デザイアランド

期末試験

僕は解答用紙にへばり付いていた。シャープペンシルを動かし、何とか空欄を埋めようと必死だ。他の学生も一心に手を動かしている。階段教室にシャープペンシルの走る音が響き渡り、それを聞いた僕は更に緊張するのであった。

と、嗤うようにチャイムが鳴った。

「試験終了です。速やかに筆記用具を置いて下さい」

試験監督が抑揚のない声を放った。

僕は一気に脱力し、シャープペンシルは中指を伝って解答用紙の上に転がった。

終わったのだ。前期の全ての試験が。

僕は筆記用具を手早く片付け、鞄を背負う。もうこんなクーラーのききすぎた教室に閉じ込められるのはごめんだ。ただでさえ試験で頭が痛いのに……。

逃げ去るように足早に教室の出口へと向かった。そして扉をあけると、生温い空気が僕を出迎えた。

「おつかれ、北杜(ほくと)」

小柄で天然パーマの碧海(あおみ)が、右手を少し挙げながら後ろから近づいてきた。彼とは大学で知り合った、同じ法学部の中で一番気の合う友人だ。

「やあ、おつかれ。やられたよ、大学の試験でこんなに苦戦するとはね…」

「だよな。高校と違って簡単に単位落とされるらしいし、どうなるんだろう…」

僕は急に不安になり、大きく溜息を吐いた。それを見た碧海は苦笑いして僕の肩を突いた。

「北杜は大丈夫だろ。俺の方がやばいって」

「そうかな、見た感じ碧海君の方が余裕そうだけどね」

「北杜はホンマにネガティブだな。自分にもっと自信持てよ。顔もそんなに悪くないし、身長は俺よりも高いじゃないか」

それを聞いた僕は、鼻で笑った。

すると碧海が僕の前に回り込み、からかうような目で僕を見る。

「おいおい、何が面白いんだよ。やっぱり内心、自分の事、イケメンって思ってんやろ」

顔や身長の事ではない。自分に自信を持てと言われた事が面白かったのだ。

僕は努めて明るく答えた。

「いやいや、そんな事思ってないから。笑って悪かったよ」

「別にいいけどさ。ところで、北杜は夏休みどうするん?」

「特にこれってものはないけど。明日から実家に帰るよ」

「早いな!俺はバイトもあるし、帰るのは来月かな」

僕らは法学部棟の出口に差し掛かった。自動ドアが開くと、外から猛烈な熱気が僕らを容赦なく襲う。

「なんて暑さなんだ!」

碧海が唸るように声を張り上げた。八月の十四時頃の暑さは尋常じゃない。アブラゼミ達も悲鳴を上げるかのように、叫び合っている。

とにかく、早くスクールバスに乗って涼を取りたいと言う気持ちに駆られ、僕らはろくに話もせずバス停に向かった。

「いやー暑かった。蒸し殺される暑さだ」

バスに乗ると、誰に向かってでもなく碧海はそう言った。

僕らは奥の座席に腰掛けると、バスは間もなく動き出した。

「そう言えばさ、北杜の実家って千葉だろ。かなり遠いよな」

「うん。島根から千葉じゃ帰るのも一苦労だよ。碧海君は倉敷だから、帰ろうと思えば直ぐに帰れるんじゃない?」

「確かに一本乗り継ぐだけで行けるけど、何たってここは山陰という秘境だからね。帰るにはやっぱり四時間くらいはかかるぞ」

言うほど秘境か、と僕は苦笑いする。

実家のある八千代市と比べても、ここ松江市は大型ショッピングモールが小さいくらいで、住むには不便のないまちだ。それに何よりも、親元から遠く離れて暮らしているという事が心地良かった。

「僕はこのまちが好きだな」

車窓から外を眺めながら呟いた。

バスは松江駅に向かって車通りの少ない県道を南下していた。市街地とはいえ、高い建物が少ないので空が広く見える。今日もかんかんに晴れて、歩道を歩いている人は一人もいなかった。

松江駅で下車し碧海と別れると、駅から十分ほど歩いた先にある下宿先のアパートに真っ直ぐ帰宅した。

出発準備

帰ってすぐ、リビング奥の洋室に入ると、僕はクローゼットからスモールサイズのスーツケースを取り出し、帰省の準備に取り掛かった。

けれども、帰ることを楽しみにしているわけではない。

実家に帰ったところで、両親と仲良くできるわけでもないからだ。

それに、親友の松戸(まつど)は医学部を目指して浪人しているから、一緒に遊びに出かける事も出来ない。

けれども、埼玉に住む父方の祖父母が、こんな僕に会いたいと言うので、帰らない訳にはいかなかった。

祖父母は僕が幼い頃に四年ほど僕を養育していたので、僕の事を我が子の様に思っているのだ。

そう思ってくれる事は嬉しいのだが、なんだか出来の悪い僕を可愛がってくれる事に後ろめたさを感じた。せめて、祖父母の所を訪れた時は、お手伝いをしてあげないと。

それでも一つ、楽しみがあるとすれば、地元から近い千葉の外語大学に通っている彼女である紗奈(さな)と二人で遊びに行く事だ。

メールや通話で週に三、四回程やり取りしているが、実際会うとなると今春の三月末ぶりであるから、かなり久しぶりだ。

他人からは、遠距離なのによく上手く続いているなと言われる事があるが、それは彼女が色々な意味で強い人間だからだと思う。

紗奈に会えると思うと準備は意外にも捗った。

荷造りが終わる頃には、日もどうやら沈んだみたいで、窓の外は薄暗くなっていた。

―――――帰るんだな。

玄関に置かれたスーツケースを見つめて、一言そう呟いた。

フラッシュバック

夜、僕はベッドの上でブランケットを被りながら、試験終わりに碧海に言われた言葉を思い出していた。

「自分に自信持てよ」

目を閉じると、その言葉が僕の脳内で引っ切り無しに反復した。

それはやがて、励ましのトーンではなく、僕を嘲るようなトーンとなって、自信を持てない僕の弱さを曝け出そうと暴れだした。そして、僕はついにその言葉の圧力に耐え切れなくなった。

――――― 一刹那、フラッシュバック。

脳裏に暗い過去の記憶が鮮明に映し出される。

僕は玄関の前に立っていた。目の前にはブラウンのコクーンコートを羽織り、紺のデニムにグレーのミドルブーツを履いた母さんの姿。夕暮れ時なのか、僕の背後を夕日が寂しそうに照らしている。右手を伸ばすと、母さんは静かにその小さな手を握った。

暖かくはなかった。冷たい手だった。

それから僕は顔を上げ、母さんの顔へと視線を移したが、顔がぼやけてよく見えない。

そして母さんは、僕を握る手をそっと離すと、玄関を開けて、僕に背中を見せた。

その途端、開けた隙間から寒い風が吹き込んだ。僕は身震いして、思わず目を瞑った。そして次に目を開けたとき、もうその姿は消えていた。

家にただ一人残された幼い僕は、父親が帰るまで泣き続けたのだった。

望む訳でもなく場面は急に変わる。

「お前が、母さんに迷惑ばかり掛けるからいなくなったんだぞ!」

帰ってきた父は状況を察すると顔色を変え、紅潮して怒鳴った。その言葉には怒りや、悔しみ、悲しみといった全ての負の感情が込められていた。言うまでもなく、僕に対して向けられた感情だった。

幼い僕には何が起こったのか理解できなかったが、間違いなく母さんと父親を引き離す原因となったのは確かだった。

そうだ、あの日から僕は自分の存在が嫌になったのだ。

またしても場面が大きく変わった。

今度は大きな木目調のテーブルの前に僕は立っていた。ここは実家のダイニングだ。僕の右手には塾で使っていたブリーフケースが握られている。

そしてテーブルを挟んだ目の前には、父親が今にも激昂しそうな顔で座っていた。そうだ、これは中学三年生の夏休みの夜だ。

それが分った瞬間、思い出したくない!とその記憶からどうにか逃れようとした。これから起こる事は、僕の人生で起きた一番、最悪な出来事なんだ!

この日、父親の再婚相手である義母の幸代(さちよ)さんと、父と義母の間に生まれた義妹の幸音(ゆきね)は、お盆の時期と言うことで長野の実家に帰省していた。

家に残されたのは、僕と父の二人。それだけでもかなり居心地が悪いのに、僕の成績が振るわないせいで、さらに状況は最悪な方へと転じる事になる――――。

「早く成績表を出せ!」

ついに痺れを切らした父親が怒鳴った。それと同時に地面を揺るがす雷鳴が轟き、激しい雨が降り始めた。本当に最悪なシチュエーションだ。

「……」

僕は黙りこくった。もちろん黙った所で状況は良くはならないが、どうすることもできなかった。

「黙ってないで早く!出せ!」

父親は更に激憤し、握り拳を思い切りテーブルに叩き付けると、ついに椅子から立ち上がった。その勢いのあまり、椅子が後ろへと大きく倒れ込んだ。

僕は覚悟を決め、ブリーフケースから先週返された模試の結果を父に恐る恐る差し出した。

父は、僕の手から荒々しく成績表を奪い取ると、ゴミを見るような目でそれを眺めた後、それをクシャクシャに丸めて、僕に向かって思い切り投げつけた。

「何で、もっと早く出さないんだ!さっき、お前が塾から帰ってくる間に先生から電話があって、そこで初めて成績表が返されていた事を知ったんだぞ!なぜすぐに出さないんだ!」

それは、見せたら怒鳴られるような成績だからだ。しかしそんな事は言えず、僕は口を閉ざしたまま沈黙するしかなかった。

「俺の質問に答えろ!」

それでも僕は閉口し、石の様に固まっていた。父の気に障ることを言いたくないんだ。

「お前には本当に呆れるよ!」

「……」

「こんなに馬鹿高いカネ払って塾に行かせてやってんのに、成績表は見せない、成績は伸びない、何も変わってないじゃないか!……お前には、努力が足りないんだよ!」

「努力が足りない」は、父親によく言われる言葉だ。

父から発せられるその言葉を聞くたびに、僕は父を満足させられる人間には絶対になれないと思った。

僕は、どんなに父から怒鳴られようと、憎まれようと、嫌われようと、「努力」の面では父を尊敬していた。

父は努力で出世を重ねてきた人だ。父は母さんと離婚した後も、くじけずに仕事をこなした。その結果、大企業の製薬株式会社から抜擢され、今は部長クラスにまで出世した。

父は僕から見ればもっとも身近にいる偉大な人物だ。

そんな父を満足させるような事なんて、僕には出来ないんだ――――。

父の怒りは最高点に達し、自分自身を憐れむかのように嘆き叫んだ。

「お前に少しでも期待した俺が馬鹿だった! お前に投資した俺は馬鹿だった!」

―――――その時だ。

僕は思わず「投資」という言葉に反応し、人生で初めて父に暴言を吐いた。

「それって、息子に言う言葉かよ!投資って何だよ!父さんから見れば、僕は取引先とか商品なのかよ!」

この言葉を聞いて父の癇癪は限界を超えた。自制心を失った父は僕の胸ぐらをつかみ、思い切り殴りつけたのだ。

僕は頬を打たれ、身を翻してフローリングに倒れた。顔を上げると父親は肩で息を切らしながら、鬼のような形相で僕を蔑む様に睨んでいた。

ところが、急に寂しげな表情に変わり空を見つめて呟いたのだ。

「こんなこと、望んでいなかったんだ……」

その瞬間、背筋に稲妻が走るような衝撃が走った。それって、つまり……。

「俺は……娘だけで良かったんだ……」

父は静かに右の袖口から煙草とライターを取り出し、煙草に火をつけ、それをくわえるとダイニングから去っていった。

気が付けば僕は沢山の涙を流していた。

そんな自分を馬鹿らしく感じた。

泣いたって意味がないじゃないか。

しかし、涙は、拭っても、拭っても、目から止まらず溢れた。

父の言葉で僕は確信した。

やはり生まれてくるべきだったのは僕ではなく、彼女の方だった。

その証拠に、父は義母と再婚し、義妹の幸音が生まれてからは彼女を特段可愛がり、そして僕の存在を疎むようになっていった。けれども、父親は実の息子である僕に対して多少なり愛情があるということを信じていた。

しかし儚い希望も虚しく、父は僕の存在など望んでいなかったのだ。

僕はダイニングの奥にある棚に向かった。そこにはたくさんの重要な書類が積みあがっており、その中から自分の「母子手帳」を取り出した。

――――― 中学生二年生のある日、僕の母親の名前を知りたくて探した。そしてダイニングの棚から見つけたのだ。

表紙には可愛らしいコウノトリと赤ちゃんのイラストがあり、顔も知らない実の母親ー北杜寧子と、僕―北杜雪弐の名前が丸みのある字で記されている。

僕はページを捲ってゆき、「妊娠経験」のページで手を止めた。

そこには次の文字が重々しく書かれていた。

「一九九九年十二月、妊娠三十二週、女児死産(雪乃)」

僕が生まれる一年前、女の子が生まれるはずだった。もしも彼女がこの世に生まれていれば、僕には姉がいたのだろう。

いや、本当は彼女が生きていたら僕は生まれなかったのだ。そして両親は離婚することなく、娘と共に幸せな家庭になっていたことだろう。

しかし運命に生かされたのは僕だった。

その結果、両親は離婚した。

僕は両親の幸せな人生を壊した悪魔だ――――。

僕は床に膝をつき、この母子手帳のページをただ呆然と見つめていた。

「お、お前、それ……」

不意に父がダイニングに戻って来るなりそう言って、僕の手から母子手帳を奪い取った。

「見たのか……」

放心状態の僕は何も言うことができなかった。

「これを見たという事は、雪乃の事も知ったんだな?お前は、姉の分も努力出来るよな?」

父は明らかに動揺していた。よほど見られてはいけなかったのだろう。何とか焦る気持ちを抑えようとしていた。

「俺、お前の名前を『雪弐(ゆきじ)』って付けただろ。あれは雪乃(ゆきの)の分も強く生きて欲しいから付けたんだ。だからさ、生まれてこれなかった姉の分まで努力しろよ!」

――――もう僕は耐えられなかった。

僕が父と母さんを離婚させたこと、父の満足出来るような人間になれなかったこと、そして僕の存在は誰にも望まれていなかったということ。それに加え、姉の死を背負わされていたなんて。

自分を取り巻く全てが灰色の世界となり、人生が圧倒的な無意味に満ちていることを全身で体感した。

そしてどこかで張り詰めた糸が切れたような気がした。

僕はゆっくり立ち上がると、ダイニングから暗い廊下に出て、重い足を引きずりながら二階へと登っていった。

そして、机とベッドだけの無機質な自分の部屋から、扉を開けてベランダに出た。

目の前は吸い込まれるような暗闇と、全ての音をかき消す豪雨。まるで僕の為に用意されているかのよう。

僕は一息吐いた後、ベランダの手すりを乗り越えて、父親の財力がどれだけのものかが実感できる、広い芝生の庭に雨とともに落下していくのであった――――。

僕のいない朝は
今よりずっと 素晴らしくて
全ての歯車が噛み合った
きっと そんな世界だ

来栖

突然に目が覚めた。また見てしまった。たまに見る過去の嫌な記憶。

どうやらいつの間にか寝ていたらしい。実家に帰る前に憂鬱な夢を見てしまったと、僕はあれについて考えた事を後悔した。

ふと僕は、何か違和感を感じた。

あたりが完全に真っ暗なのだ。僕の住んでいるアパートは市街地に建っているので、夜であってもカーテンの隙間から光が漏れ、わずかに天井や壁が見えるはずだが全く見えない。

しかし、夢から覚めてもまだ夢の中だなんて、それもおかしな話だ。

と言うのも、この悪夢を見た後は、目覚めなかった事はこれまでに一度もないのだ。

あの日、二階から芝生に飛び降りた後は救急車に運ばれた。あの時僕は足から落ちたので、右足首と脛骨の骨折だけで済んだ。

あれ以来、父は僕に干渉する事を極力避ける様になった。

そんな事を思い出しながら状況が変わるのを待ったが、一向に変化がない。もしかしたら、今更ながらに死んでしまったのではないだろうか。それならそれで、都合が良いとは思ったが、最後に紗奈や松戸に別れを言わずに死ぬのは心残りだ。

ふと、真っ暗闇の中から人の形らしきものが白く浮かび上がった。何だろう、と思っているうちにすぐそれは正体をはっきりと現した。

僕から二メートルほど先に立ったそれ、いや、彼は、身長が百七十センチくらいで、歳は三十代前半、髪型はグランジショートで黒縁の眼鏡を掛けていた。そして白衣姿であった事から如何にも研究者という雰囲気を漂わせていた。それにしても、何故急に出てきたのだ、一体何者だ、と僕は訝しげな目で彼を見つめた。

「おいおい、不審者を見るような目で私を見ないでおくれよ」

彼の第一声に僕は苦笑いした。じゃあ、どんな視線で貴方を見ればいいのか。

「貴方は、何者ですか?」

「何者と、聞くのか。まあいい。私は来栖吾朗(くるす ごろう)だ」

僕の身近にその様な人はいない。

「初めまして。僕は、北杜です」

下の名前はあえて言わなかった。

「君の名前は知っているよ。北杜雪弐だろう。わざわざここまで来たのだから、その位のパーソナルデータは知っているよ」

それを聞いて僕はこの来栖と言う男をますます不審に思った。

わざわざここまで来たと言うのはどういう事だろうか。

「もしかして、ここって、僕の夢ですか?」

来栖は、口元を曲げて鼻で笑った。まるで、お前は馬鹿か、とでも言うように。

「もし仮に夢だとしても、『ここは夢です』なんて言う人がいると思うかい?まあ、君の想像に任せるよ」

言われてみればそうだ。まあ、状況からしてこれも夢なのだろう。

「では、『わざわざここまで来た』と言うのはどう言う事でしょうか」

僕は下手に出て尋ねると、来栖はその質問を待ってました、とでも言うように、ニヤリと歯を見せて笑った。

「今日は、君にいい話があるんだ」

僕は彼の言葉に得体の知れない興味を持った。近くで聞きたいと思い、膝を立て、僕は立ち上がる。

立ち上がると僕も白く浮かび上がった。夢の中でも、寝巻きとして使っている笹柄の浴衣を僕は羽織っていた。真っ暗闇の中に二人、来栖と僕。

「関心があるようだね」

僕はうん、と頷いた。

いい話そのものに関心があるのではないが、彼の妙ににやけた表情からして、きっとこれから面白い事が始まるのではないかという期待があったのだ。

来栖は両手を広げ、一度、深呼吸した。そして顎を下げると、僕に目を据えたのであった。僕もその視線を逸らさず受け止める。

「君は、よく自分の生まれない世界を望んでいるね」

疑問と言うよりは、ほぼ断定であった。

確かに、あの一件以来、僕ではなく雪乃が生まれている世界を想像するようになった。

しかし、「よく」ではない。

「言い方が悪かったね。でも、その様な世界がどうなっているか気になった事はあるだろう」

来栖は、眼鏡を指で正して言った。

それは、もちろん気になる所だ。僕は小さく頷いた。

「そうか、それなら良かった。そんな君に、その世界を見せてあげてもいいが、どうかね?この際に覗いてみる気は、あるかね?」

「え?」

僕は、その言葉を直ぐには理解できなかった。

つまり、僕が生まれなかった世界を見せてくれるとでも、言うのだろうか。SFでたまに聞く並行世界なのだろうか。そんなことは現実的に考えて不可能だ。科学が進歩した現代でもまだ仮説の域を出ていないのだから。

けれども、僕がいないことで幸せになっている人を見て、僕は何を感じるだろうか。そんな人を目の前にして、果たして自分の存在を認めることができるだろうか。

「ははは。大分、私の話に肝をつぶしているようだね」

来栖にそう言われ、僕は驚きのあまり立ち尽くしているのだと気が付いた。夢であると分かっていても、この様な話になると正気ではいられなくなってしまうのだと僕は自分を可笑しく思った。

――――自分のいない世界……か。

微笑。

「お願いします。その世界とやらを、僕に見せてください」

僕の望んでいる世界だ。この一度きりの夢の中で、どんなおもしろい世界を作り出してくれるだろう。

来栖は僕を見て一笑した。

「ありがとう。おかげで研究が捗るよ」

どうやら何かの研究を来栖はしているのだろう。まあそれは彼の白衣と言う格好からして一目瞭然だった。

来栖は僕に背を向け、右手をすらりと前に伸ばした。

その先には、いつの間にか、木目調のアンティークドアが真っ暗闇の中にぽつんと据え付けられていた。

「あそこのドアを開ければ、その世界に行ける。そう、君が生まれなかったもう一つの世界だ!」

来栖の威勢の良い言葉が暗闇の中で反響した。そして僕の方を振り向いてどうぞ、と手を向けた。とても誇らしげな表情だ。

「じゃあ、行ってきます」

僕は、ドアに向かって歩き出した。

真っ暗闇のせいで、ドアだけが異様に浮かんで見える。

――まるで新たな冒険が幕を開けるかのようだ。

胸が高鳴る。

そしてドアの目の前に僕は立った。

腰の高さに付いているドアノブは、丸い形をしており黄金色だ。それを回せば、向こうの世界に繋がっているのだろう。

後ろを振り返ると、来栖はどうぞ行ってらっしゃいとでも言うように右手を静かに振っている。

僕は再びドアの方に顔を戻すと、ドアノブに手を伸ばした。

そして、静かにそれを掴んだ。

……特に掴んだという感覚はない。

夢ならいつでも帰ってこれるさ。そう自分に言い聞かせる。

僕は目を閉じ、息を吸い込んだ。そして目を開け、ゆっくりとドアノブを右に回した。

ラッチボルトが引っ込み、ドアのロックが解除される。

それから、そっとドアノブ押すと、その隙間から眩むような白い光が差し込んだ。あまりの眩しさに僕は目を瞑る。

しかし、僕はそのまま勢いよくドアを開け、右足を踏み出した。

と、次の瞬間、あたりが急に暗くなり、落下しているかのような感覚に陥った。

驚いて目を開けたが……何も見えない。真っ暗だ。落下している感覚はまだ続いている。あの内臓が浮いているような感覚が続いているのだ。ただ落ちるだけで、どこかに着地するような気配も感じられなかった。

どうやらこれが僕の生まれなかった世界らしい。いや、僕が生まれなかった世界と言うよりは、残念ながら来栖の実験は失敗した、と言った方が正しいのだろう。

所詮は僕の脳が作り出した夢。想像力が足りずSFドラマは打ち切りとなった。

未知の世界にちょっとでも興味を持った自分がおもしろ可笑しく思えた。

こうなっては仕方が無い。僕は静かに目を閉じて、成り行きに身を任せることにした――――。

特急八雲

特急八雲は米子駅を通り過ぎ、日野川に差し掛かっていた。

僕は車窓から外をぼんやり眺めていた。

目線の先には白く美しい五つほどのアーチを描いた橋が中州の青々とした草と共に朝日に照らされていた。

山陰の夏の朝はさわやかだ。日本海側であるから太平洋側と違ってそこまで湿度が上らないからだろう。

ふと、僕は空腹を感じたので、黒のショルダバッグから、昨日のうちに作っておいたおにぎりと、ブラックの缶コーヒを取り出し、座席横の手すりに格納されているミニテーブルを展開して、それらを置いた。

コーヒ缶のタブに指を引っ掛けて、少し強い力でアップした。キャプリと、良い音と共に香ばしい匂いがする。僕はそれを一口すすって、窓を眺めた。広がる水田の向こうに富士山の様な山が霞んで見える。伯耆大山(ほうきだいせん)だ。

僕はスマグラ(スマートグラス)の右のテンプルに右手を伸ばし、写真を撮った。撮られた写真が目の前に浮き上がり、僕は、それと本物の風景を見比べる。やはり、写真だと今一つ物足りない。そんな事を思いながら、僕はアルミホイルに包まれたおにぎりを開き、ゆっくりそれを食べた。

変な夢だったな――――。

おにぎりを口の中で噛み締めながら、昨晩の夢の事を思い出した。

結局あの後、僕は自然に眠っていたらしい。気付いたらこのスマグラのアラームが鳴って、朝を迎えていた。

まあ、あの夢のお陰で悪夢の事を少し忘れられたし、良い夢だったのだろう。

――――僕の生まれなかった世界……か。

おにぎりを見つめながら、僕は微笑した。

駅の存在理由

ちらと外を眺める、特急はかなりの速さで人気のない簡素なプラットフォームを通過していた。

駅標が一瞬ちらと見えた。「親郷」にも見えたし「新郷」にも見えた。

しかし、何故あんな所に駅があるのだろう。見る限り、ここは山と山の狭い谷間を縫って鉄道が通っており、建物を建てる事は到底出来そうにない。一体何の為に作られた駅なのだろう。存在理由は?その言葉は直ぐ自分の事と結びついた。

――――自分の存在理由。

――――あの駅の存在理由。

なんだかお互い似た者同士な気がして親近感が湧いた。どちらも理由なんてない、ただそこに在るだけの存在。

それでも、もう少し考えてみると、僕はあの駅には及ばない存在なんだと気付いてしまった。

あの駅なら、作られた当時は正当な存在理由が少なからずあっただろう。付近に集落でもあったのかもしれない。しかし、過疎化という時代の波に呑まれ、今ではほとんど使われなくなったのだろう。

一方、僕はどうだ。目的があって生まれた訳ではない。仮に僕が女だったならば、父親の「娘が欲しい」と言う目的を満たし、それなりの存在理由があったかもしれないが。

僕は窓に映る自分の顔を眺めた。その顔は白く、髪は眉まで伸びたストレートマッシュで、髭は全く生えていない。髭がないことを、碧海は羨ましがっていたっけ。

僕があの駅に遠く及ばない理由はそれだけではない。あの駅はただそこに在るだけの存在だが、僕はそれだけに留まれなかった。なぜなら、母さんや父を不幸な目に合わせたのだから。

あの駅になれたらな、と一瞬そんな事が頭を過ぎった。それから少し間を置いたあと、僕はその考えのあまりの滑稽さに気付いて失笑した。

それから、特急八雲は倉敷を通った後、無事に終点の岡山駅に到着した。その後、僕は新幹線のぞみに乗り継ぎ、東京へと向かって出発した。

義母にメール

列車が走り出してから、僕はとある事を思い出した。

そう言えば、新幹線に乗ったら連絡するようにと義母から昨日メールをもらっていたんだった。僕は、両手で郵便マークを作り、スマグラにメールアプリの起動を命じると、義母に向けて、「今、時間通りに新幹線に乗りました。」と短く打って送信した。

意外にも直ぐに返信の通知があった。しかし、それは義母からではなかった。

なんと、義母のアドレスについて、このメールアカウントは存在しません、と綴られたエラーメールだったのだ。

僕は、この通知にかなりのショックを受けた。確かに義母から忌み嫌われているのは明白だ。小学二年の三月に義妹の幸音が長野で生まれ、四月に義母が退院し八千代に戻ってきてからは、父親同様、まるきり僕に構わなくなった。

それでも、何の予告もなしにアドレスを変えるなんて陰湿過ぎやしないか、と僕は彼女の行為を俄かに信じられなかった。

――いや、これは僕の早とちりかもしれない。

僕は、スマグラのメール履歴を確認し、義母のメールを確認した。

しかし、アドレス変更についてのメールは一件もなかった。

次に、昨日送られてきた義母のメールと、それより以前に送られて来た義母のメールアドレスを比較した。が、同じである。

迷惑だろうけれど……。僕は座席から立ち上がり、デッキまで足を運ぶと、ドアに少し寄りかかった。そして、右手で電話マークを作り、スマグラに電話の起動を命じさせて、義母の番号に掛けた。

耳元で、発信音が何かを耳打つ様に鳴り続ける。が、急にそれはぷつりと切れ、

「おかけになった電話番号は、現在使われておりません」

と、音声ガイダンスの女性が淡々とした口調で、その電話番号が存在しない事を僕に告げた。

「変だな……」

僕は、ボソリと呟いた。

「どうか、なされましたか?」

若い女性の声がしたので振り返ってみたら、車内販売の方であった。恥ずかしい事にどうやら僕の呟きを聞いていたらしい。

「いえ、あの、電話がかからなくて……」

「この新幹線では、トンネルを含め全ての区間で通信が出来る様になっておりますが、きっと電波が悪かったのでしょう。もう一度おかけ直してみては?」

彼女は丁寧に、再度電話を掛け直す事を僕に勧めると、ワゴンを押して次の車両へと向かって行った。

僕はもう一度、義母の番号に電話を掛けた。――しかし、今度は発信音は鳴らずに、すぐに音声ガイダンスの音が流れ始める。同じ事を言わせるなという風に、その口調は速くなっている様な気がした。

嗚呼。気だるい溜息が自然と漏れた。

もう神戸まで来てしまっている。さっきから僕は、どれだけ義母に新幹線に無事乗れた事を伝える為だけに苦労しているのだろうか。

同じ席

どうしようもないので、ここはスマグラの調子が悪いという事にして一旦席に戻る事にした。

デッキから座席の方に向かっていると、クールビズの格好をした坊主頭のサラリーマンが僕の座席の左隣に座ったのが見えた。

四十代前半くらいのそのサラリーマンは、僕が窓側の席に座ろうと近づくなり声をかけてきた。

「あ、君ってここ座ってた人?」

「そ、そうですが……」

戸惑いながらも僕は返す。

「俺もそこなんだがね」

「え?」

一体、彼が何を言おうとしているのか分からなかった。

男は席を指差しそう言うと、持っていた切符を僕に見せた。なるほど、確かにその男の切符に記された番号は、僕の座席番号と一致している。でも、席に着く時に何度も確認したのだから間違いはないはずだ。

「どうしたんだ?」

男は少し苛立っている様に見えた。反射的に僕はチノパンのポケットから財布を取り出し、切符を男に見せた。

「じ、実は僕もここなんです……」

男は目を大きく見開くと、彼は自分の切符と僕の切符を見比べた。

「……ホンマや。俺の所と同じになってる」

そう言うと、男はシート横の呼び出しボタンを押した。少しすると、車掌と思われる若い男性が僕らの前に現れた。

「どう言ったご用件でしょうか?」

車掌が尋ねると、男がこの事について舌を回し始めた。

男の都合の良いように話される事を僕は少し恐れたが、以外にも彼は客観的にこれまでの事を述べている。

それにしても、今日は、いったい何なんだ。義母にはメールも電話も出来ないし、席に戻ってきたと思ったら、こんなトラブルに巻き込まれてしまった。今日は厄日なのかもしれない、と心の中で僕は大きく溜息を吐いた。

「事情は分かりました。では、お二人様の切符を拝見させて頂きます」

車掌がそう言ったので、僕は切符を渡した。車掌はそれ受け取ると腰の位置についた切符読み込み機能つきのタブレット型端末を左手に持ち、先ず僕の切符をスキャンした。

「はい。しっかりと予約されておりますね。席もここになっております」

それを聞いて僕は少し安心したが、隣の男は不満気だ。次に男の切符を車掌はスキャンした。それをするなり車掌の顔は驚いた表情となった。

「こちらも、その席で予約されております。不手際があり、大変申し訳ございません」

車掌は深く頭を下げた。

しかし、なぜ同じ席で予約されてしまったのだろう。車内を見渡しても、まだ空いている席も見られるのだ。システムのバグなのだろうか。

「席が被ってしまうって事は、よく有るんですかね?」

男が少し呆れた表情で訊いた。

「いえ、この様な事は滅多に起こり得ません。今年に入ってからはこの様な事例は初めてになるかと思います。」

少し戸惑うように

「今、空いている席を検索しておりますので、御客様のどちらかで、もし宜しければ、お席の移動をして頂いても宜しいでしょうか?」

それを聞いて、「じゃあ僕が移ります」と言おうとしたが、先に男が口を開いてその事を受け入れた。なんだか申し訳ない気分になった。

「では、これから御客様を席へとご案内します。この度は、私どもの不具合でお客様にご迷惑をお掛けしまして申し訳ございませんでした」

車掌は再度、僕らに向かって頭を下げると、男を違う席へと案内しに行った。僕はそれを見送ると、鼻で小さく溜息を吐いて、窓側の席に深く腰を下ろした。

新幹線は果てしなく続く線路の上を静かに滑っていく。車窓からは、何処かで見たようなありふれた街並みが流れるように変化していくのが見えた。

僕は窓に寄り掛かり、頬杖をつき目を閉じた。先の事で少し疲労が溜まっているのかもしれない。

眠気を感じる。小さくあくびをすると、僕はつかの間の休息に入った。腰から伝わる新幹線のモーターの振動が心地良く、僕はまどろみの世界へと引き込まれていった。少し休めば疲れも取れ、午後からは調子も戻るのではないか。そう期待して……。

ふと目が覚めると、窓の外は真っ暗だ。まさか寝過ごした?僕は一瞬焦ったが、すぐにトンネルの中であるという事に気付いた。

トンネルを抜けると一気に明るくなり、太平洋に面した旅館やホテルが林立する、賑やかそうなまちに出た。熱海だ。まもなく新幹線は駅のプラットフォームを颯爽と通過した。寝起きでぼんやりしていたが、疲れが取れたような気がして嬉しかった。

その後、窓からの眺めは見る見るうちに大都会の風景となり、十二時を過ぎた頃に東京に到着した。

東京

新幹線を降り、改札をくぐると、人混みの多さとあまりの賑やかさに思わず笑みがこぼれた。こんな大都会に降り立つのは久しぶりだ。松江じゃ有り得ない光景だ。

だが、しばらくすると次第に気分が沈んできた。東京の人たちはよく平気で生きていけるなと思う。きっと僕がこんなまちで働く事になれば、数日で首を括ってしまうだろう。だって、僕の代わりは幾らでもいるという事を、毎日目の前で実感させられるのだから。

日本橋口の少し手前には東京オリンピック開催までのカウントダウン時計が置いてあり、「開会まであと三百五十日」と表示されていた。何となく、スマグラでそれを写真に撮って保存する。

ふと、今はオリンピック前で景気が良いが、閉会後はどうなるのだろうと不安になる。前回の東京オリンピックでは、閉会後の次の年に不況が起きている。きっと今回も同じく不況になってしまうのだろう。そうなると、僕が就職する頃だ。嗚呼、色々とタイミングの悪い時に生きているなと感じた。

実家

東京駅を出て、大手町駅で東西線に乗り、西船橋まで目指す。それから東葉高速鉄道に乗り換えた。

次第に見覚えのある街並みが僕の視界に入ってくる。

十分ほど電車に揺られると、右側に巨大なショッピングモールが見えて来た。それを見てついに帰って来たと実感した。

程なくして列車は八千代緑が丘駅に到着し、僕は下車した。

改札を出ると、スーツケースを引きながら五百メートル先にある実家を目指し歩き始めた。

それにしても、今日もかんかんに晴れて凄く暑い。しかも松江と違って蒸し暑い。早くもシャツは汗でじっとりと濡れ、不快な気分にさせられる。

内心、誰かにここまで迎えに来て欲しいとは思ったが、迷惑を掛けたくないので一人とぼとぼと歩く。

そんな僕とは対照的に、大通り脇の並木は暑さをものともせず青々と輝いている。どれも同じように似通った樹木だが、しかし、彼らのお陰で僕はその影を伝って暑さを何とか凌ぎながら歩く事が出来る。一本一本、それぞれ意味ある役目を果たしているのだ。

最初の交差点を越えると、住宅が並ぶ通りへと移り変わる。それから少し歩くと、一見ファミリーレストランにしか見えない薬局が左に見える。その後ろが僕の実家だ。久しぶりに帰る実家が近付いている事に少し緊張を覚えた。薬局の駐車場を抜ければ、広い庭の奥に入母屋屋根の二階建ての家が見える―――――。

はずだった。

「……な、何で?」

首筋をじっとりと汗が這って落ちていくのが気持ち悪いほどにはっきりと感じられた。

目の前に見えたのは、見慣れない建売物件の住宅であった。そこに父の建てた立派な邸宅がない。

言葉を失い、僕は駐車場に立ち尽くした。

手の力が抜け、スーツケースが鈍い音を立ててアスファルトの上に倒れた。

本庄さん

思わず僕は右手に電話のサインを作り、スマグラに電話を起動させた。父に連絡しようと思ったのだ。

しかし今日は金曜日。そんな事をするのは差し障りのある事だ。僕は通話することを諦めた。

しかし、この五ヶ月の間に一体何があったのだろうか。

まさか親は僕に何も言わずに引っ越してしまったのか。

全く状況が読めず、ただただ呆然としていたが、気を取り直し、スーツケースを起き上がらせると、近所の本庄さんの所まで、何か分かるかもしれないと言う思いで尋ねる事にした。

本庄さんは、実家があるはずの場所から、北にほんの五十メートル離れた所に住んでいる。

三人家族で、この家の一人息子である中学二年生の克(すぐる)とは、親友の健(たけし)と一緒によく遊んでいた覚えがある。

また、僕は彼の親にかなりお世話になっていた。おそらく、近所の中で一番僕の家庭事情を知っているのではないだろうか。

それに、克の父は市議会議員であり、僕にとって一番身近な政治家でもある。高校生の時は、行政の活動に関して協力を頂いた事もあり、本当に感謝の気持ちでいっぱいであった。

こうしている間に家の玄関の前へと辿り着いた。

本庄さんの家は、見た感じでは何の変容も感じられなかった。

実家のあった場所に建売物件が並んでいたのが嘘みたいに思える程に変わりがないのだ。

僕はスーツケースを置いて、インターホンと向き合うと、半袖のシャツの襟を整え、右手をインターホンのボタンにゆっくりと伸ばした。

何故か、手から汗がじわじわと溢れ出して来る。単に暑いからではないだろう。緊張しているのが分かった。

僕は一呼吸置くと、人差し指でそっとボタンを押した。相手が呼び出されてから、応じるまでの数秒の間が僕を更に緊張させる。

「どちら様でしょうか?」

その優しめのトーンは間違いなく克の母の声であった。僕はこの声が聞けて少し安心して答えた。こんにちは、北杜です、と。

「…えぇと、すいません。どの様なお方で?」

予想もしない返答に僕は少し困った。もしかしたら聞き取れなかったのであろうか。

「本庄さんの近所に住んでいた北杜雪弐です……」

「は、はい。少しお待ちください。今行きます」

何かがおかしい。その態度はまるで初めて会う人に接するかのごとく丁寧で、また警戒心をはらんでいた。一体どうしたと言うのだろう?

