最近の検定教科書地図
海外ではこれらの島々はKurile Islandsとなっている。
しかし、地理上の日本名称においては、国後・択捉は千島列島か、それとも、日本列島になったのか不明となっている。
現在、日本の教科書地図では、以下のように記載する事が義務付けられており、異なった記載は検定不合格となる。
『国後・択捉・歯舞・色丹は日本領とする。南樺太、ウルップ以北の千島は帰属未定とする。』
このような地図は日本以外の地図にはほとんど存在せず、日本だけの特異な地図である。
日本の教科書地図
江戸時代以前の日本の認識
日本の北方は「蝦夷」であり、蝦夷にはたくさんの島があるという意味で、「千島」「蝦夷ヶ千島」と呼んでいた。
「蝦夷」とは、華夷思想に基づく異民族の呼称。
18世紀前半のヨーロッパの認識
マトマエ島(北海道)を含めて、「クリル」と呼んでいた。
19世紀 始め頃
カムチャツカから北海道の間にある島々をヨーロッパでは「クリル」と呼んでいた。
日本では、「クリル」と「千島」は同じものとしていた。
ハボマイ、シコタンが千島に入るか否かは定かでない。そのような厳密な呼び名ではなかった。
1855年 日露修好条約 (下田条約)
択捉島とウルップ島の間に、日露の国境が引かれた。すなわち、択捉島は日本の領土、ウルップ島と北にあるその他のクリル諸島はすべてロシアの領土となった。
樺太は、日露の国境が定められず、日露混住の地であった。
明治2年8月15日、蝦夷地は北海道と称されるようになった。北海道は11カ国に分割した。国後島と択捉島は千島国とし、次の五郡が置かれた。国後・択捉・振別・紗那・蘂取。
1875年 千島樺太交換条約(サンクトペテルブルグ条約)
樺太はロシア領となった。かわりに、クリル諸島のうちロシア領のグループだった島々は日本領となり、その結果、全クリル島は日本領、となった。
千島樺太交換条約は8月22日批准、11月10日布告。
ウルップ以北が日本領となった直後は、その地に、日本の行政上の区分たる名称は付けられていないので「クリル諸島」と呼んでいた。下の地図は、半年ほど使われた過渡期の呼称を示している。
1876年1月14日 シュムシュ島からウルップ島までを千島国に編入
シュムシュ島からウルップ島までを千島国に編入、得撫(ウルップ)・新知(シムシル)・占守(シムシユ)の三郡を置いた。
(布告第弐号))
(色丹島・ハボマイ群島は根室国)。
1885年1月6日 色丹島を「千島」に編入
色丹島を「千島」に編入した。
(明治18年布告第壱号)
根室県下根室国花咲郡ノ内「シコタン」島自今千島国へ編入色丹(シコタン)郡ト称す
()はルビ
1905年 ポーツマス条約
南樺太は日本領となった。
千島に変更はない。
1945年8月9日 ソ連対日参戦
1945年8月9日ソ連が対日参戦し、8月11日には当時日本領だった南サハリンに侵攻、18日には千島列島に侵攻開始。
8月28日から9月3日(9月5日とする説もある)にかけて北方4島を占領する。
1946年1月29日 GHQからの指令
GHQは日本の行政区域を定める指令(SCAPIN-677)を出す。
この指令により、日本は、歯舞・色丹を含む全千島の行政権を失い、北方領土はソ連の占領が続く。
図は、GHQ指令の中に現れている島の名前
1951年 サンフランシスコ平和条約
日本は南樺太・千島列島の領有権を放棄する。
しかし、日本が放棄した”千島列島”とはどこか定義されておらず、解釈の違いが生じた。
ソ連
代表グロムイコは「樺太南部、並びに現在ソ連の主権下にある千島列島に対するソ連の領有権は議論の余地のないところ」と発言し、南樺太・千島列島・北方四島すべてを”千島列島”とした。
アメリカ
ダレス代表(51年9月5日)は演説の中で、「第二条(C)に記載された千島列島という地理的名称が歯舞諸島を含むかどうかについて若干の質問がありました。歯舞を含まないというのが合衆国の見解であります」と発言し、南樺太・千島列島・歯舞諸島を除く北方領土を”千島列島”とした。
米国政府の認識
(このとき千島の範囲に変更が加えられたわけではない。米国政府の認識を説明するために、ハボマイをソ連領とは異なった色をつけて書きました。)
日本
代表の吉田茂は「日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島」・「千島南部の二島、択捉、国後両島」と発言し、南樺太・千島列島・択捉島・国後島を”千島列島”とした。
日本政府の認識
図の中の名称は、吉田茂全権が受諾演説の中で使いた用語を示している。
(このとき領有権や千島の範囲に変更が加えられたわけではないが、日本政府の認識を説明するために、歯舞諸島・色丹島をソ連領とは異なった色をつけて書きました。)
これらのことから、国後島・択捉島は日本が放棄した千島列島に含まれるという事で一致していたが、歯舞・色丹については、意見の一致をみなかったという事がわかる。
1950年03月08日 島津政府委員の答弁
島津政府委員が、ヤルタ協定の千島には、南千島、北千島の両方を含んでいると答弁した。
島津答弁に引き続き、西村熊雄氏は、『SCAPIN-677第三項の中に「千島列島・歯舞諸島及び色丹島」とあるので、千島列島には南千島、北千島の両方を含んでいる』と説明した。
1951年10月19日 西村熊雄外務省条約局長の答弁
