ最終的に拒否する(5-25-26, 14-260-262)。

米ソのこのような話し合いの一方で,ソ連極東方面軍総司令官ワシレフスキー元帥ほ8 月15日に千島攻略を命令, 18日未明シュムシュ島上陸作戦を開始したわけである.この作 戦について,当時日本軍の北千島守備兵団の作戦参謀として現地で直接作戦指導にあたった水津満ほ, 1979年出版の自著の冒頭で次のように記している。

「『敵は本朝未明,艦砲射撃の支援のもとに,竹田浜一帯に上陸開始,目下激戦中なるも 国籍不明』北千島・幌笠島にあった第91師団司令部(師団長・填不爽貴中将)に,最北端の島,占守島の杉野旅団からこの第一報が飛びこんできたのは,昭和20年8月18日午前2 時すぎのことであった。

–報告を聞いた師団長の決断は早かった。即座に占守島でもっとも足の速い戦車連隊に,歩兵,工兵などをつけて先遣隊とし,すでに奮戦中の杉野旅団 村上警備隊をたすけて,敵を海に圧倒破滅すべく上陸点竹田浜に向かって急進させた.

これと同時に全師団に戦闘準備を下命した。

すなわち,幌笠島にいた佐藤旅団を幌篭海峡を 渡って占守島に前進させ,杉野,佐藤両旅団が肩をならべて,一挙に敵を海に追い落とす 作戦を展開するよう命令をくだしたのである。

これが北千島戦闘幕あけの一瞬である.」 (7-15-16)ソ連側の死者は18日朝だけで約1,000名,日本側戦死傷者ほ全部で700名以 上であった(7-17, 67)a

 

ソ連の最近の大戦史によれば,千島攻略の任務をゆだねられたカムチャツカ防衛地区司 令部は15日朝7時に作戦実施命令を受取り,急ぎ作戦を策定した後,全力で部隊と戦闘資 材等をベトロバウロスクに集め, 18日朝5時,艦船がシュムシュ島砲撃を開始,上陸した’ と記している。

ソ連側は兵員8,824人,砲・迫撃砲205門,日本側ほ陸海軍あわせて2万 3,000人,重軽火砲約200門,戦車85両,航空機8機等であった(CM・ HcTOpH兄BTOPO員 MHPOBO員BOhht 1939-1945, TOM ll, MocKBa, 1980, cTP・ 290-295, 14-243-248, 7 -32)0

8月23日には島の日本軍全部隊が投降し,続いて残りの諸島の部隊も投降, 9月1日朝国後島上陸によって作戦ほ終了,全体で6万の将兵が武装解除された(TaM Xe cTp. 295)。

水津は, 「ソ連軍ほ北方四島をほじめは占領する意図ほなかった。が,米軍が手をつけ ないことを見極めて,急いで強引に占領した」とし,次の点を根拠としてあげているo

す なわも,シュムシュ島戦後かれが他の諸島の武装解除に立会うため北千島の第5方面軍第 91師団長(填中将)代理としてソ連軍に同行したさい,軍艦がウルップ島で北に引返した のでウォルロフ参謀長にたずねたところ,

「これより以南ほアメリカの担任だからソ連ほ 手を出さない」

と答えたこと,ソ連の公刊戦史では全千島をカムチャッカからきた部隊が 占領したものと南千島のみはサ-リソからきた部隊が占領したものがあるなどまちまち で,占領期日も国後・色丹9月1日となっていて最終占領日9月3日とする日本側の記録 とずれており,これほ9月2日の降伏文書調印前に占領していたという事実をつくるため のつじつまあわせでほないかと主張している(7-83-90)。

この点について,前述のソ連 の大戦史でほ,南千島ほサ-リソからきた部隊が,択捉に8月28日,国後・色丹に9月1 日上陸したと記されている(TaM Xe, CTP. 295, KapTa ll)o

ソ連政府は,翌1946年2月2日,最高会議幹部会令で「南樺太および千島諸島の領域に 豊原市を中心とする南サ-リソ州を設置し,これをロシア共和国′、バロフスク地方に編入する」と公表した。

千島の範囲に関連して,初期の返還運動にも簡単にふれておきたい。

最初の北方領土返還運動組織である根室町長を会長とする北海道付属島供復帰懇請委員 会は, 1945年12月1日活動をはじめたが,それが対象としたのは,択捉,国後両島と歯舞 諸島であり,北海道議会も1947年7月22日,歯舞諸島及び択捉島並に国後島の日本領土復 帰に関する請願決議を行なった。

しかし, 1950年3月13日に道議会で満場一致で可決された歯舞諸島及び千島列島返還懇請決議では,

r(i)歯舞諸島は北海道本土の一部で千島列島に 属するものでない事実に鑑み速かに返還せられると共に, (o)北海道本島と全く変らない自 然的歴史環境をもつ南千島(国後島,択抹島)の返還ほ言うまでもなく,ぐう同じく邦人の苦心努力の結晶たる樺太を放棄した代償として平和裡に与えられ,かつ国際的に役立てて ウルツフ■きた得撫島以北のいわゆる中部及び北部千島をも含めて我が国に返還されたいのである」

と全千島要求に変わった.この決議では,歯舞諸島は千島列島とほ全然別箇のものである として次のように説明している.

「我が国の行政区域としても,明治2年色丹島ほ荷重国 花嘆郡とせられ(明治18年北千島土人をここに移住せしめてより行政の便宜上千島国色丹 郡と改称し,明治20年斜舌丹村戸長役場を開設,昭和8年色丹村と改めた),又色丹島以 外の5つの離島(歯舞離島と称する)は根室国花咲郡歯舞村に属し,明らかに北海道本土 の一部をなしているもので,千島列島に所属しているものではない。

ただ終戦当時これら の島に駐屯せる日本軍部隊が南千島駐屯部隊の指揮下にあったため,千島本隊と共にソ連 極東軍最高司令官に降伏し,爾来今日までそのままになっているのであって,この諸島の 沿革に徹し,千島列島に属していないことは明らかである。」

1950年11月7日札幌で結成された千島及び歯舞諸島返還懇請同盟も同じ線で,サソフラ ソシスコ平和条約発効直前の1952年4月26日声明書を出すとともに5月1日,