まさか僕の事を忘れてしまったのではないだろうか。いやはや、これは何かの冗談だろう。

そうこう頭を働かせているうちに、克の母は玄関を少し開けて、屋内と屋外の狭間に立った。

彼女は薄い桃花色のTシャツに灰色のテーパードパンツを履き、落ち着いた格好をしている。間違いなく、克のお母さんであったが、彼女の方は僕を、初めて会う人の様な眼差しで眺めているのだ。

それに加え、僕の事を警戒しているのか、玄関から出ているか出ていないかの微妙な位置で立っている。

「あ、あの……ごめんなさい。どこのご近所さまでしょうか?」

その言葉に僕は雷に打たれるような衝撃を受けた。本当に僕の事を忘れてしまったのだろうか。

「克君と良く遊んでいた、あそこ辺りに住んでいた北杜です!」

僕は、建売物件が並んでいる場所を指差し声を張った。しかし、更に彼女は僕に疑いの目線を向けた。

「大和田新田の建売住宅の所ですよね?主人が全戸に挨拶に行った事がありますが、ほくと……と読む方はいませんでしたわ」

「確かに今はいないかもしれません。ですが、あちらの建売住宅が建てられる前は少し大きな家が建っていませんでしたか?」

僕がそれを言うと、克の母は、いったいこの男は何ておかしな事を言っているのかしら、とでも言うように目を大きく見開かせた。

「あそこが建つ前は芝生の生えた広場でしたよ」

――つまり、元から大きな家などなかった、と言う事なのか。

いよいよもう訳が分からなくなって来た。冗談だと思いたいが、もともと克のお母さんは冗談を言う様な人ではないので、言っていることは事実である事に間違いはない。じゃあ何が起きているのだ。僕は目が回ってきた。

「すいませんが、人違いではないでしょうか?」

克の母は低めのトーンでそう言い、話を切り上げようと、身体を少し屋内に戻した。

「子ども養育支援ネットワーク設立に関して旦那様の堯哉(たかや)議員のご支援を頂いた北杜雪弐を本当に、ご存知ないですか!? 本庄さん!」

僕にしては珍しく、口から感情の籠もった悲痛な叫びがこぼれた。

「本当にごめんなさい……。私、主人からその様な活動を聞いた事がありませんし、貴方の事も本当に存じ上げません」

克の母は明らかに不審者を見るような目で僕を見ている。もうこれ以上の問いかけは、避けた方が良さそうだと直感した。

と、そこに自転車に乗った克が家に帰って来た。中学校のジャージを着ているから部活帰りだろう。久しぶりの元気な克を見られて嬉しくなった。

久しぶり、と声をかけようとしたその時、

「ただいまっ、母さん!…その人誰?」

克は自転車を駐車場横に停めるなり、僕を見て、そう尋ねる。嫌な予感がしていたが、相当にショックは大きかった。

「え、克の友達じゃないの?」

「友達じゃないし、そもそも知らないよ、この人」

一気に場の空気が気まずくなった。

克とその母はそろって顔を僕に向け、「何なのこの人」とでも言うように冷たい視線を容赦なく向けてくる。恥ずかしさに僕は耐えられなくなった。

「す、すいませんでした!」

僕はひどく赤面し、頭を何度も下げながら後退すると、スーツケースの取手を掴み、脱兎の如く奔走した。そして、近くの公園まで来ると、息を切らしながら、ベンチに身を投げるように腰掛けた。

「いったい何が起きているんだ……」

目の前には以前と変わらない芝生と木だけの公園の景色が広がる。小学生の時によく草野球をしに集まった公園だ。しかしながらこの暑さのせいか、遊んでいる子ども達の姿は一人も見当たらなかった。

猛烈な喉の渇きを感じ、僕はショルダバッグからペットボトル入りのお茶を取り出して、ぐいぐいとそれを飲み干した。

それから、大きく溜息を吐くと、力なくうな垂れた。

本当に今日は厄日だ。いや、これは厄日じゃ済まされない事態だ。家がなくなり、しかも、あの本庄さんにまで存在を忘れられているのだから。

これが夢で有って欲しいと思い、僕は頬をつねる。……痛かった。

夢…じゃないのか……

――――夢?

突然、何かが眼の裏でフラッシュバックした。

白衣の男、木目調のドア、真っ暗闇に落ちる感覚。

――――いや、まさか。

僕は頭を巡らし、今日あった災難を思い出す。

電話が繋がらないこと、新幹線で席が被ったこと、実家がなくなって、おまけに知り合いに僕が忘れられていること。これは全て、あの夢で会った白衣の男がいざなった世界だというのなら辻褄が合う。

――――ここは、僕の生まれなかった世界なのか?

その時、スマグラに一通のメールが届いた。

「どうだい?君が望んだもう一つの世界『デザイアランド』の居心地は」

帰る方法

炎天下のなか、公園のベンチで一人、僕は来栖という謎の男からのメールをスマグラに映したまま、得体の知れない事柄に軽々と手を出した自分に苛立っていた。

本当に僕は愚か者だ。夢の続きだと思いたいが、全くもってこれは夢なんかじゃないと理解できた。では、あのとき来栖と出会ったあの空間は何であったのだろう。

謎は多いが、とにかく今は来栖に帰る方法を教えて貰わないと困る。

確かに、僕はあの様な世界を見てみたいと言う好奇心があったから、これは自業自得だから自分にも責任がある。

だが、来栖にも僕に帰る方法を教えるか、僕が置かれた状況を元に戻すと言う責務はあるだろう。

絶妙なタイミングで送られてきたメールには、本文の下に来栖の署名があり、それに付け加えてメールアドレスとビデオ通話の番号も記されていた。

早速、僕はこのビデオ通話の番号にかけてみた。

発信音を呆れるほどに聞いた後、ビデオ通話が通じた。

「やあ北杜君。楽しんでいるかね?」

陽気な口調とにやけた顔で、夢で会ったときの男がいた。

研究室の中なのだろうか、ワークチェアに座った白衣姿の来栖の背後には最新式であろうノートパソコンが並んでいるのが見える。

「もう散々です。そもそも、貴方が本当に僕をこのような世界に送るとは思いませんでした」

「ははは。夢だと思っていたのかい?でも、これは現実だ!今、まさに君はもう一つの世界を目の当たりにしているのだ。こんな滅多にない機会を存分に堪能して欲しい!」

来栖は興奮冷めやらぬ口調でそう言った。こっちの苦労も知らずに。

「いえ、散々な目にあったのですが……」

「分かってるよ。でもこれからは大丈夫だろう?さっきまでは、君がいつも通りに行動したから色々と矛盾が生じて散々な目にあったのだ。しかしこれからは自分の生まれなかった時の周りの変化を楽しむなり、君が存在しないという事を逆手に色々と試してみるといい。この世界では色々な可能性が君を待っている!」

来栖が両手を大きく上にあげ、声を大にして楽しげにしている様子がスマグラのディスプレイに映った。おそらく、僕をこちらの世界に送り込む実験が成功したから嬉しいのだろう。だが、彼の一連の言動に僕は腹が立った。

「あの……。大事なことを忘れていませんか?」

僕は声のトーンを落として、問い詰める様に尋ねた。来栖はビデオ通話だが、僕は普通の通話機能を使っているので相手には声しか伝わらない。果たして、声だけで来栖は僕の意図する事をどれだけ掴み取る事が出来るのだろうか。

「大事なこと……ね。そうだね。あ、そうだった。言い忘れていたよ」

思い出したように合点のポーズをし、人差し指を前に向ける。わざとらしい仕草だ。

「帰り方……だよね?」

「そうです」

僕は大きく頷いた。

帰る方法を教えてもらい、早く元の世界に戻らねば。色々とこの世界で気になる事はあるが、実家が無い時点で親が今何処に住んでいるのかは分からず、確認のしようが無い。

僕のいない世界では、住居が別の所にあると言うことが分かっただけでも十分だった。きっと、もっと良い邸宅にでも住んでいるのだろう。今すぐにでも帰りたかった。

「――それなんだがね」

カメラの目先で少し躊躇い気味に来栖は口開いた。なかなか言い出さないので胸が騒ぐ。

「あ、あの……」

「まあ、それなりに頭の良い君ならば、帰りたいときに何時でも帰れると思う」

来栖はそこまで言うと、いったん言葉を切ってしまった。前置きの長い話だと感じながら、「それなりに頭の良い君」と言うところが引っかかった。もちろんこれは決めつけがましい来栖の言う事だ。

ここまで話を聞く限りでは、単に来栖に頼めばすぐに帰られる訳では無さそうだと言う事が予想できた。不安が押し寄せる。これは一筋縄ではいかないんじゃないか。

僕はため息を吐いた。

「で、どうすれば帰る事が出来るのですか?」

「帰る方法……それはただ一つ!この世界で君――つまり北杜雪弐君を求めている人を探し出し、ぎゅっと抱きしめる事だ!」

「……え?」

僕の背筋に汗がちろりと滴った。

「……冗談は結構ですので早く教えてください。」

「至って真面目だよ」

まったく予想も付かない返事に僕は唖然とした。

てっきり、元の世界に帰るためには昨夜のような状態を作り出し、あの空間に入る事だと思っていたので、まさか、帰る為に「抱きつく」だなんて事は思いもよらなかった。

「なんだか……非科学的じゃないですか?」

「そんな事を言ったら、君がこの世界に飛び込んで来られたのも非科学的だろう?幾多の方程式から導き出された、この世界から抜け出す方法がさっき言った事なのだから、帰りたくなったらそれを信じてその人を抱きしめればいい。私の言う事に間違いはない!」

しかし、来栖の言う方法で帰れる気が全くしなかった。方程式ごときで帰る方法が分かるというのか。

「……昨夜会った場所からは帰る事ができないのですか?」

「昨日のあれは、一方通行だよ。こちらに来る事は出来ても戻る事は出来ない。例えるならば、落下傘のようなものだ。空の世界から地上の世界に落ちる事は出来ても、落下傘では地上から空に戻る事は出来ない。これと似たようなものと考えて欲しい」

「とりあえず、貴方の言いたい事は分かりました。では、『抱きつく』って誰に抱きつけばいいのですか?」

僕の問いかけに来栖は馬鹿にするように笑った。ディスプレイの中いっぱいに身をよじって破顔する来栖の姿を見て、僕は通話を切りたい衝動に駆られる。

「それは君が一番知っている事でしょう!いくら私が北杜君のパーソナルデータを持っていると言っても、君を求めている人を知っている筈がないだろう。私は君じゃないのだし」

「それではなぜ、貴方の方程式が正しいと言えるのですか?元の世界に戻るために僕ともう一人が必要と言うのなら、既にその人は分かっているはずですよね?」

来栖は妙に目を細め、小さく溜息を吐くと少し沈黙した。

「いい所に気付いたね。でも、君の述べる事は間違いだ。良く考えて欲しい。数式で相手の名前が求まるはずがないということにね。数値としては出ているが、それが誰を指すのかは残念ながら私にも分からない」

僕は眉をひそめ、大きく肩を落とした。言われてみれば名前を求めたり名前を代入したりする方程式なんて聞いた事がない。となると、来栖の主張している事は本当なのだろう。

つまり、これから僕は、七十五億以上もの人々の中から一人の自分を求めている人を探し当て、抱きしめなければ、元の世界へ帰れないのだ!

こんな余計なものに手を出すんじゃなかったと、僕は腹の底から自己の愚行を悔やんで、ベンチで頭を抱えた。

そんな弱った僕から、更に体力を奪うかのごとく、真夏の熱線は僕の白い皮膚を突き刺しているのであった。

「それでは、私も仕事があるのでこの辺で失礼するよ。くれぐれも、急に異性なんかに抱きついてセクシャルハラスメントで手が後ろに回るような事にならないよう理性をもって行動するのだよ」

来栖はそう言って右手をさりげなしに振るとビデオ通話を切った。彼が言いたかったのはセクハラじゃなく、痴漢だろう。なんてつまらない冗談だ。

僕は気だるい表情で、顔からスマグラをゆっくりと外した。両耳にしてあったイヤホンも外れ、一気に甚だ喧しいクマゼミ達の鼓膜を破らんとする大合唱が僕の頭を貫く。

僕は祈る様に天を仰ぎ見た。

木々の間からは雲一つない青空が見える。

この空でさえ、いつも見ているものとは別ものなのだ。

僕は、お茶を手に取ると片手でキャップを空け、それを上を見上げる口に注いだ。口の中はお茶で一杯になり、溢れたお茶は首筋を伝ってシャツに染みてゆく。

悩んでも始まらない。これから探さなければ。僕を求めている人を。

スマグラを掛けなおすと、先ず僕はポケットの中の財布を確認した。

前もって引き落としておいたのが幸いした。五万二千数百円ある。

このうちの二万円くらいは帰りの新幹線代になる予定だが、今はそんな事を言っていられない。ここを抜け出す為にお金を使う事が優先だ。

もちろん、この世界でこれらのお金が使える事も実証済みである。岡山駅にて千円札を払って新幹線内で食べるお菓子と飲み物を買えたからだ。

僕はベンチから立ち上がり、スーツケースの取手を掴むと、いったん駅に戻る事にした。この大荷物では何かと動き辛いから、スーツケースを預けるのだ。

八千代緑が丘駅まで行くと北口のコインロッカーにスーツケースを入れ、荷物をショルダバッグのみにした。それから目の前のショッピングモールに寄り、ペットボトルのスポーツ飲料を二本買った。これから更に体力を消耗する事になりそうなので、水分補給は欠かせない。

外に出ると、先ずは買ってきたスポーツ飲料の封を開け、一口飲んだ。冷たく仄かに甘い液体が僕の喉を潤す。

さあ、これからどこに向かおうか。

僕は少し頭をひねって誰が僕を求めているのか考えてみる事にした。

世界人口七十五億人といえども、全くの見ず知らずの人が僕を求めているなんて事は考えにくいから、身の回りの人の中に、元の世界への扉を開くキーマンがいるのだろうか。

となると、それは誰だろうか。僕は頭の中に、自分と関わる人の名前を挙げてみた。実母の北杜寧子、父親の夏樹、親友の松戸健、彼女の山名紗奈……。

では、誰を最初に当たってみよう。

住んでいる場所さえ変わらなければ、松戸や紗奈はこのまちに実家があるはずだ。

最初に紗奈に会おうかなとも考えたが、まだ心の準備が整っていないので、まずは松戸を訪ねることにした。

けれどもし松戸がキーマンならば、この世界の紗奈に会うことなく元の世界へ戻るだろう。少し心に葛藤が生じた。

けれども松戸には、僕のいない世界でどうしても確かめておきたいことがあった。

松戸健

実家がある並木の大通りに出ると、松戸の家に向かって歩き出した。

松戸の家は僕の実家からほんの二百メートル西南西にあるから結構近い。

と、僕の後ろから自転車に乗った高校生くらいの二人組みが僕の右側を追い越した。

こんなに暑いのに彼らは楽しそうに談笑しながら遠ざかっていく。右は中背、左は背高、その後姿が、僕と松戸の姿と重なった。

ふと、受験の天王山と言われた中三の夏に、自転車を漕いで、八千代から九十九里浜の本須賀海岸までの往復八十八キロを走破した思い出が脳裏を横切った。

あれを実行した動機は極めて単純だった。毎日の受験勉強に疲れたからだ。毎日毎日、生徒も授業もすし詰めの夏期講習に通っているだけの夏休みが嫌になって、受験以外の中学三年の夏の思い出を作りたかったのだ。それも、周りの受験生たちがやらないような事だ。

僕らが計画したのは、「自転車で九十九里浜まで行って帰ってくる」というものであった。松戸の家からの距離を計算すると、ちょうど往復八十八キロになり縁起が良いなんて二人で興奮しあったのも懐かしい。

いざ、朝四時に八千代を出発すると、松戸の自転車が急にパンクしたり、持ってきた飲み物だけでは足りず、スーパーに何度も寄ったり、様々なハプニングに直面したが、無事、昼頃に九十九里浜に到着した。

僕らは肩を並べて水平線いっぱいに広がる大海原を眺めながら、その達成感に浸った。あのとき松戸と見た海は、一生忘れられない景色だ。

それに加えて、松戸が僕に言ったあの事も――――。

「今日さ、こうやって、ここに来られて良かった。本当に……」

海を眼鏡のレンズ越しに眺める彼の目元はうるんでいた。

「いや、さ。俺、北杜とチャリでここまで来なかったら、大切なものを失う所だったよ」

「それは……」

「北杜、お前の事だ」

その言葉の意味が分からず、僕は右に首をかしげる。

「中一の秋に山梨から引っ越してくる前はさ、俺、向こうの学校で成績は学年で五本指の中だったから、周りからチヤホヤされていて良い気分だったよ。でも、こっちに来てからさ、成績は思ったほどに良くなかったから、クラスメート抜かして、またトップ目指そうと思ったんだ。そんなとき……」

一度、松戸は言葉を切ると、僕の方を向いて、妙に唇を曲げた。

「北杜の成績、見たんだ。俺より上で正直、悔しかった。だから追い越そうと思って、勉強した。北杜の事は中二の時に追い越して、夏休み前のテストで再び五本指に入る所まで行ったよ。で、そんな時に北杜から、休み中にどこか行かないかと誘いがあった。余裕がある程度あったし、中学最後の夏だから、大きな事をやってみたい程度の気持ちだった。でも、こうやってチャリ漕ぎまくって、お前とここまで走って来たらさ、俺、今まで凄く馬鹿な事してたって気付いたんだ……。見栄を張っても嫌われるだけなのにさ。これまで本当に、ごめん。そして、友人で居てくれてホントにありがとう……」

松戸の目からは涙がこぼれていたが、僕も同じくらい、彼の言葉に心が揺さぶられていた。あの時はこうやって、僕の存在を認めてくれる人なんて、彼女の紗奈くらいしかいなかったからだ。

「ううん。僕は気にしないから。僕こそ、松戸君みたいな親友に出会えて本当に良かった」

代わりに、僕は松戸に「親友」になって欲しいという思いをそれとなくぶつけたのであった。彼は顔を上げると、かけていた眼鏡をはずし、涙を拭うと、笑顔でその手を僕の前に差し出した。

「雪弐、これからもよろしくな。合格したら、またこうやってビッグな事をしよう!」

「うん!」

すかさず、僕も松戸の手をひしと握る。顔を上げるといつもの自信満々な松戸の顔が真夏の太陽に映えていて、思わず僕も微笑んだのであった。

あれ以来、松戸は驚くように変わっていって、他のクラスメートにも表裏なく対等に接するような、文字通りの好青年となっていった。

中学一年の九月に、僕のクラスに転校して来た当初は、彼はときどき自身を誇張する様な態度を取っていて、友達は僕ぐらいしかいなかったが、僕もまた、あの頃はある理由で友達が少なかった頃だったから、余りもの同士で友人となったような感じであった。

今思えば、あのタイミングに二人で本須賀海岸に行けて本当に良かった。もし、あの時に行ってなければきっと、彼とは親友になれなかっただろう。なぜなら、八十八キロを制覇した三日後、僕は二階のベランダから飛び降りて足を折るのだから。

松戸との過去を回想しているうちに、僕は彼の家の前に到着した。そして「松戸」と言う表札を確認するなり、僕は無意識に右手を伸ばし、表札下のインターホンを押していた。

しまった、どういう対応をするべきか全然考えてなかった!

本庄さんを訪ねた時の様な事は避けたいが、どうすれば良い?

「はーい。どちら様でしょうかー?」

考える時間は全くなく、すぐに松戸の母親の明るく弾んだ声がカメラ付きのインターホン越しに聞こえた。

「あ、健君の友人のものです」

こんな言い方をしたら怪しまれるだろうが、名前を名乗ったら、それはそれで彼は「そんな人、知らない」と言って、出てこなさそうだから、ひとまずそう応えた。

「あっ、ごめんね。今、健いないの。でも、ちょっと待ってて」

声のトーンは相変わらず明るい。どうやら、僕をこの世界の健の友人だと思っているみたいだ。僕は少し安心して、胸を撫で下ろした。

だが、当の本人がいないのは問題だ。取り敢えず、彼の母親には、彼がいつ頃に帰って来るかを尋ねることにしよう。そしたら、彼が帰って来る時間まで、この辺りで張り込んでみるか。松戸を見つけたら、家に入られる前に声をかければいいのだ。

「こんにちはー。あなたが、健の友達?」

黄色の半袖のワイシャツに、白のスキニーパンツを履いた明るめの格好で、玄関先に出て来た四十代前半くらいの女性は、明らかに松戸の母であった。

「はい。高校の時に健君と友人になった、北杜雪弐と申します」

そんな嘘を吐きながらも、僕は自分の名前を名乗った。ちなみに高校は、松戸は船橋に通い、僕は八千代に通っていたからこれも嘘だ。

「そっか、ほくと君かー。よろしくね」

松戸の母は、小さくお辞儀をすると、にっこり微笑んだ。彼の母親はどちらの世界においてもフレンドリーだな、と感じる一場面であった。

「こちらこそ、宜しくお願いします。
で、健君はいつ頃お帰りになるでしょうか?」

僕は挨拶を返すと、松戸がいつ帰って来るのかを早速、尋ねた。もし浪人生だったら、帰りが遅くなるかもしれない。その時は、紗奈の所を訪ねてみることにしよう。

「うーんと、今日は確か、医学部の講演会がーって、朝から出かけて行ったから、そろそろ帰ってくるんじゃないかな?」

「医学部?」

思わず、僕は聞き返すかの様にその言葉を発した。松戸が医学部に現役合格……。

「あれ、知らなかったの?」

「あ、は、はい。入試関係の話題はあんまりしなかったので……」

ついつい言葉に出してしまった事を後悔した。目の前の彼女が難しい顔をしているので、これは、疑われているに違いないだろう。とは言え、これには驚かずにはいられない。

「もう、健ったら、本当に人付き合い悪いんだから……」

どうやら僕を疑っている訳ではないようだ。彼女は親として、松戸の人付き合いの悪さに、顔をしかめているようである。

「健さー、高校ではどうだった?」

そう言われても、僕はこの世界の彼の事を全く知らない。しかし、話を聞く限り、どうやらこの世界の松戸は、僕が中学の頃に彼に会った時の性格と変わっていないようであった。となると、友人は少ないのであろう。

「やっぱり、そうだよねー。もう、本当に少しは協調性持ってもらわないといけないのに、困ったわ! 頭がよければ何でも出来るって思ってるから、将来が不安だよー」

僕の考えている顔が、気難しそうに見えたらしく、何も喋らなくても勝手に話は進んでいった。

「でも健君は、医学部ですし、凄く努力しているでしょうから、良い将来が待っていると、僕は思います」

「ほくと君ね、努力だけで人生すべてをカバーすることは出来ないのよ。健は、努力家だし、親として医学部なんて行ってくれるのは凄く嬉しいのだけれど、努力することが目的になって、周りが見えてないから、結果として失敗しそうな気がするの」

松戸の母は、声の調子を落として心配気に言った。が、僕にはその意味が解せなかった。

――――努力。それは、最大限にすれば、人生を上手く進めることの出来るもの。それを、身をもって教えてくれたのは父親だ。しかし、僕はそれを最大限に発揮できないから、父親に嫌われ、勉強もそこそこしか出来ない。議論するまでもなく、僕から見れば、努力出来るという事は凄いことだと思う。

「ごめんね、色々とべらべら喋っちゃって。たぶん、私、健のお友達が来たから興奮しちゃってるのかもしれない。こうやって、『健の友人です』なんて来たひと、今までになかったから……」

「そうなんですか……」

僕はそう相槌を打つと、元の世界の松戸の母を思い浮かべた。松戸の家には高校の頃は結構な頻度でお邪魔になったし、松戸も他の友人を家に呼んでいたみたいだから、母親としては、息子の色々な面が身近に見られていいのかもしれない。しかし、そういう機会がないと、誰と交流して、どんなふうに周囲と関わっているのか分からないから親としては心配なのだろう。

「それでは、今日はこの辺で失礼します」

けっこう長くやり取りしているように思えた僕は、そう言って話を切り上げようとした。これ以上、彼女と話を続けていると、松戸が帰ってきて、面倒な事になりそうだからだ。

「そうなの? 家にあがって、健が帰ってくるまで待っててもいいんだよ」

「あ、たいした用事ではないので、いいです」

僕がそう言うと、松戸の母はほんの僅かだが、寂しそうな顔をちらとした。

「そっかー。じゃあ、また遠慮なく来ていいからね。うちは何時でもウェルカムだからー」

「ありがとうございます。また、暇があればお邪魔しますね」

きっとそれはないだろう。そんな事を思いながら、僕は顔の位置くらいに右手を挙げて、松戸の母に小さく手を振り、もと来た道に向かって歩き出した。

そして、松戸の一軒先の空き家の角を左に曲がると、僕はその影に立ち止まって、いったん、水分補給をした。さて、これから松戸の帰りをここで待つとするか。

僕は、空き家の角に隠れて、彼の帰りを待った。はたから見ると明らかに不審者だが、そんな事を気にしている場合ではない。この機会を逃せば、きっと今日中には会えない。

僕の心臓が少し高鳴る。もちろん、彼がキーマンかと言うと、その自信はないけれど。むしろ彼は、僕がいない世界では医学部に現役合格しているのだから、明らかに求めてなんかいないのではないか。

ふと、頭の中で彼との高校時代の思い出がいくつか浮かんできた。高校に入ってからは、松戸は成績にこだわる事はあまりなくなり、僕と遊ぶ機会も多くなった。カラオケに行ったり、自転車で遠出したり、色々な事を延々と話し合ったり……。親友として最高に僕らは楽しんでいたと思う。しかし、受験で彼は第一志望の千葉の医学部に不合格した。

……僕は、彼から努力する時間を奪ったのだ。

ここに来る前から、うすうす分かっていたけれど、僕が存在しなければ彼は医学部に現役合格して、彼の夢へより早く近づけていただろう。

「俺、将来さ、脳神経外科の医者になって、脳の仕組みと意識を解明し、人を死の恐怖から解放させたい」

脳裏に過ぎる彼の目標。そんな彼の目標へ少しでも近づけるように、後押しするのが親友の役目ではないのか。しかし、高校時代の僕は、「今」しか見ていなかった。

――本当に、松戸は僕と親友で、幸せなのだろうか……。

松戸帰宅

「何、妙な面して、俺の家をジロジロ眺めてるんだ?」
急に後ろから太く大きな声で話し掛けられたので、大きく身震いして後ろを振り返った。
「なんだ、松戸くんか……」
身長百八十センチ超の中肉長身で、銀縁の眼鏡を掛け、Gパンに水色の半袖のワイシャツ姿の松戸は僕に怪訝な表情を送った。そう言えば、一体、何で僕は松戸の家をこんな所から眺めているのだっけ?
「……お前、俺の事知っているのか?」
あ、そうだった、と僕は我に帰った。この目の前の男は松戸だが、僕の知る松戸じゃないのだ。どうやら、僕が彼を見つけて話しかけるよりも先に、彼が僕を見つけてしまったようだ。でも、ひとまず接触に成功することは出来たので良かった。
「松戸健君だよね」
僕は顎を下げて、淡々と言った。それを聞いた松戸は、鼻で短く笑った。
「そうだよ。で、俺の家をここから見てた理由は?」
それを聞かれると、僕は意識的に松戸に目を据えた。松戸も目を逸らさず、睨むように視線を送り返して来た。
「あんな事をしていたのは、松戸くん。君に会うためだよ」
それを聞いた松戸の目が一瞬、大きく見開かれ、あの時の顔と被った様な気がした。
「なんとなく、そうだと思った。じゃあ、次の質問だが、俺に何の用かい?」
彼は、なぜか何かを期待するような顔つきで質問して来た。しかし、その質問の答えを言うにはまだ早すぎる。と、言うか、なぜ彼はもっと重要な質問を僕に投げかけてこないのだろうか。
「暑いし、早く答えてくれよ。それにこっちは、忙しいんだ」
引っ越したての頃の松戸とあまり変わらない高慢な態度をとる目の前の彼は、僕には新鮮に映って見える。
「その質問をする前に、僕にすべき重要な質問があると思うんだけど……」
「重要な質問? 用件以外に重要な質問など、あるのか?」
「あるよ。なんで僕の名前を聞かないの?」
少しの沈黙のあと、松戸は面白おかしそうに大きく破顔した。
「ははは! なんで、お前の名前を尋ねなきゃいけないんだよ。知ってもこの先、何かの役に立つのかい?」
「いや、そういう訳ではないけど……」
言われてみればそうだが、名前を訊かないでよく話を進められるな、と思った。
「まあ、面白いから、お前の名前を聞いてあげるさ」
僕は気づかれないように、鼻で静かにため息を吐いて、それから口を開いた。
「僕の名前は、北杜雪弐。松戸君と同じ、大学一年だよ」
「何大? 何学部?」
「国立松江大の法文学部だけど……」
「俺は、千葉大の、医学部だ!」
胸を張って、自慢気に声を上げる松戸の姿に、思わず僕はにやけてしまった。
「何が面白いのさ」
「いや、君と似たような人が、昔はこんな感じだったなあ、と思い出して……」
「そうか。で、その、北杜は俺に何の用なんだ?」
ちゃっかり僕の苗字を使う松戸を面白く感じた。
「話せば長くなるけど、聞いてくれるかな?」
「長いのはごめんだ。結論から言ってくれ」
結論、つまりそれは、「抱きつかせてください」だが、そんな事は言い辛い。でも、言わないと彼は取り合ってくれないだろう。
「どうしたんだ?」
松戸は、僕を覗き込むように顔を前に出して言った。彼の眼鏡のレンズに僕の顔が映っているのが見えるくらいに。
「いや、あ、あの、抱きつかせてください!」
「は?」
僕の顔はすっかり真っ赤だ。ただでさえ暑いのに、こんな顔から火が出るようなことを言わなくちゃならないなんて……。こんな顔をしたら、いやらしい方の意味とかに捉われそうで、本当に嫌な気分だ。
「おいおい、気持ち悪いなあ。せめてサインぐらいにしてくれよ」
「え?」
今度はこちらが聞き返す番であった。サインって、何を勘違いしているのだろうか。
「なんだよ。気持ち悪いし、暑いからくっつくのは駄目だぞ」
「いや、どうして、サインと言ったのかと思って……」
「お前、俺の噂を聞いて、ここに来たんだろう。抱きつくなんかより、将来ノーベル生理学賞受賞者になる俺のサインをもらってた方が得だぞ」
僕は呆れて笑ってしまった。この世界の松戸は、かなり自分に酔っているのが分かった。
「何が可笑しいのか?」
「可笑しくないけど、サインはいらないよ。それに、サインじゃ駄目だし……」
「アレじゃなきゃいけない理由は?」
「あれじゃないと、僕は、ここから帰れないんだ」
「――もしかして、これは何かの罰ゲームとかなのか?」
ある意味、これは自分の好奇心と言う欲に手を出した結果の罰ゲームと言って良いだろう。しかし、罰ゲームにしては、冗談が過ぎている。もし見つけられず、持ち金がゼロになったら、僕は野垂れ死になるのだから。
「しゃあない。お前の話を聞いてから、どうするかを考えてやるよ。こんな所にいたら、俺もお前も熱中症を起こして倒れてしまうから、取り敢えず俺の家にあがれよ」
「ごめん、ありがとう」
僕は、申し訳なさげに頭を下げ、話を聞いてもらえる事に感謝した。松戸の母は彼について、人付き合いが悪いとは言っていたけれど、こうやって喋ってみると、根は良い人なんだなと感じた。
乗っていた自転車を押す松戸の後ろに、僕は熱線で焦がされたアスファルトを眺めながら付いて行った。そして、松戸の家に着くと、彼は自転車を駐車場の横に停め、玄関に向かった。
「あ、北杜、そこで少し待っててくれ」
松戸にそう言われると、返事をする暇もなく、彼は家の中へと入って行った。このまま出てこないんじゃないかと、少し不安になったが、彼は直ぐに玄関から顔を出して、「入っていいぞ」と僕に手招きした。
家に上がり、靴を揃えると、僕は松戸の後ろに着いて行った。そして、リビングダイニングに入ると、涼しい空気と共に、キッチンに居る松戸の母が、笑顔で出迎えてくれた。
「お邪魔します」
「あー、やっぱり来たんだね、ほくと君。いらっしゃーい」
こっちの世界では松戸の家に上がることなんてないと思っていたが、結局お邪魔することになった。僕は、辺りを見回したが、元の世界の松戸の家と、ほぼ何の変わりもなくて、少し驚いている。
「って、お母さん、なんで、北杜の事知ってるの?」
「だって、さっき家の前まで来てくれたんだもの。健に用があるって」
「え?」
松戸は驚いた顔をして、僕の方を振り返った。僕は顔を緩め、小さく頷く。
「北杜、取り敢えず、俺の部屋に来い」
「あ、うん」
松戸はそう言うと、リビング左横のドアを開けた。ドアの先には上の階に繋がる階段が見え、また、生暖かい空気がじわじわと入ってくるのを感じた。
「上は暑いから、ここでいいじゃない」
「いや、なんか変な話に付き合わなくちゃならんから、自分の部屋に行くよ」
それを聞いた松戸の母は少しムッとした顔をして、ため息を吐いた。
「友達になんてことを言うのよ、もう。本当にごめんね、ほくと君……」
「いえいえ、大丈夫です」
「てか、北杜とは今日あ……」
松戸が言おうとした事を察知し、僕は慌てて彼の口元をふさいだ。
「何するんだよ! もういいから、上行くぞ、上」
顔をしかめて声を荒げると、松戸は足音を立てて階段をのぼり始めた。少しまずい事をしてしまったとは思ったが、松戸の母には、僕は彼の高校時代の友達と言ってしまったので、それが嘘だとばれる様なことは、今の時点では避けたかった。
「折角来てもらったのに……。健ったら、もう」
「いえいえ。健君は、優しい方ですよ」
「分かるけど、あまりに棘が多すぎるわ」
それから、僕は急いで階段を上がったが、すでに松戸は部屋に入ってしまったみたいだ。僕は彼の部屋の前に来るとドアを軽くノックした。
「入っていいぞ」
中からそう聞こえたので、僕は部屋のドアを開けた。きれいに整った部屋の真ん中にちゃぶ台が置いてあり、その横に松戸があぐらをかいて窓の外を眺めながら座っている。少し暑かったが、エアコンをつけているみたいなので、じきに涼しくなるだろう。僕は、部屋に入りドアを静かに閉めると、彼の手前にゆっくり腰を下ろした。少しすると、松戸はゆっくりと体を僕の方へ向けて、僕の顔を見ると、何故かため息を吐いた。
「お前、一発で俺の部屋の位置分かっただろ」
あ、そうだった。何も考えずに何時ものとおり松戸の部屋をノックしてしまった。二階には三つ部屋があるが、一回目でここをノックするのは、やはり相手からすれば怪しいな、と思ってしまう事なのだろうか。
「まあ、いい。ちょっと、お前を試しただけだ」
「――試した、と言うのは?」
いつの間にか、僕は松戸に試されていたらしく少し僕は身構えてしまった。
「俺もお前に会いたかったんだ」
意味が分からず、僕は固まったままだ。
「さっきは試した、と言うより、確認したかっただけだ。
――お前が俺の部屋の位置を知っているかどうかをさ。そのために、さっきは乱暴な事を言って、母親を怒らして、二人が俺の愚痴をしている間に、俺は二階の部屋のドアを全部閉めて、二階に上がってきたお前がどんな行動をするか確認したかったんだ。振り回して、悪かったよ」
松戸はそう言って少し目を細めた。しかし、どうやって試したかは分かったが、なぜ、僕が松戸の部屋を知っていることを確認しようとしたのだろうか。
「お前も、夢なんかで、俺のことを見たことがあるのか?」
松戸は窓を眺めながら、僕に訊いて来た。僕も窓の方を眺める。青い空に白い雲が悠々と浮かんでいた。これにはどう答えようか迷った。正直に、違う世界から来たと言った方がいいのだろうか。
「まあ、そうだから、お前はこうやって俺の家まで来て、俺の部屋まで来られた。
夢と言うのは、不思議だよな。知らない所に連れって行ってくれるし、はたまた未来も断片的だが見せてくれる。俺は脳神経外科医になって、これらの夢がどうして起こるのかを突き止める研究がしたいんだ」
これが、この世界の松戸の将来の夢なのだろう。元の世界の松戸の夢とは少し違っていて、これはこれで面白かった。少しすると、松戸は僕に振り返って真剣な表情で、僕を見据えて来た。
「俺もさ、お前が出てくる同じ夢をよく見るんだよ。
今まで何だよこいつ、と思っていたけれど、今日さ、それがお前の事だと分かった」
彼曰く、僕とは夢の中でよく会っていたらしい。彼はさらに話を続けた。
「今日さ、お前を初めて見た時は、単に、こいつ挙動不審だなと思って声を掛けてみたんだけど、しょっぱらから、慣れ親しんだ声で俺の苗字呼ぶから、何か引っかかったんだよ。で、お前が、俺に会いに来たって言った時、フラッシュバックしたんだ。
――――お前が出てくるあの夢がね」
そうか、それで驚いていたのかと、僕は納得した。
「で、夢の話だが、まさに今、この瞬間が、俺が見ていた夢だ」
僕は呆気に取られて、首を前に突き出す。つまり、今、松戸は現在進行形で正夢が現実になっているところに直面しているのだろう。
「そして、なぜ、俺はお前がここまで来られるかを試したのか。
それは夢で、お前が俺を親友だと言っていたからだ。世間一般的に親友という関係ならば、互いの家に上がった事があるだろうし、部屋の位置も知っているだろう。だからお前が夢でそれを見ているならば俺の部屋までたどり着けると予測し、確かめさせて貰った」
確かに彼の推測は正しいし、世界さえ違えば、松戸は僕の親友だ。
「でも、松戸君。残念ながら、僕はそんな夢なんか見たことないんだ」
松戸は表情を変えず、「そう」とだけ言った。次の言葉を、待っているみたいだ。
「僕は夢でなく、現実世界で、君と親友なんだ。だから、君の家や部屋がどこか知っているし、それだけでなく君の出身や、いつここに引っ越してきたのかも知っている。
しかし、ここは僕の知る現実じゃない。だって、大学の夏休みで実家に帰ろうとしても、実家はないし、近所も僕のことを知らない。おまけに君は僕を夢でしか知らないから」
松戸は、頷きながら僕の話を静かに聞いてくれた。やっぱり、松戸はどっちの世界でも、聞き上手だなと感じた。
「それで、その魔法を解き、お前の住む現実世界に戻るためには、俺に抱きつかなきゃいけないと言う訳か」
僕は大きく頷く。
「残念だが、多分、俺に抱きついても意味はないし、お前の身には何も起きない」
「それは、どうして?」
「その理由も夢だ。夢の中で、お前は俺に助けを求めるが、結局助けられずじまい」
「その夢の中では僕は松戸君に抱きついたの?」
僕の質問に、松戸は苦笑いした。
「それを夢で見ていたら、俺はさっき、もっと冷静でいられたよ」
確かに、と僕は思った。でもそれなら、まだ望みはあるじゃないか。やっぱり同性から抱きつかれるのは抵抗があるのだろうか。
「それでも、少しの望みにかけてお願いできないかな」
僕は訴えの目線を松戸にじっと送る。ここまで来て引き返す訳にはいかない。
「……分かった、分かった。でも、一つ、それをする代わりとして、お前の住む世界の俺の事について色々と喋ってくれないか。お前が存在したら、俺はどのくらい違う人生を歩んでいたのかを知りたいんだ」
僕は、「ありがとう」と言い、顔をほころばせた。そして、彼の望むとおり、「僕が生まれた世界の松戸」について、中学一年の九月二日に初めて会って、話をした時の事から始めた。それから、親友になるまでの二年間の話をしてかなり盛り上がった。それもそうだろう。世界こそ違うが、根本的な差異は僕がいるかいないかだけなので、以外にも共通の話題があるのだ。その後、親友となるきっかけの中学三年の夏の八十八キロの話をした訳だが、実は、僕のいない世界の松戸も一人で八十八キロを走破したと言うのだ。
「俺も中三の夏に九十九里までチャリで行ったけど、あれも、俺が変わる契機だったのかな。一人で色々な困難に立ち向かったし、あの経験のお陰で、俺は他力を頼らず、自立することの重要さを学んだんだ」
どちらの世界でも、この経験は松戸にとって、人生の分岐点だったようだ。
「で、そうだ、そう。それを達成した日の夜、初めて、お前を夢の中で見たんだ」
松戸は付け加えるようにそう言った。もちろん、僕はその後も、高校に入ってからの松戸との付き合いの話も続けた。高校になると、共通の話題も少なくなったせいか、松戸は頷いて聞くばかりになった。加えて、松戸が不合格して浪人が確定すると言う話し辛さも混じって、その辺りは自分の責任を感じながら、一つ一つ文字を紡ぐかの様にゆっくりと話した。そして、話が終わると、僕は静かに悟られぬよう、心の中でため息を吐いた。
「面白い話だったなあ。ありがとう」
「僕こそ、下手な話を聞いてくれてありがとう」
僕はそう言うと、ショルダバッグを肩にさげて、立ち上がり、シャツの襟を整えた。加えて、僕の心臓も高鳴りを始めた。松戸を抱きしめると言うのもあるが、それ以上に、彼を抱きしめて家に帰れるのか、という緊張が全身に走っているからだろう。
「じゃあ、いいかな」
固唾を呑んだ後、僕は、静かにそう言った。
「いや、まだだ」
松戸は座ったまま、低い声でそう言った。まだ心の準備が出来ていないのだろうか。
「俺を抱きしめる前に、俺の話を聞いて欲しい。さっき北杜が話してくれた話の感想だ」
僕は、分かった、と返して、この世界の松戸が残す言葉を聴くことにした。松戸は、膝を立てて、ゆっくり立ち上がると僕の目の前に来て、顎を下げて僕を上から見据えた。
「北杜。お前は、もう一人の俺が医学部に落ちたことについて、自分のせいだ、と言っていた。確かに、お前の存在は、彼にとって高校時代の希少な勉強できる時間を削る原因となった。俺は知らないが、不合格した時も、とても精神的苦痛を経験しただろうな。
でもな、もう一人の俺は、それでお前を恨むこともないし、お前のせいにする事も絶対にしないだろう。だって、自分の意思決定なんだから。むしろ、話を聞いている感じじゃ、凄く楽しい人生を送っていると思うぞ」
「そうかな……」
「そうだ、俺だって、そりゃ本心は友人の一人か二人は欲しい。だが、俺と言う生き物は要領が悪いみたいだ。何かを持てば、何かを捨てなきゃいけないからね。
結果、俺は、人との付き合いを捨て、一人で強く、楽しく生きることを誓い、もう一人の俺は、勉強はほどほどに、親友や人との関係を大切にして生きることを誓ったのだろう」
そう言われてみれば、そのような気がした。
「――だから、北杜! お前は、この俺の活躍を見たからと言って、もう一人の俺と比較するような事はするな! どっちも幸せな選択をしている事に変わりはないのだから!」
そう言うと、松戸は勝ち誇ったように、大きく両手を広げ、仁王立ちの体勢となった。さあ来い、と言うことなのだろう。
僕は、目を瞑ると、一度、深呼吸してから、静かに倒れるように体を前に出した。
そして、松戸の胴体に両手をまわすと、ゆっくりと力を入れながら、彼を抱きしめた。
もちろん、松戸にこのような事をした事はないから初めてで、妙な罪悪感があった。
彼の胴体は硬かった。まるで、大木のように。……でも、温かい。
「……」
何も起きない。ただただ、不思議と安心できるような感じが伝わるだけ……。
「――ごめん」
戸惑ったような声が頭上から聞こえた。僕は、我に返ったかのように、松戸の体から離れた。途端に顔が熱いのに気付いて、僕は松戸から顔を背けてしまった。
「僕こそ、急に来て、こんな頼み事してごめんね。そして、今日は、本当に、ありがとう」
僕は俯いたまま、言葉を紡ぎながら、何とか感謝の意を示した。
「俺こそ、これまでの謎が一つ解けてよかった。夢へ導いてくれて、ありがとな」