西村熊雄外務省条約局長は、放棄した千島列島に南千島(国後・択捉島)も含まれると答弁した。
この答弁に続いて吉田国務大臣は、「この問題は、日本政府と総司令部の間にしばしば文書往復を重ねて来ておるので、従つて米国政府としても日本政府の主張は明らかであると考えます」と述べている。
歴史的経緯を含め、日本の見解を詳細に米国に伝えたけれども、南千島の放棄は米国の既定方針だったため、日本の主張を受け入れる余地は無かったと考えられる。
1951年11月6日 第12回国会 参議院 平和条約及び日米安全保障条約特別委員会 第11号
昭和26年11月6日
○政府委員(草葉隆圓君)
歯舞、色丹は千島列島にあらずという解釈を日本政府はとつている。これははつきりその態度で従来来ております。
従つて千島列島という場合において国後、択捉が入るか入らんかという問題が御質問の中心だと思います。
千島列島の中には歯舞、色丹は加えていない。
そんならばほかのずつと二十五島でございますが、その他の島の中で、南千島は従来から安政條約以降において問題とならなかつたところである。
即ち国後及び択捉の問題は国民的感情から申しますと、千島と違うという考え方を持つて行くことがむしろ国民的感情かも知れません。
併し全体的な立場からすると、これはやつぱり千島としての解釈の下にこの解釈を下すのが妥当であります。
1951年11月18日 第12回国会 参議院 本会議 第20号
昭和26年11月18日
○大隈信幸君
千島に関してはその範囲が問題となりましたが、歯舞、色丹は、北海道の一部であつて、千島ではないとの主張を持する旨、政府の見解が披瀝せられました。
国後、エトロフ両島も一八五五年の日露條約で明らかに日本領と認められ、又宮部ラインによつてウルツプ以北とは学術上あらゆる点において異なり、国民感情的にも千島にあらずと思われるが、常識的には千島の中に入るのではないかとの趣旨の応答もございました。
1952年5月14日 第13回国会 衆議院 外務委員会 第24号
昭和27年5月14日
○岡崎国務大臣
また千島列島と申しますものも何をもつて千島列島とするか、その定義はいろいろあるようであります。
たとえば明治の初めの千島樺太交換條約というのを見ますと、千島列島——クリルズと書いてありますが、実際の対象は北千島に限られておつたようであります。千島の定義もいろいろ人によつて意見が違うと思う。
これらの点も将来できるだけ早くはつきりした解決をいたしたい、こうわれわれ考えておるのであります。
1952年5月28日 第13回国会 衆議院 外務委員会 第27号
昭和27年5月28日
○岡崎国務大臣
たとえばわれわれとしては、話はまるで違いますけれども、ヤルタ協定というものはない、われわれの目から言えばないものだということは言つておりますけれども、樺太なり千島——これは定義はきまつておりませんが、千島というものの権利、権原は放棄しておる。
それがどこに帰属するかということについては、これは連合国がきめる問題だ。
こういうわれわれは立場をとつておるわけであります。
従つてこの條約においては、日本側としてはこれをどこの領土であるというふうにきめる立場にないから、われわれの方は先方はこれをただけだということで、先方はこれをどう考えようとも、それは先方の立場だということで、要するにわれわれがそこまで踏み込んできめる立場にないのだという点を御了承願いたいと思います。
https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101303968X02719520528/161
1952年11月25日 第15回国会 衆議院 外務委員会 第2号
昭和27年11月25日
○岡崎国務大臣
千島につきましては、われわれは平和条約においてこれを日本の領土から除くということに、つまり千島に対する権利権原等を放棄するということが書いてありますので、私たちは千島については平和条約の条項を誠実に履行するという意味で問題にするつもりはないのであります。
ただそれが千島とは何ぞやという定義の問題になれば、これはいろいろ意見があります。
たとえば明治の初年に樺太と交換したときの千島も千島と称されております。これは北部の島々のみで、南の方の島は入つておりません。
しかし歯舞、色丹は別でありますが、国後、択捉島、ああいうところも含めて千島と称しておる場合もあり、それから北の方の部分だけを千島と称しておる場合もあり、この千島の定義については、また将来議論の余地がかなりあると考えておりますが、どれが千島であるかということが決定すれば、その千島に対してはわれわれは権利権原を放棄する、こういうつもりでおります。
1955年12月10日 重光葵外相答弁 !!!
昭和30年12月10日
重光外相は、サンフランシスコ条約で放棄した「千島」とはウルップ以北と答弁。
(このとき領有権や千島の範囲に変更が加えられたわけではないが、日本政府の認識を説明するために、ハボマイ・シコタン・クナシリ・エトロフをソ連領とは異なった色をつけて書きました。)
1956年2月11日 森下國雄外務政務次官答弁
森下國雄外務政務次官は、サンフランシスコ条約で日本が放棄した千島に国後島・択捉島は含まれないと答弁。
1961年10月3日 池田総理大臣答弁
1961年10月3日の衆議院予算委員会において池田総理大臣は、ウルップ島以北が千島と答弁。