「1.放棄を 余儀なくされた千島列島の主権が,再び日本国に帰属するよう,適切かつ有効な措置を講 ぜられたきこと,

2.日本国の主権に属する,色丹島を含む歯舞諸島の実質的領有を速か ならしむる措置を講ぜられたきこと」

を国会に要望し,道議会も7月8日,全議員提出の 同様の決議を行なった。

しかし, 7月29日に衆議院で採択された領土に関する決議では, 千島列島にほ全くふれず, 「歯舞,色丹島についてほ,当然わが国の主権に属するものな るにつき,速かにその引渡を受けること」と述べたにとどまっている。

これまでは千島列島の範囲については問題にされなかったが,平和条約後1952年11月27 日の返還懇請同盟の千島列島及び歯舞諸島の帰属に関する要望書でほ,はじめて平和条約 原文のクリル・アイラソズに択捉,国後両島は含まれないと主張した。

この解釈は吉田茂 政府のとるところとならず,返還懇請同盟も, 1956年6月8日の意見書でほはじめの解釈 にもどった。平和条約批准承認国会で,西村蕪雄条約局長が,条約にある千島列島の範囲 に北千島と南千島の両者を含むこと,しかし両者ほ歴史的にみてまったく立場が違うと答 えているのである(9-199)o

Ⅱ.日ソ国交回復交渉とその彼の経過

1954年12月10日, 1947年5月-48年10月の中断を除き, 1946年5月以来続いた吉田茂の 第5次内閣が7日に総辞職した後をうけて鳩山一郎内閣が成立した。

副総理兼外相ほ重光 莱,農相は河野一郎であった。鳩山はかねて中ソとの戦争状態終結の意向を表明しており,吉田によって外務省を追われた杉原荒太,山田久就も鳩山に吉田外交の転換を進言し ていた。

ソ連ほ,中ソとの国交回復を呼びかけた11日の重光外相発言をうけ16日にモスクワ放送 によってモロトフ外相の「肯定的に対処する」との声明を発表し,さらに翌1955年1月25 日,対日理事会の元ソ連代表部ドムニッキーが,ソ連政府の意向を記した書簡を鳩山首相 に手渡した。

ソ連側はこの「ドムニッキー書簡」をはじめ重光外相に手渡そうどしたが, 外相が宛先,日付,発信人のない書簡の受取りを拒んだため果さず,共同通信の藤田一雄 記者,日ソ国交回復国民会議事務局長の馬島偶,日ソ親善協会の尾形昭二,北洋漁業関係 でドムニッキーとも親しい平塚常次郎,大西廉作らを通じて働きかけ直接首相と接触した わけである。

ソ連側ほ29日のモスクワ放送でその内容を確認し, 31日にソボレフ国連代表 は,オブザーバーとして国連に駐在していた沢田廉三大使に,その書簡がソ連政府の正式 意向であることを伝えた。

こうして国交回復交渉が始められることになり,交渉全権にほ,鳩山と父我が政友で, 駐英大使を辞任して衆議院議員に初遺したばかりの松本俊一が起用された。交渉地につい てほ,首相外相間の連絡不十分などもあり80日もかかったが結局pソドソに決まった。

これまでの経過ですでに,ドムニッキー書簡の扱いを出発点として鳩山,重光の間に亀 裂が生じ,

「二人のミゾは日ソ交渉がすすむにつれて徐々に埋めがたいほどに深くなり, さらに漁業交渉で河野一郎が登場してから決定的になっていく.

それに従って永田町の首 相官邸と田村町の外務省もことごとに対立,反目する。世に『二元外交』 『三元外交』と 呼ばれ,これが,その後の日ソ交渉でさらに大きく暗い影をひろげていくのであるo」 (ll-26)

1955年6月1日,ロソドソのソ連大使館で両国代表団の初顔合わせがおこなわれた.

日本側は松本全権のほか,高橋通敏(外務省条約局参事官),重光晶(駐英大使館一等書記 官),新関欽歳(在スウェーデソ大使館参事官)ら,ソ連側はマリク全権のほかチフグィソスキー(駐英大使館参事官)らであった。

なお戦時中松本が外務次官のときマリクは駐 自大使で,戦後は両者ともロソドソで駐英大使を勤めており旧知の間柄であった。

初顔合わせの会談では第1回全体会議を3日にソ連大使館で開き,以後は当分の間日ソ両大使館 を交互に会場として全権を中心として会談を開き交渉をすすめることを決めた。

6月7日 (第2回会談),松本は7カ粂の覚え書きを手渡し,日本側の考えを説明した。 6月14日(罪 3回会談),ソ連側ほいきなり12カ粂からなる平和条約案を提示してきた。

それほ,日本 の国連加盟支持,一切の賠償請求権の放棄,中国・外モソゴルを講和国に加えるという主 張のないこと,軍備の主権制限にかんする項目のないこと,の諸点でサソアラソシスコ講和会議でのグロムイコ修正案と違っているが,領土問題はそのままで,国後・択捉はもち ろん歯舞・色丹もソ連領土となり,軍艦海峡航行権も,宗谷,野付,梧璃唱,津軽,対馬 の諸海峡にかんして日ソ朝3国に限られるというものであり,軍事同盟非参加も提示していた。

日本側ほまず,残留者全員の無条件送還を要請したが, 7月26日(第8回会談),マリク は,戦犯16名のリストと戦犯として服役中のものの人数を明らかにし,平和条約調印後直 ちに特赦と送還を行なうと回答した。

軍事同盟については, 7月15日, 「ソ連案は日本が 他国と結んでいる条約の廃棄を要求しているものではない」と言明,領土にかんしてほ8 月9日(第10回会談),ソ連側は歯舞群島,色丹島を,日本がそれ以外にたいするソ連の主 権を認めるならば返還してもよいと述べた。

日本側は8月16日(第11回全体会議),平和条約案を提示した。

そこでは領土について

「戦争の結果としてソ連邦によって占領された日本国の領土についてほ,この条約の効力 発生の日に日本国の完全な主権が回復されるものとする。」

と,抽象的な表現で南樺太と 千島列島の返還を求め, 8月30日(第13回会談),千島の即時返還とそれ以外の帰属のソ 連をふくむ連合国と日本による将来における決定という提案を行なった。

 

ソ連側ほただち に,この良案ほ縫対に受諾できないことを強調し, 9月13日(第15回会談)から翌1956年 1月17日まで中断したのである。

ソ連側は8月9日の2島返還提案でまとめられると考えていたようであり,日本側全権 もこれで結着と感じたようである。第10回会談後の庭でのお茶の会のようすを久保田正明 は次のように描いている(4-72-73).