山名紗奈

時刻は五時を過ぎていた。気温も大分下がって、ヒグラシが一日の短さを嘆くように、しんみりと鳴いている。そして、僕はひとり、夕暮れの並木道を北上している。
一日の仕事を終えたくらいの時間だから、通りには家へと帰る車もそれなりに走っている。でも、ヒグラシの哀歌はそれらのエンジン音にかき消されはしなかった。静かだけれども、耳にぴたりと入ってくるからだ。
大通りは八千代緑が丘駅の高架下を潜り抜けて、北口のロータリの出口と交差する。目の前には、右に高層マンション、左に高層ホテルが見えるが、ここを通り過ぎ、ある程度進んで、二つ目の交差点に差し掛かると途端に田舎の様な景色が広がる。並木道もここで途切れており、街なかと田舎を分けるある一種の境界線のようであった。
僕は交差点を斜め右に曲がり、そしてほんの少し歩いた先にある、右にそれる細い道を曲がった。
――見えてきた。クリーム色の少し古そうな二階建てのアパートは、前見た時と全く変わっていない。僕は、アパート左の二階に繋がる階段に向かった。途端に、心臓の鼓動が高鳴り始め、居ても立ってもいられなくなった。
こちらの世界では、紗奈はどんな人生を送っているのだろうか。僕は、元の世界で彼女の家の前にあたる場所に立ってそんな事を考えた。僕はドアの表札を確認したが、「山名」と言う表示はなく部屋番号だけであった。次に扉の上の曇りガラスに視線を移したが、暗くて、人のいる気配はしなかった。
いないのだろうか。僕はそっとドアに左耳を寄せる。西日がスマグラのグラスを挟んで目に差し込んでくるので、僕は目を瞑って左耳に集中することにした。こんな事を他の人に見られたら不審者扱いされてしまうだろう。
……聞こえた。人の声が。どうやら人は住んでいるようだ。しかし、それはこの家の人の声ではなく、テレビの音である事にすぐに気付いた。僕は、ドアから耳を離離し、扉と向き合うと右手をドアベルへと伸ばした。
指先に緊張が走る。違う人だったら、という理由もあったが、それ以上に、住んで居たとしても相手にされなかったら、という事の方が大きかった。何せ異性だ。しかも、相手からすれば初めて見る顔だろう。会って話すだけでも一苦労だ。ふと、来栖の警告が脳裏をかすめる。
やみくもに僕はそんな事はしない。話をして正解かどうかを決めよう。
一刹那、夕日が僕の背中を押した気がした。僕は右人差し指でドアベルを深く押す。ピンポンと中から音がした。加えて、こちらへと足音が近づくのを感じた。
「どちらあ?」
内から聞こえる気だるそうな女性の声。紗奈の声ではない。恐らく彼女の母親の声だ。
「紗奈さんの中学の時のクラスメートの北杜です!」
声を少し大きくして、僕はそう答える。取り合って貰うために、ここではクラスメートと言うのが得策だろう。実際に元の世界では、中一と中三のとき同じクラスだった。
と、玄関のロックが外れる音がして、ドアが開く。同時に何とも言えないむさ苦しい空気が外へと逃げていくのを感じた。前に現れたのは、髪がぼさっとして、清潔感のないTシャツにジャージを履いた紗奈の母親であった。
「紗奈さんのお母さんの紗枝(さえ)さんですか?」
「そうだけど、何の用かしらあ」
ろれつが回っておらず、聞き取りづらい。しかも、汗のニオイと混じってかなりアルコール臭い。どうやら、この時間から飲んでいるようだ。
「紗奈さんに、会いに来たのですが……」
僕は声のトーンを下げてゆっくりめに話した。それを聞いた彼女はだらしなく笑った。
「さなは、仕事にいってるわ。
……ああ、せっかくだから、行ったらどう?」
「それは、どこですか?」
「ええとねえ、そうそう、カルミネーションってところで……なさなで宜しくー!」
半ば興奮した声で彼女はそう言うと、ドアを閉めてしまった。口を開いて、聞いた事を確認する余裕などはなかった。辺りは再び静かになり、ヒグラシ達が遠くから僕のことを眺めて、残念とでも言うように湿っぽく鳴くのが鼓膜に響いた。
僕はアパートから離れると、首をひねって「カルミネーション」がどこにあるのかを考えた。それはレストランなのだろうか。もちろん全く身に覚えのない店名だ。取り敢えず、この世界の紗奈は高卒で働いているという事は分かった。
さあ、どうしよう。当然、ここで会うのを諦める訳にはいかない。スマグラを正し、駅へと取り敢えず向かうことにする。……スマグラ、そうだった。今の時代には検索と言う素晴らしい手段があるじゃないか。
僕はスマグラで「カルミネーション 八千代」と検索した。すぐに結果が出て、トップにそこの場所の地図が出て来た。下へスクロールして見たが、特に店のホームページはない。地図を開いて見ると、その場所はそんなに遠くはなかった。駅から東に五百メートルで、ここから歩いて十五分程に位置している。早速、僕はそこに向かって歩き出した。
歩きながら、アパートで会った紗奈の母親の事を思い出す。一体、どうしてしまったのだろう。確かに、紗奈の家は貧しく、かつ彼女の母親はシングルマザーで、生活保護を受けながら生活しているが、元の世界の母親はあんなに酒に溺れてなどいなかった。それに、高校からは娘の為にと働き出したのを、僕は紗奈から聞いている。そして紗奈の方は、僕と同じ高校に入学したのち、今は千葉の私立の外語大で給付型の奨学金を貰いながら、通っている。奨学金の事はあまり知らないけれど、返済不要の奨学金はかなり優秀じゃないと貰えないらしいので、紗奈は凄く努力していたんだろうなと思った。しかし、この世界の彼女は働いている。もちろん、高卒と言う選択もありだと思うし、それは個人の自由だけれど、両者がなぜこのような人生を歩んでいるのか、僕は疑問に思ったのだ。
鉄道の高架沿いの道路を僕はスマグラのナビ通りに東進している。どうやら、その店は高架下にあるらしい。そう言えば、松江駅近くの高架下にも美味しいビストロがある。ランチの時に碧海と食べに行ったが、お手頃な価格で美味しいし、しかも雰囲気も凄く良い店だった。そんな事を思い出していると、お腹が鳴った。今日はこんなに動き回ったのだから、無理もない。紗奈の働く店でお腹を満たすことにしよう。

カルミネーション

間も無く、スマグラはルート案内を終了し、僕はその店と向き合った。高架下の二階立てのプレハブ造りで、入り口の上に紫の浮き文字で「カルミネーション」とライトアップされた看板がある。ここで間違いないだろう。
だが、とても入り辛い雰囲気だ。と言うか、この店はなんだ。レストランなら、店前にメニューでも置けばいいのにそれはないし、二階の窓は曇りガラスだ。パッと見る限りは怪しい企業にしか見えない。だが、入り口の曇りガラスのドアの側面には、「営業中」と書かれた掛け看板がある。企業ならこんな事はしない筈だ。
迷った末に、僕は正面から入ってみることにした。明かりは点いているし、企業ならば紗奈がいるかどうかを聞いて、終業まで外で待てばいい。
僕は、入り口のドアハンドルを握った。妙に緊張して手が震えるので、いちど深呼吸をしたあと、僕は目を閉じながら、扉を開けた……。
――――嘘だろう。いや、これは何かの間違いだ。
ドアベルが鳴り、目を開けると、視界に飛び込んできたのは、外見からは想像つかない、ホテルのようなカウンタと、その右の少しみだらな女性の写真が数々……。
これは、世間で言う、「風俗店」ではないのか。――まずい、僕が来るところじゃない、出なきゃ、と思って、後ろ手でドアハンドルを探った。
「いらっしゃい。……って、君、十八以上?」
カウンタの奥から出て来るなりそう尋ねたのは、白のワイシャツの上に紺のベストを羽織って、水色の蝶ネクタイを締めた、オールバックの四十代前半の厳つい男だ。多分、ここの店長だろう。
「え、は、はい……」
僕は、挙動不審にそう答えた。すると、店長は少し顔を緩めた。
「君、初めてだね。分かるよ。ようこそ、カルミネーションへ」
「あ、あの、ここって……?」
「知る人ぞ知る、ヘルスサービスの風俗店だ。……もしかして、何かと間違えたかい?」
はい、間違えました、と謝って逃げ帰る事も今なら出来る。だが、探らずに出るわけにはいかない。一応、どんな人が働いているのかだけ見る事にしよう。恐らく、これは何かの間違いなのだし、流石に紗奈もこんな所で働いてないだろう……。
「まあ、まだこんな時間だしね。君だけじゃなく、間違えてくる人も結構いるよ」
「あ、あの! き、今日、いる人を教えて下さい!」
「お、そっか。出勤表ね。まあカウンタの右にも掲示しているけど」
店長はそう言うと、カウンタから冊子を取り出した。僕はと言うと、そこから動けず、ただ立っていた。この一歩を踏むのが、そういう世界への一歩を踏むようで、躊躇いの気持ちが大きかったからだ。
「何、突っ立っているのかな。どうぞ、カウンタまで見に来てよ」
そう言われるがまま、僕は、カウンタ右の写真からは目を背けて、カウンタに向かった。その前に立つと、店長はメニューを開き、僕に見せてくれた。
「まだ、今日は彼女しか……」
度肝を抜かれた。五臓六腑全部抜かれた。
信じられない。いや、これは、信じたくないと言う方が正しいだろう。店長がメニューを指差し見せたのは、紗奈の写真であった。メイクをしていたが、明らかにこれは紗奈で間違いない。そして、写真の下に「マナサナ」と名前があった。そうか、さっき彼女の母親が言っていた、「……なさな」とはマナサナの事を指していたのか。
「どうされましたのかい?」
僕は放心状態で言葉が出ず、何も言うことが出来なかった。すると、店長は僕の顔を窺うなり、口を開いた。
「そっか、君は、マナサナちゃんの年齢と同じくらいだろうからね。驚くのも無理もない。まあ、オトナの女性とがいいなら、今日は予約で埋まっているので、また今度にして欲しい」
いや、それならば、まだここまで驚かずに済むだろう。でも、これは余りにも衝撃的過ぎる。あの彼女が、この世界では、こんな仕事をしているのだから。
「まあ、マナサナちゃんも、あと二時間後の二十時からは予約で埋まってるから、遊びたいならなるべく早くしないとね」
「あ、じ、じゃあ、お願いします」
僕は、しどろもどろになったままだったが、何とかそう言った。
「七十分コースで一万六千円と指名料で三千円だね。合計で一万九千円です」
高いのは知っていたが、こんなにするのか。勿論、払える金額ではあるし、ここでしか確実に会う機会などないので、お金は出す。でも、本当はこんな場所で会うなんて嫌だ。だが皮肉にも、ここならば抱き締めても、警察に通報されるような事はないだろう。
僕は、財布から五枚ある一万円札の二枚を取り出し、革製のカルトンに置いた。これで、万札は残り三枚。一人暮らしでは、この三枚で一ヶ月分の食費と電気代とネット代が払えるくらいだ。しかし、この世界では自炊は出来ないし、住む所がないので、お金の減りはもっと速いだろう。もし、紗奈がキーマンでなければ、僕の野垂れ死は現実味を帯びてくる。ここで賭けるしかないと思った。
「二万、お預かりいたします」
店長はそう言うと、二万円を受け取り、僕にお釣りの千円を渡した。
「じゃあ、お部屋に案内するので、部屋に入ったら、サッとシャワーで体と歯磨きをして欲しい。七十分の中に入ってるからね。で、それが終わったら、ベッド横の内線で知らせて。マナサナちゃんを部屋に向かわせるから」
店長はそう言いながら、僕を二階の部屋へと案内した。
「こ、ここですか」
「ああ、では、楽しんで。遊びが終わったら、マナサナちゃんとトラブルがない限りは、部屋から出て、そのまま帰っていいよ」
店長はそう言うと、部屋を開けて、その場を離れていった。僕は、部屋に入ると、辺りを見回した。部屋に窓はなく、入って左にユニットシャワー室があり、右にツインベッドが置いてあった。
それから言われたとおりに僕は服を脱いでシャワーを浴びた。もちろん彼女とは、この様な場所でする事をするつもりは一切ない。元の世界の紗奈ともした事がないのだから。でも、シャワーで今日の汗や汚れを落とせたので、それは良かった。
そして、歯磨きを済まし、着てきた服に着替えると、内線を入れて、彼女をベッドの上で待った。次第に足音が大きくなるのが聞こえて、それと同時に僕の心臓の脈打つ鼓動も大きくなっていった。
ドアノブに手が置かれる音が響き、ゆっくり扉が開く。いよいよご対面だ。
「マナサナでーす。夏なんで、コレ、着てきちゃいましたー!」
紗奈……目の前に居るのは、間違いなく僕の彼女だ。だが、それは何時も見る様な紗奈ではない。ボブヘアーで高身長の彼女は、水色のビキニ姿で僕の前に現れた。
――そう言えば、紗奈と初めて出会ったあの時も衝撃的だった。黙っていられない程に。
一刹那、フェードアウト。すると、実家近くのスーパーのお菓子売り場が僕の視界に映し出された。これは、小学六年生のおそらく七月の夏休み前の時の記憶だ。
僕は、お菓子売り場で、当時集めていたレシプロ戦闘機の食玩を探していた。しかし、売り切れていたのか目当ての物が見つからなかった。仕方ないので、その場で何か違うものを買って、帰ろうかと思っていると、レジとは反対側の商品棚からお菓子売り場に、同じ年頃の女子がふらりとやって来た。
女子は僕の方を一瞬、ちらと見ると、まるで僕なんかいなかったかの様に、お菓子の棚のほうに顔を向けた。半袖の紅梅色のパーカーに灰色のスウェットを履いた女子に僕は見覚えがあった。たしか、隣のクラスでいじめられている女子だろう。
僕は適当に、はやぶさ等の人工衛星が入っている食玩を手に取って買うことにした。
と、その時だった。商品棚に近づいた女子が、ほんの一瞬、挙動不審な動きをみせたのだ。僕はそれを見逃さなかったが、何をしたのかは分からなかった。女子はと言うと、何事もなかったかのように、お菓子売り場から離れて行った。
なぜか僕は急いで、女子がいた所辺りの棚に向かった。様々な種類の板チョコレートがきれいに並んでいたが、一箇所だけ、その整列が乱れていた。
――まさか……。
そう思った頃には、僕は走ってその女子を追っていた。それからすぐ、果物売り場から入り口に向かって歩いていた彼女を見つけて近寄ると、僕は「ちょっと! キミ!」と、声変わり前の甲高い声で呼んだ。
意外と店内に響いたのか、他の買い物客は一瞬、僕の方に注目した。が、すぐ、何事も無かったかのように買い物を続ける。しかし、女子は振り返って、僕を睨み付けた。
「なに? あたしになにか?」
セミロングの髪で身長は僕くらいあった彼女は、喧嘩腰にそう言った。肌は白く、それなりにかわいかったから、なぜいじめられているのだろうか、と思った。
「ねえ? 何で呼んだの? まあ、いいや」
そう言うと、彼女は背を向け、少し足早にそこから立ち去ろうとした。が、僕はそれを止めた。女子の細い右手首を掴んだのだ。
「ちょっと! ヘンタイ?」
そう声を荒げると、彼女は、僕に掴まれている手を振りほどこうと力をいれた。
その反動で、パーカーの裾から何かが落ちた。見ると、抹茶味の板チョコレートだった。
「何をしたの?」
僕は、少し呆れた顔で女子にそう尋ねた。こんな事をする様な女だから、いじめられているのかと少し納得したが、かわいそうだし、それは言わないでおこうと思った。
「あんたも、いじめる気?」
そんなつもりは、さらさら無い。僕だってクラスで浮いており、一人でいる事が多いから、孤独のつらさは分かっている。それに、ここで、この女子をいじめた所で何になるのだ。僕は、そんな事をしても胸くそが悪いだけだし、彼女だって嫌だろう。
僕は、黙ってその板チョコレートを拾い上げると、レジに向かった。
「ちょ、ちょっとやめてよ!」
女子は、焦って僕の後を追ってくる。何をやめて欲しいのか予測はついたが、何も返答せずに、僕はレジで板チョコレートと食玩を置いた。それから、普通に会計を済ませると、僕は板チョコレートをその女子に手渡した。
「あげるよ。でも、もうあんな事、しないで欲しいなあ」
差し出したチョコレートを受け取りはしたが、その女子は沈黙したままだった。ここに居ても仕方がないので僕は、そのままスーパーの出口へと向かい、外に出る。暑かった。
と、後ろから急に迫って来る足音がしたので、振り返ると、それはあの女子であった。
「何で、見逃してくれたの?」
「じゃあ、店員にチクってあげた方がよかった?」
「それはやだよ」
「僕も君に恨まれるだろうし、嫌だな。それに一人だから、敵を増やしたくない」
僕はそう言って、ちょっと笑う。それを聞いた女子は、顔を隠すように俯いた。
「あんたも、一人なんだ……」
僕は静かに頷いた。そう、一人。友達と呼べる人なんてクラスにいないんだ。
「――そう言えば、さっきのあんたの話だけど、守れないや」
「またするのかい?」
「する。簡単にこんなの買っちゃうような、あんたには分かんないだろうけど」
「でも、そう言うことをするのは良くない」
「金があるから、そんなことを言えるのよ!」
「……だけど、こんな事で捕まって、自分の夢とかを壊したくないでしょ」
「……」
「今日みたいに何かを買うなんて事はできないけど、僕に出来る事があったら、協力する。だから、あんな事をするのは、やめてよ!」
正直、僕は友達が欲しかったのだろう。そして、誰かに認めて欲しかったのだろう。
「あんた、一人が怖いし、嫌なんだ」
目の前の彼女は、その僕の心を見透かしたように、そう呟いた。
「まあいいや。あたしだって人のこと、言えないし。あんたもキドショーの六年でしょ。
あたし、山名紗奈、よろしくね」
「僕は、北杜雪弐。となりのクラスだけどよろしく」
それからというもの、僕らは一緒に過ごすことが多くなっていったんだ――――。
「だ、大丈夫?」
目を開けると、紗奈は僕の真横に座っていて、僕の顔を少し心配そうに眺めていた。
「悩殺されちゃった?」
わざとらしく、彼女はそう首を傾げる。僕は少し苦笑いした。それが理由なのかは分からないが、あまりの緊張にどうやら気を失っていたみたいだ。
でも、今は落ち着いて目の前の彼女を僕は眺めている。その白くつややかな顔や身体も、元の世界の紗奈とは、ほとんど変わりがなかった。僕は起き上がると、彼女と向き合った。目のやり場に困った。
「あ、あの、何か着てくれない?」
「えっ、ええ?」
意味が分からず、困惑したように、紗奈は間の抜けた返事をした。僕はベッドの上の大きめのバスタオルを手に取ると、紗奈に渡した。紗奈はそれを膝の上に置く。
「いや、そうじゃなくて、身体にそれでも羽織ってよ」
「えっ? 新手のフェチか何かなの?」
紗奈はそう言いつつ、僕の頼みを聞きいれた。バスタオルを肩から掛けると、豊かな胸を隠してくれた。取り敢えず、これで少しはまともに話し合えるだろう。
「あの、僕は、ここでする様な事をしに来た訳じゃないんだ」
「じゃ、何をしに来たの? せっかく高いお金を払ってるんだから、いいんだよ」
「君と話をしに来たんだよ。紗奈」
少しの沈黙のあと、目の前の彼女はすっとぼけた様な顔をした。
「マナサナだから、サナね。別にいいよ、マナでもサナでも」
「山名紗奈だからマナサナって名前なんだよね」
「……」
紗奈は、少し引いたような態度をとると、顔をしかめた。
「何で知ってるのかなあ?」
「それは、君は僕の彼女だからね」
そう言うと、紗奈は馬鹿みたいに腹をかかえて大笑いした。
「もう、何いってるの? 他のお客さんでもいるんだよねーこういう人!」
まあ、そう言われると思ったので、僕はスマグラから、高校卒業の時に作った、思い出や将来の夢とかを僕と紗奈で語り合うトークムービーを開くと、それを彼女に渡した。紗奈は僕のスマグラをかけるなり、「え、なにっ!」とかなり驚いた表情を見せた。
「確かに、君から見れば、僕はただの客かもしれない。でも、僕の住んでいるもう一つの世界では、僕は君の彼氏なんだ」
「……つまり、君は違う世界から来た人なの?」
「そう言うこと」
「うーん、あんなのを見せられたら、そう信じるしかないけど……。
じゃあ、何でそっちの世界のあたしは、君と付き合ったの? それを聞かせてよ」
この世界の紗奈も状況判断力が高く、僕が別の世界から来た事を理解しているようであった。折角、頭が柔らかいのにこんな所で働いていて勿体無いな、と思った。

紗奈との馴初め

それはさておき、紗奈と付き合った経緯について目の前の彼女に話をしよう。話せば、僕がいないこの世界の紗奈の事についても知ることが出来るだろうし。
僕が紗奈と付き合い始めた理由――これも衝撃的な事が原因だから忘れられない。
あれは親友の松戸が引っ越して来た、中学一年の九月の学期末試験期間が終了した日の翌日の事であった。その朝は、紗奈は登校してこないし、クラスもかなりざわついていていた。そして、ざわつきに耳を傾けてみると、数々の同じフレーズに、僕は耳を疑った。
なぜなら、「山名が泥棒したぞ」というフレーズがあちこちから聞こえて来たからだ。
僕は、まったく状況を理解出来なかった。と言うより、中学になってから、紗奈の悪口を言ったりする生徒は少なくなったので、急にどうしたのかと思った。一時限目が始まると、クラスメートは静かに授業に向かったが、紗奈は結局登校してこなかった。
そして、授業が終わると、教室の後ろのドアが開き、紗奈が身を丸めてクラスに入って来た。クラスは一瞬にして静まり返ったが、目つきの悪いサッカー部の男子が口を切った。
「お前、泥棒してんのに、何で学校来るんだよ!」
そう言うと、男女関係なくクラスメートのおおよそが、それに同調して、紗奈を「泥棒女!」と怒鳴り散らし始めた。僕は、その陰惨な雰囲気に耐えられず、両手で耳を塞いで机に伏せた。彼女をその場で助ける事が出来なかったのだ。そんな自分に腹が立ったが、助けようと思った所で、この状態では無理であった。
「泥棒が逃げていったぞ!」
数人の男子がそう声を上げた。紗奈はその罵詈雑言に耐えられず、教室から出て行ったのだろう。いっぽうで、クラスメート達は、紗奈を追い出し、戦いに勝ち誇ったかのように、歓声をわんさか上げていた。
四時限目が終わると、僕は急いで職員室に向かって、担任に事の真偽を確かめに行った。
「山名さんに、何があったのですか? そして、今はどこにいるんですか?」
三十代半ばの男の担任は、ペンの上端を机にコツコツと鳴らしながら、話すことを躊躇ったが、教室の状況を教えると、仕方なしに、口を割った。
「北杜は山名と仲が良いから話すか。北杜は絶対にしないだろうけど、今から話すことは絶対に漏らすなよ」
そう言うと、担任はペンを机に置き、手を組み、声のトーンを極力下げて話を始めた。
「先ず、何があったかだが、山名は昨日の夕方に、近所のスーパーで万引きを犯した。何を盗んだか知らんが、見つかって、補導されたんだ。多分、それを見てた奴がクラスにいて、騒いでいるのだろうな。
で、当分、騒ぎは酷いだろうから、山名には学校奥のスクールカウンセラー室に登校してもらうことにした。これだけは絶対に言うなよ。あと、そこに行く時は昼休みと放課後だけな。行く時は細心の注意を払えよ。とりあえず、北杜だけはそこに入れるように、そこの先生に伝えとくから」
――紗奈が再び万引きを犯した。これだけが、僕の頭の中をぐるぐると回っていた。
どうして、そんな事をしてしまったのか。まさか、僕は何か彼女を失望させるような事でもしてしまったのだろうか。しかし、頭を巡らしても全然心当たりはなかった。
結局、昼休みに一度、カウンセラー室に行ったものの、先生伝いに「会いたくない」と言われてしまった。午後の授業も全く頭に入らなかった。
そして、放課後、僕は再びそこを訪れた。今度は、教室の前で自分の名前を言うなり、先生は入室を許可してくれた。
「山名さんは、今さっき、あそこから帰ったよ」
カウンセラーの先生は、教室向こうの芝生が茂る裏庭を指差して、そう言った。それを聞いた僕は有無を言わず、カウンセラー室から裏庭に繋がるドアを開けると、上履きのままで走り出した。校則違反だが、そんな事なんか守ってる暇は無かった。
裏庭から学校の正面を通らずに、出る方法は何となく知っていた。僕は走りながら、プール脇の獣道みたいな所を進み、学校裏の林を抜け、学校の敷地から出た。市営住宅が並ぶ団地に出るが、肝心な紗奈の姿は見当たらない。
辺りを見回しながら、足を進めると、駐車場を横切るボブヘアーでタカ中のセーラーを着た、丸い背中が見えた。明らかに紗奈であった。
その姿が見えた時には、もう僕は紗奈の元へと走り出していた。名前を叫んで、止めようとしたが、万一の事を考えてそれは止めておいた。僕は彼女の背後まで迫ると、「ちょっといい?」と言って、呼び止めた。紗奈は振り返るなり、小さくため息を吐いた。
「何で、追ってきたの?」
紗奈は不満気にそう漏らした。目を合わせようとしたが、彼女は俯いたままだ。加えて、西日が彼女の背後から当たっているせいで、表情はよく分からない。
「どうして、こんな事をしたのかなって思って。僕、何か悪いことした?」
すると、紗奈はやるせなしに笑った。
「雪弐は悪くないから。気にしないで。
そして、ごめんね。初めて交わした雪弐の約束、守れなくて。
あと、これまで、わがままばっかり聞いてくれてありがとね――」
そう言うと紗奈は、僕に背を向け、西日に向かって歩き出そうとした。が、僕はそれを止めた。紗奈の白く細い左手首を掴んだのだ。そのまま僕はその手を引き寄せた。
「僕には、ちゃんと説明して欲しいな」
僕はそうはっきり言った。いっぽうで、紗奈は僕に顔を合わせようとせず、そっぽを向いた。しかし、掴まれた手を振りほどこうとはしなかった。
「あたしが、盗ったもの、分かる?」
そんな事を言われても、さっぱり思いつかなかった。
「あたしね、雪弐に会う前に戻った方がいいと思ったの」
「――――山名、もしかして、抹茶味の板チョコを盗ったのか?」
顔を下ろした状態で、紗奈は小さく「うん」と頷いた。
「僕さ、何か山名に嫌なことでもしたのかな?」
もしそれが原因なら、僕は彼女の今後の人生を壊した張本人となるだろう。僕は自分のこれまでの言動を振り返ろうと必死になった。今、それを見つけて、反省すれば間に合うかもしれないと思ったからだ。
「さっきも言ったでしょ。雪弐のせいじゃないって。
あたし、こうやって一年間、雪弐と過ごしてきて、凄く楽しかったよ。
でも、でもね、あたし、雪弐に何のお礼も出来てない。そして、きっと、あたしは今後も何のお返しも出来ない。でもお節介な雪弐は、これからも、あたしの為に、優しくしてくれるんでしょ。それに甘えるあたし。まるで現実から逃げているみたいでいや!」
父親がおらず、母子家庭で育った紗奈の家庭は貧しかった。貧しいだけに、紗奈は身体も精神も、僕よりずっと強かった。寧ろ、紗奈のお陰で一年、充実できたのは僕。
紗奈を失いたくないと言う気持ちが一気に高揚した。
そして、思春期の本能が芽生える。僕は、紗奈の左手首を握った自分の手を強引に引っ張り、彼女の身体を引き寄せると、そのまま身体を密着させる様に強く抱き締めた。そこから、さらに夕日が僕たちを包み込むかのように照らしてくれたんだ。
「山名! 僕にとって、君の存在が一番のお礼なんだ!
毎日、毎日が、ありがとうの連続だよ! そして、どれだけ、僕は君に救われたか!
でも、それを僕は当たり前の様に、感じてしまった。本当に、ごめん……」
僕はそう言うと、紗奈からそっと離れて、彼女の両目をじっと見据えた。
「だからさ……紗奈。もう、あんなことをしないで」
「う、うん……」
「これからも、互いに手を取り合って未来への道を築いていこうよ。
――で、あのさ……」
僕はいったん、ここで言葉を切った。きっと今頃、僕の顔は真っ赤なのだろうが、西日が照り付けてくれている事でそれは隠せている気がした。
「あたしこそ……ごめんね。感情的になってあんなことしちゃって。
だって、よくよく考えたら、雪弐は、一人にさせたら兎みたいに死んじゃいそうだもの。
――それで、雪弐。すごく顔赤いけど、あたしに何か言いたい事でもあるのかなぁ?」
紗奈は、期待するような目で見つめてくる。これだと、僕が何を言おうとしているのか、もうお見通しなのだろう。
「さ、紗奈っ! ぼ、僕でよければ、僕の彼女になってほしい!」
僕の渾身の告白を聞いた紗奈は大きく両目を見開いて、顔を大きくほころばせた。そして、今度は紗奈の方から、襲い掛かるように、強引に僕に抱きついてきたのだ。
「もちろんいいよ! あたしも、雪弐のこと、大好きだから!」
それから、僕らは晴れて恋人同士になった。中一の冬休み前までは、僕も紗奈と同じように、クラスメートから「共犯者」呼ばわりされる事があったが、一人じゃないので、二人でその時期は耐え抜けることが出来た。そして、冬休み後の五教科のテストで、紗奈がクラスで一番になり、それを担任の先生が公にすると、紗奈や僕へのいじめはパッタリ止んだのであった。

さよなら紗奈

僕と紗奈が付き合うに至った経緯の話を終えると、目の前のもう一人の紗奈は小さく手を叩いて拍手してくれた。
「なんか、もう一人のあたしが、すごく羨ましいなぁ。もし、雪弐くんが、あたしの世界にもいれば、少しは違う人生送れてたのかな。
……って、何で、あたしの世界には雪弐くんがいないの?」
「――それは、この世界は僕が生まれてこない世界だから……」
僕はそうポツリと言うと、その傍らで紗奈は長い歎息を吐いた。
「あたしはね、そんな王子様なんていなかったから、小学生、中学生と盗みを働いて、施設に送られたり、少女院に収容されたりだったよ。もちろん、高校なんか行けなかったよ。で、最近になって、自立しなきゃって思ったから、この仕事をはじめたの……」
それを聞いた僕は、不覚にも、自分もそれなりに誰かの役に立っているんだな、と感じて自尊の欲求が満たされるような気分になった。
――もしかしたら、自分が生まれる世界も場合によるが、そう悪くないのかもしれない。
松戸は、元の世界では浪人してしまうが、僕と親友になれた事は、彼にとっては深い人間関係をつくる上でプラスに働いているかもしれない。そして紗奈は、僕と出会い、ともに過ごして来たことで、将来への可能性を広げられた事は、目の前の彼女と比べると、納得できる。こういう風に考えて見ると、少しだけだが、心身が軽くなったような気がした。
でも、この様な考えは自己満足に過ぎないのかもしれない。そもそも、さっきの松戸が、どちらの世界の自分も最高の選択をしているから、比較するな、と言っていたではないか。よって、自分の主観で、相手が幸せかどうかを比較するのは早計であるともいえる。
僕は、いつの間にかバスタオルをはだけさせて、横で寝転がっている紗奈を眺めた。こんな仕事をしていて、本当に彼女は幸せなのだろうか。僕からすれば、例え女であったとしても、貧しい暮らしをしていたとしても、こんな職なんかに就く選択はしないだろう。
「紗奈は幸せなのかい? この仕事をしていて……」
僕は、彼女の白くきれいな腕を見ながら、抑揚のない声で尋ねた。
「どうだろ。けれど、昔と比べたら、だんぜん幸せだよ」
「でも、夢とかあったりしないの?」
「夢ね……。そんなの、あったかもね。でも、もういいの」
――彼女は、未来を潰してしまった。そして、誰も彼女を救えなかった。そんな紗奈は今、ベッドの上で狭い天井をぼんやり眺めている。おそらく焦点はあっていないだろう。
「それに、きっと、この仕事をやめることはできないから」
「どうして?」
「あたし、努力、やめちゃったから……。
十八のとき、院から出たあと、少し、コンビニとかでバイトしてたの。でも、全然、続かなかった。そんな時、ここの店主さんと知り合って、ここ紹介されたの。最初はちょっと不安だったけど、いざやって見たら、楽にお金稼げるし、その日のうちにお給料もらえるから、なんか今でも続いちゃうんだよね」
努力をやめた。これは、元の世界の紗奈とは対極であった。やはり、努力は人生を変えるほどの力を持っているのだ。それをやめてしまった彼女はこうなってしまった。
――否、違う。彼女は自分から望んで努力するのをやめる事なんてしないはずだ。きっと、周りの環境が彼女のやる気や努力をそぎ落としたのだ。
「雪弐くん……。一つだけ、あたしの、おねがい、聞いてくれる?」
急に紗奈は、僕の背後から耳打ちしたので、僕は背筋を震わせて、後ろを振り返った。
「な、なにかな?」
「もう一人のあたしのことだけどね、その子の夢が叶うまで、彼氏でいてあげて。
きっと、その子、雪弐くんの背中見て、成長していると思うから……。
あたしは、ね、努力をすることを教えてくれる人がいなかったの。
しようと思ったけど、それに何の価値があるのか分からなかったし、やめちゃった」
僕が、紗奈に、努力を教えた、のか。努力って、教えるものなのか? もちろん、僕は努力を教えるほど、努力の人ではない。でも、ここにいる彼女の主張も理解できる。酒に溺れた母、ずっと昔に消えた父、友人おらずの毎日……、努力を知らずに生きられる環境としては、十分すぎるほどであった。仮にしようとした所で、それを支える人も、金も、環境も、この彼女にはないのだ。
僕は固唾を呑んで、大きく紗奈に頷いた。不思議な感覚だ。別の世界の彼女が、僕の住んでいる彼女に対して、僕を通して願いを伝えているのだから。何となくだが、これは、僕の住む世界の紗奈が口にしないだけで、望んでいる事なのかもしれないな、と思った。
と、その時、ベッド横の内線が、静まった部屋内に高く響いた。もしかして、もう七十分経ったのだろうか。
「あと、十分だね。……今日は、雪弐くんに会えて良かったよ。
でも、雪弐くんは、同じ山名紗奈でも、あたしの事は、気にならないんだね……」
物寂しそうに紗奈は呟く。そう言えば、よくよく考えてみると、ここに来てから目の前の紗奈のことについては、おおまかにしか聞けなかった。
いや、そう言う意味で言ったんじゃない。目の前の彼女はこんな人生を送っているのに、心配してくれない僕を見て、そう言ったのだろう。普通なら、僕も身近にこんな人生を送っている人がいれば、凄く心配するはずなのに、この彼女に対しては少しの情しかわかなかった。
――僕は、ここにいる彼女を、もう一人の紗奈ではなく、ただの風俗嬢としか思っていないのだろうか。
「まあ、あたしはあたし、その子はその子だもん。仕方ないや」
紗奈はそう言うと、ビキニ姿でベッドから軽快に飛び降りる。その勢いで、ベッドの上に腰掛ける僕へと伸し掛かる様に抱きついてきた。耐え切れず、僕は彼女の首に腕を回して抱きつくと、そのまま後ろへと倒れてしまった。
「お、か、え、し」
紗奈は僕の耳元でそう意地悪く囁いた。こういう仕事をしているから上手なのだろう。だからと言って、僕はそれを許すわけにはいかない。必死に悶えたが、僕と同じくらいの身長の彼女からは逃れられなかった。ますます僕は、彼女に身体を密着させられ、今にもおかしくなって、果ててしまいそうだった。
無駄だと気づき、僕は抵抗をやめると、彼女は身を少し離して、僕の両目をじっと見据えてきた。僕も真っ赤になった顔で、マナサナのことを見つめかえす。
「あたし、もう一人のあたしに、嫉妬しているんだからっ!」
膨れた顔して、マナサナは僕に口を尖らす。その頬のところどころにファンデーションの塗りムラがちらりと覗いていた。

