サンフランシスコ平和条約と領土問題

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平成 23 年度「竹島問題を考える」講座第 1 回講義録
2011 年 9 月 11 日 於:島根県職員会館 (塚本孝)

 

サンフランシスコ平和条約と領土問題
―条約調印 60 周年に当たって―

3.5 サ条約第 2 条関係――c 項 千島、樺太

占領期以来ソ連(ロシア)が支配している諸島のうち、歯舞・色丹・国後・択捉の“四島”を、日本は、平和条約で放棄した千島列島に含まれないと主張している。

1955-1956 年の日ソ国交回復交渉では四島の帰属問題に決着がつかなかったので平和条約が締結されず、今日もなお日ロ間で交渉が継続している。後述。

千島列島と南樺太の地位については、旧連合国(ソ連を含む)がこれらの領土の帰属先の決定権を留保したのか、そのような決定が行われない(行おうとしない)間にソ連(ロシア)が時効など別の権原により領土権を取得したのかなど、法的には複雑な問題がある。

 

4.3 北方領土に対する主張――日本

日本は、ロシアに先んじて北方領土(択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島)を発見・調査し、遅くとも 19 世紀初めには四島の実効的支配を確立した。

19 世紀前半には、ロシア側も自国領土の南限をウルップ島と認識していた。

日露両国は、日魯通好条約(1855 年)において、当時成立していた択捉島とウルップ島の間の両国国境を確認した。

日本は、樺太千島交換条約(1875 年)により、千島列島(この条約で列挙されたシュムシュ島からウルップ島までの 18 島)をロシアから譲り受けるかわりに、ロシアに対して樺太全島を放棄した。

日露戦争後のポーツマス条約(1905 年)において、日本はロシアから樺太(サハリン)の北緯 50 度以南の部分を譲り受けた。

1941 年 8 月、米英両首脳は、第二次世界大戦における連合国側の指導原則ともいうべき大西洋憲章に署名し、戦争によって領土の拡張は求めない方針を明らかにした(ソ連は同年 9 月にこの憲章へ参加を表明)。

また、1943 年のカイロ宣言は、この憲章の方針を確認しつつ、「暴力及び貪欲により日本国が略取した」地域等から日本は追い出されなければならないと宣言した。北方四島がここで言う「日本国が略取した」地域に当たらないことは、歴史的経緯にかんがみて明白である。

ポツダム宣言(1945 年 8 月受諾)は、カイロ宣言の条項は履行されなければならない旨、また、日本の主権が本州、北海道、九州及び四国並びに連合国の決定する諸島に限定される旨規定している。

しかし、当時有効であった日ソ中立条約を無視して 1945 年 8 月 9日に対日参戦したソ連は、日本のポツダム宣言受諾後も攻撃を続け、同 8 月 28 日から 9月 5 日までの間に、北方四島を不法占領した。

日本は、サンフランシスコ平和条約(1951 年 9 月)により、ポーツマス条約で獲得した樺太の一部と千島列島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄した。

そもそも北方四島は千島列島の中に含まれない。

ソ連は、サンフランシスコ平和条約には署名しておらず、同条約上の権利を主張することはできない。

日ソ国交回復交渉において両国は、歯舞群島及び色丹島を除いては、領土問題につき意見が一致する見通しが立たなかった。そこで、平和条約に代えて、戦争状態の終了、外交関係の回復等を定めた日ソ共同宣言(1956 年)に署名した。

その際、両国は、平和条約締結交渉の継続に同意した。歯舞群島及び色丹島については、平和条約の締結後、日本に引き渡すことにつき同意した。

 

外務省ホームページの「北方領土問題の経緯(領土問題の発生まで)」

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「日ソ・日露間の平和条約締結交渉」

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4.4 北方領土に対する主張――ロシア

第二次世界大戦の結果から出発すべきである。

1904 年の背信的攻撃、1905 年のポーツマス条約でサハリン島南部を奪取したことによって、日本は 1855 年条約を含むそれ以前の条約を引き合いに出す権利を失った。