 

「-ボマイ,シコタソ両島は平和条約ができれば日本に返還する,という意味に受けとっ ていいのかね」

と松本が端的に聞くと, 「そう,そのとおり,両島は日本に譲るんだよ」マ1)クの返事は簡単明快であった.

マ1)クを送りだしたあと,首席随員の高橋と二人きり になると,冷静な松本も興奮と喜びを隠そうとしなかった。

「軍事同盟は落す。 -ボマイ, シコタソは返還する。これで日ソ交渉ほ出来上ったも同然だよ。ぼくらほ本省の訓令どお り,いや訓令以上のことをやったんだ」二人ほじっと手をにぎりあっていた。

アメリカの -ルマソ,ドナルド・ Cも, 『日本の政治と外交』 (中央公論社, 1970,82ページ)に,1963. 1.20の松本とのイソタビューにもとづくとして,

「これらの諸島〔歯舞・色丹〕の返還をもって,平和条約妥結のための満足すべき条件と見なすべきこと。

南千島ほ『歴史的根拠』 にもとづいて要求すべきものとして重要視されてほいたが,それほ一般的協定のためしての不可欠の条件とほ考えられていなかった,北千島および南樺太は,たんに取引の材料と 主張すべきものとされていた。」

と指示されていたと苫己している。

 

松本ほ, 「ダレス国務長官は,鳩山内閣が日ソ交渉を促進することについて快く思っていなかったに相違ないし,ことに領土問題について,日本がソ連と妥協することほ極力阻 止したかったであろうから,重光外相らを牽制したとは明らかである」,また当時日本の 政界でほ保守合同の機運が高まっており, 「民主党ほ党首の鳩山総裁の熱意によって日ソ 交渉にすこぶる積極的であったが,保守合同の相手方である自由党は日ソ交渉にはむしろ 反対であり,これに重光外相ら民主党内にも日ソ交渉についで慎重論をとるべしという意見が相当あった。」ここから, 8月30日の新訓令も生れたものと思われると記している(ll-54)0

松本はさらに,

「自由党と民主党とが合同して一つの政党になってみると,重光外相と 旧自由党系の人々とが結合して,俄然反日ソ交渉の勢力は比重を増大したことは否めなか った」

(ll-70)とし,保守合同の際の保守新党結成準備会で決定された緊急政策案の中の 「日ソ交渉の合理的調整」という項でほ

「領土問題については, (Jf)歯舞,色丹,南千島を 無条件に返還せしめる. (t=)その他の領土の帰属ほ,関係国間において国際的に決定するo」

というもので,これは

「前に述べた政府の私に対する追加訓令をそのまま採用したもので あって,とうてい日ソ交渉を前進するのに役立つものではなかった。」 (ll-70)

と述べ, 11月13日付の次のような朝日新聞の社説を引用している。

「–・帰国した松本全権ほ,このような日本側の従来通りの方針でほ交渉を妥結すること はほとんど不可能だとの見解を明らかにしているのである。

その中でも難点は領土問題 で,ソ連側は歯舞,色丹諸島の無条件返還にほ応ずるかもしれないが,南千島の無条件返 還ほ望み薄だというのである。

鳩山総理も先に歯舞,色丹諸島以上の要求をするのほ無理 だと語っているほどであるo

このようにして,政府が腹を決めなければならない問題は, 交渉の決裂を覚悟しても,この既定方針を貫こうとするのか,あるいは貫くか,あるいはソ連側にも受け入れられるような線(たとえば南千島放棄)で,交渉の妥結をはからせるか という問題にしぼられてきている。」

と論じ, 「日ソ交渉はこの意味において,一応保守合 同の犠牲にされたといってもよいわけである。」と結んでいる。 (『朝日新聞』1955.ll.13)

この9月,西ドイツは,アデナウア首相がモスクワを訪問, 13日に共同宣言によって一 挙に国交を回復した。このさい両国間の領土問題はまったくとりあげられなかったが, 14 日にアデナウア首相ほモスクワでの記者会見によって,ソ連側ほ15日タス発表によって, それぞれ次のように表明した。

すなわち,前者ほ,

「連邦政府・ソ連政府間の外交関係の樹立ほ,現在の領土状態のいずれの側による承認を意味するものではない。ドイツ国境の 決定ほ平和条約の完成まで停止されなければならない。」,

後者ほ,

「ソ連邦およびドイツ連 邦共和国間の外交関係樹立に関連して,ソ連邦政府は,ドイツの国境問題は,ポツダム協 定により解決されていること,またドイツ連邦共和国ほ,その主権下にある領土に対する 管轄権を行使するものなることを声明することを必要と考える。」

と述べている。

重光晶 はその著書で次のような説明を加えているo

「ここでドイツがいわんとしているのほ,結 局領土変更は将来平和条約にゝよって最終的に決められるのであること,およびそれまでは 領土変更の決定をしてほならないということであった。

これほあくまでも領土変更の手続 きに関する法律問題に言及したのであって,領土がソ連に割譲されること自体の実体問題 についての言及でほなかった。

少なくとも領土がソ連のものになる理由がないから返還して貰いたいということについては直接にも間接にも言及していない。」,

「タス発表のいっ ていることば,ドイツとの領土問題が国際法上最終的にポツダム協定によって解決されて いるということではない。

法律的にはソ連ほ『平和交渉による最終的解決』が将来なされ るとの建前に立っているのである。

こうした立場からタス発表は,手続き的な問題だけに 言及し,実体問題についての異議に触れていないアデナウア首相の発言に対して,実体問題でドイツ側が異議を申し立てないのはポツダム協定で決まっているからであると述べた のである。」 (5-139-141)