ホテル宿泊

僕は、すっかり疲れて、とぼとぼと湿度の高い夏の夜道を歩いていた。さあ、これからどうしよう。そんな事を考えながら、チノパンのポケットに手を突っ込む。左手が革財布に触れた。あんな所に行ってしまったから結構、金を使ってしまった。
「あ……」
思わず声が漏れた。そうだ、僕はあそこでマナサナを抱き締め、元の世界に帰ろうとしたんだ。でも、キーマンは彼女じゃなかった。彼女に抱き締められ、僕も抱き締め返したが、あの通り、何も起こらなかった。おまけに変な目に遭う始末だ……。
――残金は三万千五百円ほど。駅北口のホテルに泊まるには十分な金額ではあると思うが、これは先を見据えてない使い方だろう。でも、野宿なんかしたくない。特に今日は、色々と振り回されてくたびれているから、どこかちゃんとした所で休みたい願望に駆られた。
仕方がない。そのホテルで寝泊りしよう。そこで明日以降のことを考えればいいのだ。
僕はそう決めると、高架下を伝って、先ずは、駅のコインロッカに置いてあるスーツケースを取りに行く事にした。駅で荷物を取って、北口から出ると、僕は目の前の高層ホテルへと向かった。
このホテルに入るのは初めてだ。当たり前だが、このまちに実家があるのだから泊まる機会なんてなかった。入って左奥にフロントがあり、スタッフの若い女性が立っていた。
「すいません、本日は泊まれますか」
「はい、本日のご宿泊は可能です」
フロントスタッフの女性は作り笑顔をしてそう答えた。良かった、泊まれる。
「では、お客様は予約なしのご宿泊となりますので、素泊まりをされる場合は一万五千円で、朝食付きの場合は一万六千百円となります」
い、一万五千円以上……。これは、いかがなものだろうか。しかし、ここまで言っておいて引き返すのは、チキンな僕には恥ずかしくて出来なかった。
「あの、ここは学割とかありませんか……」
これが、僕に辛うじて出来る値引き交渉であった。ストレートに「安く出来ませんか」なんて言えなかった。ゆっくりあとフロントスタッフの女性は一瞬面倒くさそうな顔を見せたが、すぐに笑顔に戻って、この交渉に乗った。
「では、学生証を拝見させて頂きます」
そう言われ、僕は革財布から松江大の学生証を取って、スタッフに手渡した。もしかしたら、割引してくれるのだろうか。
「ありがとうございます。では、少々お待ちくださいませ」
そう言うと、スタッフは内線を掛け始めた。やはり、そう簡単に割引とはいかないようだ。一分ほどの会話の後、スタッフは顔をほころばせて僕に視線を合わせた。
「今回は特別に割引致します。二割引となりますが、朝食はお付けいたしますか?」
安堵して、思わず僕はため息をつく。二割も安くしてくれるなんて思わなかった。
「では、朝食付きでお願いいたします」
「はい。では、朝食付きで、一万二千八百八十円となります」
そう言われ、僕は財布から二万円を取り出すと、ステンレス製のカルトンに置いた。これで、一万円札は残り一枚だ。
「二万円お預かりさせて頂きます。では、ここに必要事項の記入をお願い致します」
僕は小さく頷いて、レジストレーション・カードに名前や住所などを記入した。もう、後には戻れない。そう思うと、途端に心拍数が上がって、右手が震えた。
「あ、ありがとうございます。では、七千百二十円のお釣りです」
フロントスタッフはお釣りをカルトンに乗せた。僕はそれを丁寧に受け取る。少し浮かせることが出来たので、その分を夕飯代にあてる事にしようと思った。
それから、スタッフからホテルの利用案内を聞くと、僕は荷物を引っ張り、今日泊まる七階の部屋へと向かった。案内を聞いて思ったが、なるほど高い訳だ。なんと、二階に天然温泉の大浴場があり、それもサービスに含まれているからだ。夕飯を食べ終えたら、今日一日の疲れをそこで癒すとしよう。
部屋に入るなり僕は荷物を置いて、電池残量が僅かなのでスマグラの充電をする。昨夜充電したのに減りが早いなと感じた。それから、財布だけ持ってホテルから出た。夕飯を食べに行くからだ。一食くらい我慢したいところだが、流石に朝食以来何も食べていないので、空腹には耐えられなかった。

食事処木の戸

僕は松戸の家近くにあるキドショーの方角に向かって歩き出した。キドショーとは僕が小学二年から通っていたマンモス小学校の事だ。今から行くのは、キドショーと松戸の家の中間地点あたりにある小さな飲食店。と言うより、昼間は味がそこそこで値段はそれなりに安い定食屋で、夜は味がそこそこで値段もかなり安い居酒屋と言うのが正しいだろう。
十分ほど歩くと、三階建ての集合住宅が見えてきた。その一階の端っこにちゃっかりその店はある。店舗の目の前には木製の目隠し格子があり、その側面に「食事処木の戸」の看板が掛かっているがライトアップされていないので分かり辛い。しかし、格子から光が漏れているので、今日は開店しているのだろう。長かった、漸く夕食だ……。
引き戸をがらがらと開けると、見覚えのある八席しかない小さなカウンタ。何となく懐かしい気持ちになった。
「おー、いらっしゃい」
七十代後半くらいの頭に手ぬぐいを巻いたお爺さん店長がフレンドリーに出迎える。思わず、お久しぶりです、なんて言いそうになったが、この世界では新客だ。
僕は左から三つの目の丸イスに腰掛けると、まず品書きを見た。
「はいよ」
「ありがとうございます」
お爺さんは、僕にお冷を渡してくれた。右手で受け取ると、そのまま飲んだ。冷たい感触が喉を爽やかに潤して、生き返った気分になった。
「――そういえや、お客さん、前にもこの店に来たことあるかね?」
品書きを見ながらどれを頼もうか考えていると、ふと、お爺さんは思い出したように、僕に聞いてきた。僕は一瞬驚きの表情を見せたが、直ぐにそれを隠して、微笑んで答える。
「いえいえ、ここは初めてです」
「そうか、そうか。じゃあこれは、デジャヴっていう奴だな」
そう言うと、お爺さんは愉快に笑った。そんな僕は、この事を不思議に思っていた。松戸も、お爺さんも、僕を過去に見たことがあると言うのだから……。
「あ、じゃあ、おろしそうめんと、サラダ海鮮丼お願いします」
「あいよ、おろしそうめんとサラダ海鮮丼ね」
お爺さんはそう反復すると、目の前で料理を始めた。一見、お爺さんも店の雰囲気も、かなり年季が入っているように見えるが、実際は会社を定年退職してから、この店を始めたのだと言う。
僕はお爺さんの料理する姿をぼんやり眺めながら、夕食を待った。時々、「ひょい」とか「やっ」などの感嘆詞がお爺さんから漏れてくる。これは昔も今も、はたまた世界が違っても、変わらない癖のようだ。
「お疲れ様です」
と、引き戸が開いて、聞き覚えのある声がした。ちらと振り返ると、それはあの本庄さんであった。僕は思わず名前を呼んで挨拶しそうになった。
「となり、いいかな?」
スーツ姿でサッパリした雰囲気の本庄さんは、僕の右隣に来ると、そう声をかけた。もちろん僕は「いいですよ」と快く返答したので、彼はそのまま腰を下ろした。
「店長、まず生ビールと、海鮮サラダをお願い」
本庄さんが注文すると、お爺さんはいったん手を止め、ジョッキに生ビールを入れて、彼に差し出した。
「はいよ、生ビール。今日もお疲れさん」
本庄さんは礼を言ってから受け取ると、喉を鳴らしてビールを美味しそうに飲んだ。
「君は成人かい?」
「いえ、未成年です」
急に本庄さんに訊かれ、僕は正直にそう返した。本庄さんは「そっかぁ」と語尾を下げ、店内は包丁の音だけが聞こえるのみとなった。本当は、見ず知らずの若い僕と晩酌したかったのかもしれない。
「あの、すいません、市議会議員の本庄堯哉(たかや)さんですよね」
店内を静かにしたのが僕のせいに思えたので、とりあえず話題をつくる。というより、右隣の本庄さんには話したいことが色々あるのだ。本庄さんは目を丸くして、嬉しそうな顔をした。
「おお、ボクのこと知っているんだ。若い人が知っていてくれていると、何か嬉しいよ。
もしかして、市議会とかに興味あるのかい?」
「それなりに関心はありますが、僕はこのまちに住んでいる訳ではないので、ここの市政については、詳しく知りません……」
すると、本庄さんはかなり驚いた表情をした。加えて、目の前のお爺さんも吃驚して、「ほぇ」と漏らした。
「近隣住民でさえ、この店知らない人多いのに良く知ってるね。どこに住んでるのかな? 船橋それとも千葉かな?」
昔は住んでいたと言おうと思ったが、地元の話題になり、世界の違いのせいで話が食い違ったら怖いので、今、住んでいる所を答えよう。
「いえいえ、松江からです。大学が夏休みなので、来年のオリンピックの下見と言う事で、東京とか千葉に一人旅に来ているのです。で、ここの店は通りがかりの人に教えてもらいました」
そう嘘を混ぜながら言うと、更に二人は驚いて、「松江!」と声をあげた。
「でも、それならなぜ、ボクのことをフルネームで知っているのかい? よっぽどの政治マニアじゃないと、知らないと思うのだけれど……」
本庄さんは疑いの目線でそう尋ねてくる。あの様に言ったのは失敗だったかもしれない。
「歩いていた時に、ポスターを見たのです」
何とか言い訳を思いつき、僕はそれを口に出した。本庄さんは「あぁ、そうか」とつぶやき、納得した表情を見せた。何とか信じてもらえたようだ。
「はいよ、サラダ海鮮丼と、海鮮サラダ。おろしそうめんは、もうちょい待ってね」
お爺さんは、どんぶりに入ったサラダ海鮮丼と平皿に盛られた海鮮サラダをカウンタに置いた。僕は割り箸を割ると、「いただきます」と言って、早速どんぶりを食べ始めた。
「美味しい!」
思わず声が弾み出た。お腹が空いていたせいもあってか、いままでこの店に来たなかで、一番美味しく感じられた。お爺さんも手ぬぐいを正すと、幸せそうに「ありがとさん」と言って、そうめんをお湯から出すと、流水で冷やし始めた。
「本庄さん。ちょっと気になる事があるので、一つ質問しても良いですか?」
海鮮サラダを食べる本庄さんの横で、僕はあることを訊きたかったので声をかけた。
「もちろん、いいよ」
「ありがとうございます。――あの、ここの八千代市では、子ども養育支援ネットワークと言うものはありますか?」
「うーん、それ、聞いたことないなあ。それってどんな施策かな?」
本庄さんの奥さんに訊いた時も知らないと言われてしまったし、本庄さん自身も知らないのだから、この世界の八千代市にはそれがないのだろう。
「子ども養育支援ネットワークと言うのは、離婚したり別居したりした夫婦で、未成年の子どもがいる場合に、その養育や面会に関する協議を行政などが支援する政策です」
「なるほど。分かったけど、なぜ、君はボクにそれを訊いたのかな?」
――ふと、マナサナの顔が脳裏を横切る。もう、あんな思いをする子がこのまちで増えて欲しくないと痛切に思った。ならば、本庄さんに、高校時代の話を聞いてもらおう。
「少し長い話になりますがいいですか?」
「長話もボクは嫌いじゃないよ」
「はい、おろしそうめん出来たよ」
お爺さんが、僕の前におろしそうめんを置いたので、話す前に、そうめんを大根おろしのつゆに付けて一口啜らせて頂いた。ピリとさっぱり辛い感じがたまらなかった。
「で、話ですが、僕には小学生の時からの女子の友達がいて……」
「彼女じゃなくて?」
「あ、はい、中一から彼女です。それで、その彼女は小学校に入学した頃にはもう、離婚が原因で父親がいなかったのです。でも、彼女は強い子でしたので、一緒にいてそれをそんなに感じさせませんでしたし、僕に対しても強気でしたね」
「つまり、肉食系女子だった訳だ」
「そう言うわけではないと思うのですが……。で、高校二年生のある放課後、そんな彼女が僕に、こんな相談をして来たのです。『もう、あたしみたいな思いをする子ども達が出てほしくないんだけど、どうすればいいのかな』と」
僕はいったんそこで言葉を切ると、そうめんを啜った。自分も親の離婚を経験していたから、あの質問には凄く共感した覚えがある。
「で、君は、その相談についてどう返答したのかな?」
「僕は、彼女に、『今から出来る事としては、離婚した親の子どもの生活を守るための、子ども養育支援ネットワークを行政に提案することかな』と言った感じで、答えた気がします」
「その時には、君はそれを知っていたんだね」
「はい。将来は社会福祉協議会の職員になり、子ども達を支える様な仕事がしたいので、それなりに社会福祉政策については、当時から関心がありました」
――そう言えば、人に将来の夢を語るのはかなり久しぶりだな、と思った。
「話の続きですが、それを話したら彼女が、それを実現しよう、と言うのです。僕は驚きましたが、彼女は本気でしたし、僕もそのような子ども達の為に何か出来ないかと思っていたので、一緒にそれを実現しようと決めたのです」
「おお、面白い話になってきたね」
「そして僕らは、明石市などの前例を参考に、子ども養育支援ネットワーク設立の要望を手書きで綴りまとめ、数人のまちの議員さんの賛同を得て、請願書というかたちで議会に提出したのです。
その後、それは議会でかなりの議論となりましたが、賛同してくれた議員さんの熱弁もあって、請願は採択され、その翌年には行政の主導で実現することが出来ました」
――そうだ。あの時に熱弁して、議会を採択へと導いてくれたのが、本庄さんなのだ。
「君、すごいな。いや、凄いよ」
本庄さんは僕の肩を叩いて、興奮気味にそう言った。
「いえいえ、言い出したのは彼女ですし、議員さんや、行政の方々のお陰で実現出来たのです」
「謙遜するなって。君は、君にしか出来ない事をやり遂げたんだよ」
「僕にしか出来ないこと、ですか?」
「そうだ。君が社会福祉に詳しい事や、君の持つ行動力があったからこそ、彼女さんの願いを実現することが出来たし、まちはその様な子ども達を支える制度をつくることが出来たんだ。君がいなかったら、それは出来なかったと思うよ」
――僕にしか出来ないこと。それは流石に言いすぎだろう。時間が経てばいずれ誰かがするだろうし。でも、その誰かが大変な思いをしない為に僕がやるのだ。
「ありがとう。いい話を聞かせてもらったよ。そして、この八千代市でもそれを実現させたくなった。と言う事で、今日はこの辺で失礼するよ。ごちそうさま」
本庄さんは満足気にそう言うなり、会計を済ませて店を足早に出て行ってしまった。もう少し話がしたかったから残念だったけれど、僕らがしたことを実現させたいと言っていたので凄く嬉しかった。あの様子だと、今夜から早速、実現に向けての活動を始めるのではないだろうか。
僕も残ったサラダ海鮮丼とおろしそうめんを平らげると、お爺さんに食事代の七百八十円を手渡して、この店をあとにする事にした。もう少し長居していたい所だが、スマグラを見ると、もう時刻は二十一時を回っており、明日のためにもそろそろホテルに戻った方が良いと思ったからだ。
「ごちそうさまです。では……」
僕はお爺さんに頭を下げると、背を向け、引き戸に手を掛けた。と、その時だった。
「やはり、お客さんは前にもこの店、来たことあるね」
ばれたか、と言う様に僕はニヤリと笑う。多分、会計をする際、お爺さんに何も聞かないで代金を支払ってしまったのが原因だ。――そう、この店のお品書きには値段が書いていないのだ。でも、僕はある程度のメニューの値段を知っていたので、頼むときも金を支払うときも値段を聞くようなことはしなかった。
「まあ、またいらっしゃい。次はちゃんと顔を覚えているからよ」
お爺さんはそう言って僕を見送る。そんな事を言うお爺さんにもういちど顔を見せてあげたくなったが、僕は振り返ることなく引き戸を開けると店を発った。

一日の終わり

ホテルに戻り、歯磨きしたりして一息つくと、僕は二階の温泉に入りに行った。ナトリウム泉で筋肉痛に効果があるのだという。今日はかなり歩いたので、身体を休めるのにぴったりであった。
中は暑いので、外気が入ってくる半露天風呂に僕は浸かった。良いタイミングの時に入ったのか、他の宿泊客はあまりいなかった。僕は、心地よさにため息をつくと、八千代の空気を吸いながら、身体をゆっくり温めた。
今日は朝から本当に長かった。この世界に来てから、まだ一日も経っていないなんて、考えられないくらいに。たぶん、これまで人生で生きてきた中で、今日が一番濃いと言っても過言ではないだろう。なぜなら、これまで信じてきたものが根底から崩れるような思いをしたからだ。でも、それは決して悪いことばかりではなく、むしろ、自分を良い方向で考え直す機会になった。確信は持てないけれど、自分もそれなりに役に立っているかもしれない、と思えるように――。
ふわり、と目隠し格子から風が入り込んでくる。その涼しさが身体を更にリラックスさせた。露天風呂の素晴らしさは、外気の冷たさと、お湯の熱さにあるのだ。
――ああ、ここに来て良い事もあったが、果たして僕はどうすれば帰られるのだろうか。目星を付けていた松戸とマナサナはキーマンでなかったし……。
ふと、松戸とマナサナが言っていた事に共通点があるのに気付いた。松戸は、「もう一人の俺と比較するような事はするな!」と言っていたし、マナサナも、「あたしはあたし、その子はその子だもん」と、元の世界の自分とこの世界の自分は別者だと、二人とも主張していた。……この世界と元の世界は違うものとして考えると、ここには僕を求める人なんていないのではないか。
――まさか。
僕の頭に、答えが思い浮かんだ。「なんだ、そんな事か」と思える位にしっくりくるので、思わず僕は唇を上に曲げて微笑する。
僕をこの世界で求めている人。――――それは、この僕だ!
自分の存在がないから、自分がある世界に帰りたい。その意思が僕を求めているのだ。
間違いない。僕は、露天風呂から勢い良く立ち上がった。と同時に一気に体の外へ、疲れが抜けていった気がした。
僕は急いで身体を拭いて、浴衣に着替えると、自分の部屋へと急ぎ足で向かった。
部屋に戻る途中、来栖が「君ならば、帰りたいときに何時でも帰れると思うよ」と言っていた事を思い出す。少し頭を捻れば、別に七十五億人の中から探すような事をする必要はなかったのだ。来栖がキーマンを知らないのも嘘だろう。何かの研究で僕をこんな所に連れて来た訳だし。流石に僕の生死に関わる様なことはしない筈だ。
部屋に戻り、狭い個室の大半を占める白いベッドの上に飛び乗って、あぐらの体勢で座ると、ひとまず大きく安堵のため息を吐いた。やっとこれで帰れるんだ……。
そして、そのまま僕は背中に重心を傾け、脚を伸ばすと仰向けに寝そべった。ベッド横のLED球から漏れた光がぼんやりと白い天井に映っている。
さあ、自分を抱き締めよう。小学五年生の時に読んだ児童書の主人公の様に。あれだって、黒猫によって主人公の少年は異世界に連れ出されてしまうが、結果としてその世界から帰る方法は、「自分を捕まえる」ことであった。そしてこれも同じ。この手の話に良くある展開と言うものだ。
僕は、息を整えながら心を落ち着かせ、両目をぴたりと閉じると、腕を組むように自分のことを強く抱きしめた。一瞬眩暈がして、フラッシュを焚いた様に目元が明るくなったが、そのあと視界はだんだんと暗くなっていった。
そして、ついに暗闇と静寂が支配した空間の中で、僕は念じるように呟き始める。
――僕を求めているのは、僕。結局、自分はあの世界では誰にも求められていない事になるけど、それはよくよく考えたら当たり前。だって、僕はあそこに存在しておらず、他人は僕を求めようがないのだから。
こんな事を考えてしまう僕が面白く感じた。今、ここにいる自分を大切にしているようで。僕のいない世界が嫌だなんて、あまりに自分勝手じゃないか!
でも、あの世界は僕に、長年の課題のヒントを教えてくれた。
――――それは、自分の存在理由。
僕は、松戸と親友になり、紗奈と彼女になり、共に充実した日々を過ごすために生まれてきた存在。
だからこそ、僕は戻らなくちゃいけない。これからも、松戸と紗奈を大切にして行くために。それには自分も大切にしなきゃいけないみたいだけど。
一刹那、母さんと父の姿が脳裏を過ぎった。
それともう一つ。僕は、悪魔でいなくちゃいけない。それも僕の存在理由なのだろう。
つまり自分は、親友であり、彼氏であり、悪魔でもある。しかしこれまでは、僕はこの三つの中の悪魔の所ばかり見過ぎていた。だから僕は自分自身を過剰に傷つけて来たのだ。今後は親友の自分と彼氏の自分も大切にしていこう。大好きな彼らが望むように。だからといって、僕が悪魔じゃなくなる日は来ない。
「悪魔でいいのか?」
ふいと、誰かが僕の耳元でささやいた気がした。悪魔でいいのか、と言われても、過去に起きてしまったのだから、今更どうしようもない。それは自分の過ちとして背負っていかなくちゃならないのだ。
さあ、目を開ければ、元の世界が僕を待っている。そう心の中で言い聞かせながら、目をゆっくりと開ける。
――視界に入ってきたのは……ぼんやりと照らされた白い天井。背中からはやわらかいベッドの感触が。ここは今日、僕が泊まりに来たホテルの一室だ。
僕は身を起こし、首をひねって、身の回りに何か変わりがないか確認した。スーツケースに、ショルダバッグ。どれもなくなったり、位置が変わっていたりする変異は見受けられなかった。まさか、キーマンは僕じゃないのか?
いや、これは戻って来たのかもしれない。僕が変化に気付かないだけで。勿論、この場で明らかにする事はできるが、それを確かめるほどの勇気はないし、今は帰って来られたと信じていたかった。それに、明日、実家に行けば分かるのだから……。
今は探りたくない事について、そう自分に言い訳すると、僕は消灯して、布団の中に潜った。しかし脳内では興奮が収まらず、早く明日になって欲しいという思いと、今日が終わらないで欲しいという思いが交錯を繰り返していたので、僕はそれを抑圧してはじめて寝に入ることが出来たのであった。

翌朝

このホテルの朝食はパンがメインの洋食バイキングだ。僕は、丸いプレートに適当に、小さなクロワッサンにメロンパン、バゲットを幾つかのせて、ウインナーとシーザーサラダを盛り付けると、駅が見える窓側の長テーブルで急ぐことなく、少し硬いバゲットを口にして、のんびり顎を動かした。
今日は土曜日。目の前は駅の北口だが、通勤するサラリーマン達の姿はあまり見受けられない。セミの鳴き声はするものの静かな朝だ。しかし、今の僕にとってはそれが気持ち悪く感じられた。
――と言うのも、結局、僕は元の世界に戻れていない気がするからだ。昨日の夜から今朝までに、スマグラにチャットやメールの一通も送られて来ないし、ホテルのスタッフには何も言われなかった。もし、戻って来ているのなら、親から「何しているんだ」と一通くらいメールが来るだろうし、こちらの世界ではタダで宿泊していることになるのだから、何か面倒な事が起こるはずなのだが……。
それでも、今はなるべく自分が元の世界に帰って来られたと信じていたかった。帰れなかったなんて方向で考えると、また頭を使わなくちゃいけないからだ。考えるということ、それはかなり体力を使う。体力の方は昨日一晩寝ておおむね回復したし、筋肉痛も気になるほど発してない。しかし、頭はと言うと、考えることが多かったせいか、少しじんと痛んだ。
朝食を取り終えると、僕は部屋に戻って身支度し、一時間ほど休んだ。そして九時半に部屋を出て、何事も無くチェックアウトを済ませると、ホテルを後にした。
行くとするか。もう一度実家に。なければ振り出しに戻り、あれば実家に帰り昨日はどうしたと色々言われるだろう。確率は二分の一と言いたいが、現状から判断すると帰れる可能性の方がずっと小さい。と言うより、帰れたら奇跡だろう。
僕はショルダバッグを右肩にかけ、スーツケースを左手で引っ張りながら並木道を南下し始めた。早くも暑さと緊張が混じった汗が身体を這うように伝う。
歩いて十分、例のファミリレストランの外見をした薬局が左に見えてきた。僕は思わず固唾を呑む。加えて胸騒ぎが僕の神経をすり減らした。
そしてついに僕は薬局の建物を越えて、駐車場に差し掛かった。その奥には僕の実……。
――ない。見えるのは、似た家々の背中。
腹が立つほど昨日と全く変わりがなかった。
「何でないんだよ!」
自分でも驚くくらいに怒りの気持ちが爆発して、僕は心ともなく怒鳴り散らした。しかし、誰に対して向けられた訳でもないこの怒りの叫びは、直ぐクマゼミ達の嗤い声の中へと消えていった。
僕は意気消沈して、その場にがっくりひざまずいた。昨夜から間違いなんじゃないかとうっすら勘付いてはいたが、いざこうやって帰って来られなかったと言う現実に直面すると、その心的ダメージは胸が裂けるほどのものだ。
――僕をこの世界で求めているのは、この僕じゃないのか?
屈んだ体勢でもう一度、僕は目をつぶって自分を力いっぱい抱き締めた。
だが、何時まで経っても身体には感覚の異変は感じられないし、目を開けても今では見慣れた景色が広がっているだけ。これも結局は手が疲れるだけの無駄な行為に終わった。
――期せずして、僕の心の隙間に何かが入り込もうとしている。
もう僕の当ては外れたのだから、この先の人生を諦めて、めちゃくちゃにしちゃえ。
自暴自棄。この四文字が弱る僕の心に巣くい、駄目にしようと誘いかけて来た。
だが、悪行をするほど僕の精神は落ちぶれていない。それにせっかく、自分の存在理由を見出せたのに、やけくそなんかしたくない。
でももう僕は帰れない。そして、ここにいても僕の存在なんて意味のないものじゃない。もともと存在しないんだしさ。まぁ、帰っても、僕は親とかからは煙たがられる悪魔だろ。だからさ、もう考えるのとかやめて、ここで諦めちゃいなよ。そうした方が、迷惑かけないで済むしさ。
一理ある。でも、親との過去ばっかりを気にして、前に進もうとしないのはどうかと思う。僕はネガティブなベクトルばかりに考えるそう言う自分が嫌いだ。それに……。
まだ帰れないと決まった訳じゃない! 思わず心の中で僕は自分を一喝した。
金だってまだ一万五千円ほどあるし、もしもの時は来栖の家に乗り込むまで。ここで諦めるのはまだ早すぎるし、キーマンの候補が全部外れた訳じゃない。
僕は一度、大きく深呼吸をして夏の暑い空気を吸い込んだ。心が熱くなり、怒りや虚無感といった負の感情を燃やし尽くして、心を落ち着かせた。それと同時に自暴自棄の衝動も萎れてどこかへ姿を消したのであった。
さっきまで重かった腰も、今は大分軽くなった。僕はゆっくりと立ち上がると、スーツケースを左手に引っ張り、いったん駅南のショッピングモールへ行くことにした。今日もかなり日が照っていて暑い。そこのフードコートでこれからどうするかを考えよう。

来栖との会話

四階のフードコートのハンバーガ屋でシェイクを買って、端っこの席を陣取ると、先ず僕はスマグラで来栖にビデオ通話を掛けた。
「やあやあ、北杜君。こんな朝から何かな?」
またも、だいぶ発信音を聞かされてから、クリーム色のチノパンに黒のポロシャツの格好をした来栖はビデオ通話に陽気に応じた。今日は研究室ではなく自分の家なのか、来栖は白いソファに腰掛けている。その背景には真っ白な壁と、どこかの西洋の街が描かれた絵画が飾られていた。なかなかお洒落な感性の持ち主に見える。
「近況報告と言ったところです。それと、いくつか質問したいので」
「ああ、いいよ。頼む」
そう言われ、僕は昨日の出来事をおおまかに話した。
「あ、……そうか。この世界で北杜君を求めている人は北杜君自身だと思った訳だ」
「はい。しかしながら、元の世界には戻れませんでした。
で、最初の質問ですが、貴方、実はキーマンが誰か知っていますよね?」
「いや、知らないよ。本当に」
来栖は僕に目を向けたままそう言う。本当に知らないなんて有り得ない。
「じゃあ、七十五億人の中で僕と全く面識がない人がキーマンなのですか?」
「いやいや、それはない。昨日の昼に私、言っただろう。『それは君が一番知っていることでしょう』と」
「じゃあ、知っているじゃないですか」
僕がそう口を尖らせると、来栖は呆れたようにため息を吐いた。
「君は私に昨日と同じことを言わせるのかね?
もう一度言っておくが、数式で相手の名前は求められない」
この時点で来栖の話はねじれている。よって、彼は嘘をついているのだろう。やはり、彼はキーマンが誰かを知っている。あとは問いただして、その人か誰かを聞くのみ。
危うく、さっきの場所で自暴自棄になる所だったと思うと、ポジティブな考えが出来て良かった。
「では、話を戻すようですが、じゃあ何で面識がない人はキーマンじゃないと言い切れるのですか?」
それを聞いた来栖は手を叩いて爆笑し始めた。本当に腹の立つ研究者だ。のけぞって、そのままソファごとひっくり返ってしまえばいいのに。
「君、真性の天然かい? え、いま話した文脈で分からないのかい?」
「何がですか」
僕はムッとした表情でそう返す。来栖はしらばっくれるつもりか。
「つまり私が何を言いたいのかってこと。昨日からそれなりのヒントはあげているのに、君は世界中の人々の誰かがキーマンかも、って言っちゃうくらいだから、理解してないのは明らかだけどね。
君にはこう言う考えは出来ないのかい? 面識がない人はその対象から省かれる。すなわち、この方程式で出てきた数値は、自分と相関しているコミュニティの中の誰かである。しかし、その数値が誰を示しているかについて、来栖は自分の交友関係を知らないので分からない」
「……」
じゃあ、そう最初から言えばいいのに、と心の中で愚痴った。でも、それを聞いて僕はかなり安心したのか、ついつい大きなため息を漏らしてしまった。
「漸く理解してくれたようだね。まあ、君は最初からこうやって説明してくれることを望んでいただろうが、私も研究で君を連れてきたのでね。そう簡単に帰られちゃ困る訳だ」
「ならば、僕じゃない違う人を誘えばよかったじゃないですか」
僕はシェイクを飲む手を止めてそう言った。そもそもなぜ、来栖は僕を選んで、この世界に連れて来たのだろうか。
「他人じゃ駄目なんだ。君が私の研究の被験者としては、最も適正であるから!」
来栖は人差し指を僕に向けて誇らしげに声を張った。僕は「はあ」と中途半端な返事を返す。そんな事もあるんだ、と。
「と言う事で、これからも近況報告を頼むぞ! で……」
「ちょっと、待ってください!」
来栖がソファから立ち上がり通話を切ろうとしていたので、慌てて僕はそれを止めた。
「何かい? 研究者は忙しいから質問があるなら簡潔明快に頼む」
「もう一つ質問があるのですが、今って僕の家族ってどこに住んでいますかね?」
「知っているけど、そのくらい自分で見つけた方が面白いぞ! では、失礼」
カメラの目の前で来栖はそう言うと、そのまま通話を切ってしまった。知っているのなら教えてくれればいいのに。不親切な人だなと思った。
それから僕はシェイクを飲みながら、この世界では今どこに親が住んでいるのかを考えた。が、まるで思い浮かばない。
僕はもう一度、来栖に通話して見ようと、右手で電話のマークを描いた。スマグラが反応して電話番号入力画面を映してくれたが、やっぱりやめた。来栖の事だから、きっと教えてくれないだろうし、ひょんなことで関係が悪くなっても困るからだ。

祖父母の家に向かう

それにまだ宛てはある。――埼玉のふじみ野に住む祖父母の家だ。
遠回りとはなるが、今はこの方法が確実であろう。僕の事情を説明してくれれば、きっと祖父母なら親の住所を教えてくれると思う。
そうと決まれば出発だ。残りのシェイクを啜ると、僕はスマグラで八千代緑が丘駅からふじみ野駅までの乗り換え案内を調べた。十一時十分の電車があり、千百円ほどで目的地まで行ける。出発まであと十分ほどしかないので急がなければ。
僕はスーツケースを引っ張り、早足で駅に向かうと和光市までの切符を買って改札をくぐった。
それから間も無く、中野行きの快速列車がホームに滑り込んできた。東西線直通なのでこの列車で飯田橋まで乗ることになる。便利なものだ。
僕が乗った車両には、それなりに人が乗っていた。僕は邪魔にならないように、ドアの横に立つことにした。夏休みだからか、小学生くらいの子ども達が多く見える。皆楽しそうに喋っている。次に多く乗っていたのが、高齢者。子どもと違って喋り声を上げるようなことはしないから気付きにくいが、子どもの次にかなりの割合で乗っていた。身近に高齢社会を感じる瞬間だった。それでも松江と比べるとここはまだ若いまちだ。向こうなんて、列車に乗れば大半は高齢者なのだから。

祖父母は元気にしているだろうか。ふと、ロングシートの真ん中辺りで仲睦まじく話をしている老夫婦を見てそう思った。
父方の祖父母は、確か僕が四歳から七歳までの間、ふじみ野の家で僕を育ててくれた。僕は幼稚園の時は近くの大学付属幼稚園に通い、小学校は二年生の夏まで家から歩いて五分のカメクボショーに通った。幼稚園は大学付属だったのでいわゆる「お受験」をして入園したのだが、よく僕なんかが受験に通ったとつくづく思う。
僕の世界の祖父母は今でも元気だ。どちらも七十代だが、祖父は毎日二時間の散歩は欠かせないと言ってパワフルだし、祖母も自宅の庭で家庭菜園をして充実したセカンドライフを送っているという。多分、この世界の祖父母もそれは同じだろう。
祖父母のもとを離れたのは、小学二年の夏だった。父親が八千代市に新しく邸宅を建て、父親と新妻の幸代さんと住み始めたので、自然の流れで僕も引越しすることになったのだ。当初、僕はガキだったので、新天地に行くという引越しを喜んだが、実際に八千代に引っ越して生活を始めると、正直、祖父母のところに帰りたいと思う事が何度もあった。
特に、義妹の幸音が生まれてからは、疎外感を感じることがなお一層強くなった。自分だけ家族の枠の外からはみ出しているようで、全く親を信用できなかった。そのせいか、無意識のうちに色々と義母や父親に嘘をついたり迷惑をかけたり……悪魔だった。
そんななかで、紗奈や松戸の出会いは運命的であった。紗奈も松戸もハッキリとものを言う人なので、僕は彼らにかなり救われた。今の僕をつくったのは彼らと言っても過言ではないだろう。もし、彼らと出会わなければ、今頃いったい僕はどのくらい、ろくでもない人間になっていたのだろうか。それを考えると身が震えた。
同じ列車に乗っているが、何時の間にか管轄は東葉高速鉄道から東京メトロに変わっていた。荒川を越えて少しすると、列車はいよいよ地下鉄らしく地下に潜った。
それから十五分ほど後、僕は乗り換えのために飯田橋駅で下車し、今度は有楽町線のホームへと向かった。
次の列車まではあと五分あった。ふと、妙な涼しさを感じて地下は快適だなと感じる。地上に出れば、今日もかなり暑いだろうけど、地下にいるとそれは感じない。空調がフル稼働しているからだろうが、それらの廃熱はさらに地球を暖めている。それを分かっていながらも僕らは快適さを求めるために依存していると言うジレンマ。
その時、何故か分からないが父親のあの言葉が脳裏を過ぎった。
「お前に投資した俺は馬鹿だった!」
しかし父親は結局、僕にかなりお金をかけてくれた。だからこそ、こうやって今、国立大に通う学生になれた訳だし、それには感謝している。でも、父はなぜ僕を嫌いながらも、ここまで育ててくれたのだろう。――それはさっきのジレンマのようなものなのか?
僕はまだ親という立場を経験したことがないので良く分からなかった。
それから直ぐ、丸っこい頭をした有楽町線の車両がホームに到着する。これからこれに乗って終点の和光市駅まで乗っていくのだ。
意外と車内は空いていた。僕はロングシートの端を見つけるとそこに深く腰を下ろした。列車はゆっくりと加速を始め、車輪のきしむ音を響かせながら北西へと進んで行く。
静かに揺れる車内で、僕は到着するまで目を閉じて休むことにした。心地よい振動が腰伝いに僕の心身を落ち着かせてくれるので、次第に本当に眠くなってきた……。
まぶたに光を感じて目が覚める。どうやら、うたた寝をしていたようだ。顔を上げると車窓からは、太陽に照り付けられてゆらめく住宅街が見えた。そして次に車内の電光掲示板へと視点を移動した。「まもなく和光市」と表示されている。良いタイミングで起きられたようだ。

駅に到着すると、流石は埼玉。とても暑かった。僕はスーツケースを引き、改札に出ようとしたが、和光市駅は東武鉄道と東京メトロの共同使用駅であることに気付いたので、改札は出ずにそのまま東武東上線のホームに向かった。

すぐに列車は来た。森林公園行きの急行だ。森林公園と言うと、ふじみ野にいた頃、祖父母が年に二、三回くらい連れて行ってくれた。アスレチックやサイクリングコース、散歩道にお花畑があり、ピクニックするには持ってこいの場所であろう。

列車に揺られて約十分。あっと言う間にふじみ野駅に到着した。言うまでもなく、ここも暑い。外で長居するのは禁物だろう。僕は改札前の清算機で和光市からここまでの不足分の電車賃を支払ってから改札を出た。ちょうど十三時だった。ふじみ野に来るのは、前に祖父母を訪ねた今年の三月以来ぶりである。

駅西口から出て、ロータリのあるケヤキの並木通りを僕は西進した。駅から祖父母の家はちょうど一キロくらいの距離がある。自転車に行く分には楽だが、スーツケースを引っ張って行くにはかなり距離がある。おまけに物凄く暑い。八千代とは比べ物にならないほどに。まるでサウナにいる様な暑さだ!

