https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/pdfs/tenji_shiryo.pdf
https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/pdfs/sf3_03.pdf
サンフランシスコ講和会議
昭和26年(1951)9月4日から、サンフランシスコのオペラ・ハウスで開かれました。参加国は52ヶ国で、アチソン米国務長官が議長となって、5日間に亘る歴史的な会議の議事が進められました。
会議第一日、トルーマン大統領の開会挨拶は、「・・・我々は悪意を捨てて憎しみを忘れよう。我々の間には勝者もなく、又敗者もない。ただあるは平和に協力する対等者のみ」という言葉で締めくくられ、米国が講和会議に臨む態度を最も大胆且つ率直に表明したものとして、各国代表に強い感銘を与えました。
午後7時30分、トルーマン米大統領が登場し、満場の拍手を浴びた。トルーマンは語り始める。
「われわれがここに会合したのは、旧敵国を平和国家に再び仲間入りさせるためである。われわれがここに集って調印しようとする条約は、報復の精神によって作成されたものではない。われわれは今あらゆる国の国民がともに平和のうちに暮らせるような世界を建設しようと努力している」
トルーマン演説は23分間続いた。大軒記者は、これを「世界平和宣言ともいうべき演説」と総括した。
会議の焦点は、第一に、この会議は「日本との平和条約の調印のための会議」であって、条約草案についての論議を繰り返すためのものではない、とする米国と、これに反対するソ連との論戦であり、第二には、ソ連のサボタージュ戦法を封じるために予め用意された議事規則をめぐるソ連との応酬であり、第三には、中国、インド、ビルマ等のアジア諸国の不参加と相俟って、参加するフィリピン、インドネシア等の諸国からも条約草案についての不満から、何らかの動きをされないかという不安でした。
会議初日の冒頭先ず米ソ両国代表の間に激しい論戦が闘わされ、それと絡んでサボタージュ戦術がソ連側から採られようとしましたが、アチソン議長の水際立った議長振りによって、予て英国等と打ち合わせて用意された議事規則に則って全然ソ連に隙を与えず、さすがのグロムイコ全権をしても、その得意の戦法を用いることが出来ず、会議は西欧側のワンサイド・ゲームに終始したのでした。
こうしたアチソン長官の名議長振りは、サンフランシスコ講和条約を機会に、全米に敷かれたテレビ網を通じて全国民の絶賛の的になり、長く語り草になりました。
一方、日本側の演出も又、見事でした。吉田首席全権の演説は、当初英語でされる予定であったのを日本語ですることに変更し、これを外務省連絡局次長の島内氏が英語で通訳したのですが、ラジオやテレビを通じて、島内氏の流暢な英語のみが放送され、米国民に与えた好印象は絶大でした。演説中イヤホーンを耳に当てて聞き入る各国代表から、山縣も盛んに握手を求められたそうです。
かくして、サンフランシスコ講和条約は、予期以上の成功裡に、9月8日の調印式を以って無事5日間の幕を閉じ、ここに日本は、終戦後6年にして、待望の主権の回復を、それも敗者としての立場ではなく、友邦としての対等の立場で勝ち取ったのでした。そしてそれと同時に山縣は、制約されざる新しい日本海運の誕生を目の当たりに見ることが出来たのでした。
さて、会場のオペラ・ハウスの演壇には、開会式以来、日本を除く参加各国の国旗が一列に飾ってありましたが、調印式の行われる9月8日の朝、山縣が会場に入ってみると、それらの最右翼に、色も鮮やかな日章旗が立っているのを見つけ、頬を伝わる感激の涙を押しとどめることが出来ませんでした。
調印式の済んだ夜、開催された晩さん会では、日本代表団は、名実ともに主権を回復した友邦よりの客として遇され、吉田全権はじめ日本代表団の顔も晴れ晴れとしたものでした。