この後ソ連ほ, 1970年8月Il日の西ドイツとの条約,1975年10 月7日の東ドイツとの条約によって,両独から東プロシアのソ・汲両国への分割から生じ た新国境を尊重するという約束をえ,一応の解決をみたわけであるo

1955年11月22日,保守合同が実現し第3次鳩山内閣が発足, 1956年早々に第2次ロンド ソ交渉が始められた。

2月7日(第19回会談)で日本側は4島返還の覚書を手交, 2月10 日(第20回会談)でソ連側が2島返還の条項を担示,論議は堂々めぐりで, 3月23日(第 23回会談)で自然休会にすることになり,ロソドソでの交渉はこのまま終りとなった。

な お, 2月10日の松本・マリクの非公式会談で,松本は,

「『国後,択捉両島ほ旧住民のため の平和的経営に任せることとし,ソ連の軍艦及び商船ほその付近の海峡を自由に通過しうることとし,日本に返還する』という実について考慮の余地がないかといって,マリク全 権に再考慮を促し,また国後,択捉両島の返還は,これが日本の固有の領土であるという国民的感情から,日本全国民あげての悲願で,これを無視しては交渉の推進が困難である と述べた。

これに対してマリク全権ほ,千島列島その他の領有は合法的にソ連に帰属したものである。

歯舞,色丹についてのソ連の態度は,史上未曽有の寛大な措置である。ソ連側はその返還に特別の条件を付するものではなく,なんらの代償を求めるものでもないと 述べた。

そこで私ほ重ねて私の考えをソ連政府に伝えてほしいと強調した。」

と記している。 (ll-84-85)

 

この後ソ連はプルガ-ニソ・ライソを布告して北洋の一定区域のサケ・マス漁業を規制しようとしたため,河野農相が急ぎモスクワにおもむいて4月29日から交渉, 5月15日漁 業条約を結んだが,調印のさい共同コミュニケで, 56年の暫定協定は別として,条約の発 効は日ソ国交回復後とすること,おそくとも7月31日までに関係正常化交渉を再開するこ とに同意したと発表した。

こうして7月31日から8月13日まで重光外相とシェピーロフ外 相との間で第一次モスクワ交渉が行なわれることになったわけである0

重光外相はそのさい,

「領土問題ほ平和条約において解決するのが国際法上の通念であるのに,ソ連は占領のままこれを自国領土として,前記の日本人の恐怖感を強めている状 況であるから,かかる国民的不安を取除くため両国将来の友好関係を確実に資する意咲 で,ソ連側において領土条項につき考慮ありたい」旨強く入れた(ll-108-109)。

8月 11日の第3回目の個別会談では,次のようなやりとりがあったことを松本が記録してい る。

「まず重光外相から,本年2月10日にマリク全権から松本全権に提示した領土条項案 第1項〔ソ連邦ほ日本の要望にこたえ,日本の利益を考慮し,小千島列島(歯舞諸島及び 色丹島)を日本に譲り渡す。

本条に掲げられた諸島の譲渡方法ほ,この条約に付属する議 定書により定まる〕を鱒単にし,ソ連は歯舞,色丹を日本に引渡すとし,第2項〔ソ連と 日本との国境ほ,付属地図に示してあるように,クナシルスキー海峡(根室海峡)及びイ ズメ-ナ海峡(野付海峡)の中央線とする〕ほ削除したいと述べた(つまり他の領土問題 はしばらく棚上げにしようという提案であった)。

これに対しシュピーロフ外相ほ,ソ連 例の意図は,歯舞,色丹の引渡しにより,両国間の領土問題を解決するのにあり,将来疑 問の余地を残すがごときは全く意味をなさず,第2項ほその意味において絶対必要である。

第1項についても,日本国の要望および利益を考慮して云々の削除を求めるのは,こ れまたソ連側の根本的立場を無視するものであり,同意しない旨を述べた。

さらに重光外 相から,しからば第2項の代りにサソ・フラソシスコ領土条項〔第2章第2条C 日本国 ほ,千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得し た樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利,権限及び請求権を放棄する〕と同様の条項を入れることとしてもよいと提案したが,ソ連側ほこれも受け容れず, シュピーロフ外相は,ソ連例の態度は確定しており,ソ連の捷案以外に適当な案を見出す ことは出来ない,歯舞,色丹の引渡しは最大の譲歩であり,日本側において正当に理解してもらいたい,これ以上の譲歩することば絶対にないのであって,最高首脳部との会談に おいても同様であったであろうと思う,と述べた。

以上のように,ソ連側の態度ほ領土問題に関する限り,きわめて強硬であって,いささかも譲歩の色を示さず,またあいまいな点を残すことを避けて,この際平和条約においても,日本とソ連との国境線を確定したい という意向に固っておった.したがって,日本政府が重光外相を首席全権としてモスクワへ派遣して,領土問題についてソ連の最高首脳部と,さらに上級の会談をして,先方の譲 歩を求めようとした意図ほ全く失敗に終ったわけである。」 (ll-109-110)

このあと松本は,

「交渉の最終的段階で,重光全権のとった態度ほまことに不可解で, 今日もなお深い疑念を残している」

として,次のような事実を述べている。

すなわち重光 外相は,当初のきわめて強硬な態度にもかかわらず,前述のような私的会談におけるシェ ピーロフ外相とのやりとりのあと急に態度を変え,

「ここまで努力したのであるから,こ の上はソ連案をそのままのむ以外にはないという態度となり,その翌日,ソ連案そのまま の領土条項を設けた平和条約に署名しようといい出した。

私としては,昨年のロソドソ交 渉で,歯舞,色丹の返還を認めさせたが, 8月末には重光外相から,国後,択捉のいわゆる南千島をあくまで要求せよという追加の訓令を受けた。

やむなく交渉は中断し,その後 再びロソドソで本年の1月から3月まで,この点を苦労してきたにもかかわらず,重光外 相は突如として政府の既定方針も,自由民主党の党議も,またすでに固有の領土として南 千島,すなわち国後,択捉に対して強い愛着を示している国民感情等を無視して,この際 ソ連案をそのままのむということには日本政府の全権としてほ,とうてい同意し得なかった。