通りには僕以外に歩いている人は見当たらなかった。皆、家で引きこもって涼んでいるのだろう。僕も早く涼みたい。が、祖父母はともかく、この世界の北杜家は僕を受け入れてくれるのだろうか。その場合は来栖に助けを求めるしかないだろう。

アパートやマンションが建ち並ぶ並木通りを七分ほど進むと、左にコーヒチェーン店、斜め右に結構高いマンションが見える交差点に突き当たる。右に曲ると、今度はドラッグストアやパン屋のある通りを北進した。それから少し歩くと、このまちにも八千代と同じ企業のショッピングモールが左に見えてきた。

祖父母の家はかなり買い物をするには便利な位置に家がある。もちろん、ショッピングモールの目の前に家が建っているわけではないが、ほんの歩いて一分の所にあるのだ。

市道を挟んでショッピングモール入り口の向かい側には小さな畑があり、右に曲る道が見えた。ここを曲がってちょっと歩けば祖父母の家で、中学校の目の前に建っている。

雪乃との出会い

黒色の寄棟屋根でクリーム色の外壁をしたコンパクトな二階建て。二台入る駐車場右横には新聞配達がし易いように通りに面して新聞受けがあり、インターホンと「北杜」の表札もある。間違いない。全国に数少ない北杜一族の家だ。

思わず、涙が出そうになるほど目元が熱くなった。僕は突っ立って、ここに来られた感動に浸っていた。が、すぐに元の世界との決定的な違いを見つけてしまった。

駐車場左の庭が、お世辞にも見栄えがよろしくないのだ。確かにトマトやナス、スイカなどが栽培されており、幾つもの実がなっているものの、完全に放置されているように見える。一言でこの状態を述べるならば、ワイルドだ。
しかし、祖母はこんな放置状態にするはずがない。庭造りから、どこに種をまくかまで本格的に行っているし、雑草抜きや剪定も行っているので、綺麗な庭なのだ。去年の夏に訪れた時も暑かったが、祖母は朝早くに起きて雑草抜きから収穫までしていた。
それとも、この世界の祖母は家庭菜園なんかに興味がないのだろうか。
とにかく、インターホンを押さないことには始まらない。来るタイミングが悪かったのか、車が一台も停まっていないので、不在かもしれないが……。
僕はインターホンの前に立って、Gパンを正し、チェックのシャツの襟を整えると、一度、深呼吸をした。だが、吸い込んだ空気のあまりの暑さに余計に緊張してしまった。
暑さに耐えられないので、とりあえず押そう。そう自分に言い聞かせ、僕は指先に力を入れた。反射的にピンポンと電子音が小さく鳴る。
沈黙。
やはり今は不在だろうか。
「はーい、どちらさまでしょうか?」
インターホン越しに聞こえる若い女性のやさしめな声。応じた人が祖父母じゃないのに一瞬戸惑ってしまったが、今は何でも良いから返事をしないと。
「こんにちは、北杜雪弐ですが……」
何を言うか考えていなかった。否、暑くてそんなこと考えられなかった。ここは、自分の名前を言えば、どうしたと言って出てくるんじゃないかと思った。
「あの。ウチは結構ですので」
ちゃんと聞き取れていなかったのか、セールスマンと間違えられてしまった。
「すいません、ちょっと……」
しかしもう返事はない。かなりショックだ。と言うより、話していた女性は誰なのだろう。祖母ではないのは確かだ。
――彼女か。僕は納得した。いま出た彼女こそ、例の母子手帳に書いてあった「雪乃」という人なのだろう。夏休みで祖父母の家に訪ねて来ているのかもしれない。
僕は、もう一度インターホンを押した。ここで退いたら、それこそ自暴自棄だ。
しかし、彼女は居留守をつかったらしく、出てこない。気持ちは分かるが、僕にとってはかなり困った。
仕方がない、こうなったらあれだ。僕は家の敷地に入り、ワイルドな庭に入ると、屈んで草むしりを始めることにした。いつまで体が持つか分からないが、相手が突っ込みを入れる状況を作り出さないと今は先が見えないからだ。
僕はショルダバッグに入ったスポーツ飲料を飲みながら草むしりに励んだ。太陽が南中する時間と言うこともあって、汗がだらだらと流れかなり辛い。でも、とにかく今は家の中に居る彼女に気付いてもらわなければ……。
と、背後から家のサッシが開く音がした。
「あのさ、勝手にわたしの家で何をしているのかなぁ?」
インターホンに応じた時とは違う、低い警戒したような声が後ろから聞こえた。加えて、とてつもなく背後に殺気を感じる。なんだ、この殺気は。僕は恐る恐る後ろを振り返った。
長くさらりとした黒髪に、ベージュのチュニックと白のクロップドパンツの格好をしたすらりとした体型の同年代の女は、竹刀を構えて僕を警戒している。僕と似て皮膚は白く、また、なかなかの顔立ちをしている。……て、彼女の姿を眺めている場合じゃない!
「この通り、草むしりをしていました」
それを聞いた彼女は、呆れた顔をしてため息を吐いたが、竹刀を構える手を下ろすことはしなかった。
「今、大人しくここを離れたら警察呼ばないであげる。でも、人の家の庭に入って育てたもの盗るなんて悪い子ね」
またも勘違いされてしまった。僕は何も盗ってないと両手を彼女に見せると、立ち上がって、一歩前に出た。と、更に彼女の竹刀を握る手が緊張した。
「直ぐには帰れない。で、追い出す前に僕の顔を良く見て欲しいのだけれど……」
彼女には今一度、僕の顔をちゃんと見て欲しいと思った。単に、どんな反応を示すか気になったと言う理由もあるが。
「あれ、そう言えば、どこかで見たことある様な顔……。て、何のつもり?」
彼女は僕にそう言われまじまじと見たが、直ぐに体勢を戻した。
「北杜雪乃さん、だよね?」
「えっ、どうして知っているの?」
やはり彼女が雪乃だ。どうして知っているの、と言う質問に僕は正直に答えるべきなのだろうか。
「僕、北杜夏樹と寧子(ねいこ)の子供だから」
雪乃は、一瞬驚いたような顔をしたが、直ぐに表情を戻した。
「そう、でもそんな嘘つかれてもね。わたしの家、三人家族だから。それにお母さんの名前は寧に子と書いて『やすこ』と読むし、残念」
そっか、あれで「やすこ」と読むのか。不味い間違いをしてしまった。
――でも、それ以上に衝撃的だったのは、中学三年の夏に父が言い放った「娘だけで良かったんだ」は正しかったということ。この世界では二人の間には雪乃しか生まれていないのだから。加えて離婚していない事も分かり、改めて自分が親を別れさせたのだと身に染みた。
「確かにここじゃ嘘になる。でも、君の知らないもう一つの世界では、僕は夏樹と寧子の息子なんだ。だから君と少し話が出来れば嬉しいんだけど……」
そう言うと、雪乃は初めて顔を緩ませ、「何だそれ」と言う様に馬鹿にして笑った。
「どうしたの、大丈夫? でも、そんな見え透いたほらを吹かれても、信じてあげないよ。それに暑いから、いい加減に出て行って」
このままだと、強硬手段をとらざるを得なくなる。口が使えるうちに、雪乃を説得しなければ。――そうだ、賭けとなるが、まだ説得法はある。
「そう言えばさ、どうしてこんなにこの家の庭は手入れされていないのかい? おばあちゃん、家庭菜園好きだよね。何かあったのかい?」
「――ふうん、おばあちゃんの趣味、よく知ってるね。でも、ここはおばあちゃんの家じゃないし、わたしの家族は家庭菜園に興味ないから」
「おじいちゃん、おばあちゃんの家じゃないの?」
つまり、この家こそが、僕が目指していた場所ということだ。なぜ、ここに暮らしているんだ。
「違うよ。さっきから言う様にここはわたしの家。でもね、今のでちょっと信じちゃったかも。きみの言っていたこと。
そうだ。ひとつ、わたしの問いに答えられたら、話しに取り合ってもいいよ」
「ありがとう、で、何かな?」
僕がそう言うと、雪乃は構えていた竹刀を下げて左手に仕舞った。少しは警戒を解いてくれたようだ。
「わたしの父が夜に何着て寝ているかあててみて」
「浴衣。しかも、旅館にある様なものじゃなくて、普通の浴衣」
僕は、特に考えることなく父の寝る時の格好をそのまま言う。物心ついた時には、彼は寝る時にいつも浴衣を羽織っていた。
それから少し間が空いたあと、雪乃は唇を上に曲げて微笑んだ。
「答えは聞いたよ。今から玄関の鍵開けるから、向こうで待っててね」
雪乃がそう言ったので、僕は庭から駐車場に出て、スーツケースを左手に持つと、玄関先へと向かった。
「はい、上がっていいよ」
僕より少し背が低めの雪乃は玄関を開けて僕を出迎える。もう竹刀は握っていなかった。

家に上がる

「ありがとう。で、さっきの答えで良かったのかい」
「うん。びっくりするほどにパーフェクトな回答だからね」
世界が違っても、父親は浴衣を着ながら寝ているということが分かった。僕は、スーツケースは玄関に置いたままで、靴を脱ぐと雪乃の家に上がった。外と違い、屋内は涼しいので思わずため息が出てしまった。
「さっきはきみを泥棒扱いしてごめんね。手、汚れているだろうから、そこで洗って。あと、ちょっと汗っぽいから顔とか洗っていいよ」
「ごめん、見ず知らずの男なのに……」
僕は上がって直ぐ目の前の洗面所に行くと、手と顔を洗った。冷たい水を浴びて、生き返るような気分を味わった。
「あ、タオル……」
「はい、どうぞ」
雪乃が僕にタオルを差し出す。どうやら後ろで見張っていたようだ。あまり良い気分じゃないが仕方ない。タオルを顔に当てると柑橘系のいい香りがした。
「よくよく考えたらきみの名前をまだ聞いていないのだけど、何て言うの?」
リビングダイニングに入る手前の廊下で雪乃はそう聞いてきた。
「僕は、北杜雪弐。書くときは君と同じ雪に、二の旧字体。よろしく」
「よろしくね。もしかすると、あだ名で『オンナオトコ』って昔、呼ばれなかった?」
雪乃は引き戸を開けると僕に挨拶を返した。まさか彼女にまでそう言われるとは。
「うん、確かに小学二年の頃にそう呼ばれたりしたよ」
リビングダイニングに入って、部屋の中を見回しながらそう言った。入って右にカウンタ式キッチン、目の前には四つの椅子に囲まれた長方形のダイニングテーブルがある。そして左は庭に面しており、玄関の横までリビングが広がっている。つまりこの部屋の形はL字型をしているのだ。リビングには奥から五十インチくらいありそうな液晶テレビにローテーブル、三人がけのソファがあった。部屋を見た感じでは、祖父母の家の面影はほとんどなかった。加えて、言うまでもないが、元の世界の実家の面影も全くない。
「さて、じゃあとりあえずそこらへんに座っていいよ。適当に飲み物だすから」
雪乃はダイニングテーブルを指差しそう言ったので、僕は手前左の席に腰を下ろした。
「あら、面白いところに座るんだね」
アイスティをガラスのコップに二杯淹れて持ってきた雪乃がそう言った。
「ここじゃ、駄目だったかな?」
「ううん、そこ、わたしの席なんだよね」
ここの家庭でも席は決まっているのか。とすると、僕が座っている目の前は父親の席か。そんな事を考えていると、雪乃は僕の斜め右前に座った。やはりそうなのか。
「もしかして、今そこに座らなかったのは、父の席だから?」
「へぇー、良く知ってるのね。それもあるけど、初対面の人に真正面から話すのはちょっと抵抗あるから、斜めに座っているの。こっちの方がコミュニケーションとり易いもの」
僕は、アイスティを飲みながら、雪乃が驚く様子を窺った。
「で、君は僕がさっき言っていた、違う世界では夏樹と寧子の息子だって話は信じているのかな?」
「うーん。信じてもいいけど、まだ決め手に欠けるのよね。でも、さっきからわたしは驚かされっぱなしだよ。それに、さっき、きみが顔洗ってた時に、わたしの顔と見比べてみたんだけど、何か似てる気がするし……」
確かに決め手には欠ける。母子手帳があればそれを見せて色々説明できるのだが、残念ながら今はない。話しながら信じてもらうしかないだろう。
「まあ、僕は確実に信じてくれるような証拠物品みたいなものは持ってないんだけどね。
でも、喋っていくうちに信じてくれる事を望むよ」
雪乃はアイスティのコップを持ったまま小さく頷いて、「じゃあ」と切り出した。
「違う世界から来たと言うけど、それならどうやってここまで来られたの?」
「実際には僕も良く分からない。今のところ言えるのは、夢の中でとある男がこの世界に来ないかと誘ったので、その話に乗ったらここに来てしまったくらいの事だけだよ」
「変な話だね。でも、きみのいる世界ではここはおじいちゃんとおばあちゃんの家なんだよね?」
雪乃がそう訊いてくるので「ああ」と僕は頷き返した。
「じゃあ、きみのいる世界では家はどこにあるの? ここに来たのは、そこに家がなかったか違う人が住んでいたからだよね」
彼女の言うとおり、僕の実家はあそこになかった。
「千葉の八千代市。で、跡形もなく家はなくなっていた」
「そのまちがどこにあるか知らないけど、埼玉には住んでないんだね。ちなみに、おじいちゃん達は、秩父の方に住んでいるよ。そっちの方が、おばあちゃんは家庭菜園をより楽しめるし……」
「おじいちゃんは毎日二時間の散歩がより捗るわけだ」
「その通り、だね」
雪乃は、ちょっと驚いた素振りを見せる。
「じゃあ、何できみのとこではここにおじいちゃん、おばあちゃんが住んでいるのかな?」
「分からない。少なくとも、僕が四歳の頃にはここに住んでいたよ」
僕だって何故ここに雪乃の家族が住んでいるのか知りたい。
「四歳……そう言えば、きみは年いくつ? 見た感じ高校三年ぐらいに見えるけど」
高校生ぽく見えても仕方ないだろう。Gパンにチェックの半そでのシャツと言う格好じゃ、ファッションを気にする年頃の大学生には到底見えない。
「二〇〇〇年十二月生まれの十八歳。つまり大学生」
「わたしも二〇〇〇年二月生まれだから、わたしの方が一つ上なんだね。大学はどこ行ってるの?」
「国立松江大の法文学部。そっちは?」
「へえ、国立大かぁ。意外といいとこ行ってるんだ。わたしは、新宿医大の看護学科。
でもさぁ、きみの世界は大変だよね。お母さん、同じ年に二人も産んで育ててるのだから。きみのとこのわたしは、どこの大学通ってるの?」
雪乃の質問に僕は戸惑った。正直に話すべきだろうか。迷う僕に、雪乃は少し身を乗り出して、僕の顔をのぞいて来た。
「どうかしたの?」
「いや、実は……」
言葉に詰まる。これを聞いた彼女は何て反応をするのだろうか。
「僕の姉はとうの昔に亡くなっている。――一九九九年十二月に妊娠三十二週で」
僕は俯いてそう言い切った。顔を少し上げると、雪乃は表情を変えず、僕の事をしげしげと見つめている。
「そっかぁ。まあ、よくよく考えたら姉とかいなさそうだよね。だって、もしきみの所にもわたしがいたら、君、なんて呼ばずに、姉さんとかお姉ちゃんとわたしを呼ぶものね」
それはどうだろう。少なくとも義妹を呼ぶときは名前で呼んでいるが、そもそも呼ぶ機会なんてほとんどない。
「でも、妹とかいるよね?」
すこし首を傾げて雪乃は聞いてきた。何故分かった?
「いるけど……」
「ふうん、やっぱりそうなんだ」
雪乃はちょっと口惜しそうに言った。たぶん、彼女は兄弟姉妹が欲しかったのだろう。
「羨ましそうに言うけど、僕は君の方が羨ましいな。今日は父さんと母さんはどこにいるのかい?」
それを聞いた雪乃は少しムッとした表情を見せた。
「兄弟姉妹いるから分からないのだろうけど、いない人からすると憧れるの。
あと、お父さんとお母さんは東京の方に二人で仲良く買い物に行ってるよ。だから、わたしはこの年になっても、お留守番」
雪乃はそう言って笑う。聞くところ、だいぶ仲の良い夫婦だと分かり、僕はこっちの家族の方がいいなあと羨んだ。まあ、だからと言って、この世界に僕がいたとしたら、離婚してしまう方へ世界が動いてしまうだろう。僕は悪魔なのだから……。
「どうして変な顔してるの? あと、やっぱり聞きたいのだけど、何でわたしのお父さんとお母さんの子だときみは言うのに、お母さんの名前を間違えたの?」
やはり、僕のあの間違いを気にしているらしい。今、隠していても、いずれ言うことになるだろうし、離婚のことを話すとするか。
「ごめん、母さんの名前は漢字しか分からなかった。母子手帳で知ったんだ。
と言うのも、僕の父さんと母さん、僕が四歳の時に離婚したから……」
雪乃はほとんど空になったコップを両手で優しく握りながら、その話を僕の目を見て聞いてくれた。話を終えても特段驚くような表情を見せたりはしなかった。
「そっか、それなら納得だよ」
急に顔を緩めて、柔らかい声で雪乃はそう言った。それは僕に対する警戒をほどいたようにも見えた。
「ごめんね、きみの事を疑って。今の話を聞いて、きみがわたしのいない世界からやって来た、お父さんとお母さんの息子であるってことを信じるよ」
「ありがとう、助かるよ」
急に態度を変えたので、どうしたんだろうとは思ったが、彼女が僕のことを信頼してくれることにデメリットはないし、ひとまず話を分かってくれたので安心した。
「……と言うことは、四歳からずっとお母さんに会っていないの?」
雪乃は僕に同情するかのように、甘い声で訊いてきた。
「もちろん、会う機会はなかったね。
あと、僕にそんなに同情しなくていいから。僕は大丈夫だし」
確かに、両親が離婚した直後は僕も寂しかっただろう。でも、時間が経つと共にその寂しさや悲しみは薄れていった。本当に可哀相なのは離婚した父と母さんの方だ。
「ごめんね、ちょっと心にくるものがあって……。
あの、差し支えなかったら、今の家族構成言ってくれないかな?」
雪乃は、遠慮がちにそう僕に尋ねてきた。家族構成を言うくらい、別に苦でもない。
「今、僕の家は四人家族で、父は夏樹で、義母は、幸代って言う。そして、その二人の間に生まれたのが義妹の幸音って子で、僕が小三に上がるちょっと前に生まれたんだ。あ、あと僕を加えて、四人家族」
僕を除けば、何処にでもありそうな健全な家庭だ。でも、僕がいるお陰でバランスの悪い家庭となっている。ふと、義妹の幸音は僕のことをどう思っているのだろうかと気になった。
家族紹介を終えたが何の反応もなく、雪乃はぼんやり頬杖をついて考えごとをしているようだった。僕は、雪乃が話しかけて来るまで、残りのアイスティを啜りながら、彼女のそのさまを眺めた。最初、彼女を見たときは竹刀なんか握っていたから、ちょっと変わった人だなと思っていたが、こうやって喋ってみると、落ち着いており優しい雰囲気の女性だなと感じた。
「あ、お茶なくなっちゃった? 淹れてきてあげようか?」
雪乃はこちらに顔を向け、僕の手に握られた空のコップを見ると、少し慌てた素振りを見せた。彼女が右手を僕の方に差し出したので、コップを手渡す。雪乃は二つのコップを両手に持つと立ち上がって、キッチンの方へと行った。
僕は再び、部屋の周りを見渡した。実家と同じくこの家もそれなりに父親の嗜好で部屋がレイアウトされているのか、クールできれいに整っていた。しかし、ここのリビングダイニングは実家のそれと比べると半分以下の広さであったのでインテリア同士の距離が近く、狭さを感じた。だが、それが部屋の温かみを作り出している気がする。
実家は義母の部屋と義妹の部屋以外は、気持ち悪いくらいに綺麗に整っていた。まるで、どこかの高級ホテルのように。父がそういう洗練された部屋が好みであるのと、掃除好きであるからだが、良い意味でも悪い意味でも無機質な家であった。
「はい、どうぞ。おかしも持ってきたから食べて食べて」
雪乃はお盆に二杯のレモンアイスティとチョコチップのクッキーとビスケットを持って来て、テーブルに置いた。クッキーとビスケットは結構な量だ。
「ありがとう、いただくよ」
僕は微笑んで、クッキーをつまんだ。ポテトチップスはいかにも油っぽくて嫌いだが、クッキーは好きだ。たぶん雪乃も好みは同じなのだろう。
「さっきから、部屋を見回しているけど、きみの実家とは何か違ったりするの?」
雪乃がクッキーをひとかじりして僕に訊いてきた。
「インテリアとかは父さんの好みだと分かるし、雰囲気はそれなりに似ているよ。けど、実家と比べると、この家はかなり小さい」
「小さいかぁ。まあ、わたしがここに住み始めたのは十五年前の四歳の頃だもの。その頃はお父さんも、まだあまり稼いでなかったと思うし……」
雪乃は少し頬を膨らませてそう言った。
「ごめん、言い方が悪かった。僕の父さんこそ、四歳の頃はまだマイホームを持ってなかったし、再婚するまではおじいちゃんが買ったこの家に住んでいたよ。つまり、僕も三年ほどここに居たことがあるんだ」
離婚してからは、僕と父は、母さんと住んでいた賃貸マンションを離れ、祖父母の住むこの家に暮らしていた。
「そっか。それじゃあ、再婚して新しく家を買ったんだね」
僕は「そう」と言って頷いた。どうやら、この世界では祖父母はこの家に興味はなかったが、父母は小学校や中学校が近くにある事から購入したようだ。こんな偶然もあるんだと僕は内心かなり驚いていた。
「きみもこの家に住んでいた事があるんだね。なんか、そう考えると不思議……」
僕が元々いる世界では、ここには祖父母が住んでいて、この世界には雪乃とその家族が住んでいる。僕も不思議な気分だ。
「てことは、幼稚園とか小学校もここの近辺で通っていたよね。どこに行ってたの?」
「幼稚園は文大付属の幼稚園で、小学校はカメクボショー。小学校は二年の夏休み前まで通ってたよ」
「同じ、だね。小学校は学区とかあるしそうだろうけど、幼稚園も同じってなんかすごい」
手を合わせて、雪乃は目をまるくした。
「君も、お受験したんだ」
「意外そうに言わないでよ。それに、あれ、お受験ってほどじゃないと思うよ。他の入園希望の子達と遊んで、面接で先生にいくつか簡単な質問されるだけだし。それにほとんどの子は合格していたんじゃないのかな」
「どんな質問されたか覚えている?」
「そんなのほとんど覚えていないけど、お母さんから前に聞いた話だと、わたしが先生に聞かれた質問の一つに、兄弟は欲しいですか? というのがあったらしいよ」
「で、どう答えたのかな?」
「それはもちろん、欲しいって答えたみたい。それも弟で、お世話したいからって理由を答えたそうだよ」
それを聞いた僕はつい笑ってしまった。もし、雪乃の弟が僕だったら、世話なんかつまらなくて、彼女は直ぐに飽きてしまうだろう。
「まあ、あの頃のわたしはやってみたかったのよ。そんな君はお受験したときは大変だったんじゃないの? あれもあったし……」
「僕も不思議なんだよ。先生に何を聞かれて何を返したのか。でも、こういう受験って親のことも先生は良く見てるって言うから、父さんが頑張ってくれたんだろうね」
そんな事を僕は言ったが、それは変だなと思った。お金はかけてくれたけれども、父親が僕のために直に努力をするという所が引っかかったのだ。
誰と一緒に面接したのだろうか。父親ではなく、祖父母? 思い出そうとしたが、僕の脳はその時の出来事を完全に忘れていた。
「ううん、わたしはきみが頑張ったんだと思うよ」
僕の発言から少し経って、雪乃は僕に目を据えてかぶりを振った。
と、ソファの方から、シロフォンのような音の着信音が調子よく鳴った。
「あ、お父さんかお母さんだ」
雪乃はそう言って立ち上がると、音源の方へと向かった。そしてローテーブルからスマグラを手に取ると、頭にかけて通話に応じた。
「あ、お父さん、どうしたの?」
雪乃は庭の方を向きながら父と通話している。因みに、僕は父と電話をする機会なんて滅多にない。
「今から帰るんだね。分かったよ」
どうやら今から帰って来るみたいだ。そうなると、雪乃は僕に帰ってとでも言うのだろうか。しかし、僕は雪乃の父母にも会いたいし、それに彼女を含めて彼らはキーマンの候補でもあるので、目的を果たすまでは帰る訳にはいかない。
「今日は何でもいいよ。あと、何時もより多く買ってくれたら嬉しいな」
テンポ良く会話は進んでいく。僕は実際に雪乃と父が喋る姿を見てみたくなった。
「え、あ、分かったよ。やっておくね。じゃあ」

風呂掃除

雪乃は、一瞬面倒くさそうな表情をすると、通話を切ってスマグラを外した。それから、くるりと僕の方に身体ごと振り返ると、「きみ」と僕を呼んだ。
「わたしと今から風呂掃除するよ!」
勢い良く飛んできたその言葉に思わず僕は「え?」と語尾を上げてしまった。
「きみも今からするの。ここに来た訪問代だよ」
「正直したくない……。でも、僕の願いを受け入れるならやるよ」
僕は強気でそう返した。今日はじめて会った人に風呂掃除をさせようとするのは如何なものか。少なくとも僕が彼女の立場なら、風呂を一緒に掃除して欲しいなんて言わないだろう。
「まあ、わたしの興味できみを入れたものね。それで、願いって?」
「――君の両親に会わせてほしい」
僕がそう言うと、雪乃は意味なくため息を吐いた。
「なんだ、そんなことなの。それならきみの事を信じた時点で受け入れていたよ。
……だってきみ、お母さんに会いたくて来たのでしょ。あと、さっき通話してたときに、今日はきみの分の夕飯も考えて、多く買ってと言ったのだけど気付かなかったかな?」
それを言われた僕は、頭が下がる思いをした。僕にそんな配慮をしていたなんて気がつかなかった。これは風呂掃除に付き合わなきゃと、僕は腰を上げた。
「あんな身勝手なこと言って悪かったよ。よし、やろう」
「ありがとね。じゃあ早速、お風呂を掃除しようか」
そう言うと、雪乃は引き戸を開けて、風呂場に向かう。僕もその後ろを付いて行った。
風呂場は祖父母の家のものとは変わりはなかった。一人分が入れる大きさの風呂桶は入って右側につけられている。既に水栓は抜かれていた。
「それじゃ、きみは風呂桶の方を洗って」
雪乃はそう言うと、僕にバスクリーナと長方形の黄色いスポンジを渡した。僕は靴下を脱ぐと風呂桶の中に入って、掃除に取り掛かった。
「きみは実家にいた頃にこういう風呂掃除とかはしてた?」
風呂桶の外で床を磨く雪乃が僕に訊いてくる。
「ああ、風呂掃除はほぼ毎日していたね」
「へぇ、結構意外だよ。見た感じは頼りなさそうに見えるから」
彼女の発言に、僕は少し眉を寄せてしまった。
「どこら辺が頼りなさそうに見えるのかな?」
「そう言われてもね。取り敢えず、雰囲気が、かな」
雪乃に限らず紗奈も中学の頃、僕について見た目は頼りなさそうと言っていたのを思い出した。でも、彼女の場合はそう言った後に、付き合うと頼りになると付け加えていた。
僕は「そっか」と短く返事を返すと、バスクリーナを吹きかけてスポンジで風呂をきれいに磨いていった。こういうのは完全に綺麗にしないと気がすまないので僕は無心で風呂桶を掃除した。
「わあ、やっぱりお父さんの血が流れてるんだね。すごい綺麗になってる!」
風呂桶の底を磨く僕を見下ろして、雪乃の驚いた声が風呂場に響いた。
「家事はそれなりに得意だと思っているから嬉しいよ。だって義母に家事全般を任されていたからね。風呂に皿洗いに、洗濯物などなど」
「あ、そうなんだ。頼りないとか言ってごめんね……」
しぼんだ様な声を雪乃は発したので僕は気になって振り返ってしまった。
「いやいや、謝らなくてもいいよ。他の人にもたまに言われるから」
僕はそう言って再び底を見つめる。義母は仕事に加え娘の世話が忙しいと家事を僕に任せていた。勿論やっていないと怒る。まあ、彼女はキャリアウーマンで家事には向いていない人だから仕方がなかった。義母が飯を作り、僕はそれ以外の家事をする。これだけで血の繋がりのない彼女に食事を作ってもらい、関係を維持できるのだから僕は家事をすることに抵抗はなかった。
「離婚とかあって、そのあと新しいお母さんが来ると色々つらかったよね?」
スポンジを擦る音を響かせながら、雪乃はつぶやく様に僕に尋ねた。
「つらいもなにも、普通の家庭の暮らしを知らないからなんとも言えないよ。でも、義母だからか結構すれ違うことは多かったかな」
風呂桶の排水溝周りを磨きながら単調な声で僕は返答する。
「なんか、きみってシンデレラみたいだよね」
それを聞いた僕は思わず吹き出してしまった。
「シンデレラ……僕が?」
風呂桶から顔を出して、僕はそう語尾を上げる。
「だって、境遇とか雰囲気とかシンデレラっぽいもの」
雪乃も屈んだ体勢のまま、僕に顔を向けてそう返した。ちょうど目線が同じ高さになる。
「シンデレラと僕を同じにしたらシンデレラが可哀想だよ。シンデレラと違って、僕は自分のせいで母さんがいなくなって、父さんは義母と結婚したのだから自業自得」
あの身の上は僕が行ったことの罰だったと考えるとしっくり来た。
「違うよ。きみのせいじゃない……」
「あ、そこにまだ汚れがあるよ」
雪乃が何かを言おうとしたのを遮って、僕は風呂場の端っこを指差した。
「君は僕の事を気にしなくていいから」
雪乃から聞きたいことは他にも沢山ある。でも、その為に僕が進んで自分のことを話せば、彼女に迷惑をかけることに気付いた。雪乃には無駄な心配はさせたくない。
僕はシャワーヘッドを持ち、蛇口をひねって水を出すと、風呂桶のゴミや泡を洗い流した。
「先に上がってていいよ。僕が流しておくから」
「ありがとね。じゃあ、よろしく」
雪乃はそう言うと風呂場から出て行った。それから僕はところどころに汚れがあるのを見つけるとそれをスポンジで擦ってからシャワーできれいに流した。
「あれ、まだいたんだ」
風呂場から出ると、洗面台の右隣で雪乃が髪を梳かしながら待っていた。
「うん、きみのこと眺めてたよ。きれい好きな所をみると本当にお父さんの息子ぽいね」
これは自分でも自覚していた。努力に関しては父には到底及ばないが、きれい好きに関しては父から遺伝したようだった。
「あと、さっきのきみの発言だけど」
雪乃は一歩前に出て、バスマットの上で足を乾かす僕の前に立った。
「気にしないなんて無理だからね。それにきみの存在にわたしは関心があったから、この家に入れていることを忘れないで」
念を押すように雪乃は口調を強める。その強気な姿勢に僕はただ頷くだけの反応しかできなかった。

両親帰ってきた

冷房の効いたリビングダイニングに戻り、僕はさっきまで腰かけていた手前の席に腰を下ろす。雪乃はと言うと、お盆に乗った菓子とグラスを片付けたあと、今度は僕の目の前に座った。
「きみって、お母さんの顔を覚えているの?」
雪乃は腰掛けるなり僕にそう尋ねてきた。
「全く覚えていないよ。君に似たような顔をしているのかな?」
母さんが家から出て行くあの夢も、何時も顔のあたりはぼやけている。自分の顔を見て思い出そうと試したことも何度かあったが、僕の脳は完全に忘れ去っていた。
「母親似ってよく言われるけど、身長は父の遺伝だね。お母さんより十センチくらい高いもの。きみの場合は顔も身長もお母さんから遺伝していると思うよ」
雪乃は確かに女性の中では身長が高い方だ。それでも僕と身長がほとんど同じの紗奈と比べると少し低いだろう。一方で僕の身長は日本人男性の平均身長と同じで、父と比べると十五センチくらい小さい。父親は身長からしても僕を圧倒する存在なのだ。
「君がそう言うのだから正しいのだろうけれど、母さんに似ていると言われても全然想像がつかないよ」
「まあ、そうだよね。あ、そんなこと話してたら、帰ってきた帰ってきた」
雪乃はちらと駐車場の方を向いてそう言った。僕も振り返って外を眺める。ちょうど、藍色のカブト虫みたいな形のドイツ車がバックで駐車しているところだった。雪乃は立ち上がると、引き戸の方へと向かった。
「きみは、ここで待ってて。わたしは玄関まで親を迎えに行ってくるから」
そう言うと僕からの返事を待たずに廊下へと出て行った。部屋にひとり残された僕の心臓は急激に高鳴り始める。この世界に来てこういう思いをするのはこれで何度目だろうか。
母さんがあと数分もしないうちに僕の前に姿を現す。そう考えるといても立ってもいられなくなって、ついに僕は立ち上がって足踏みをし始めた。
玄関の方から賑やかに声が聞こえてくる。それは父親、雪乃、そしてもう一人の女性の声。心臓の波打つ鼓動に伴って、緊張で息苦しさまで感じた。
声音の移動で狭い廊下を伝って三人が近づいているのが分かる。突っ立っていると変に思われるので、僕は椅子に腰を落とすと引き戸とは反対を向いて待った。
まもなく、引き戸が勢い良く開いた。開けたのは間違いなく父だ。
「お邪魔してます!」
僕は反射的に振り返って作り笑いをすると父に会釈と共に挨拶した。勢いがあったせいか重く身体にのしかかっていた緊張から開放された。
「お、こんにちは」
父は抑揚のない声で一言そう挨拶すると、スーパーで買ったものを入れるためにキッチンの冷蔵庫に向かった。元の世界の父と変わらずクールであるが、父独特の威圧感は不思議とあまり感じられなかった。
それから雪乃と一緒にリビングダイニングに四十代くらいの小柄な女性が入ってきた。
程なくして僕と彼女の目が合う。――目の前の彼女が僕の母さんなんだ。
そして彼女もまた、首を傾げて僕のことを訝しげな目線で覗いてきた。
何か言わなきゃと思いながらも、久しぶりに会う母さんを前にして僕の身体は固まってしまっている。
「どうしたんだ、寧子?」
父がカウンタから口を開いたので、母さんは我に返って僕から目線を逸らした。
「雪乃が言っていたのってこういうことなの?」
白のミモレ丈スカートに青の半袖カットソーのコーデの母さんは目を皿にして、雪乃に顔を向けて訊いた。しかし雪乃は答えを返さない。
「雪乃が特別な人と言っている彼は、雪乃の彼氏さんと言うことかな」
父が口を挟んだ。どうやら父は今の状況を全く理解していないようだ。
「夏樹! 彼の顔を良く見てよ!」
母さんは半ばヒステリックな声を上げる。そう言われ父は僕の方を向いた。そして、僕も父と顔を合わせた。元の世界の父親と比べると心なしか顔色が良いように見える。
「なんか、俺達と似ているな」
「そうよ、そう! でも似てるじゃ済まないわ、本能は彼を私の子だと認識しているから。
ねえ、さっきから雪乃は何も言ってくれないのだけれど君はいったい何者なの?」
雪乃とは違いセミロングで内巻きのパーマの母さんは僕に身体を向けて直に尋ねてきた。僕は困って雪乃に目配せしたが、雪乃は笑顔を見せるだけで何も口出ししてくれなかった。
「僕は、北杜雪弐と言う名前で、こことは違う世界で、父さんと母さんの息子なんです」
正直なことを伝えてはみたが、果たしてそれを理解してくれるのだろうか。
「そう言うことって本当にあるのね」
少々の沈黙のあと、母さんは納得したように言葉を漏らした。
「彼の話を信じるのか?」
一方で、父は僕の話を信用していないようであった。
「もちろん信じるわ。だって、雪弐はどこからどう見ても私と夏樹から生まれた様にしか見えないもの。加えて、私の母性本能が彼を子供だと認識しているし、彼自身、私たちの子供だって言っているから間違いないでしょ」
早くも母さんは僕を名前で呼び始めた。嬉しいけれど、僕の心はそれにまだついて行けていないようでしっくり来なかった。隣の雪乃も、母さんが僕のことを信じているところを見て、呆気にとられている。
「そうと分かったら、夕ご飯の準備をしなくちゃね。
草食の雪乃が今日珍しく多く買ってきてという意味も分かったし、もてなしましょ」
母さんはすっかり僕を気に入り、歓迎してくれているようだ。支度を済ますと、さっそくキッチンで夕飯の準備に取り掛かった。
夕飯が出来上がるまでの間は、父は上の階に行っており、雪乃は母さんの隣で手伝いをしていた。僕はスマグラを適当に操作しながら、たまに彼女らから飛んでくる質問に答えたりして時間をつぶした。
料理中に雪乃は僕に出会ってから今に至るまでの話をしていた。もちろん、離婚の話については触れていない。話の中で、僕が家に入れるまでの事については、母さんは大笑いして、凄く暑いのだから早く入れてあげればいいのに、と突っ込みを入れていた。見知らぬ人を入れられないよ、と雪乃は苦笑いして返す。そんなやり取りを横目で見ながら僕は羨ましく思ってしまった。
そして心の中でつぶやくのであった。――これが家族か、と。

夕食

夕食は六時前に出来上がった。雪乃は僕に向かって、人差し指を上に向け合図する。
「お父さんを呼んできてくれない?」
「え、あ、うん」
急にそう言われ、断れないままに引き受けてしまった。父に、夕食が出来た、と言うだけの事だ。それも元の世界の父とは違う。
しかし、僕の腰は重かった。二階で仕事をしているのではと思うと、そこを邪魔して呼ぶのは抵抗があるからだ。実家にいた頃は、食事などで仕事を中断させようとすると父は怒ることもあり、休日でも四人で食べられるのは朝くらいであった。
「どうしたの、早く行っておいでよ」
雪乃が催促したので、僕は小さく頷いて席を立った。それから二階へと上がる。風呂掃除が終わったあとに聞いたが、父の部屋は上がって左のドアの部屋だという。二階には三つ部屋があるが、父の所は八畳で二階では一番広い部屋だ。そして、驚いたことにそこは母さんと父の寝室でもある。僕の実家では父と義母の部屋は別れている所を比べると、この世界の父と母さんは間違いなく仲が良いといえる。
二階も祖父母の家の間取りと同じだろう。上がってすぐ左に一つのドア、右には二つのドアが並んでいる。右手前のドアは開いていたが、二つは閉まっている。僕は左に身体を向けて、ドアをノックしようと右手を伸ばした。
そして、ほんの軽い力でドアを叩いて、「夕ご飯が出来ました」と丁寧語で伝えた。
「お、そうか分かった。今から行く」
淡々とした返事が、部屋の中から聞こえてきた。でも僕にはそれが快い返事に受け取れた。先に下に下りようかと思ったが、取り敢えず階段の二段目辺りで彼を待つことにした。
「君、待っていたのか」
父はドアを開けそう言う。僕は「はい」と短く返事して階段を下へと降り始めた。
「俺も寧子が言っていることは信じる。君が違う世界で俺と寧子の子供だってことに。
で、実は俺もそんな君に関心があるから、飯を食べ終わった後にでも色々質問していいかな?」
父も階段を降りながら、後ろから尋ねてきた。僕はもちろん構わないので、「いいですよ」と頷き返した。
夕飯は冷しゃぶサラダに、冷やし中華、ゴーヤチャンプルであった。どれも僕の好きなものばかりだ。既に、母さんは右手前、雪乃は右奥に座っており、会話を弾ませていた。僕は左手前の席について、父が座るのを待った。
「今日の夕飯はどう? 雪弐の好きなものかな?」
「はい。驚くほどに僕の好きなものがならんでます」
「やっぱりそうかと思ったわ! 今日は、我が家が好きな夏のメニューを選んで買ってきたからね」
母さんは、嬉しそうに声を上げ、父が座るのをみると、「食べましょ」と合図した。僕は顔を下ろし今日のメニューを眺め、それから三人の顔をちらと見回した。
家族なら、好みも同じなのだろうか。そんな事を思いながら、つめたい冷し中華を口にした。滑らかな感触が舌を伝って喉へと流れていく感じがたまらない。
「美味しい」
思わず僕は声を漏らす。その言葉に母さんは嬉しそうに「ありがと」と目を細めた。僕はその優しい顔を見て、思わず母さん、と呼びたい衝動に駆られた。でも、目の前にいる彼女は僕を産んではいない。
それから少し経って、僕に罪悪感と後悔がじわじわと襲ってきた。父と母さんを別れさせた罪悪感と母さんを失ってしまったという後悔。感情を押し殺しながら、僕は母さんの作ってくれた、ゴーヤチャンプルを口に運んだ。卵の甘みと、ゴーヤの苦味が口に広がり、僕の舌を混乱させる。
僕は、雪乃と母さんのやり取りを俯き加減でちらと見る。本当に仲の良い母子だと思った。それから、黙々と飯を食べる父の方に、視線を移した。
目が合った。僕は直ぐに逸らして、冷しゃぶサラダに箸を伸ばす。
視線は感じないものの、さっきから父は僕のことを見ているのだろうか。と、サラダにドレッシングがかかっていない事に気付いた。テーブルの上を見回すと胡麻ドレッシングが母さんの右横に隠れているのに気付いた。
「あの、そこのドレッシングを取ってくれませんか」
僕は口を挟んで母さんに頼む。
「はい、これね。
……あと、こっちでも普通に母さんと呼んでいいのよ」
母さんは渡すときにそう付け加えた。普通に呼んでいいと言われても、その普通に慣れない僕には難しかった。
雪乃と母さんは、話のネタに尽きないようで、喋っては食べてを繰り返していたが僕は食卓を囲んで話すような共通の話題を持っていないので、母さんの味を覚えようと頑張っていた。それほど彼女のご飯は美味しいし、また食べたいと思えるようなものなのだ。