日本は、降伏文書に調印し、ヤルタ協定を含む連合国間の合意から発生するすべての条件を受諾したから、ヤルタ協定に無条件に従う義務がある。

連合国はヤルタ協定によるクリル諸島のソ連への引き渡しを大西洋憲章、カイロ宣言に矛盾するとはみなさなかった、これらの憲章、宣言に「連合国は何ら領土拡大の考えを持たない」という条項があるが、連合国は、ソ連へのクリル諸島の引渡しを歴史的に正当な行為とみなし、ヤルタ協定で法律的確認を与えた。

ソ連のサンフランシスコ条約への不参加は、日本によるクリル諸島に対する権利・権原・請求権の放棄という事実を弱めるものではない、この事実は絶対的な性格を持つ。

四島がクリル諸島に入らないという主張は、クリル諸島の帰属を決めた諸文書(ヤルタ協定、サンフランシスコ条約)がそういう分割をしていないので受け入れられない。

領土問題を含む平和条約交渉継続を謳ったグロムイコ・松本書簡は、共同宣言では領土問題に言及しないと双方が決めた状況下で交わされたものである。しかし日本側は再び領土問題を宣言に入れることを要求し、その結果ソ連が歯舞、色丹を日本に引き渡すことに同意するとの記述が宣言のなかにとり入れられたが、それはソ連側が平和条約調印への準備を整える上での最終的立場であるとの了解のもとにおいてであった。さらにその際ソ連は、日本の歯舞、色丹の返還要求に正当な根拠があると認めたわけではなく、戦勝国と敗戦国との間の歴史的な先例にはない、自分からの行為によって隣国との友好関係を固めたいとの念願から例外的に日本の立場を満足させようとするに至ったものである。

 

ゴルバチョフ訪日(1991 年 4 月)に向けた準備作業の一環として設けられた外務次官級日ソ平和条約作業部会(全 7 回)における主張――アレクサンドル・パノフ(Александр Н. Панов)著、高橋実・佐藤利郎訳『不信から信頼へ――北方領土交渉の内幕』サイマル出版会 1992 p.57-60

 

5.1 北方領土

1945 年 2 月 11 日のヤルタ協定では対日参戦の条件としてソ連への返還(南樺太)・引き渡し(クリル諸島)が謳われていたが、サ条約では単に日本による放棄を規定。

当事国とならない国(ソ連)には権利、権原、利益を与えない旨の規定も(第 25 条)。

サンフランシスコ会議における米国代表(ダレス)の発言:「若干の連合国の間には若干の私的了解がありましたが、日本も又他の連合国もこれらの了解に拘束されたのではありません。」

以上のことから、サ条約によってクリル諸島・南樺太がソ連(ロシア)の領有に帰したということはできない。ただし、これらはサ条約によって日本の領土でなくなった。

しかし、国後島、択捉島、歯舞諸島、色丹島の“四島”は、平和条約で放棄した千島列島(クリル諸島)に含まれないというのが日本の立場。

千島方面の諸島には、18 世紀以降カムチャツカ半島からロシアの勢力も南下してきたが、日本は、19 世紀初頭までに兵を常駐させるなど国後、択捉両島に対する実効的支配を確立し、ロシアも自国の版図をウルップ島までと認識していた。

四島は、日露の最初の条約である 1855 年の日魯通好条約においても日本の領土であることが確認されており、ロシアとの間でやり取りをした領土ではない。

大西洋憲章、カイロ宣言等にある今次の戦争で自国のために領土拡張の念を有しないとする連合国自身の領土不拡大原則の宣言に照らして、かつて他国の領土であったことのない領土(固有の領土)まで放棄せしめられていると解釈すべきではない。

 

参考文献

「米国務省の対日平和条約草案と北方領土問題」『レファレンス』482 号, 1991.3, pp.113-120.

「日本と領土問題―北方領土問題の国際司法裁判所への付託(上)(下)」『レファレンス』504号, 1993.1, pp.49-81;505 号, 1993.2, pp.47-66.

「冷戦終焉後の北方領土問題」『国際法外交雑誌』105 巻 1 号, 2006.5, pp.71-98.

『北方領土問題に関する国会論議―第 91 帝国議会(昭和 21 年)~第 13 国会(昭和 27 年)』国立国会図書館, 1992.

「北方領土問題の経緯【第 4 版】」『調査と情報-ISSUE BRIEF-』697, 2011.2.3.

http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/issue/pdf/0697.pdf

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