そこで,私は夜を徹してこれらの事情を述べて強く重光外相の反省を求めたが,重光 外相ほ,自分は束京を出発する時に一切を任せられてきているのであるからして,この際 東京に請訓する必要がないo

自分の一存でこのソ連案をのんで差支えないといって,容易 に私の意見を聞きいれようとはしなかったのである。

私は重光外相に対して,われわれ全権としてほ少なくともこの際,調印前の状況を政府に報告する義務があろうということを 強く主張した。重光外相も渋々私の意見に従って」,

8月12日に高碕外相代理に電報を打ち,スエズ運河会議出席ということでロソドソに向かった(ll-110-111)o

 

電報連絡以 後の事について鳩山一郎首相ほ回顧録で次のように述べて†、るo

「薮から棒のような重光 君の提案には,こっちも驚いたが,協議の結果, 『立トロフ,クナシリを放棄して国境線 を確定させることば断じて困る,あくまでネバリ強く,交渉を続けられたい』といってや ったところが,重光君から折返し,

『あれほ最善の方法である。外交のことは自分にまかせてほしい』

というような強い返事がきて,更に面喰わされた。

このような重光君を説得 し,交渉を中断させて帰国させるには随分と骨が折れたが,出発の時まであれほど強硬な 意見をはいていた重光君が,モスクワに入ると間もなく,急角度にカープを切って,何故 にこのような方向に進もうとしたのか一今考えても私にほ全く見当がつかない。

しかし ながらその重光君は,モスクワを離れると同時に再び次第に以前の強硬態度を取返しはじ め,米国を廻って羽田に帰着した時には,完全に元の強硬論者に立戻っていた.」 (『鳩山一 郎回顧録』,文芸春秋新社, 1957, 194-195ページ)

重光の態度変更については,帰国途中ロソドソで8月19日アメリカのダレス国務長官から,国後・択捉のソ連領有を許せば,沖縄をアメリカの領土にすると警告されたことも考慮しなければならない。

アメリカはさらに9月7日付で「–日本は,同条約〔サンフラソシスコ条約〕で放棄した領土にたいする主権を他に引き渡す権利を持ってほいないのである。

このような性質のいかなる行為がなされたとしても,それは米国の見解によれば, サソフラソシスコ条約の署名国を拘束しうるものでほなく,また同条約署名国ほかかる行為にたいしては,おそらく同条約によって与えられた一切の権利を留保するものと推測される.

—米国は歴史上の事実を注意ぶかく検討した結果,エトロフ,クナシリは(北海 道の一部たる-ボマイ諸島およびシコタン島とともに)常に固有の日本領土の一部をなしてきたものであり,かつ正当に日本の主権下にあるものと認めなければならないものであるとの結論に到達した。米国はこのことにソ連邦が同意するならば,それほ極東における 緊張の緩和に寄与することになるであろうと考えるものである」と連絡してきた。 (9-213-214)

また重光ほ8月18日にシュピーロフ外相と会い, 5月の漁業交渉のさいの「河野-プルガ-ニソ密約説」を確かめたところ,国後・択捉をソ連領とするというプルガ-ニソ提案 に河野は

「理解しうるものであり,かつ実際的なものであって,わが方として受諾しうる ものとして評価する」

と発言し,議事録も残っているという答えであった。

河野ほ,プル ガ-ニソが国後・択捉を棚上げして平和条約を結ぼうと提案したのであると一貫して主張 している。

鳩山首相ほ,河野農林相・高碕国務相と東京の漁業代表部首席のチフグィソスキーとの 非公式会談によってまとめられた,

(1)戦争状態の終結,

(2)大使の交換,

(3)抑留者の送還,

(4)日本の国連加盟の支持,

(5)漁業条約の発効

の5項目についての合意と平和条約を締結す ることなしに国交回復交渉をはじめるといういわゆる鳩山方式によって国交を正常化しようと考え,これを「鳩山書簡」, 「プルガ-ニソ返簡」の形で確認した。また,松本全権委 員とグロムイコ第一外務次官との往復文書によって,ソ連側から「領土問題をふくむ平和 条約締結にかんする交渉を継続することに同意する」旨言明された。

この上で10月7日に 鳩山,河野らが訪ソしたわけである。社会党は鳩山訪ソを積極的に支援,共産党ほ南千島は千島列島の一部という立場で平和条約による即時国交回復を主張し,財界は冷淡であっ た。

ただし,自民党は領土問題について,

(1)歯舞,色丹ほ即時返還せしめること,

(2)国後, 択捉両島は日本固有の領土であるとの主張を堅持し,条約の効力発生の日以後も,日本の 主権が完全に回復されることについて引続き日ソ両国間で協議すること,

(3)その他の領土についてほサソフラソシスコ条約の趣旨に反しないこと,

という条件を新たにつけたた め,モスクワで河野・フルシチョフ間で別に交渉が行なわれ,次のような共同宣言第9項 を付加して10月19日調印された。

第9項は,

「日本国およびソ連邦は,両国間に正常な外交関係が回復された後,平和条 約の締結にかんする交渉を継続することに同意する。

ソ連邦は,日本国の要望にこたえ, かつ日本国の利益を考慮して, -ボマイ群島およびシコタン島を日本国に引き渡すことに同意する。

ただし,これらの諸島は,日本国とソ連邦とのあいだの平和条約が締結された 後に環実に引き渡されるものとするo」

というもので,ソ連側は一度提出した, 1行目の 平和条約の前の「領土問題をふくむ」という字句を削除した。

日ソ共同宣言ほ11月27日,与野党全会一致で承認されたが,自民党から,青田茂・池田 勇人・佐藤栄作・大平正芳・保利茂・鈴木善幸ら名82が欠席した。参議院も12月5日承 認,ソ連も8日に批准し, 12日批准書交換が行なわれたo

鳩山ほこの年の暮総辞職,石橋内閣と交代したが,この内閣も短命で, 1957年2月25日, 岸信介内閣が成立する。

この1957年6月18日に,フルシチョフ第一書記は朝日新聞編集局 長広岡知男に次のように語っている。

「–もしも明日アメリカ人が沖縄を日本に返した なら,わたくしは政府にたいして,平和条約締結前だって-ボマイ,シコタンを日本に渡 すよう提案してもよいのです。

わたくしの見るところでは,あなた方はアメリカにたいし て,沖縄を返せと,あまり強くほ要求していないようです。で,わたくしたちがとりきめ をむすんだとおり,平和条約締結という条件がみたされたとき,はじめてこれらの島は日 本にもどることになるでしよう。