家族に話す

夕食を食べ終えて、すっかり僕は満足だった。でも、もうそろそろ、彼らがキーマンかどうかを確かめるために話を切り出さなくちゃいけない頃だ。
「さて、君の事について、質問しようかな」
と、父はビール缶を右手に話を切り出した。雪乃と母さんはカウンタで洗い物をしていたが、父の言葉を聞くと、雪乃は持ち場を離れて、父の隣に座った。
「雪乃、別に聞いても面白い話じゃないぞ」
「ううん、こう言うのは重要なの」
雪乃は、父に目を据える。父は小さくため息を吐いたが、何も返さなかった。
「まず、君とその家族のことだが、君の住む世界では俺と寧子は離婚しているだろう」
その言葉にカウンタの寧子は皿を洗う手をピタリと止めた。
そして、部屋は蛇口から水が出る音だけになった。僕は息を呑むと、口を開いた。
「はい。僕が四歳のころに、父と母さんは離婚しました」
目の前の父はそれを聞いて、「やはりか」と唇を動かす。カウンタの母さんは手を止めたままだ。雪乃は「そうなんだよね」とかすかに漏らした。
「雪乃、知っていたのか」
父はその言葉を聞き逃さず、驚いた様子で尋ねた。
「うん。お母さんやお父さんには喋ってなかったけど、彼の世界ではお父さんとお母さんは離婚していて、そのあとお父さんは違う女性と再婚したって聞いたよ……」
雪乃は、細々とした声で父に話した。
「そうなってしまったのは、僕のせいですが……」
僕は俯いてそう呟いた。目の前の父は腕組みをしてそれを聞いていたが、何も返さない。
「違うわ、雪弐のせいじゃない!」
強い口調で、僕の発言を否定したのは母さんだった。母さんは、洗い物を中断してタオルで手を拭くと、カウンタから急いで出てきて僕の右隣に座った。そして、僕に体を向けると真剣な表情で覗いてきた。
「雪弐はまったく悪くない。だって、こっちでも雪乃が四歳の時に離婚になりそうだったのだから……。きっと、雪弐の世界では、私と夏樹は、あのすれ違いを乗り越えることが出来なかったのだわ」
「そうだな。君、親が四歳のいつごろ離婚したのを覚えているか?」
父が右でビールの缶を持ちながらそう訊いてきた。
思い出そうとすると、例の夢が脳裏でフラッシュバックした。別れた時、母さんの格好はブラウンのコクーンコートを羽織り、紺のデニムにグレーのミドルブーツを履いていた。と、なると季節は冬だろうか。
「離婚したのがいつかは知りませんが、冬の夕方に僕と母さんは家で別れたと思います」
僕はそう答えたが、父は俯きながら黙ったままだ。
「あの……」
「やっぱり、あれが君の親が離婚した原因だな。俺が原因で、ここまで未来は変わってしまうんだな」
父は顔を起こし、椅子の背に寄りかかると、天井を眺めてそう呟いた。
「僕が親に迷惑ばかり掛けていたから、親は離婚したと思うのですが……」
それを聞いた父は、呆れるように笑った。
「そうか、君はそう言われて育ってきたか。君の父親は自分に勝てなかったのだな」
「どういう事ですか?」
少し怒った口調だったかもしれない。父を悪く言っている様に聞こえたからだ。
「よく考えてみろ。どの子供でも親に迷惑をかけずに育つことは出来ると思うか? 言うまでもなく無理だ。子供は親に迷惑掛けなきゃ生きられないんだ。だが、君の父親はそれを寧子に任せっきりにした。だから、離婚になったのだろう。
それで、二つ目の質問だが、今、君の父は何の仕事をしている?」
「上杉製薬株式会社ですが……」
僕がそう答えるなり、雪乃が「え、そうなの」と驚嘆した。
「やはりか。じゃあ、俺が今どこに勤めているか答えてほしい」
雪乃の驚きの反応は同じ会社だったからだろうか。それとも、全く違う理由で驚いていたのだろうか。
「え、それも僕の父と同じ会社じゃないのですか?」
「間違いだ。俺が今勤めているのは、その下請けの長尾製薬だ」
長尾製薬……聞いたことのない会社だった。でも、上杉製薬から抜擢されたことは父から武勇伝で聞いたことがあるので、父もそこで働いていたのだろう。
「まあ、大手でもないから知らないよな。でも、君が四歳の頃までは、君の父もそこに勤めていたのは間違いないな」
父はそこで一旦言葉を区切るとビールを飲み、一息吐いた。
「ちょうど、雪乃が四歳の中頃だった秋口に、俺にある朗報があった。元請けの上杉製薬が俺を誘ってきたんだ。ちょうど二〇〇四年で、いざなみ景気の真っ只中だったしな。向こうも下請けから優良な人材を引っ張ってきたかったのだろう。
もちろん俺は、千載一遇の好機だし大手の上杉の方に行きたかった……」
一間置いて、父は意味あり気に片目を細めて母さんに視線を送り、ビールを啜る。
「お父さんにそんな事があったんだね。それは知らなかったよ」
父の隣の雪乃が意外そうな顔でそう言った。
「雪乃には俺と寧子の喧嘩の内容しか話してないからな。もとの原因を辿ればこれになる訳だが……」
おそらく、僕の世界でも同じ流れで進んでいたのだろう。そして、雪乃自身も離婚騒動みたいな事があったのを知っているみたいだ。
そうか、だからか。僕が雪乃に離婚の話をしたあと、一気に警戒を緩めたのは。されど、あそこまで同情する必要はないじゃないか。
「で、寧子にその事を話したら、見事にだめだと言われた。当時の俺にはそう言われる理由が全く分からず、逆に怒ってしまった。それが寧子との喧嘩の引き金となった」
父は感情を入れずに淡々と話を進める。
「喧嘩で俺の言い分はこうだった。毎夜遅くまで切磋琢磨し働いたからこそ得られた上杉製薬への転職を、なぜ寧子は快く認めてくれないんだ、と」
「で、私の方は、夏樹が上杉製薬に行ったらもっと忙しくなって家庭を疎かにするから駄目って言ったっけ」
「ああ。そう言われたら俺は、沢山稼いでいるから家庭は疎かなんかしてないし、むしろ上杉製薬に行けばもっと家庭に貢献するじゃないか、と返し……」
「そう言われて私は激怒したの。家事育児が大変なの分かっててしたくないだけでしょ! って」
「まあ、俺もかなり頭に来ていたからな。それで、ついに激憤してしまったよ。俺の努力を馬鹿にするんじゃねえ、とな……」
父がそう言うのも良く分かる。父の努力は並大抵の人間が出来るものではないから。
「それから、俺らは話をしない日が続いた。元請けに返事を返す期限までは時間があったし、直ぐに返事はしなかった。とにかく、寧子に分かってもらおうと努力したんだ」
父はビール缶に焦点を当てながら話した。それから顔を上げ、雪乃と母さんの顔を一拍子ずつ眺める。目を細め、下唇を少し噛んで、笑ったかのようにも見えた。
「結局、俺は馬鹿だったんだ。子どもを持っていながら、仕事ばかりに集中して、父としての役割を果たしていなかったのだからな」
父としての役割……か。僕の父はその役割を理解できなかったから、母さんに嫌われてしまったのだろうか。
「言うまでもなく、俺は上杉製薬に行く事をやめて、仕事と家庭を両立することにした。上司はそれを分かってくれたし、寧子ともすっかり仲直り出来たな」
そう言って、ビールを飲み干した。
「そっか、きみの世界でおじいちゃん、おばあちゃんがなぜここに住んでるのか分かったよ。きみのとこのお父さん、離婚したあとにあげたんだよ。ここを」
「雪乃の言うとおり、そうだな。もし離婚していたら、当時ニュータウン住まいだった祖父母に、買ったこの家を譲ってたな」
そう言うことか、と僕は納得し二、三回頷いた。
「喧嘩してたときの話に戻るけどね、夏樹はあの時期、さらに仕事に熱心になっちゃってた。それが、彼の反省のアピールだったのはもちろん分かっていたわ」
「でも、寧子はことごとくそれを無視した。最初はなぜあんな態度を取るのか分からなかったが、考えて行くうちに、何となくだが理解できた。寧子は、俺が努力すれば何でも出来るという考えを壊したかったのだ。それは同時に、俺が無意識のうちに努力を目的として仕事をして来たことも壊してくれたんだ」
父は、声の調子を少し高くしてそう言った。僕は、その発言に内心かなり驚いた。この世界の父は努力すれば何でも出来るという考えを今は持っていないからだ。
「実際に、家事をやったり、雪乃の世話をしたりすると、仕事とはまた違った大変さを思い知った。俺は寧子と共に、雪乃を育てることで、自分自身を見直す切欠となったんだ」
落ちついた表情で父は言葉をつむぎ終えた。
そう考えると、僕の父は、子どもの面倒をみることについて、理解が足りなかったのだ。結果、父は僕に対して、金銭的に育てることしか出来なかった。
「だから、雪弐は悪くないのよ。向こうの私たちが、あの喧嘩から立ち直れなかったのが原因なのだから……」
つまり、僕はどうやら父と母さんをいがみ合せて別れさせた悪魔ではないらしい。僕が生まれても、雪乃が生まれても、喧嘩は起こることだったのだ。
しかし、どちらでも事は起こったものの、雪乃の世界では離婚せずに済んだ。それは結局のところ、父は娘が欲しかったという事が影響しているのだと僕は思った。だから、ここの父と母さんは離婚を回避できた理由については話さなかったのだろう。
「質問はもういいですか?」
「ああ、答えてくれてありがとな。面白い話が聞けた。で、君はこの後どうするんだい?」
そうだ、頼まなくては。しっかり話をすれば、父や母さん、雪乃は分かってくれるだろう。

家族に抱きつく

「この後は、僕のいる世界に戻るつもりです」
僕の返答に対して、「もう帰るの?」と、雪乃と母さんが口をそろえた。
「はい。親には何も言わず、こちらの世界に来てしまったので、そろそろ帰らないと不味いです」
「なら、帰ればいいじゃないか」
「それが、あることをしないと帰れないんです……」
「あることって?」
またも、雪乃と母さんの声がハーモナイズした。
「言い辛いのですが、僕が元の世界に帰るためには、この世界で僕を探し求めているひとを見つけて、抱きしめなければならないのです。それで、昨日からその人を探しているのですが、僕の世界で親友にあたる人や彼女、また自分を抱きしめてみましたが、どれも失敗に終わりました」
「つまり、私たちを抱きしめさせて欲しいということね」
僕は、うん、とゆっくり頷く。
「そう言うことなら、分かったわ。じゃあ、まずは私ね」
母さんはすんなり、僕の願いを聞き入れてくれた。しかし、父と雪乃の方はぽかんとしている。
「私じゃなかったら、夏樹も雪乃もやるんだからね」
母さんは立ち上がって、ソファの横に立つと、注意するような口調で言った。
そして、「さあ、おいでよ」と手招きしたので、僕は腰を上げて、母さんの前に立った。父と雪乃が見えるところで、母さんを抱きしめるのは少し抵抗があったが、そんなことは今は言っていられない。
「じゃあ、お願いします」
「そんなに、硬くならなくていいのよ。ほら、いいよ」
母さんは、両手を広げて優しい表情を見せた。僕は息を呑んで目を閉じると、そのまま抱きついた。と、母さんが小声で笑ったのが聞こえた。
「本当に、雪弐はもう一人の私から産まれた子なのね。こうやって抱きしめられると良く分かるわ。じゃあ、またね。いつでもおいで……」
母さんは、僕の頭を撫でながら、柔らかな口調でそう言った。僕はあまりの気持ちよさに心酔してしまいそうだった。
だが、とても幸せな気分になれるだけで、いっこうに何の変化もない。僕は抱きしめる両手を静かにほどくと、母さんから離れた。本当はもう少しあのままでいたかった……。
「違う……みたいです」
「ごめんね。私は雪弐を探し求めている人ではないみたい」
「それじゃ、今度は俺か」
父は席を離れて、母さんと交替した。それから背高の父は僕の目の前に立った。顔を少し上げながら、改めて父は大きいな、と感じた。
「もういいぞ。今日はありがとな」
別れの言葉を父は短く告げた。僕もお礼を返すと、一度深呼吸をしてから、抱きしめた。きっと、これからの人生で父にこの様なことをする機会なんてないに等しいだろう。
父の体は硬かった。雰囲気通りに、彼は鋼鉄だった。しかし、彼の芯からは仄かに温もりを感じられた。
結局、父も違った。申し訳ない気がして、僕は離れ際に父に謝ったが、父は全然気にしていない様子であった。
「俺も、寧子が言ったように、君が自分の息子に思えたな」
加えて、父はそう呟いた。それから、父は雪乃の方に振り返って、視線を送る。
「さて、俺じゃないとなると、雪乃か?」
「え、わたし? わたしは違うからいいよ」
雪乃は、自分は違うと否定した。と言うより、僕に抱きしめられることに抵抗があるのだろう。もちろん、僕だってその気持ちは分かる。同年代の異性で、しかも今日初めて出会った人に抱きしめられるなんて、誰だって嫌だろう。
「雪弐を探し求めている人って、雪乃かもしれないわ。だって、雪乃は幼稚園に入るときの試験で、先生に弟欲しいって言ってたじゃない。実は今でも欲しいんじゃないの?」
母さんの突っ込みに、雪乃は口をすぼめた。どうやら図星だったようだ。テーブルに両手をつき、黙って立ち上がると、雪乃は僕の前に来た。
「ごめん……」
僕は俯いて謝り呟く。帰るためには、特定の人を抱き締める必要があるし、それが分からないというのは、本当に不便で迷惑な話だ。
「謝ることじゃないよ。それをしないと帰れないのだから」
雪乃は上目遣いに首を振って、僕の願いを受け入れたようであった。しかし、僕は直ぐに彼女を抱きしめることが出来なかった。妙な緊張が体を走ったからだ。それは、もちろん、雪乃を抱きしめても駄目だったら、また違う人を探さなきゃいけないと言う不安や、元の世界にはおらず、面識のない彼女を抱きしめるという罪悪感から来ているのだろう。
「ね、わたし達、いちおう血の繋がった姉弟なんだから、気にしないで」
雪乃は僕の心を見透かしたのか優しい口調でなだめてくれた。姉弟なんだから大丈夫だと僕は心の中で言い聞かせながら目を閉じて、両手を開いた。
「雪弐、こっち」
雪乃が僕の名前を呼んだ。それが僕と彼女の間にあった心の壁を打ち破った。僕は雪乃の体に手を回すと、ゆっくりと抱きしめた。
と、一瞬、僕の体は立ち眩みを起こして、バランスを崩しそうな感覚に陥った。それと同時に目を閉じているのに目の前が明るくなった気がした。
「――大丈夫?」
雪乃が耳元で僕に尋ねる。僕は目を閉じたまま、「大丈夫」と囁き返した。
しかし、それから僕の体に変わった様子や感覚は起きなかった。僕は目を開けて、雪乃の体からゆっくり離れた。
「うーん、やっぱりわたしではなかったみたいね」
ソファの背に寄りかかって、雪乃は腕組みする。僕は肩を落とし、大きくため息を吐いた。雪乃を抱きしめた時の立ち眩みで、帰れるんじゃないかと少し期待してしまったが、単に緊張していただけなのだろう。
「となると、これから君はどうするんだ?」
カウンタで母さんの代わりに洗い物を再開させていた父が訊いてくる。今の所持金ではビジネスホテルには泊まれるだろうけれど、明日からの生活が大変になる。となると、ネットカフェ難民になるしかないのだろうか。
「どうするも何も、帰れるまで泊めてあげたらいいじゃないの。いいでしょ?」
僕が座っていたところに腰を下ろしている母さんは、父に振り返るとそう口調を強めた。
「そうだな。じゃあ、右手前の部屋を使っていいぞ」
「ありがとうございます!」
思わず僕は深くお辞儀した。これで少しの間は寝泊りする場所には困らない。本当に救われたと思った。
「当然だ。俺達、家族みたいなものだからな。それに、君の住む世界じゃ俺は父親だしさ。
寧子、彼に二階の右手前の部屋を紹介して欲しい。布団もよろしく頼んだ」
僕は玄関にあるスーツケースを開けて着替えを持って来てから、母さんと二階の何もない空き部屋に行った。そして、軽く掃除機をかけた後、布団を敷いたり小さな折りたたみ机を広げたりした。
「では、ゆっくりしてね。お風呂も一時間ぐらいしたら入っていいわ」
ひと段落つくと、母さんは部屋を閉めて出て行った。

来栖との会話

さて、明日の準備をしなくては。僕は布団の横で腰を下ろし、あぐらをかくと、右手で電話のジェスチャをした。本日二回目の来栖との通話だ。
「ご苦労さん、北杜君。あれから親の家には行けたのかね?」
相変わらずの長い発信音の後、来栖は朝と同じ部屋で通話に応じた。
「はい。午後に父母の家に到着しましたよ。で、家に泊めてもらうことになりました」
「ははは、良いじゃないか。では、私は……」
「まだ話があります!」
またもや来栖は通話を切ろうとしたので、僕は声を張ってそれを止めた。
「どうしたんだい。何か問題でもあったのかね? そうには見えないが……」
「さっき、父と母と姉を抱きしめたのですが、何の反応もなかったのです。正直、もうキーマンの候補は思いつきませんし、もしかしたら貴方がキーマンなのではないですか? それに貴方とは面を向かって話したい事もありますし、明日、どうか会わせて下さい」
僕は、声のトーンを落として、強い口調で来栖に頼んだ。
「……そうか、私に会いたい、か。まあ、日曜日だし丁度良い。私も北杜君と三次元空間で話しがしたいし、来れば良い。十時に湯河原駅で待ってるぞ。では明日」
すんなり、来栖は僕の頼みを了解してくれたが、僕が礼を言う前に彼は通話を切ってしまった。本当に来てくれるのかは怪しいが、ここは信じるしかない。
――湯河原。明日の行き先は定まった。

湯河原へ

僕らを乗せた熱海行きの列車は、朝日を浴びて輝く東京の街を潜り抜けながら走っていく。来栖に十時に来いと言われたので、僕らは七時くらいにふじみ野を出発したのだ。
もちろん、僕らと言うからには、今回の旅は一人ではない。雪乃も一緒について来た。僕から来て欲しいと誘った訳ではない。
「なんで、君は僕に着いて来たのかい?」
四人がけのボックスシートで、目の前に座っている雪乃に僕は尋ねた。彼女は呆れたように笑い、小さくため息を吐く。
「なんでも何も、雪弐のことやその世界のことをいろいろと知りたいからだよ。
それに、いたかもしれない弟くんとの時間を大切にしたいもの」
もちろん、一人で行くよりは心強いし、こっちも彼女と話したいことはある。雪乃がいてくれる事に差しさわりはないし、むしろ嬉しかった。
今朝は、起きて着替えてから下の階に行くと、白のレースのブラウスにカーキのキュロットパンツを履いた雪乃が、「行くんだよね」と、朝ごはんを用意してくれた。雪乃も今日は誰かとデートなのかなと思って訊いて見たら、「一緒に湯河原に行くんだよ」と言われて驚いた。確かに、昨夜は雪乃のいる所で母さんに、明日の予定を話したが、まさかついて来てくれるとは思いもよらなかった。
「君は、本当に一人っ子である事がもったいないよ。凄く姉らしい雰囲気なのに……」
僕は首を右に少し傾け、横目で車窓を眺めながら呟く。こうやって見ると、景色が吸い込まれて小さくなっていくように感じる。
「急にどうしたの? でも、お世辞でもそうやって言ってくれるとなんか嬉しいね」
雪乃は笑窪をつくって首を小さく傾げた。
「いや、お世辞とかじゃなくて……。昨日は君に迷惑かけるような言動をしたのに、優しく接してくれたから、そう思ったんだ」
「でも、そっちの世界では姉なんかいないよね。わたしはただお節介なだけだよ。あと、迷惑なんて雪弐はしていないと思うけど?」
雪乃はそう語尾を上げる。
「いやいや、昨日の夕飯のあと僕が帰るためにああいう事しなきゃいけないと言ったときに、君は嫌がっていたよ。ごめん」
「最初は、ね。だけど、結果としては迷惑なんかじゃ全くなかったよ。抱きしめて分かったけど、何と言うか、雪弐ってわたしの弟なんだろうなって感じられたし……」
昨夜のあれがあってからは、吹っ切れたのか、雪乃は僕の事を名前で呼び始めた。彼女が言いたいのは、より互いの距離が近付いたから結果オーライという事なのだろう。
「それと、風呂掃除のときは悪かったよ。君の世界でも親のいざこざがあったから、分かっていて僕を悪くないと言ってくれたのに突き放したりして」
あの時は、雪乃のことをよく分からないで言葉を発してしまったなと思い返す。離婚するまでは同じ時間を共有していたと言っても過言ではないのかもしれない。
「ああ、あれね。あの時はわたし、ちょっと悲しかったかなぁ」
「ごめん。でも、『きみのせいじゃない』と言った後に何か言おうとしたことが何となく予想ついたから、遮ってしまった」
その言葉を言い終える頃に、列車はゆっくりブレーキを踏んで、横浜駅に停車した。
「よく分かったね。何て言おうとしたと思う?」
「親のせいだよ、みたいな事かな。正直、父や母さんのことを悪く言う様なフレーズを聞きたくないって理由もあったから、話を逸らしたんだけどね」
列車は静かに発車し、ホームから遠ざかっていく。
「雪弐って親思いなのね。答えとしてはほとんど当たりかな。本当は、お父さんの……って言おうと思ったんだけど、悪く言うのは私も嫌だし、仮に口をはさまれなくても、何でもないって濁していたと思う」
雪乃は膝の上の赤茶のショルダバッグから、二本のペットボトル入りの紅茶と苺のチョコレートがかかったプレッツェル菓子を取り出した。
「ほら、一本あげるよ」
右手でキャップの所を掴んで雪乃は僕に紅茶を渡す。僕は、「ありがとう」と小さく頭を下げて、それを受け取った。
「でさ、昨日はあまり喋らなかったけれど、おとといの話を聞かせてほしいなぁ」
菓子の袋を開けながら、雪乃は僕に頼んだ。袋からは三本のプレッツェルが覗いている。雪乃は僕の手前で袋を一度上下させると、一本を差し出した。僕はそれをつまみ、そのまま口に運んだ。ふわりと濃厚な苺の甘酸っぱさが口の中に広がった。
「聞いても君にはあまり関係のない話だけど……」
「いいのいいの。雪弐がいる世界とそうでない世界を知りたいからね。先ずは、親友くんの話から聞きたいな」
松戸の話か。僕は二日前のことを思いだす。松戸には背後から声を掛けられたからびっくりした。でも、先ずは親友に会うまでのことを話すとしよう。
「その話の前に、この世界に来た当初は、自分が違う世界にいるとは気付かなかった」
「え、夢の中で今から会いに行く男が雪弐をここに連れて来たのに?」
「そうだけど、普通に考えたら夢の中の話なんか信じないでしょ。だから、朝起きて、僕の住む松江のアパートから千葉の実家に行くまで、ぜんぜん勘付かなかった」
「そっか、下宿先から実家に帰省する朝にその夢を見て、こっちに来たんだね。てっきり、夏休みで実家に帰って来た時にその夢を見て、実家のないこの世界に、荷物と一緒に降り立ったのかと思ったよ」
僕は雪乃が言ったことを頭の中で想像し、笑ってしまった。僕は空から降りて来た訳ではない。確かに、こっちに来る途中は暗闇の中で落下したような覚えがあるけれど。
「雪弐がちゃんと説明してくれないから、そう勘違いしちゃったんだよ」
雪乃は頬をふくらます。僕は、ごめんごめん、と平謝りした。
「でも、雪弐はこの世界では存在しない訳だし、こっちの世界ではアパートは借りてないのだから気付くんじゃないの?」
「それも今から会いに行く来栖が前もって、僕の部屋を借りて再現してくれたのだと思う。何時もの部屋と変わりなかった」
雪乃は納得した表情で頷きながら、プレッツェル菓子の二袋目を開ける。
「男って、来栖さんって人なんだ。それじゃあ、いつ気付いたの?」
「それは実家がないと分かって、近所の人を訪ねた後だね。近所の知り合いを尋ねたのに、実家は元からないとか、僕の事も知らないって言われて混乱していたら、来栖からメールがあったんだ。もう一つの世界はどうだいってね」
雪乃はプレッツェエルを前歯でかじって、目を丸くして僕の話を聞いている。
「なんというか、凄く衝撃的だね。夢だと思っていたのに、現実になってたのだから。わたしだったら、ひっくり返っちゃうよ。今聞いて頭に思い浮かべただけでもはらはらするのに……」
あの時は、僕もまさかとは思った。でも、状況を認めなければ何も始まらない。
「それで、僕は来栖から帰る方法を教えてもらって、一昨日から、僕を探し求めている人を探している訳なんだ」
「つまり、雪弐は運命の人を探す旅をしている途中なんだね」
その言い方はちょっと……と思ったけど、間違っている訳ではない。間もなく、列車はスピードを遅め、ホームへと滑り込んだ。茅ヶ崎駅だ。
「まあ、途中と言っても、期待していた候補は全部駄目だったけど……」
「こういうのって、盲目なんじゃないのかな。身近にいて気付かないとかね」
かの有名なバンドの一曲が発車メロディとして流れ、列車はゆっくりとホームから去っていく。
「じゃあ、君は誰が、僕を求めている人だと思う?」
ホームに立つ人々が小さくなっていくのを眺めながら僕は雪乃に尋ねた。
「誰だろう。わたしは、雪弐だと思ったんだけどね。それが違うって事は知っているけど、他の人なんか思いつかないよ」
「それは、どうしてかな」
顔を戻して、雪乃に視線を向ける。両手でペットボトルを握り、膝の上に置いている彼女も、僕に目線を合わせた。
「だって、ここの世界の人は雪弐のこと知らないもの」
自分がキーマンなんじゃないかと思った時と少し似たような考えを雪乃は口にした。
「僕も、自分ではないかと一昨日の夜は確信していたけど、間違いだった。
今、僕が望みをかけているのは、今から会いに行く来栖かな」
そのことを聞いた雪乃が、可笑しそうに含み笑いをして、「それって」と漏らす。
「あの、運命の人とか考えている訳じゃないから。君はさっき、この世界の人は僕を知らないって言ってくれたけど、少なくとも一人は前から確実に僕のことを知っていた」
「あ、そっか、いるね。来栖さんが」
「そう。で、なぜ、この世界にいない僕を来栖は知っているのか不思議なんだ。そう言うことを含めて、彼の所に行ったら色々と尋ねたいし、僕は、『この世界でただひとり、確実に僕を知る男』として来栖がキーマンなんじゃないかと疑っている」
僕はあごを引いて真面目な顔で、雪乃の両目を据えた。
「運命の人、じゃなくてキーマンね」
彼女は目を逸らして、車窓の方を眺めて呟く。列車は橋の上でがらがらと音を響かせ、相模川を渡っていく。遠くの方にも橋が一本あり、その先は河口が大きく広がっているように見える。海に続いているのだろうか。
「もし、来栖さんがキーマンじゃなかったら、雪弐はどうするの?」
橋を渡り終えた頃に、雪乃は顔をこちらに向けてトーン低めに尋ねてきた。
「その時は迷惑をかける事になるけど、明日にでも祖父母の所に連れて行って欲しい。それでも帰れなかったら……ごめん。まだ考えていない」
自分の膝に焦点を当てて、僕は答えた。おそらく、何をやっても駄目だった場合は来栖に責任を取ってもらう事になるだろう。そのくらい彼だって覚悟しているはずだ。
「あ、明日はわたし、友達と遊びに行くし親も仕事だよ。だから、行くとしたら今日か、あさってだね」
「じゃあ、もし駄目だったときは急だけど今日、祖父母の所にお邪魔させてもらうよ」
「分かったよ。それじゃ、もしかしたらって事でおじいちゃんとおばあちゃんの家にメールしておくね」
そう言って、雪乃はショルダバッグからスマグラを取り出すと、頭にかけて操作をし始めた。僕と違って、使う時だけ着用している。
「女性から見ると、スマグラって格好悪いのかな?」
取りとめもなく僕は訊いてみる。
「うーん、デザインは悪くないけど、ちょっと重いんだよね。眼鏡とは縁のない人生を送ってきたし、ずっとかけていると慣れないせいか鼻がつらい」
雪乃は小鼻の上あたりを右指で押さえて言った。確かに、スマグラは普通の眼鏡とはあまり変わらないものの、重量はある。でも、スマートフォンよりは使いやすいと思う。
「さてと、メール送っておいたよ。で、かなり話がずれちゃったけど、親友くんの話題に戻そっか」
スマグラを頭から外して、メガネケースに入れながら雪乃は松戸の話を僕に求めた。僕は、貰った紅茶のキャップを開けると、一口喉に通し、それから話を始めた。
いきなりこの世界の松戸とのやりとりを喋っても雪乃には面白くないと思ったので、元の世界での僕と松戸の関係を先ずざっと語る。雪乃は相槌を打ちながら聞いてくれた。
「――で、ここでの松戸くんは何が違ったの?」
「一番の違いは、医学部に現役で合格していたことかな。会った日も、大学帰りだったらしく、松戸とは外で会ったんだ」
「凄い違いだね。それ聞いて、雪弐のことだから、松戸くんが大学に落ちたのは自分のせいだとか思ったりしたんじゃないの?」
「うん、実際にそれを知ったときはそう思ったよ」
僕は少し顔を翳らせて答えた。
「……でも、こっちの松戸には、親友はおろか友人もあまりいないらしい。彼は一匹狼だったんだ」
顔を上げて、僕は雪乃の目をじっと見据える。
「つまり、雪弐の世界では松戸くんは友人を優先し、この世界では自分の事を優先したってことだね」
紅茶のボトルを両手で握って僕は頷く。
「松戸本人もそれを自覚していたし、本心では何人か友人がいれば良かったな、と言っていたよ。だけど、融通が利かないからって、どっちかを貫く生き方に絞ったらしい。
そして、松戸はどちらの自分も自己の選択に間違いはない、と語気を強めたんだ」
雪乃は唇を引っ込め、身をこちらに傾けて僕の話を聞いている。
「だから、この世界の松戸からそれを聞いて、僕は前向きに松戸との関係を受け止めることが出来た。僕と松戸が一緒に過ごした時間は、双方にとって無駄ではなかったと思えたからね」
僕は、落ち着いた声調で言葉を紡いだ。
「わたしも、友人と何かをしたって思い出って無駄ではないと思うの。遊びから喧嘩まで何でも、一緒に過ごした経験はぜんぶ価値があるものだよ。
それで、雪弐は松戸くんとこれからどう関わって行きたいの?」
急にそんな事を訊かれて僕は戸惑った。これからどうって言われても……。
「迷惑をかけることもあると思うけど、普通に、親友として大切にしていきたいかな。
少なくとも松戸は強い人だから僕を頼りにする事は少ないし、逆に僕が彼に救われる事の方が多かっただろうけど、これからは支えられる所は支えられたらなって考えてるよ」
雪乃は微笑んで、「そっか」と頷いた。
「あと、この世界の松戸については、一つ気になったことがあるんだ」
僕の発言に雪乃が、「何が気になったの」と話に乗る。
「来栖は確実に僕のことを前から知っているけど、松戸もまた、以前から僕を知っていたようなんだ」
「えっ、何で! それって本当なの?」
「確信は出来ないけど、松戸は夢の中で僕に何度か会った事があるらしい。それだからなのか、最初に会ったときから、そんなに彼は僕に対して警戒していなかった。まあ、夢だから何とも言えないけどね」
雪乃は、その話に結構驚いているようで、目を大きくさせている。
「それについても、来栖に会ったときに訊いてみるよ。松戸だけじゃなくて、高校の頃に良く通った定食屋の店長も、僕のことを知っているような素振りを見せたし……」
今思い出すと、あれらはかなり奇妙な話だ。怖い話という類ではないけれど、鳥肌の立つような気持ち悪さはあった。
「わたしも、実は夢の中で雪弐に会ったりしているのかな?」
雪乃はポツリと呟く。僕はどうだろう、と首を傾げて見せた。
松戸の話が終わる頃に、僕らを乗せた列車は小田原駅に到着した。あと十五分くらいで、目的地の湯河原だ。
「もう小田原なのかぁ、早いね。じゃあ、次は彼女さんの話をして欲しいけど、あんまり時間がないから、わたしからの質問に答えてほしいな」
僕はちょっと難しい顔をする。紗奈については口軽く喋っていいものではない。とは言っても、定食屋で彼女のことを幾つか漏らしてしまったので、そこの所は自分で判断して答えることにしよう。
「うん。あと、紗奈については、答えられないこともあるから」
「彼女さんの名前、紗奈ちゃんって言うんだ。あと、雪弐とお付き合いしている子の事だから何となく訳ありだなとは思ってるよ。でも、出来るだけ答えて欲しいなぁ」
雪乃は、ねだる様な口調で僕に回答を求めた。
「分かったけど、なぜ君はそこまでこんな事を知りたいのかい? この世界と僕のいる世界の違いを比べるのって、そんなに面白いのかな」
僕は帰れなかったらどうすると焦っている事もあるから、この世界と元の世界の違いを楽しむ心の余裕はない。帰れる保障さえあれば僕も両方の世界の差異を、間違い探しをするようにあれこれ見廻しながら滞在することが出来たのだろうか。
「雪弐に昨日会ったときは、二つの世界を知る人ってことで色々と聞きたいことがあったし、今も曝け出せばそういう欲はあるよ。
……でも、昨日の夜に雪弐が帰る為に人を探しているってことを聞いてからは、ね」
俯き加減で話していた雪乃は顔を起こすと、僕の両目に彼女の黒く澄んだ瞳を交わらせた。
「雪弐が探しているキーマンを見つけてあげようと思ったの。
――きっと、これが、わたしが雪弐に出来る、最初で最後の姉としての役目だから……」
僕はただただ彼女が言ってくれたことに言葉を失い、何も返事が出来ずにいた。雪乃の言葉は僕の頭の中で反復し、じょじょに咀嚼されて脳の中に溶けて行く。
「……ありがとう。本当に感謝するよ」
何てお礼すればいいのか良い言葉が思い浮かばず、やっとの事で僕が口にしたことはごくありふれた言葉。それでも、目の前の雪乃は満足そうに微笑んでいる。彼女は、僕が言葉に出来なかった感謝の気持ちを受け取ってくれたのだろう。
「どういたしまして。さて、さっそく紗奈ちゃんについて質問していくね。まず、初めて会った時のことを大まかに教えて」
僕は車窓に顔を逸らして何を言うか取捨選択していた。ちょうど列車は海沿いを走っており、西湘バイパスの高架橋が、太陽に照らされて輝く海に浮かんで見えた。
「僕と紗奈は、小学校は同じだったけれども、クラスは一度も同じにならなかったから、話したことなんてなかった。でも、小学六年の夏にある事があってから、僕らは一緒に過ごす事が多くなったよ」
列車は山がちな地形を走っているので、僕が話し始めるとトンネルに入った。僕は声を幾らか張りながら雪乃の質問に答えた。
「ありがとう。つまり、直に言わせてもらうけれど、雪弐と紗奈ちゃんが出会ってから一緒に過ごす事が多くなったって事は、もともと二人には友達が少なかったのかな?」
僕は反射的に顔をしかめる。でも、雪乃の推測は正しくて何も言い返せなかった。
「ごめんね。良くない言い方だったよ。で、ちょっと雪弐の事について訊きたいのだけど、小学校の頃ってどうだった?」
抽象的な質問を投げかけられ、小さく唸りながら、空と海の境界線を眺める。
「一言でまとめるならば、千葉に来てからの小学校生活は浮いていたよ。と言っても、特にいじめられることはなかったし、男子女子関係なく喋ったりすることも普通にあったけど……」
僕は車窓を眺めたまま呟く。続きを喋ろうとすると、列車はまた山の中へと潜って行き、用意していた台詞はノイズの中に消えたのであった。
「要するに、周りの子たちは雪弐の事を肌合いが違うって思っていたんじゃないかな」
トンネルから出ると直ぐに雪乃は僕に向かって口を開いた。つまりそう言う事と、僕は頷く。間もなく列車は海に臨む根津川駅に停車した。あと二駅で目的地だ。
「じゃあ、次の質問ね。紗奈ちゃんとはいつごろ付き合い始めたの?」
「中学一年の秋だね」
「会ってから、一年ってはやいね。で、どっちから告白したのかな?」
雪乃は興味津々に僕の方に身を傾ける。やはり女性だからか恋話に目がないのだろう。
「僕からだよ。で、紗奈の事を打ち明けると、彼女も僕の過去と同じ様に小学校入る前に親が離婚して、父が家から出て行ったんだ。それに加えて紗奈の家はあまりお金がなかったから、生活保護を受けて生活していた。付き合いたいって思ったのは、そんな彼女の事を守ってあげたかったからかな。……実際は、これも情けないけど紗奈には何かと助けられることがあったけれどね……」
根津川を発ってから、列車はトンネル内を走る事が多くなった。僕は声を張りながらも話を続ける。
「そんな僕だけど、これからも紗奈の事を、紗奈の未来を守っていきたい」
僕はそう語尾を強調させて紗奈への思いを雪乃に伝えた。直後、列車は長いトンネルを抜けて、真夏の陽気な日差しに照らされる。海は見えないけれども、青々とした木々がまばらに建つ家々を優しく包んでいる風景が車窓から見えた。
「そっか、いいお付き合いしてるね。しかも、よく考えてみると中学一年から付き合っているのだから、今年で七年だよね。凄い! 長続きの秘訣をぜひ教えて欲しいよ!」
雪乃は目の色を変えて興奮した表情で僕にせがんだ。でも、僕と紗奈が長く付き合えている理由を述べても、残念ながら雪乃の恋愛には関係のない話になるだろう。
「僕と紗奈が長続きしているのは、一つに、僕はチキンだから浮気をしないし、それを紗奈が分かってくれているから。で、もう一つは、僕らは親の離婚と言う経験を通して、別れると言う事に対して嫌悪感があるからかな。役に立てない回答でごめん……」
僕は頬を赤くして照れくさい態度で雪乃に教えた。
「やっぱり、同じ価値観を共有していると、付き合いって長続きするのかな?
急にこんな事聞いてごめんね。さて、もうあと一駅で着いちゃうから、最後にこっちの世界の紗奈ちゃんとの違いを聞きたいな」
真鶴駅から湯河原駅まではほんの三分ほどで着く。こちらの世界の紗奈の事は衝撃的過ぎて、且つここでは言い辛い内容だから、主観的な違いをざっくり言おう。
「……私見となるけど、この世界の紗奈に会って、僕は確信したよ。僕のいる世界の紗奈の方が幸せだとね。と言うのも比べれば、向こうの彼女の方が頭はいいし、友達は多いだろうし、彼女の母も元気だし、何より夢を持って努力しているからね」
僕は、幸せであろう理由を列挙してみせた。
「うーん、そうなった原因とか理由も教えて欲しいのだけれどなぁ。こっちの紗奈ちゃんには何があったの?」
「それは悪いけどちょっと言えない。抽象的だけれど、さっきの答えから想像してほしい」
雪乃は不満気な顔を僕に覗かせると、ショルダバッグに紅茶のペットボトルを入れたりして、列車から降りる準備を済ませた。
「電車の中だと話しにくい内容なら、また違うところで話そうよ。松戸くんの話は満足に聞けたけど、紗奈ちゃんの話は大雑把でまだじゅうぶんに聞けていないもの……」
そう言って、雪乃は席から立ち上がった。僕も急いでショルダバッグに貰った紅茶を入れると、彼女と一緒に戸口の前に並んだ。
それからいくらもしない裡に、僕らを乗せた列車は湯河原駅に無事到着した。ホームに降り立つと、いつの間にか雪乃は右手にスマグラを持っていて、左手でこっちと手招きする。傍によると、雪乃は僕の真左に来て肩をくっつけ、スマグラを持った右手を伸ばした。
「セイ、チーズ!」
雪乃がそう言うと、スマグラがパシャリと音を立てた。それから直ぐに雪乃はスマグラをかけると、満足そうな表情をした。
「僕らの写真を撮ったのかい?」
急に写真を撮られたので、僕は口を尖らす。
「だって、頼んでも了解してくれなさそうだもの。それに、わたしとしては、異世界から来た雪弐と名乗る弟を思い出に残しておきたいから」
まあ、何となくだがそう言う理由で撮ったのは分かっていた。僕は、「別にいいよ」と呟くと、そそくさと改札に向かって歩き始めたのであった。
改札を出て、周りを見渡しても十数台のタクシーが客を待っているだけで、来栖らしき人影は見られなかった。と言っても、待ち合わせの時間まではあと十分ほどある。
「思ったけど、ここってふじみ野と比べると涼しいよね。家を出てきた時よりも涼しいかも」
言われてみれば、ここはあまり暑くない。埼玉のサウナのような暑さがまるで嘘みたいだ。セミも鳴いてはいるが、耳障りに感じる程ではなかった。
「まだ来るまで時間がありそうだし、ちょっと行ってくるね」
雪乃はそう言うと、トイレの方へと足を向かわせて行った。僕は、売店の近くの邪魔にならない様な場所で突っ立って、スマグラをいじることにした。特に新着のメールは届いていないし、通知もなかった。しかし、この世界に来てから感じたのは妙にスマグラのバッテリの減りが早いなという事である。特に何も操作する事がなければ二日は充電なしでも大丈夫だが、こっちに来てからは一日に一回は充電している。
「お待たせー。まだ来てないよね」
雪乃は小走りで僕の方に駆け寄って来ると、そう声をかけた。
「まだだね。早ければあと五分くらいで来ると思うけど。それってガイドマップ?」
僕は雪乃の左手に握られている厚みのない観光情報誌を指差し尋ねる。
「うん、そこの売店の前に置いてあったよ」
雪乃は観光情報誌を僕の目の前で見せる。表紙には「まなづるゆがわら」のゴシック体の題字と、その下に打ち上げ花火の写真が大々と載っていた。
「観光とかしている時間はないと思うけど……」
「でも、せっかくここまで来たんだから……。終わった後に少しはいいでしょ?」
それを聞いた僕は僅かにため息を吐いて「あの」と切り出した。
「列車でも言ったけど、もしも来栖がキーマンだったら、会った後は君一人になるから観光するのは君の自由だよ。だけど、違ったら秩父まで行く事になると思うから、その時はこの近場のカフェとかで休憩するくらいになってしまうかもしれない」
雪乃は「あ、そっか……」と口ごもり、何故だか寂しそうな表情をする。
「自分の用事ばかり優先させてごめん……。それと、こんな事言ったばっかりだけど、おじいちゃん達からは返信は来たかい?」
「あ、ううん、まだ来てないよ。多分、お昼ごろにおじいちゃんからメールがあると思う」
僕の横で雪乃はかぶりを振りながら答える。彼女はショルダバッグを開けると、持っていた観光情報誌を折りたたんで、丁寧に仕舞った。それから僕と同じく、タクシーの並ぶ風景を共有したのであった。
まだ来ないのかなと、僕はスマグラで時刻を確認する。十時一分であった。
「来栖さん、まだかな」
雪乃も同じ事を思っているらしい。取り敢えず、あと五分は待ってみるか。

タクシー運ちゃん

と、前からワイシャツに黒のベストを羽織り、紺のスラックスを履いた四十代くらいで、ソフトリーゼントの髪型をした柄の悪そうなタクシー運転手がこちらにやって来た。
「そこのお姉さんとお兄さん、今からお帰り? って、お姉さん、前に会った事あるような……。あ、この前に越谷のショッピングセンタからふじみ野まで彼氏さんと帰った子じゃないですかい。これは奇遇で」
運転手はヤニで汚れた歯を見せて汚らしく笑い、挨拶する。右の胸には名札がつけられており、「蠣崎タクシー、蠣崎広忠(かきざき ひろただ)」とあった。
「あ、あの時の……」
「ええ、思い出してくれましたかい。んで、今朝はお客さんが湯河原までって言うので、さっきここまで送った所ですわ。もし、今から埼玉まで帰るなら乗っていきません?」
首を突き出して蠣崎は雪乃に尋ねた。まるでどこかのやくざみたいな素振りをするので、僕は身構えてしまった。しかし彼女は動揺せず、両手を前に出して拒否のサインを送った。
「あの、結構です。これから予定がありますので。それに前に乗ったとき、スピードを出したりよそ見をしたり、話ばかりかけてくるので、もうあまり利用したくないです」
雪乃はキッパリと言った。僕は眼をつけられるのではないかとヒヤヒヤしながら聞いていた。だが、蠣崎はその言葉に意地悪く声を上げて笑ったのであった。
「そうかい、そうかい。悪かったね。もしかして別れちゃったのっておじさんのせい?」
「……あの、勝手に別れたことにしないでください」
雪乃が面倒くさそうに冷めた態度で返した。
「じゃあ、その隣のお兄さんとはどんな関係なのかい?」
蠣崎が僕の事を手のひらで指して訊いた。雪乃は僕にちらりと視線を向けると、背中をポンと軽くたたいて口を開く。
「弟です。顔を見れば分かるでしょう」
雪乃の口調に迷いはなかった。僕もそれに同調して、二回ほど頷く。蠣崎はこちらに顔を近づけると、片目を瞑ってじろりと眺めた。緊張のせいか背筋に汗が流れて思わず身震いする。その後、今度は雪乃の方に目をやり、蠣崎は納得出来なさそうな表情をした。
「姉弟というよりはさ、双子っぽく見えるがね。まぁいいや。じゃ、また気が向いたらおじさんとこのタクシー使ってなぁ」
飽きたのか、蠣崎は身を翻すとタクシーが並ぶ方へと去って行った。僕は安堵のため息を吐いて、雪乃に顔を向ける。彼女も緊張から解放されたのか呆けていた。
「君って、強気な所あるよね。最初に会ったときもそうだったけれど」
僕は空を上目で眺めながら、先ほどの雪乃と蠣崎のやり取りを思い出す。視線の先には綿雲が一つたわやかに浮かんでいた。
「それは、中学高校と剣道部に入ってたからかな。それ以前から勝気な所はあったけどね」
――だから最初に会った時に雪乃は竹刀を握って僕を警戒していたのか。もし、やり取りを間違えていたら一本決められてしまう所だった。
「それにしても、さっきは堂々としていて格好良かったよ」
僕は顎を下げて雪乃の方に顔を向ける。雪乃は照れくさそうに微笑ったのであった。

ついに来栖やってくる

ついと、黒や白のタクシーが並ぶ所に、目を引く朱色で流線型の形をしたSUVがかなりのスピードで右から突入して来て僕らの前で止まった。まさか、これに乗っている人が来栖なのであろうか。運転席のドアが開くとルーフの向こうから、見覚えのあるグランジショートの頭が見えた。そして、頭をかきながら決まり悪そうに男はこちらに出てきた。黒縁眼鏡に白衣姿で、黒のVネックと茶色のチノパンを着こなしている彼は間違いなく、来栖吾朗であった。
「悪いね。県道七十五号線が予想以上に混雑していた」
そう言われても地元民ではないし、ここの道路事情は良く知らないので真偽の程は定かではない。でも、虚言を吐かれて来ないのではないかと思っていたので、実際に来栖が来てくれて本当に安心した。
「安堵のため息なんか吐かないでおくれよ。私が嘘なんかついた事があったかい?」
と、言われても僕は反応に困った。これまでの来栖の話が本当か嘘かは、難しすぎて僕自身では判断出来ないからだ。
「あの、貴方が来栖さんですか?」
雪乃が控えめに来栖に尋ねた。来栖は雪乃の方に顔を向ける。
「そうか、今日は雪乃さんも、来ているのだった。初めまして、私は来栖吾朗だ」
「こちらこそはじめまして。今日はお願いします」
来栖には、雪乃が一緒に付いて来ることを話した覚えはないのに、何故知っているのかと僕は疑問に思った。
「さあ、私の家まで行こうか。後ろに乗っていいぞ」
質問しようと思った矢先に来栖はSUVの手前の後部座席のドアを開けて、僕らを招いた。今日はじめて実際に会った人の車に乗るのは、多少不安であったがそんな事は言っていられない。僕は雪乃に振り返って目配せし、一度頷くと車に乗り込んだ。外と比べて中はキンキンに冷えており、思わず僕は身震いした。
車内は橙色の革張りのシートで、近未来的な雰囲気を醸し出していた。僕は右後部座席に座り、雪乃はその左に座る。緊張しているのか僕らは顔を見合わせるだけで、何も喋らなかった。間もなく来栖が運転席に腰掛けると、何も言わずにアクセルを深く踏み込み、車は急発進した。
「市街地に行く方は混んでいたが、逆は空いているから早く行けると思う」
来栖の運転するSUVは、夏休みの日曜日なのにシャッターを下ろした店が並ぶ市街地を駆けて行く。中心街を抜けて東海道線と新幹線の高架下を潜ると辺りは田舎っぽい景色に変化した。
「右に見えるのが、五所神社。歴史は詳しくないが、頼朝が平氏討伐の戦勝祈願をした神社らしい」
来栖に言われ右を向くと、大木が林立した厳かな神社が見えた。雪乃も僕の方にちょっと身を乗り出してその風景を見る。ふわりと髪から優しい香りがして僕の鼻をくすぐった。
それから少し走ると再び街に入った。周りの建物から判断してこちらは新市街地だろう。
「あと一分くらいで到着だ」
来栖はそう言うなり、ハンドルを急に右に回してY字路をUターンするように曲がった。その遠心力で僕の体は雪乃の方にピタリとくっ付いた。僕は囁く様に「ごめん」と言うと、彼女は「いいよ」と返してくれた。
曲がり終えると、車は急な坂道を登って行った。車窓を眺めると先ほど通ってきた街が太陽に照らされ眩しく見える。
「来栖さんの家は、病院の近くにあるんですか?」
左を眺めていた雪乃が来栖に尋ねた。僕も顔をそちらに向ける。その先には白く無機質で堅牢な総合病院が建っていた。
「ああ、病院の裏に家はあるよ」
来栖は淡々と答える。車は病院の敷地内かどうか不明瞭な所を走って行くと、間もなくブロック塀に囲まれた、白いコンクリート造りの家が二軒並ぶ敷地の前で止まった。
「お疲れ。君達は降りて、私が車庫入れするまでここで待っていて欲しい」
そう言われて、僕らは車から降りた。ミンミンゼミの合唱が僕らを出迎える。来栖の言う通り、家のすぐ背後には五階建てくらいの石竹色の病院が佇んでいた。車庫のシャッターが開き、バック駐車を一発で決めた後、来栖は僕らの所にやって来た。
「さて、この二軒が私の家だ。といっても右の家らしくない正方形の建物は研究所として使っている」
来栖は門扉の鍵を開けながら説明する。確かに右側に見える建物は窓が全くなくて箱みたいな造りをしている。一方で左の建物は屋根こそ平たいものの、窓もベランダもある二階建てのお洒落な家だ。僕らは来栖の後に着いて行き、左側の家にお邪魔した。
家に上がると、入ってすぐ左の応接間に僕らは通された。真っ白な壁に、黒のローテーブルを挟んだ両側には白いソファ。右が三人がけで左は一人がけだ。そして、右側の壁には西洋の街が描かれた絵画が飾られていた。ここは見覚えがある。昨日の朝と夜に通話した時に来栖が居た部屋だ。
「お洒落な部屋だね」
雪乃が独り言のように呟く。僕はそれに同調して、「うん」と頭を縦に振る。
「お待たせ。アイスコーヒを持ってきた」
来栖は、コーヒの入った三つのグラスをノートパソコンらしき上に乗せて持ってきた。「ここって昨日、貴方が通話の時にいた場所ですか?」
「ああ、そうだ。良く気付いたね」
コーヒを並べながら来栖は言った。
「パソコンが並んだ部屋の方は、隣の研究所にあるのですか?」
続けて僕は、初めて来栖と通話した時に彼が居た部屋の事を訊いてみた。
「ああ、監視塔のこ……」
「監視塔?」
その三文字に反応して、僕はすかさず口をはさんだ。いっぽう来栖の表情は強張る。
「いや、何でもない。忘れてくれ」
「もしかして、今まで僕の事を監視していたのですか? 今日、雪乃が付いてくる事は、貴方には伝えなかったのに明らかに知ってましたし……」
自分でも妙に勘が冴えているなと感じる。来栖はため息を吐くと、腰を浮かせた状態をやめて一人がけのソファに腰を下ろし、口を割った。
「北杜君にはやられたよ。ああ、パソコンが並んでいたあの部屋は監視塔だ。この世界に来てからの君の行動を私はあそこで見ていた。だから二回目からは君の通話に応じるときは、それを悟られないようにと、ここの部屋まで移動していたんだ。まあ、一回目もモニタを消すなどばれない様にしていたんだがね……」
「――で、何を使って監視していたのですか?」
そう問い掛けると、来栖はゆっくりと右人差し指を掲げて、僕の額辺りで止めた。
「北杜君のスマグラに付いているカメラとマイクで君の言動を見守らせて頂いた」
なるほど何時もよりバッテリが減るスピードが早かった訳だ。
「え、じゃあ、雪弐がここに来てから見てきた世界を知っているってことですか?」
雪乃はグラスを持って、来栖に目線を据えながら追求する。
「もちろん。仕事をしながら見ていたよ。これは実験の為に必要だった。自然に行動してもらう為にも伏せて言わなかった。北杜君、悪かったね」
「いえ、良い気分はしませんけれど、貴方の言う実験の為なら仕方ありません。でも、気付かれてよかったんですか」
「それは、気付かれないことに越した事はない。だが、ある程度は、実験は終わったし、後はこの世界から帰る際にそれを付けてくれればありがたい」
役に立たないよりは、立った方が良いし、そもそも僕からこの世界に来る事を望んだのだから、監視するなとは言えなかった。でも、実験体になっているからには、僕も来栖の事や研究について知る権利はあるだろう。僕はアイスコーヒを一口飲み、喉を潤すと口を開いた。
「それで、昨夜の電話でも話しましたが、今日、貴方の所を訪ねたのは、幾つか訊きたい事があるのと、キーマンかどうかを確かめさせてもらうためです」
「分かってるよ。この私も同じく北杜君に会いたかった所だ。今日は宜しく」
来栖は穏やかな表情でそう言うと、右手をこちらに差し出した。僕も彼に視線を置き、右手を出してしっかりと握手する。レンズの奥で、彼の唐茶の目が透き通って見えた。
それから来栖は、ゆっくり握る手を離した後、今度は雪乃へと移した。彼女は笑顔をつくり握手を交わすと、「よろしくお願いします」と挨拶した。

なぜ連れてきたのか

「では、質問と行きますが、なぜ貴方は僕を選んでこの世界に連れて来たのですか? 昨日の昼の電話では、僕が一番適正だからとか言っておりましたけど、その理由を詳しく聞かせてください」
来栖は、わざとらしく咳払いをして、顎を触った。
「いきなりコアな質問をして来るね。もちろん、答えるよ。でもまず、理系じゃない北杜君には面白くないかもしれないが、君をこの世界に連れて来るまでの話をさせて欲しい」
「それも聞きたいので、構いません。貴方がどうしてこの様な研究をしているのかも知りたいですし……」
それを聞いて来栖は満足そうな表情を浮かべると、眼鏡を正して話を切り出した。
「何となく勘付いているかもしれないが、私は元々、直ぐそこの病院で脳神経外科をしていた。まあ、今でも非常勤医として週一で働いているがね」
医者か。てっきり、発明家かどこかの研究員かと思った。でも、家がこんな所にあるのは、そう言う理由からなのだろう。
「そんな意外そうな視線を二人とも送らないでくれ。で、私はその傍ら、ヒトが睡眠中に見る夢についての研究もしていた。当時の私の到達点としては夢を見る原理の解明だった」
「夢を見る原理って、その日にあった出来事を整理するってものですよね」
雪乃が確認するような口調で言った。僕もそれは聞いた事がある。
「良く知っているね。私が研究した所、浅い眠りで身体は休んでいるが、脳が活発に動いているレム睡眠に見る夢の場合は、雪乃さんの言う通り、記憶の整理が行われる事が分かった。これは従来の仮説通りだから、判明した所であんまり面白味がなかったよ」
来栖は淡々と言い、コーヒを飲む。
「――しかし、深い眠りで脳も身体も休んでいる状態であるノンレム睡眠の時に見る夢については、驚くべき事が判明した」
声のトーンを下げ、前傾姿勢になって来栖は僕と雪乃の顔を交互に見据えた。急に表情を変えたので、僕は息を呑んで下に視線をずらす。コーヒグラスの周りに付いた水滴が下へジロリと落ちて行くのが見えた。
「ノンレム睡眠の時って、脳が休んでいるのに夢って見たりするのですか?」
そんな沈黙を破って、雪乃は尋ねた。来栖は顎を撫でると姿勢を戻した。
「良い質問だね。もちろん脳が休んでいようと、夢は見る。ノンレム睡眠の時に見た夢ってのは、脳が休んでいて大脳の皮質活動が低下しているから思い出せないだけだ」
僕は「へぇ」と言う感嘆詞を漏らす。説明を終えると再び来栖は姿勢をこちらに傾けた。
「――で、研究の結果、ある事が判明した。
それは、ノンレム睡眠の時は平行世界の自分と接続していると言う事だ。そしてその時に見ている夢は、違う世界の自分の記憶である……」
来栖はニヤリと笑った。きっと、彼にとっては面白くて致し方ないのだろう。
「選択を間違えたら、これは発見出来なかった。睡眠の計測に関し、新しい脳波計を買う事になったが、最新式で医師の評判も良い脳波計か、発明されたばかりで値段も高いし評判も悪い三次元で測る脳波計という選択肢があった。私はメンバーの反対を押し切って後者を選んだ。使ってみると、X軸とY軸に関しては普通の脳波計として機能した。
が、問題はZ軸の動きだった。これが何を意味しているのかは発明者も知らないらしく、まずはそれの解明から我々の研究はスタートした。すると、法則性があるのを見つけて、それは覚醒時と、レム睡眠の時に常に観測出来た。しかし、ノンレム睡眠になると急にその法則性は壊れた。波形はバラバラだし、規則性も何もないように見えた。だが沢山の脳波を見て行く裡に、入眠直後に起こるノンレム睡眠は多種多様な規則性があることや、それらの波形になるまでに脳が何らかの波形に合わせようとチャネリングを繰り返している事が分かった。
それが明らかになって、私は確信した。Z軸上の脳波は世界の振動をあらわしている。つまり、ノンレム睡眠時は、平行世界の自分につながっているのだ……と」
語り終えると、来栖は感慨にふけって、気持ち悪い程にきらきらと目を輝かせていた。一方で僕は途中から話が難しくなって、何を説明しているのか余り理解出来ずに呆然としていた。
「つ、つまり、知らない人が夢に出てくるのは、違う自分が会っているからですか?」
「その可能性はあるね。まあ、レム睡眠中に意識では忘れている記憶が、無意識から掘り起こされて、そう勘違いすることもあるが……」
「では、この世界で、親友の松戸や元の世界でよく食べに行ってた定食屋の店長を訪れた時は、僕の事を知っている様な発言をしていたのですが、それは彼らが平行世界で僕がいる世界と繋がったからと言えますか?」
その質問に来栖は、あれの事かと知っている様な素振りを見せた。
「ああ、松戸君が言っていた事に関しては明らかにそうだろう。また、この世界の君の母も、本能とかではなくて睡眠中に良く君の夢を見ていたのだろうな」
けど、この世界の母さんの場合は、本能のお陰で直ぐに僕と打ち解け合えたのだと思う。
「それで続きだが、その後、この研究結果は学会には行かず、代わりに文科省に行った。時の大臣は私の功績を認めてくれて、研究に対し補助金を出すことになった。それが、十一年前の事だった。私は、研究に没頭するため、そこの病院の常勤をやめて非常勤になった。そして次の研究ステージとして、私が掲げたのは、脳波振動装置の発明。いわゆる、ノンレム睡眠の状態を機械で作り、任意の平行世界の自分の記憶に接続する装置だ」
来栖が熱弁している間、僕はちらと雪乃の方を見た。なんと、彼女は食い入る様に聞いていた。所属が看護学科とか言っていたから、この類の話に興味があるのかもしれない。
「……研究開発を始めたら直ぐに政権交代されて、危うく研究が仕分けされそうになったが、なんとか首の皮一枚で繋がった。我々は、アメリカの神経科学者のT博士らと協力しながら、脳波振動装置を八年かけて完成させたんだ」
胸を張りながら誇らしそうにすると、来栖は膝の上に置いていたノートパソコンを開いて、画面に卵が横に三つ並んだ様な形の装置を映した。とても未来的なデザインだ。
「実際出来たのは、当初目標にしていた性能を遥かに上回る装置だった。ノンレム睡眠中の平行世界の自分の記憶にリンクする事はもちろん、この世界の他の人の記憶や、更には座標さえ特定できれば、平行世界の他人の記憶を見る事も出来る」
「じゃあ、この装置でも僕の記憶を見る事が出来るのですね」
僕は口を尖らして言った。悪用すれば恐ろしい装置だ。
「まあ、ノンレム睡眠中に限るがね。それに、少し動かすだけでかなり金を食うし、意識中にある記憶だけを見る事が出来るから、この世界での君の行動を見る時は、スマグラを使わせてもらったよ。
……で、応用させればこの装置はもっと凄い事に使える事が分かった」
質問に答えるなり、来栖はこの装置の自慢話を再開させた。
「なんと、記憶を見るだけではなく、夢の中に入って会話することも出来る!」
「――――つまり、三日前の夜、貴方は僕の夢の中に入っていたんですか?」
目の前の来栖は、にんまり笑みを浮かべて大きく頷いた。
「ああ、あれを見届けた後、君の夢の中にお邪魔させて頂いた」
……まさか、あの悪夢を来栖は眺めていたのだろうか。
「で、装置を完成させて、文科省に報告したら、それをつてに高エネの研究員が装置を見たいと依頼があった。で、見せたら、彼らが秘密裏に開発した量子振動装置、分かり易く言うと他の平行世界に物体を送る機械と合体しようって話になった」
「もしかして、その量子振動装置を使って僕を送ったのですか?」
どうやら凄い研究に僕も何時の間にか巻き込まれていたようだ。
「うーん。結論から言わせて貰うと、脳波振動装置と量子振動装置を合体させたのは、人間を生きたまま平行世界に送れるようにする為だ。もし、量子振動装置だけで君の事を送ったら、体だけ綺麗に送られてきて、脳波等の電気信号は送られてこないから、死体になってしまう。実際にマウスで実験した時は綺麗に魂だけ抜けてしまったらしい」
「……まとめると、来栖さん達の発明した装置には、魂を異世界に送る機能もあったってことですか?」
来栖は雪乃に顔を向け、研究者らしいニヒルな笑みを浮かべた。
「ずばりその通り。合体後、まずは猫を平行世界に送って戻す実験を行い成功させた。次に、実際にヒトを平行世界に送るか、平行世界からこちらへと送る実験をする事になった」
「――ちょっと待って下さい」
僕は声を張って来栖の話をいったん中断させた。
「今、猫を平行世界に送ってから戻す実験に成功したとか言ってましたよね。猫はその猫を求める者を見つけられたのですか?」
来栖は、ため息を吐いて目を細めた。
「ははは、そこか。生きて平行世界に送ることには成功したが、もちろん猫はキーマンを見つける事が出来ないので、量子振動装置だけを使ってこちらに戻した。言うまでもなく、魂はすっぽり抜けてしまった……」
どうやら、体だけ元の世界に帰る事は出来るらしい。もちろんそんな帰り方は嫌だ。
「話しを戻すが、二つの世界間で人間を移動させるにあたり、万一を考えて、この世界から人間を送る実験はしないと決まった。つまり、違う世界からこちらに人間を連れて来る方針で一致した。そして、その人間の選択はこの私に一任されたのだ」
来栖は横目で僕を睨むように視線を送った。
「漸く、僕を選んだ理由の話になりますね……」
「ああ、ついついこれまでの研究の話に盛り上がってしまった。待たせたね」
来栖はノートパソコンを閉じて膝上に置いた。
「連れて来る人間を選ぶことになり、私は適当に違う平行世界の周波数を設定して、その世界に存在する自分の記憶を見る事にした。
……いざ記憶を見たら驚いたよ。私にはこんな人生もあったのか、と」
「それはどんな、人生だったのですか?」
雪乃が小首を傾げて上目遣いに尋ねる。
「普通の脳神経外科医としてそこで働いて、家族三人で普通に暮らす世界だ」
「もしかして、貴方には今、奥さんとかいないのですか?」
両肩を緊張させる来栖に、僕は訊いてみた。
「あ、ああ。いない。やはり研究の道をゆく者は忙しくて、婚活する暇などないのだ。だが、その世界の私は、妻に加え、息子まで持っており本当に幸せな生活を送っていた。この私には、それが全く想像できなかった。どの世界の私も研究の道を歩んでいるものと思ったからね。だから最初はその世界の自分をこの世界に連れて来ようと思った」
来栖はコーヒを飲む。僕も飲もうかと思ったがタイミングが掴めなかった。
「でも、私は自分を連れて来るのは止めた。連れて来た所でどんな行動をするか見当が尽くし面白くない。私は次に、その世界の自分の妻の記憶に入った。
妻の脳内を見て私は驚いた。私の記憶に入った時は、何処にでもある幸せそうな三人家族のイメージしか見られなかったが、その妻の記憶は全く違うものだったからね」
来栖は、感慨深そうにため息を吐いて、一呼吸置いた。彼は何を見たのだろうか。
「三人家族の筈なのに、彼女の記憶には一人子どもが多いんだ。その世界の私の記憶にはない男児が一人ね。で、探りを入れると、妻はバツイチだった。加えて彼女は初めて産んだ子供を前夫の家に一人残して出て行った。男児の正体は初めて産んだ子供だったのだ。
でさ、男の私にはあまり分からないが、その子の事が心配で心配でしょうがないのだろう。もう、彼女の脳内の半分くらいは初息子の事で覆われていたよ。産んでから初めて抱いた時のこと、離乳食を食べさせた時とか、初めて立った時の事、挙げきれない程に彼女の脳内はその子との記憶が浮かんでいた。子が生まれてからたった四年の付き合いだが、彼女は今でも、その息子の事を想っている。――寧子さんは今でも、雪弐君のことを追憶しては、無事に、健やかに育って欲しいと祈っている……」
来栖は落ち着いた口調で言葉を紡いだ。僕の瞼はすっかり熱くなっていた。ちらと顔を右に向けると、雪乃は俯いて両手で目元を隠している。一粒の涙が左腕を伝って肘から落ちて行くのが見えた。
「話を続けてください……」
僕は少々赤くなっているであろう眼を来栖に向けて、静かな声で伝えた。
「寧子さんの記憶を一通り見た後、私はこの世界の彼女を調べた。彼女は前夫と離婚はしていなかった。また、二人の間には向こうの世界には存在しない雪乃さんが娘として産まれていた。だが……その代わり雪弐君は生まれておらず、存在していなかった。
この時点で私は、雪弐君をこの世界に連れて来させたくなった。それから、君の記憶に入って、どんな生き方をこれまでして来たのかを覗いた時、私は決心した。
北杜雪弐を披験体にする、と……」
僕は大きく息を呑み、沈黙の中、来栖の次の言葉を待つ。
「つまり、北杜君を選んだのは二つの理由からだ。一つは、単純にこの世界にいない人間を連れて来たらどんな変化を及ぼすか観察したかったから。二つ目に、君にはこの世界に来て貰い、真実を知って欲しかった。そして、この世界を眺め、色々と知った君がどう変わるかを見てみたかった。実験目的は二つの世界間で生存したまま人間を移動させる事だが、それだけではつまらないから、この状況を最大限に活用したくて、色々と訳ありな君を選んだのだ」
両手を広げて、来栖は説明を終えた。
「で、僕が来て、世界は何か変わったのですか?」
「今の所は分からない。だが、君が来なかったら起きなかったであろう事がこの先、明らかになっていく筈だ。特に松戸君の今後は気になる所だね」
松戸の「夢へ導いてくれて、ありがとな」と言うフレーズが脳裏を過ぎる。僕との出会いが今後、この世界に住む彼の未来を変えるのだろうか……。
「あの、来栖さんには、この世界に来た雪弐がどう変わった様に見えますか?」
雪乃の質問に、来栖は眼鏡を整えながら「それだ」と言って格好つけた。
「私から北杜君には、ここに来た君がどう変わったかを今日は伝えたかった所だ。雪乃さん、回答の場を作ってくれてありがとう」
僕がどう変化したか……か。確かに自分はここに来て少しは変わったように感じている。
「北杜君はここに来てかなり変わったよ。しかも私が驚くくらい、かなりのスピードで。でも、よくよく考えれば、君の場合は直ぐに良い方向へと変われるような条件だった。なぜなら、君は勘違いと思い込みの過去に囚われているだけだったからだ」
「勘違いと、思い込み?」
「ああ。父と母の離婚から始まる、自分のせいだと言う思い違いが、君の表面を悲観主義的にしたのだ。それは自分の悪い所ばかり見つめて、親友や彼女との関係に自信が持てないと言った様な影響を及ぼした。だが、ここに来て、君は自分の勘違いに早い段階で気付けた。まあ、この世界の親友と彼女が良い事を言ってくれたからだろう」
一昨日、彼らに会った時の事が瞼の裏に浮かんだ。来栖の言う通り、彼らとの出会いは僕に大切な事を教えてくれた。僕の存在意義を明らかにしたのだ。
「勘違いと思い込みに少し気付いた君は、悲観主義的な殻を割り捨てた。中から頭をもたげたのは、おそらく君がなりたいと思った自分の姿だったのだろう。私は一日目と二日目の北杜君の変わり様にかなり驚いたよ」
「そんなに変わったのですか?」
目を見開いて話す来栖に同調するように、雪乃は尋ねた。
「ああ。親友と彼女の出会いが、彼の心に自己肯定観を起爆させたのだろう。北杜君は、自分自身の存在を認め、自らの意思で主体的かつ合理的な生き方をしようとする実存主義者へと変化した」
話が盛られている様な気がするが、来栖の言っている事は間違いではない。帰れなかったが、一日目の夜に自分を抱きしめた時に、僕は自己を認めることが出来たのだと思う。今までなら自分の腕で自身の体を大切に抱き、体温を感じるあんな格好なんて、気持ち悪くて出来なかっただろう。また、自分の存在意義を何となくだが見出せたお陰で、重圧をかけていた何かが無くなった様に感じた。
「くさい言い方ですが、この世界で僕は自分を再発見する事ができました」
「それは良かった。私は君を選んで正解だったよ。この調子でこれからは自分の意思で未来をつくって行けばいいんだ。ところで、北杜君には将来の夢はあるかい?」
「はい。社会福祉協議会の職員になり、子ども達の未来をつくりたいですね」
ここに来てから将来の夢を他人に話したのは二度目だ。
「ならそこに向かって頑張れ。我々は、自分で望んだ道をゆけるのだから――」
偉そうに声を張る来栖であったが、僕にはそれがエールに聞こえた。ふと、初日に通った小さな駅が脳裏をかすめた。……あの駅は、人を乗り降りさせる為に作り出された。悪く言えば駅には自由がない。だが、僕は自由に自己のカタチを作り出せる。あの駅と違い、使用されなくなったら終わりではないのだ。
「そして昨日は雪乃さんやその親に出会い、離婚に関する君の勘違いを払拭し、先程、私が寧子さんの今を話したことで、十分すぎるほどに北杜君は解放された!」
来栖の部屋中に勢いある声が響く。僕はなんだか恥ずかしくなって、顔が熱くなった。
「あと、最後に一つ、私からアドバイスさせて欲しい事がある。北杜君は良く分かっているかもしれないが、人は相互作用をしながら生きている。言い換えると、我々のパーソナリティは親や友人、先生に著名人など色々な人の影響を受けて形成されている。加えて、人間には無意識が存在し、我々はある程度それに束縛されている状態にある。つまり、さっきの話と矛盾してしまうが、自分の意思を百パーセント貫き通すのは難しい。だから、仮に自分の存在意義が不安定になることがあっても、また悲観主義的な思考になるなよ」
僕は彼の言葉を受け止め、深く頷いた。それから自ら右手を来栖の方に差し出す。来栖は歯を見せて自然に笑い、僕の右手をしっかりと握った。
「ありがとうございます」
握る手を振りながら僕は感謝の一言を口にした。最初は来栖の事を面倒臭い人だなと思っていたが、面を向かって話してみると、意外にも思慮深く快活で、好感を覚える人柄であった。

来栖に抱き着く

「それでは、キーマンかどうか確かめさせて下さい」
僕はソファから立ち上がり、来栖に願った。ちらとローテーブルの上のアイスコーヒに視線を向ける。すっかり氷は溶け、コーヒは薄くなっていた。
来栖は、咳払いすると立ち上がって、両手を前に突き出した。
「そう急がない。実は、北杜君にはもう一つ頼みごとがあって、この世界に連れて来た」
頼みごと? それは一体何だろうか。
来栖は、白衣の胸ポケットに右手を入れ、USBメモリをつまみ出すと、僕に差し出した。僕は、それを丁寧に両手で受け取り、目の前で眺めた。漆黒で質感が高級そうに見える以外はどこにでもありそうなUSBメモリだ。雪乃も立ち上がって、僕のそばに寄る。
「この中に頼みごとが書かれているのですか?」
僕がそう尋ねると、来栖は小馬鹿にしたように鼻から息を漏らした。
「面白い事を言うね。頼みごとは私の口から言う。とても簡単な事だ」
それは……。
「北杜君。君の住む世界に帰ったら、いま渡したメモリを親友の松戸健君に届けて欲しい」
真剣な表情を向けて来たので、思わず僕は「分かりました」と神妙な面持ちで返事した。そして、右手に握るUSBメモリを再び見つめる。この中には何が入っているのだろうか。
「なぜ松戸にこれを届けて欲しいのですか?」
ストレートには訊かなかった。
「松戸君の夢は知っているだろう。人を死の恐怖から解放させたいだっけか。そのメモリの中には私の研究レポートが幾つかある。松戸君に役に立つレポートだ。そこらの人間じゃ閲覧出来ないものもある」
「そんな大切な物をいいのですか?」
「ああ。本当に必要とする人間に見せるのは構わない。だが、私の研究は極秘事項扱いされるばかりで、この世界じゃ公開したくても出来ないからね。だから君の世界に託す。そうすれば、特定秘密保護法で逮捕される事もない」
来栖は体を横に向けて淡々と言葉を発した。その表情は寂しそうにも見えた。
「…………では、僕の住む世界に帰ったら、松戸に渡しておきます」
「宜しく頼んだ。松戸君の事は期待しているから――」
僕も同感、と言うように首を縦に振った。
「今日は、ありがとう。北杜君も雪乃さんもはるばる湯河原まで来てくれて。
――さて、実験を始めるか!」
勢い良く来栖は手を横に払い、声を張る。僕はUSBメモリをサブリナパンツのポケットに仕舞うと、ショルダバッグを肩に掛けた。
「それではお願いします。あ、あと、僕のスーツケースも向こうの世界に戻りますか?」
「ああ、大丈夫だ。ふじみ野の家の玄関に置いて来たスーツケースは、あちらの世界のふじみ野の祖父母の家の玄関に送られるよ」
来栖はそう言って目を細めた。きっと、急に僕のスーツケースが送られてきたら、おじいちゃんやおばあちゃんはびっくりするだろう。
一拍置いて、僕は一歩前に出て来栖に近付いた。
「雪乃さん、彼が帰る前に何か言わないのかい?」
来栖のすすめに雪乃は控えめに、「そうだよね」と呟いた。雪乃は僕の横に立ったので、僕も体を横に向けて彼女と向き合った。
「……二日間、ありがとね。最初、雪弐の事を見たときは、完全に挙動不審な人って思ったけれど、一か八かで家に入れてよかったよ。だって、わたしもこの二日間で改めて、自分ってものを見つめ直すことができたからね。雪弐はわたしの……。ううん、何でもない。それじゃあ、またね」
そう言うなり雪乃は僕の頭を撫でた。僕は恥ずかしくなって、頭を振りながら俯く。
「こちらこそ、ありがとう。あの時、僕の事を信じてくれて。君のお陰で、家族について本当のことを知ることが出来た。君は僕のことを救ってくれた。……この恩は忘れない。ありがとう、また……」
雪乃はまたねと言ったので、さようならとは言えなかった。僕は顔を上げて、笑った表情を雪乃に届ける。言葉で言い表せなかった感謝を顔で伝えるために……。
雪乃も優しく微笑み返してくれた。僕は小さく頭を下げると、来栖の方に体を戻した。
「私も、最後に北杜君に別れの言葉でも告げたい所だが、雪乃さんみたいに、喋るのが得意ではないので、君にはこれを渡すよ」
来栖は白衣の裏ポケットから茶封筒を取り出して、僕にサッと渡した。僕は目を瞬きさせて驚いた表情を来栖に向けると、右手でそっと受け取った。
「ここで読んでいいですか?」
「それは恥ずかしいな。君の住む所に帰ったらゆっくり読むといい」
そう言われたので、僕はショルダバッグに封筒を入れた。
「よし。私は準備完了だ。北杜君の心の準備が整い次第、抱きつきたまえ」
来栖は両手を広げて、格好つける。彼の言葉に僕と雪乃はクスリと微笑った。
――そして、僕は来栖の体に向かって飛び込むように抱きしめた。
「やはり、貴方は最初から、キーマンを知っていたのではないですか?」
僕の呟きに、来栖は笑って「違うよ」と答えたのであった。