千島列島の他の島々についてほ,日本にとってもそうで あったように,わたくしたちにとっても,大した経済的対象にはなっていません。

これら の島はソ連にとっても,日本にとっても大きな経済的意義をもっていません。しかし,戟 略的にほ重要な意義をもっています。この点は考慮する必要があります。」 (高橋勝之訳 『フルシチョフと語る』,新日本出版社, 1958, 87ページ)。

フルシチョフは同趣旨のこと を, 1964年9月に日本国会訪ソ親善議員団にも語っている, (9-225, 『朝日新聞』9月16 日付夕刊)

1960年1月19日の岸内閣の下での日米安保条約調印に対し,グロムイコ外相ほ門脇大使 に1月27日付覚え書を手交し,

「・–ソ連政府は日本領土から全外国軍隊の撤退およびソ日間平和条約の調印を条件としてのみ歯舞および色丹が1956年10月19日付ソ日共同宣言に よって規定されたとおりI,日本に引き渡されるだろうということを声明することを必要と 考える.」

としたが,日本政府ほ2月5日「国際約束の内容を一方的に変更しえないこと はここに論ずるまでもない。」

と反論した(9-220, 223)。

岸内閣は1960年7月退陣,吹 の池田内閣とフルシチョフ首相の間でほ1961年8月から数回にわたって書簡の交換があったが領土問題は進展せず,この間1961年10月6日小坂外相ほ政府統一見解として,国後, 択綻両島がサソフランシスコ条約で放棄した千島列島に入らぬことを声明した.

また中ソ 対立のなかで毛沢束主席は1964年7月10日, 「日本の北方領土要求は正当であり当然の権 利である」と声明し,中ソ関係がらみとなった。

72年1月21日にも周恩来首相が同様の声明を発表している。

1964年11月9日-72年7月7日の佐藤内閣の下では, 71年6月17日に沖縄返還協定が調印され,翌年5月15日に施政権が返還されたが,北方領土にかんしては 進展がなかった。

67年7月三木外相が訪ソしたさいコスイギソ首相ほ,

「–・いっぺんに そこ〔平和条約締結〕までいくのが困難だとすれば,何か中間的措置を考えてみたら,ど うだろうか」 (4-227)

と発言したが, 69年9月4日愛知外相にほ,

「ソ連は第二次大戦終 結時に画定したソ連とどの国との国境線のどの一つたりとも,これを変更する気はない」 (2-60)

と言明した。

田中内閣ほ, 1972年9月29日中国と復交した1年後の73年10月,首相,大平外相らが訪ソして平和条約交渉を行ない10月10日に日ソ共同声明を発表した。

その第1項前半は,

「双方は,第二次大戦の時からの未解決の諸問題を解決して平和条約を締結することが, 両国間の真の善隣友好関係の確立に寄与することを認識し,平和条約の内容に関する諸問 題について交渉した」

というもので,後日,日本側ほ,この「未解決の諸問題」のなかに 四島の問題が入っていることをブレジネフ書記長が確認した(外務省情報文化局『われら の北方領土』, 1983, 17ページ)としているが,ソ連側は「北方永域における漁業および 安全操業」のことだと主張し,食いちがったままである。

1974年12月9日-76年12月24日の三木内閣の下でほ,日ソ関係は悪化した。

76年2月 24日,ブレジネフ書記長ほ第25回党大会で,

「日本には,平和調整問題にからませて,外部からの直接の教唆のもとにときおり,根拠のない不法な要求をソ連につきつけようとす る者がいます」 (『ソ連共産党第25回大会資料集』,ありえす書房, 20ページ)

と述べてい たが,この年にほ, 5月,ソ連政府は64年以来続いていた歯舞・色丹への日本政府発行の 身分証明書による墓参に旅券とピザと要求, 9月6日にはミグ25が函館に強行着陸,日本 政府ほ米軍と機体を解体, 12月にはソ連政府は200カイリ漁業水域を設定した。

翌1977年2月200カイリ漁業水域の実施規則公表に,発足したばかりの福田内閣が抗議すると,こ たえて発表した声明のなかで,

「日ソ間に領土問題など存在しない。いわゆる北方領土問 題なるものほ日本側が人為的につくりだしたもので,これについて話しあうつもりはな い」 (4-246)

と言及した。

1978年1月園田外相訪ソのさいは, 73年10月10日合意の明記 をソ連側が拒否し,共同コミュニケが作成できなかった。 (前掲『われらの北方領土』, 23 ページ)

この後1978年8月12日に日中平和友好条約調印, 78年12月7日-80年6月12日の大平内 閣の時期ほアフガニスタソ問題等あり, 79年には国後・択捉におけるソ連軍配備が確認さ れ, 81年1月には鈴木内閣によって2月7日を「北方領土の日」とすることが決められ た。

この間1979年12月日本共産党代表団はモスクワでブレジネフ書記長らと会談して歯舞・ 色丹の即時返還と日ソ間の中間的条約締結の一括協議を主菜し,共同声明で双方が平和条 約の必要性を認め,

「必要に応じて,今後,双方にとって互に関心のある諸問題,両党間, 両国間にかんする問題について協議をおこなうことで合意したJ

と発表している(9-92, 245)。

Ⅲ.さいごに

平沢和重の主張からほじめよう。

「=–厳密に法律的にいえば,日本ほ放棄した,しかし,あれは正統な日本の固有領土で あるから,取り返さなければならないという国民感情が出てきて,返還の要卦こなったわ けである。

しかし,そういう現実を振り返ると,日本のとるべき外交戦術としては,何が一番よい のか。あくまでも四島いっペんに返せということを要求するのがよいのか。

少なくとも歯 舞群島,色丹島ほ,ソ連は平和条約が成ったら返すとほ約束しているからまずそれを返さ せて,そして国後島と択捉島ほ,今のような一応最初は日本が放棄したといういきさつが あるから,それを二段構えで,その周辺の魚はとらせろ,日本の漁船などを舎捕するな, そして最後の領土権というものほ,今世紀いっぱい一応凍結して,今世紀の終わるときふ たを開けて,もう一度話をしようではないかという提案,これが私の持論なのである。と いうことは,日本の立場が,日本の大方の方々が考えるほどに,国際的に法律的にみて, それほど強くないと私はみるからで,したがってやり方もいろいろ苦心がいるのではなか ろうかというのが私の意見である.」 (「内外情勢をめぐる諸問題」 10-186-187)

宇都宮徳馬参議院議員も似たような意見である.自ら発行する『軍縮問題資料J] No.62, 1986年1月の,前田寿夫,国弘正雄との座談会「世界,そして日本,いま問われる平和へ の選択肢」で,次のように発言する。

「—今になって,アメリカのあれもあるでしょうけれども,ソ連敵視論をあおるために 歴史的事実を曲げています。そういうことは,国際法を中心に安全を図るというためにもつとほっきりしなければいけません。だから,私が言うのは,講和条約を結べば歯舞・色 丹は返る約束になっているのだから必ず返る。そういう意味では,領土問題ほ解決済みと 言えば解決済み。 –国後・択捉がいろいろな意味で固有の領土でいろいろな関係もある からどうしても欲しい,こういうことならば,これは講和条約を結んでからの新しい交渉になる。

–・それは法的に通る方法で主張しなければいけませんね。

例えば買い取ると か。あるいは,むしろカイロ宣言に還り,サソフラソシスコ条約を否定して全島の返還を 要求する方が筋が通っているのです。」 (30-31ページ)

2人とも,法的にほ,日本は国後・択捉をふくめ千島列島を放棄しており,日本の立場 ほ弱いという点で共通しているが,国際法学者の見解はどうであろうか。 高野雄一は次のように論じている。

「法的には,日本ほ,千島,南樺太の放棄をソ連との条約でも認めるのが筋である(これ は,日華平和条約に規定された台湾と同じである。ただし,台湾については,日本と連合 国との間に中国に返還する約束が為されている背景があり,千島,南樺太にはそれがない 差異がある)。その放棄から南千島を除くのは無理である。しかし,南樺太・千島をソ連 領として日本が認めるべき茄ほない.とにかく,千島,南樺太の放棄で,これだけの筋は 通し,それによって,日ソ共同宣言にある-ボマイ,シコタンの占領をとき支配権を返還して貰わなくてはならない。

このような法的に筋を通すこと自体も政治的な努力と決定を通さなくてはならないが, それ以後の問題,即ち放棄した南樺太・千島の最終的決定となると日本ほもほや,法的に 直接の辛がかりをもたない。全く政治の問題になってしまう。南千島を日本領(暫定的に 残存立権にとどめるにせよ)とする最終的解決ほ,カイロ・ポツダムの線とヤルタ・ポツ ダムの線との矛盾対立を超克する意味を充分にもつ構想である。が,この矛盾対立の超克 ほ正に政治的にしか得られない性質のものである。」 (「北方領土の法理」 8-248)

和田敏明は, 「日本政府ほ今日,南千島はかつて外国に属したことのない日本固有の領 土であったというのだが,都合の悪い史実はとかく除外され易い」 (『北方領土と日ソ打 開』,叢文社, 1982, 22ページ)として, 1798年幕府が近藤重蔵,山田鯉兵衛を長とする巡 検隊を国後・択捉に派遣したとき, 「この一行は,南千島からロシア人を駆逐し,漁場を 占拠し,アイヌから税金を取りたてた。

一行を離れた近藤ほ,エトロフ島で,ロシアの国 境棲識を撤去し, 『日本国志士呂府』の新棟讃をたてた。」 「1801年,富山元十郎,深山宇平 太の幕吏ほ,ウルップ島に至り,ズヴュズトチョフら20余名のロシア人が居住する面前で 『天長地久大日本属島』なる標柱をたてた。」 (同上, 106ページ)と記している。和田は, サソフラソンスコ条約のなかでアメリカはヤルタ協定を無視して「放棄」を規定するにと どめ,日ソ間に緊張状態を残すことによって日本に冷戦構造の一翼を担わせようとしたの であるとし, 「四島一括返還ほ外交としてほ機能しないが,反ソ反共デマの道具としては 利用することができた.」 (同上, 10ページ)と述べているo

前述宇都宮も,日ソ間に打ち込まれた棋とし,三海峡封鎖などが公言されるようでほ 「歯舞群島,色丹島さえ返しにくくなるかも知れない」 (「北方領土問題の歴史とその国際 法的構造」 『軍縮問題資料』,No.64 (1986-3, 9ページ)と警告している. 本稿でみてきたところをまとめれば次のようになるのではないだろうか。

Ⅰ.サソフラソシスコ条約で日本は法的には千島列島を放棄している。

その調印時,日本 政府も国後・択綻ば千島に含まれるとしており,千島の範囲など条約の解釈について問 題があれば,第22条によって国際司法裁判所に付托しなければならない,と定められて いる。

Ⅱ.日ソ国交回復当時,日本政府も歯舞・色丹返還で妥結もとも考えていたようであり, それ以前, 1952年8月衆議院は,返還運動を背景に,歯舞・色丹のみの返還を決議して いた。

Ⅲ.近年の返還キャソペ-ソは,ソ連脅威論を扇り日本の軍備強化の世論づくりの役割は 果たしているが,ほじめに述べたようにソ連が千島を獲得しようとした理由が軍事的な ものであることを考慮すれば,返還にはむしろマイナスではなかろうか。歯舞・色丹返 還で平和条約を結び,それ以上は,世界の緊張授和,軍縮に向けて努力を積み重ねてい くという大前担のもとにしか,道ほ開けないように思われる。

追加 4月の原稿捷出後,高野雄一『国際法からみた北方領土』 (岩波ブックレッ7., 1986.5),竹岡勝美「北方領土問題私考」 『軍縮問題資料』,No.67 (1986.5)が発表された.

それぞれの結論部分で,高野は, 「日本の政治家,外交家ほ,四十年にわたる外国軍,外 国軍事基地の国内展開という,日本の歴史にいまだかつてなかった,日英同盟,日独伊同 盟の下でもなかった,独立国家として重大な事態に,あまりにも馴れ過ぎ,思想,行動が 貧窮化しています。

平和的な政治・外交が貫徹していく中で歯舞・色丹はもちろんだけれ ども,択捉・国後の返還が実現することは可能であるし,そういう状況の進展過程では, 千島全島をも日ソ間で問題にする可能性も出てくると思います。」 (60-61ページ)と,元 防衛庁官房長の竹岡ほ, 「以下はあくまでも私見であるが,国際法的権利としてその返還 が要求できる歯舞,色丹を, 『軍事基地として使用しない』ことを条件で日ソ平和条約成 立時に返還させ,国際法的に難色のある択捉,国後両島についてほ,領土不拡大の原則を 楯にソ連の誠意に訴えてその翻意を求め,ただし,その返還ほ,将来極束における米ソの 軍事対立が消失し,在日米軍基地も撤廃され,日米安保条約も不要となった真の世界平和 が現出した暁に実行するとの留保条件付き,それほあたかも次代にその解決を委ねた日中間の尖閣列島のごとく,次代に委ねることで平和条約を先に締結することが次善の策では なかろうか。」 (18ページ)と述べている。

 

参考文献

「北方領土」を中心に日ソ関係を扱った比較的手に入やりすい文献をここにあげた。このなかから の引用は,この数字と敢当のページ数で示してあり,その他の文献は引用箇所にそれぞれ書名を記 した。

1)赤城宗徳『日ソ関係を考える,激動の大正・昭和を生きて』,新時代社, 1982.

2)新井鐘次郎『貫け北方領土』,日本工業新聞社, 1983.

3)久保田一郎編『世界の領土問題,北方領土の復帰をめざして』,日本健青会, 1979.

4)久保田正明『クレムリソヘの使節,北方領土交渉1955-1983』,文香春秋, 1983.

5)重光晶『「北方領土」とソ連外交』,時事通信礼1983.

6)清水威久『ソ連の対日戦争とヤルタ協定』,霞ヶ関出版1976.

7)永津満『北方領土奪還への道』,日本工業新聞社, 1979.

8)田岡良一編『北方領土の地位,千島・樺太をめぐる諸問題』,南方同胞援護会, 1962.

9)西口光・早瀬壮-・河邑重光『日ソ領土問題の真実』,新日本出版社, 1981.

10)福島慎太郎編『国際社会のなかの日本,平沢和皇道稿集』,日本放送出版協会, 1985. ll)松本俊一『モスクワにかける虹,日ソ国交回復秘録』,朝日新聞社, 1966.

12)油橋重遠『戦時日ソ交渉小史1941年-1945年』,霞ヶ関出版, 1974.

13)スウェリソゲソ,ロジャー 江川昌訳『東京とモスクワの断層』,世紀直, 1979.

14)ソシソスキー,エス・イ- 川内唯彦『「日ソ」戦争と外交(1)関東軍漬滅と中立条約』世紀社, 1980.

15)ベトpフ,デ他『日ソ関係と領土問題,ソ連はどう考えているか』,白樺, 1981.

16)ベレジソ,ヴェ・-ヌ 江川昌訳『「北方領土」はないという現実,ソ連からみた日ソ関係の ′歴史と展望』,世紀社,1979.

1・は農林大臣や防衛庁長官などをつとめた著者の日ソ関係にかんするエッセイ,先方領土問題 に1章をさいている。核の危機という現在の情勢の下でほ,国際戦略および防衛問題には思想のコ ペルニクス的転換が必要になったと鋭く。

2・ほ,日ソ関係を概観し,北方領土問題について日ソ両国の主張とその根拠および展望を述べ る。福田親犬が巻頭に推薦文を書いている。

3.ほ,竹島・尖閣列島といった日本とソ連以外の国との間の領土問題をほじめ,世界各地の領 土問膚についての論文を集めたもの。

4.著者は,重光外相の日ソ交渉に特派員として同行した経験をもち,日ソ共同宣言の時期を中 心として記述している。現在はテレビ静岡専務取締役。

5.著者は元駐ソ大便。日ソ国交回復交渉にほ,在英大使一等書記官として参加した。

6.戦前レニソダラード,モスクワ, -ルピソの大使館等に勤め, 「ロマノフ朝最後の日」など, いくつかの著作がある。

7.陸軍大学卒で敗戦時在北千島第91師団作戦参謀としてソ連軍と戦い,ソ連で5年抑留生活を 送った著者が,ソ連軍の千島侵攻の体験を述べる。

8.外交史,国際法,漁業,国際政治の4部に分け,それぞれ専門家が執筆した15本の論文と, 日ソ関係年表,文献目録,公文書を収録した2段阻604ページの本格的な論文集であるo内田久司 作成の文献目録は59ページ,高野雄一編の公文書は原文でおさめられている。

9.日本共産党の立場からの簡明な概論o巻末に,国会決議や日ソ共産党の合意など,適切こ選 択された資料も掲載されている。

10.平沢和重は,外務省を1946年退官, NHK解説委員, 「ジャバソ=タイムズ」主幹等をつとめ 1977年没。 『フォーリソ・アフェア-ズ』誌掲載の「北方領土」について提言を行なっている「動 き出す日本の外交」について編者ほ, 「この論文も大反撃をうけた。本当の価値はあと何十年か経 たないと評価できそうもない」と記している.

11.松本俊一は, 1955年6月から全権としてソ連側と日ソ国交回復の交渉にあたり, 1956年10月 の共同宣言調印にいたるまで,国交回復成功につくした。松本は戦時中と戦後外務次官をつとめた ことがある。本書ではソ連側の態度だけでなく,交渉にかかわった鳩山一郎首相,重光英外相,河 野一郎農相らの立場や人間関係など日本側の内情も伝えている.

12.著者は,在ソ日本大使館通訳官,在ベトp′1ウロスク副領事などを経て,大戦中1942年から 敗戦まで在ソ日本犬便館書記官, 1949年から55年まで在-ルシソキ総領事を勤めた経歴をもつ。本 書は,日ソ交渉の前提として戦時中の日ソ関係を知るのに適切である。

 

年表(1875年樺太千島交換条約まで)

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