これからどうしよう

長い下り坂。右にはコンクリートの壁が迫り、その上に病院がどっしりと構えている。
僕はもと来た道を戻っていた。
否、違う。僕の少し先には雪乃が歩いているから、「僕ら」が正しいだろう。
――――つまり、僕は帰ることが出来なかったのだ。
それを嘲笑うかのように、アブラゼミがジジジと鳴いている。
今の僕には次のキーマンを考える心の余裕などはなかった。来栖がキーマンではない事が分かった時のあの気まずい雰囲気の余韻が脳と心臓に負担をかけていたからだ。
来栖も内心、自分がキーマンだと思っていたらしい。僕がこの世界から去らず、何の変化もない様を見てかなりうろたえていた。だが、これで来栖が本当にキーマンを知らない事は明らかになり、僕はこれまで疑った事を謝ったのであった。そして来栖もまた、誰がキーマンかの仮説を立てていた事を告白し、申し訳なさそうにしていた。なぜなら、彼の仮説は全部、外れていたからだ。五人候補を挙げており、まず僕を可能性大として挙げていた。だが、外れ。来栖に自分はキーマンではなかったと近況報告をした時、妙に戸惑った受け答えをしていたのはそう言う理由からなのだろう。次の候補として、雪乃の事を挙げていたが、これも昨夜に見事失敗。そのあと僕の両親を挙げ、加えて来栖自身もキーマンの候補として列挙していた。
帰り際、来栖は湯河原駅まで送って行くよと言ってくれたが、雪乃がそれを断ったので、こうやっていま僕らは歩いている。おそらく、僕のことを配慮してそうしたのであろう。これからバスに乗って帰るのだろうが、来栖の所を発ってから雪乃とは一言も喋っていないので実際の所は分からない。
坂を下って県道に当たると、雪乃は横断歩道を渡って右にあるバス停で止まった。
「そっちは、駅の方向とは逆だけど?」
向かい側にあるバス停を指差し僕は雪乃に喋りかけた。雪乃は安心した表情を見せると、小さくため息を吐いて僕に目を合わせる。
「漸くわたしに喋りかけてくれたね。どうしたのだろうって思ってたからよかった」
「……またねって言ったから、話し辛かったんだ」
そんな事かと雪乃は笑う。でも、僕からすればあんな事を言った後だったから気まずかったのだ。
「まあ、わたしも喋り辛かったから雪弐のこと、言えないけどね。だけど、さっきので雪弐がわたしに対して思っていたことを知れてよかったよ」
口にしたあの言葉を思い出し、僕は恥ずかしくて顔が赤くなった。
「あれは、その……」
言いかえす言葉が見つからず、僕は詰まってしまった。雪乃はいたずらに笑う。その後、僕からちょっと視線を逸らして焦点を遠のかせると「あ、来たよ」と呟いた。後ろを振り返ると、右からクリーム色で赤のラインが入ったバスがやって来た。
「だからこっちは駅とは逆だけど……」
「分かってるよ。ちょっと行った先に安くお昼を食べられる所があるから、今からそこに行くの」
おそらくこのまま雪乃のペースについて行ったら、湯河原観光をすることになるような気がした。間もなくバスは到着し、僕らは整理券を取って乗車した。
「おじいちゃんの所からまだメールは来ていないのかい?」
乗るなり僕は雪乃に尋ねた。ちょうど正午前だし、返信があってもおかしくないはずだ。
「うん、おじいちゃんからさっきメールあったよ。来てもいいって……」
それを聞いて僕はつい「よかった」と漏らした。
「まだ、話は終わってないよ。
だけどその代わり、湯河原ではちょっとわたしに時間をくれないかな」
「それは、観光がしたいから?」
「そんな理由じゃないよ。電車の中とかじゃなくて、雪弐と落ち着いた雰囲気の場所で話しがしたいから……」
「秩父に行く時間に差し支える事がないなら別にいいけど」
「ありがとね、雪弐。じゃあ、そろそろ降りるよ」
そう言って、雪乃は停車ボタンを押す。乗ってから三分も経っていなかった。
公園入口のバス停で降りて、僕らは日帰り温泉の看板が四つほど並ぶ角を左に曲がる。
「昼はここでごはんにしようと思っているの」
雪乃がその看板の一つを指差した。が、僕はその右隣りの看板に目が入った。二・二六事件の時に東京以外で唯一の現場となった旅館の案内だ。と、脇を見ると雪乃は既に上り坂を登っており、橋に差し掛かっていた。小走りで雪乃に追いつき、僕はその少し後ろを歩く。セミの鳴き声に混じって、川がせせらいでいた。
橋を渡り終えると右側に看板の案内があった旅館が、石垣としっくい塀に守られて静かに佇んでいた。それから僕らは急な上り坂が続くタイル状の道を進んで行った。
「あそこだと思うから、あともうすぐだね」
道が急カーブしている所で立ち止まって、雪乃は髪をかき上げる。石垣に挟まれた道の先には寄棟屋根の建物が見えた。
行き着いた所は日帰り温泉で、食事がメインではないが観光情報誌によれば安くて美味しいらしい。僕らは館内に入ると、食堂に直行した。
昼時だからか、食堂にはそれなりに人がいた。適当に窓側のテーブルを陣取って竹編みの椅子に腰掛けると、お品書きの片端を二人で持ちながら何を食べるか選んだ。
「湯河原温泉のご当地グルメは坦々やきそばらしいけど、僕は万葉そばのざるにしよう」
「もしかして、雪弐ってやきそば苦手?」
雪乃は僕の方を向いて囁くように尋ねた。意外にも顔が近くて驚いたが、こうやって間近で眺めてみると本当に自分と似ているなと思った。
「どうしたの? わたしの顔に何か付いているの?」
「いや、似ているなって思って……」
僕は雪乃から顔を逸らして窓の方に視線を移す。山並みが青く綺麗に映えていた。
「だって血が繋がっているもの。それで、さっきの答えは?」
「やきそばは、嫌いじゃないけど、進んで食べようとは思わない」
僕がそう言うと、雪乃は手を合わせて目を丸くした。
「わたしも同じ! やきそばは飽きが来るからあまり食べないかな。てことで、わたしは桜海老の天そばにするね」
注文を終えると、僕は背もたれに深く腰を下ろして、天井をぼんやり見上げた。
「だいぶ疲れが溜まっているようだね」
「ああ。上手くいかないからなぁ。でも、まだあてが尽きた訳じゃないから大丈夫だ」
そうは言ったものの、自信はない。それに、仮説といえども来栖の発した事は結構衝撃であった。研究者で医者の彼でさえ答えを外してしまうのだから、一介の地方国立大生である僕が答えに容易に辿りつかないのも納得できる。
「そうだよ。大丈夫。きっと、もうそろそろ見つけられるはず!」
雪乃がこっちを向いて、両手を胸の辺りで握りながら僕を励ます。根拠はないのだろうけど、そう言ってくれるのは嬉しかった。
食事は予想外にも早く来た。さっそく僕らは運ばれてきた万葉そばと桜海老の天そばにありついた。まず僕は夏野菜のかき揚を箸でつまんでめんつゆにつけて頂いた。衣のさくさく感と口内で開放される野菜の水分と香ばしさに僕は思わず舌鼓を打つ。そして目の前の雪乃は、球形の桜海老の天ぷらをリスのように齧っている。その様子を眺めていると目が合って、彼女は「見ないでよ」とでも言うように頬を膨らませるのであった。僕は「ごめん」と頬の筋肉は緩ませて軽く微笑んだ。
ざるそばの方も、わさびを少々めんつゆに入れ、そばと絡め合わせて口に滑らせるとなかなかだ。わさびが舌を刺激し、そばが舌を撫でる。この感覚がたまらなかった。
「そう言えば、このあとの事だけど、すぐ近くの万葉公園に行くけどいいかな?」
雪乃はペーパーナプキンで口元を拭きながら僕に同意を求める。そのとき僕はそばを啜っていたので喉に通してから、口を開いた。
「うん、勿論いいよ。じゃあ、食べて一息吐いたら出発しようか」
「だね。ありがとう」
雪乃は嬉しそうに顔を綻ばせて、器を持ち上げると残りのそばに箸を伸ばした。僕も残りのそばを食べて、満足に腹をこしらえた。確かにここは安くて美味しい食堂だ。
一休みした後、僕らは会計を済まして、昼食をとった日帰り温泉を後にした。
「それじゃ、万葉公園に出発しよっか」
「うん。あと前もって言っておくけど、十四時半にはさっきのバスで湯河原駅まで行かなくちゃならないからよろしく」
「分かったよ。そう考えるとあと一時間十五分くらいは話せるね。よかった」
雪乃はホッと胸を撫で下ろすと万葉公園と続く歩道へと進んで行った。

紗奈の話

「――それで、話って何かな?」
木々が緑のトンネルを作り、所々に苔が生えている石畳の下り坂を歩みながら僕は雪乃に尋ねた。既に落ち着いた雰囲気を醸し出しているから口を切っても良いと思ったのだ。
「あの、怒らないで聞いて欲しいのだけれど……」
雪乃は急に顔を赤らめて、重そうに口を開いた。一体どうしたのだろうか。
「僕は相当な事じゃないと怒ったりはしないから大丈夫だよ」
僕は優しく諭すような口調で言った。つい昨日、怒鳴って疲れたばかりだし、これから雪乃と秩父に行く事になるから、関係をゆがめるような事はしたくない。それに雪乃は僕を怒らせる様な話題を持っているようには思えなかった。
「そっか。では、ちょっと不安だけれど喋らせてもらうね」
雪乃は小さく「こほん」と咳払いをすると、話を始めた。
「さっき、来栖さんがキーマンじゃないと分かった時に、雪弐は一人にさせて欲しいって言って部屋を出たでしょ。あの間、わたし、来栖さんにちょっと質問をしてて……」
雪乃はゆっくりと石畳の道を歩む。僕も彼女のペースに合わせてその左隣を歩く。
「何を訊いたのかい?」
「雪弐に関係することだよ。ちょっと言いにくいけど……」
雪乃はためらった表情をする。そんなに変な質問でもしたのだろうか。
「来栖さんって雪弐の事をこの世界に来てから見ていたって言ってたでしょ。だからわたし、訊いたの」
そこで言葉を止めると上目遣いに申し訳なさそうな表情を僕に向けた。断りなしに僕のプライベートの事を来栖に尋ねてしまったことに後ろめたさを感じているのだろう。まあ、彼女は僕のことを知りたいのは分かっているし、それが僕のキーマンを探すためと言う理由ならば、さして怒るような事ではない。
「何となく予想は付いていたし、そんなに躊躇わずに言っていいよ」
そう言うと、雪乃は足を止めてこちらに体を向け、黙って目線を僕の顔へと据えた。
間。セミの声は微かに、清流の音色だけがこの空間を支配している。
「――わたし、紗奈ちゃんのことについて、来栖さんから聞いたの。この世界と雪弐の住む世界の両方を、ね……」
僕は黙っていたが、無意識のうちに奥歯を強くかみ締めていた。加えてこぶしも強く握り締めているのにも気付く。どうして、僕の事じゃなくて紗奈のことを訊いたのだ。来栖に知られていた事についてもショックだったのに。どこまで雪乃は紗奈の事を知ったのだろう。もちろん、もう過ぎてしまった事だし、雪乃だって悪意でやった訳ではないだろうから、責めたりするつもりはない。でも、黙って次の話題、という訳にはいかなかった。
「何を知ったのか、教えて欲しいな」
僕は声を落として雪乃に尋ねる。
「まず、ここともう一つの世界の紗奈ちゃんの今のこと。ここでは高校も大学も行かずに、カルミネーションって言うお店で働いているけど、雪弐の世界ではしっかり高校に行って、今では奨学金を貰いながら千葉市の外語大に通っている」
これは、列車の中で話した時に曖昧模糊にしていたので、雪乃は訊くだろうと思った。
「他には何を尋ねたりした?」
「いま話したのに加えて二つ、来栖さんに訊いたよ。紗奈ちゃんと雪弐が初めて出会った時の話と、来栖さんから見た二つの世界の紗奈ちゃんの違いのこと」
「初めて出会ったって言うのは、僕の世界の話?」
「うん。来栖さんから大雑把にだけど聞いたけど、雪弐、偉いよ」
雪乃は清流を眺めながら、穏やかに言葉を発した。僕は肩の筋肉を緩めて、彼女の方に顔を向ける。
「それは、どうしてかな?」
「だって、普通なら無関心を装うか、店員に伝えたりするでしょ。でも、雪弐はそのどちらもせずに紗奈ちゃんを助けた。無関心を装えば違う所でいつか彼女は捕まるだろうし、店員に告げれば彼女の未来が傷つく。雪弐は、自身の行動で紗奈ちゃんの行為を止めて、彼女の先行きを明るくしたのだから」
「それは言い過ぎだよ。見逃すのは僕の心が許さなかったし、だからと言って店員に言い付けるのは後々恨まれそうだったから、結果としてあのような選択をしたんだ。それに、僕は紗奈の事を一度助けられなかった。何故なら紗奈は……」
そう言いかけた所で僕は口を結んだ。だが、自分の発言を振り返ると、口が過ぎていたようだ。ここまで漏らしたら話すしかないだろう。
「紗奈は、初めて僕と会って一年後の秋にしてしまったんだ。それで補導されている」
僕は重々と唇を動かした。
「でも、会ってから一年後の秋って……」
「そうだね。僕と紗奈が付き合った季節だ」
「もしかして、その事と恋人同士になったのって関係あるのかな?」
僕は首を縦に振って、それから行きの電車で話した時よりも詳しく、僕と紗奈が付き合うまでのいきさつを語った。座る場所がないので立ち話となったが、雪乃は沢の流れに調子を合わせる様に相槌を打ってくれた。
「……そっか、そんな事があったんだね。本当に紗奈ちゃんにとって雪弐は、かけがえのない彼氏君だと思っているんじゃないかな。だから、これからも大切にするんだよ」
雪乃は柔らかに頬に笑窪を作る。僕は顎を引くように「うん」と頷いて見せた。
「あと、来栖から見た二つの世界の紗奈の違いって?」
これについては、何で雪乃はそんな事を問いかけたのだろうと思った。
「それは、客観的に物事を捉えることが得意そうな来栖さんに訊きたかったの。実際に答えも単純明快でわたしが納得できる様なものだったよ」
来栖は言うほど客観的視点の持ち主だろうか。でも、僕に比べれば中立の視点で両者を見る事はできるだろう。
「それで、何て彼は言っていたのかな?」
「――来栖さんの答えは一言だったよ。ちょうど雪弐がなだまり、トイレから出てきて部屋に戻って来る足音がしたからね」
上手い具合に話を切り上げられたのだろう。だから、来栖がキーマンじゃないと分かって、トイレに駆け込み十数分こもって心を落ち着けていた間、雪乃が幾つか質問をしている事に気付けなかった。部屋に戻ってきた時は話の余韻を残さず、来栖は駅まで送ろうか、と僕らに自然に尋ねて来たのでなおさらだ。
「でね、その一言は、努力だったの」
雪乃はさらりと言い切った。僕は特段驚くような表情を見せなかった。と言うより、その言葉は前にも聞いた事があった。
「それだけかな?」
「うん。これを言ったすぐ後に君は入ってきたのだから」
「そうなんだ。実は今聞いたこと、この世界の紗奈も話していたよ。自分は努力を止めてしまった、と」
おそらく、来栖は僕と紗奈のやり取りを見て、その事を雪乃に一口で伝えたのだろう。
「来栖さんもそれでしっくり来たんだと思うよ。わたしもなるほどねって感じられたし」
雪乃は道の先に目線を移すと、髪をたおやかになびかせて歩みはじめた。僕もその横に並んで歩く。

雪乃の確信

「さっき話したので、来栖さんから聞いた事は全てだよ。勝手にこんな事してごめんね。
だけど、来栖さんから聞いたことや、雪弐が紗奈ちゃんの事について喋ってくれたことを、わたしが知らないままであったら、ある答えに確信が持てなかったと思う」
雪乃は前を向き、自信を持った表情で語気を強めた。
「ある答え?」
「うん。雪弐がいま一番欲している答えのこと」
「――もしかして、キーマンのことだったりする?」
まさかとは思ったが、雪乃は「キーマン」という単語に反応して口元を緩めていた。
「まさにそのことだよ。わたし、雪弐を求めている人が誰だか分かったかも」
「そ、それは、誰なのかい?」
つい気持ちが高ぶってしまい、雪乃に顔を近づけて迫るように尋ねてしまった。雪乃は苦々しく笑うと、僕からするりと離れて先へと進んだ。それからくるりと振り返って立ち止まると、ため息を吐いてこちらを見据えた。
「焦らない、焦らない。これから雪弐にはちゃんと教えてあげるから」
雪乃は子どもの機嫌を直すように口調を緩める。僕は心が疼くのを抑えながら、「ごめん」と呟いて、彼女の方に歩み寄った。
「この先にある足湯出来るとこで、一緒に座りながら話そうよ。三百円するみたいだけど、ここはわたしのおごりね」
雪乃は道の先に見える開けた場所を指差してそう言った。僕は、「ありがとう」と返すと前を向いて、彼女が視界に入れているものと同じ景色を共有したのであった。
ついに、キーマンが明らかになるときが来る。十割それが正しいかどうかは実際に試さなきゃ分からないけれど、雪乃の頼りあるあの表情を見るかぎり、僕は帰れる気がした。

辿り着いた足湯施設は洋風の庭園のようなレイアウトで、それなりに広かった。けれども来ていた人は少なかった。夏の日中で暑いので、足湯に行こうなんて思う人は少ないのだろう。僕らは、東屋のある足湯に行って素足になると、二人で肩を並べて湯に浸かった。思ったよりも湯は熱くはなくて、丁度良いくらいの温さだ。
「こうやって、一緒に足湯に入ってみると、本当に家族みたいだよね」
雪乃は細く白い足を湯から入れたり出したりして、穏やかな口調で言った。
「うん。君と会ってから、たった二日の付き合いだけれど、これまで会った人の中では一番早く打ち解け合えた。きっとこれも血の繋がりだからなのかな」
「きっとそうだよ。それに、こう見えてもわたし、人見知りな所あるからね」
「最初に会ったときの態度で何となくそれは分かったよ」
僕の頭の中に竹刀を構えた雪乃の姿が浮かんだ。あの時は、吃驚したなぁ。
「雪弐は会った頃に比べると、わたしを大分信頼してくれるようになったよね。最初はわたしを突き放したりする事もあったけど、今は心を開いてくれてて嬉しい」
雪乃は素直に喜んだ笑みを浮かべる。しかし、その表情は次第に翳りを見せた。
「だからね、意地悪を言うようだけれど、本当はもう少し、雪弐にはいて欲しいの。だって、せっかく世界は違えど血の繋がった者同士に出会えて親しくなれたのに、たった二日で別れるなんて名残惜しいでしょ」
そう言われて僕は戸惑った。まさか雪乃がそんな事を思っていたとは思わなかったからだ。でも、雪乃の言うとおり、いざ本当に別れるとなると僕も寂しいだろう。
「ごめんね、こんなこと言っちゃって。でも、気にしないで。雪弐は帰らなくちゃいけないし、その為にわたしは協力しているのだからね」
「僕だって、もったいないなと思っているし、別れるのは悲しいかな。もう、一生会えないだろうし……。だけど、君の言う様に僕は帰らなきゃ。自分の存在はここではなくて、自分が住む世界になくてはならないのだから」
僕は語尾を強くする。雪乃はいかにもと言う様に頷いた。
「そうだね。だから、わたしは雪弐の事を見送る役目を果たさなくちゃ」
そう言って雪乃は僕に微笑みかけた。
「ありがとう。それでは誰がキーマンか、僕に教えて欲しい」
僕は雪乃に視線を据え、声のトーンを一段階下げて言った。雪乃はなかなか言い出さないので、僕の頭の中ではドラムロールが鳴り始めた。
「雪弐を求めている人は、ね」
いたずらに雪乃はそこで言葉を区切った。彼女は僕に目線を据えながら、言うタイミングを見計らっている。まるで、にらめっこをしているようだ。
僕はついに耐えられなくなり、視線を逸らそうとした。
その時だ。
「――雪弐、きみがキーマンだよ」
彼女は澄み切った声ではっきりとそう言った。僕は頷きかけたが、動きを止めて、「えっ」と漏らす。期待していたものが崩れていくような気がした。
「あの、ね。君は知っているでしょ? 僕はキーマンじゃない事を」
呆れた物言いをしたが、雪乃の表情は変わらず真剣だった。
「もちろん、知っているよ。でも、雪弐はキーマンに間違いないとわたしは思う」
「だけどさぁ……」
「まずは、わたしの話を聞いて!」
雪乃はぴしゃりと口をはさんだ。僕は、「ごめん」と呟く。確かに彼女の話を聞かずに、それを否定しようとしたのは良くなかったと自身を省みた。雪乃に視線を戻すと、彼女は安心した様子を窺わせた。
「雪弐は、まだ自分を見つけられていないの」
その言葉が耳に入ると、咀嚼できないのか脳内でぐるぐる回った。
「それって、精神的な意味で? それとも物理的な意味で?」
「その両方。帰る事だけを考えると、後者の方だけ教えればいいんだけどね」
でも、本来この世界に僕はいない筈だ。そんな事を考えていると、雪乃が口を開いた。
「――まあ、わたしとしては雪弐自身について、話しておきたい大切な事があるから、前者の方から喋らせてもらうよ」
「うん、いいよ。僕はどちらも聞きたいから」
快く了解の意思表示をすると、雪乃は小さく頷いて、何やら考えている様な表情を見せた。おそらく、何を話すのか順序立てているのだろう。それから、これでよし、と言う様に一度大きく頷いて見せると、僕に顔を合わせて話を始めた。
「……昨日の昼過ぎに出会ってから今に至るまで、わたしは雪弐の事を見てきたけど、きみ自身について分かった事があるから、知っておいて欲しい事があるの。もしかしたら雪弐はもう勘付いているかもしれないけれど」
「君に会ってから、僕自身のことで勘付いたことって何かあったけ。分からないや」
「そっか、それなら喋りがいがあるよ。
わたしが雪弐の行動とか性格、これまでの事を知って思ったのは、雪弐ってお父さんの良い所に似ているなぁってことだね」
それを聞いて、僕は「それはない」と即座にかぶりを振った。
「ううん、似ているよ。例えば、きれい好きな所とか、行動力がある所とか」
それは確かに、と思った。
「それに、雪弐も色々と努力しているから、そこもお父さんと一緒だね」
僕の体に稲妻が走った。その感覚が嬉しさなのか、或いは怒りなのか、自分でも分からなかったが、その一言に色々な感情が体中を走ったのは分かった。
「努力の面で父さんと一緒にしちゃだめだよ。それに僕はよく、父さんに努力が足りないって言われてたし……」
「ううん。雪弐は自分が思っている以上に努力していると思う。それの顕れが、雪弐が国立大学に通っていることや、紗奈ちゃんが雪弐の努力に影響されて頑張った事などに出ているんじゃないかな」
言われてみればそうかもしれない。そうかもしれないけれど、流石に一緒にするのは父に失礼だろう。
「でも、父さんの方が僕よりずっとずっと努力家だから、一緒にするのは良くないよ」
僕が言うと雪乃は、足を湯から浮かしながら呆れた様に溜息を吐いた。
「本当に雪弐って、お父さんのことを尊敬しているんだね。尊敬というよりは、畏怖の念を抱いているって言った方が近いのかな。初めて会って、テーブルに誘った時はお父さんの席は意図的に避けてたみたいだし、夕食でお父さんの事を呼んで欲しいって雪弐に頼んだ時も、腰が重そうな素振りを見せていたものね」
「それは認めるよ。で、そんな事を言う君の方は、父さんをどう思っているのかい」
父の事について尋ねると、雪乃は少し曇った顔をした。
「それも、雪弐に話さなくちゃ」
そう言って、遠い目で上を見上げる。
「今どう思っているかは言葉にし辛いけど、昔は凄く嫌悪感を抱いていたよ」
「それは、どうしてかな?」
僕の問いかけに応じるように、雪乃は顔をこちらに向けた。
「どうしてかって、何とか離婚を避けられた時に、お父さんがひどい事を言ったから」
「酷い事?」
離婚に至らなかったから、悪い事なんて言われる理由なんてないじゃないか。それともこの世界の父は、自分が元請けに行くのを断念しなければならなくなったので、何か雪乃に良くない言葉でも吐き捨てたりしたのだろうか。
「うん。でも、その酷い事って、罵声を浴びせたりって類のものではないから」
ますます分からなくなった。一体、父は雪乃に何を言ったのだろうか。
「言いにくいなら、抽象的に伝えてくれてもいいよ」
躊躇っている表情を見て、僕は雪乃にそう声をかけた。
「ありがとう。でも、自分の言葉で言わなきゃ。
それで、その言葉は、わたしの家族を散らさずにつなぎ止めた理由でもあるの。つなぎ止めたって言えば聞こえはいいけれど、わたしからすれば、それが離婚を防げた理由だなんて信じたくなかった。
雪弐はもう分かっていると思うけれど、お父さんがわたしに言ったのは、『雪乃が女の子でよかった。娘じゃなかったら離婚するところだった』と言うこと。それもわたしを抱きしめながら何度も何度も耳元で言うの。まだ四歳だったけど、その言葉を聞いて、すごく不快だったし、トラウマになった」
つまり、雪乃も知っていたのだ。父は娘が欲しかったと言う事を。
「だけど、それってそんなに君にとっては酷く聞こえる文言かな? 離婚を回避出来たのは、娘がいてくれたからって、傷つく様な言葉じゃないと思うけど……」
「そんなことない! あれはわたしにとって立派なセクハラだった。だって、あの言葉って言い換えれば、子供が男の子じゃなくて女の子であれば、お父さんにとっては何でも良かったとなるでしょ? わたしにはそう聞こえたの。信じられなくてお母さんにも聞いたけど、『私達が離れ離れにならなかったのは、雪乃が女の子だから。女の子だからお父さんは離婚を踏みとどまってくれたのよ』と言っていた。凄くショックだったよ。
だから、わたしはお父さんに反抗して、男っぽくあろうと意識したの。お父さんの思い通りにはさせたくなかったから。それで、小学校から高校までは髪はずっとショートだったね」
そう言うと、何時の間にかショルダバッグから取り出していたスマグラを僕に渡した。スマグラを掛けて、プリズムディスプレイを見ると、中学生か高校生の時の雪乃とその友達が写っている。彼女の髪は肩にもかからないショートであった。
「剣道を中学から始めたのもその流れからかな。強くなりたいと言う欲求だよ。そして、こんな生き方をしていたら、わたしは積極的でお節介な人になっちゃった」
剣道を始めたのは、そう言う一連の出来事があったからなのかと僕は納得した。
「でも、今は積極的で頼りがいがある女性に僕は見えるよ」
それを聞いた雪乃は照れくさそうに後ろ髪をいじる。
「ありがとね。それで結局、わたしが今のような感じになったのは、高校三年の剣道部の大会が終わった頃かな。大会が終わり、受験モードに入って大学はどこを受験しようかと自分を見つめ直している時に、気付いたの。わたしは、お父さんの言ったことに振り回されていたって事に。
だからわたし、これまでの男の子っぽい殻を破ったんだ。と言っても性格とかはそう簡単には変えられないから、形だけね。髪を伸ばしたりファッションに気を使ってみたり……。そして大学も、自分の積極的で世話焼きな性格から看護師に将来なるのがいいかなと考えて、新宿医科大の看護学科を第一志望にしたの」
それを聞いて雪乃も色々と苦労したのだなと思った。自分が女でも、きっとこれまで歩んできた人生とあまり変わりはないのかもしれない。
「話してくれてありがとう。まさか君も、子供は娘が欲しいと言う父さんの考えで傷ついているとは思わなかった」
「うん。あと、やっぱり雪弐もお父さんに言われた事があるんだね」
「ああ、あるよ。僕の場合は中学三年の夏に『娘だけでよかったんだ』と言われたけど、凄くショックだった」
僕は足を湯からだして、反対向きに座る。流石に長く浸かっていると熱い。
「そっか。でも、二人が離婚した時にも、お父さんは雪弐にそれを言っただろうね」
雪乃は俯き加減で返事する。
「全然覚えはないけれど、どうしてそう思うの?」
「傷ついたらごめんだけど、雪弐って女っぽい所があるから」
そう言うと、雪乃も足をぱしゃりと湯から出して、僕と同じ方に体を向けた。
「女っぽいか……」
僕は、肯定も否定もない曖昧な口調で呟いた。
「もちろん根拠はあるよ。松戸くんや紗奈ちゃんとの関わり方について聞かせてもらった時に、雪弐って尽くす人だなと思ったし、家事も堪能らしいからね」
雪乃はそう言って、僕との距離をわずかに縮める。
「それに雪弐って、『オンナオトコ』って呼ばれてたそうじゃない。つまり、それなりに周りから女っぽいって思われてたのだと思う。因みに、わたしも雪弐と同じ様に一時期『オトコオンナ』ってあだ名がついてたよ」
わざとらしく微笑む雪乃の隣で、僕はなるほどと彼女の言葉が胸に落ち、感心していた。
「納得してくれたようだね。つまり、今までの話をまとめると、お父さんの女の子が欲しい考えに、わたしは反発して嫌い、男の子になりかける所だった。いっぽうで雪弐の場合は、そう言われてお父さんの求める姿になろうと、尊敬して彼の背中を追ったり、無意識の裡に女の子らしくあろうとしたりしたのだと思う」
「……要するに、僕らが進む道は、父さんの欲望一つによって定められていたんだ」
物事の道理を知り尽くした人の様な表情で、僕は顎を上げて口にする。
「――それは、違うよ」
僕が顔を下げたところで、雪乃は先の発言に対してきっぱりと否定した。
「これはお父さんによって定められていたんじゃない。わたし達自身の選択なの。お父さんがそう言う考えを持っていたからって、わたし達はそんなこと関係ないじゃない。でも、わたし達はそれに振り回されちゃった。あの考えに対する色々な反応がある中で、わたしと雪弐は異性に近付くという共通の手段を選択したからね」
雪乃は向き合わせた顔をさらにこちらに近づけ、僕と瞳を交わらせる。それから、ふわりと彼女は唇を開いたのであった。
「わたし達って、同じだね」
僕は目を見開いたまま、その台詞が出てきた雪乃の口元を眺めていた。
「僕らは、同じ?」
分かったような、分かっていないような口調で僕は語尾を上げる。雪乃は、「うん、同じ」と顔を緩ませて返してくれた。
「つまり、わたしは雪弐で、雪弐はわたしってこと」
雪乃は僕から顔を遠ざけると、指を振りながら説明する。それはつまり僕らは同じ人間だと言いたいのだろうか。
「僕は君で、君は僕……」
彼女に続いて、僕も人差し指を動かしながら反復する。それを聞いて雪乃は二回ほどかぶりを縦に振った。
「理解してくれたかな。結局、わたし達は根本が同じなんだと思う。つまり、魂が一緒ってこと。でも性別や、外見、産まれた時が違うから、こうやって顔を合わせると、わたしは雪弐をいたかもしれない弟と判断し、雪弐は生まれてくるかもしれなかった姉と見て、誤った認識をしちゃったの」
面白く、独創的な解釈だなと思った。僕だったら考えつかなかっただろう。
「すなわち、君を司っているのは僕の魂と同じで、僕の魂は産まれてくるはずだった君の魂を受け継いでいるってことかな」
「ずばり、そう言うことね」
雪乃は指を立てて、小鼻をうごめかす。
「でもそれってちょっと早まった考えじゃないかな。そもそも僕達は似てないし」
「確かに今のわたし達はあまり似ていないかもしれない。でもね、魂が同じだからこそ、十五年前のあの選択の時にわたしと雪弐は同じ思考回路でもって意思決定し、それぞれの道を進むことになったんだよ」
思考ロジックが同じだから、か。何となく僕は雪乃の言っている事が分かった気がした。
「ありがとう。君の言ったことを信じるよ」
僕は雪乃に向かって顔を綻ばせて、礼を言った。
「分かってくれたみたいでよかったよ。そんな訳で、わたしは雪弐をキーマンだって言ったの。わたしは雪弐だし、雪弐はわたしだからね」
彼女はいたずらに微笑った。それから僕は靴を履いて、腰を上げると、雪乃の前に立った。
「キーマンが分かったところで、名残惜しいけれど僕はそろそろ元の世界に帰ろうと思う。で、キーマンが二人であるなら僕はどうしたらいいのかな」
僕の質問に雪乃はやれやれとため息を返した。
「だから、雪弐は気が早いよ。まだ、別れの言葉も交わしていないじゃない」
「別れの言葉は来栖の時に交わしたけど……」
それを聞いた雪乃は黙って立ち上がり、僕の目の前で口を尖らした表情をした。
「そう言うところは雪弐、男っぽくサバサバしているんだから。ちゃんとお別れしなきゃだよ」
分かっている。でも……。
「まともにお別れなんかしたらお互い寂しくなるじゃないか。それに、こう見えても僕、君と別れるのが辛いんだからね」
僕は俯いてそう漏らした。別れの言葉なんか聞いたり告げたりしていたら、お互いに情が移って帰れなくなってしまうだろう。笑顔でさらりと別れるのが僕らにとっては一番良いと思ったのだ。
「そう言ってくれて嬉しいよ。そして、わたしもお別れを言うのは辛い。だけど、わたしにはちゃんと雪弐の事をお見送りさせて」

お別れ

僕は静かに肩の力を抜くと、「いいよ」とやさしめの声で言って、頭を縦に振った。雪乃が気持ちよく別れを告げられるのなら僕はそれが一番だ。雪乃は笑窪をつくり笑顔を見せると、口を静かに開いて話を始めた。
「わたしにとって、この二日間は凄く充実していたよ。多分、こんなに濃い二日間はもう人生でないんじゃないかなって程にね。
まだ会って間もなく、雪弐をあまり知らない頃は、私はいたかも知れない弟として見ていたけど、雪弐の事を知るにつれて、自分が男として産まれて来た時の姿に思えてきたの。だから、わたしは凄く雪弐の事が知りたくなった。男として生きていたら、どんな生活を送っていたのかなと言う興味があったのに加えて、もしかしたら私と雪弐の魂は同根なんじゃないかって考えたから。
結局、これが雪弐のキーマン探しの為にもなったみたいだから良かったよ」
「ありがとう。君の好奇心に感謝するよ」
僕は真摯な表情で言って、右手を差し出す。雪乃は優しくその手を握り、僕と握手した。
「そして、雪弐はわたしの願いをこの二日間で叶えさせてくれた。
わたし、兄弟姉妹が欲しくて、一度でもいいから、一緒に過ごしてみたいと幼い頃からずっと思っていたの。でも、それはずっと叶わなかったし、親が歳を重ねるにつれて、一生その願いは叶わないと諦めかけていた。
で、そんな事を思っている折に、雪弐が現れたの。これぞ奇跡の邂逅だと思ったね。
言うまでもないけど、この二日間は凄く幸せだったよ。雪弐の正体は私の生まれ変わりだけれど、弟としても見られたからね。昨夜の雪弐と一緒に家族みんなでご飯を食べたことや、朝から電車に乗って二人でここまで来たこととか、思い出は数える程しかないけれど、雪弐との一秒一秒のモメントはわたしにとって凄く濃くて満足した時間だったよ。
ほんとうに、ありがとう。大好きだよ、雪弐……」
雪乃は目を細めて嫣然な笑みを僕に送る。その瞼の間には涙を溜めているのが見えた。
「僕こそ、君……ううん。僕こそ姉さんには、ありがとうの気持ちでいっぱいだよ! キーマンは、姉さんの考え通りで間違いないだろうし、僕だけの力じゃそれに気付く事は出来なかった。
また、姉さんは、僕について自分が気付いていない事を教えてくれた。僕が父さんに似ているのは衝撃的な話だったけれど、お陰で自分にもっと肯定的になれたよ。
姉さんに会えて本当に良かった――」
僕も雪乃がしたように、頬をやわらかに微笑んだ表情を彼女に届けようとした。が、それ以上に、これから別れるんだと言う気持ちが大きくなって、視界が霞んでしまった。
「雪弐。わたしは雪弐だから、いつでもここにいるよ」
雪乃は胸に手をあて、やわらかに言う。
――そうだ、姉さんは僕の中にいるのだから。僕は気持ちを落ち着けるように、心の中で呟く。それから、顔を上げると雪乃に「ありがとう」の言葉と一緒に笑顔を届けた。
雪乃は僕の頭を撫でながら、「どういたしまして」と耳元で囁いたのであった。
「では、そろそろ行くとするよ」
僕は右腕で目元を一擦りすると、顎を下げ、雪乃の目を据えてそう告げた。
「そうだね、じゃあ、あそこの木陰に行こうか」
雪乃は東屋の近くにある白い円錐のモニュメントの傍にある白い幹の広葉樹を指さして言った。僕らはその木陰に隠れると、まずは向き合うようにして肩を並べた。やわらかな午後の木漏れ日が僕らを優しく照らす。
「それで、僕はどうすればいいのかな?」
「雪弐は自分を抱きしめた時の様にしてみて」
そう言われ、僕は腕を交差させて自分を抱きしめた。まだ、目は開けたままだ。雪乃はそれを横で眺めて、右手を顎に考えている素振りを見せている。
「となると、わたしは雪弐の後ろから重なるように抱きしめれば、あたかも一人の人が自分を抱きしめている様に見えるね」
雪乃は僕の背後に回ると、静かに僕と身体を合わせる様に密着させて、抱きしめる。背中にじんわりと伝わる彼女の体温と温もりに、思わず僕の心は高鳴った。
それから少し間を置いた後、雪乃は僕の両手の甲から被せ交わらせるように、優しく両手を握った。彼女の手はいつしか握った母の手と似てしっとりと冷たかった。
「姉さんは心が温かいんだね」
僕は独り言を言う様に呟く。後ろの彼女は嬉しそうな吐息を漏らした。
「じゃあ、行ってきます」
握られた手の力を強めて僕は目を閉じる。
視界は閉ざされて、聴覚と嗅覚の感覚が鮮明になった。
耳からはセミや木の葉、沢の音に加えて、雪乃がする息の鼓動が聞こえる。
鼻からは、仄かに雪乃の優しい香りがする。言葉には言い表せないけれど、ふわふわとした雰囲気の匂いだ。と、雪乃の唇を開ける音が右の耳元に伝わった。
「雪弐。これからも雪弐として、わたしとして生きて。
それは二人分生きてとか、そう言う事ではないよ。
わたしと雪弐は同じなのだから――」
そして雪乃は僕の後ろ首に、キスをした。
僕の身体はびくりと震える。後ろからは雪乃のいたずらな微笑。
「それじゃあ、いくよ」
「うん」
僕は小さく頷くと、一度深呼吸した。いよいよこの世界ともお別れだ。ほどなくして、雪乃は額を僕の後頭部にそっと合わせた。
「またね」
直後、僕は強烈な眩暈に襲われた。同時に、体中がまぶしいと感じる位の白い光に包まれる。この感覚は以前にも二度経験した覚えがあるが、それよりも遥かに凄まじく感じた。
僕を苦しめる眩暈が落ち着くと、今度はその白い光の中を上へ上へと急上昇して行く感覚に陥った。行きは落下したから帰りは昇るのだろう。僕は、なるがままに身をその光に任せて、元の世界への帰路を進んだのであった――――。

もとの世界へ

頭の上でスマグラが怒った様に震えて、着信音を響かせているのに気付き、目が覚めた。目の前には白い円錐のモニュメントが何事もなかったかの様に座っている。ふと、僕は背後を振り返った。そこにあったのは白い幹の広葉樹。僕は知らない間にこの木に背をもたれていたみたいだ。
伸びをしたあと僕は立ち上がり、辺りを見渡した。周りに変化は感じられない。ここはついさっきまで雪乃と一緒にいた足湯場だ。けれども、彼女の姿はもうどこにも見当たらなかった。僕は雲浮かぶ空を眺めて、ため息を吐いた。
――――帰ってきたのだ。
心の中で充実感に浸りながら呟く。無事に自分発見の旅は終止符を打ったのだ。
さて、これからどうしよう。僕は、スマグラに手を伸ばして時刻を確認する。ちょうど十五時であった。あわせて、この三日間で届いたメールを確認する。義母や祖父母からのメールが数通来ており、どれも安否を尋ねるものであった。取り敢えず、最近送られてきた祖父のメールを開く。それは、「雪弐のスーツケースが置いて有るけど、何時帰って来たんだ?」と言う内容だった。僕はクスリと笑って、「後で取りに行くよ」と返信した。無事に僕のスーツケースも元の世界に戻ってこられたらしい。
他のメールも確認したが、一通だけ知らないアドレスから送られているものがあった。手を付けるべきではないのだろうけれど僕は開く。なんと、それは雪乃からのメールであった。本文には「雪乃です! 一応、雪弐に渡しておくね」とだけ書かれており、添付ファイルが付いていた。それを開くと、出てきたのは湯河原駅のホームで撮った雪乃と僕の写真。つい今朝の事なのに、なんだか懐かしく思えた。
ふいと、来栖の手紙の事を思い出して、ショルダバッグから茶封筒を取り出す。さっきの東屋で腰を下ろすと、僕はその封筒を丁寧に右手で千切り、中の手紙を取り出した。
来栖の字は達筆で流れる様な印象だ。早速、僕は彼の手紙を読み始めた。
「北杜雪弐君
この手紙を読んでいると言う事は無事、君は自分の住む世界まで戻って来られたのだろう。長い旅、ご苦労だった。そして、研究に付き合ってくれてありがとう。君のお陰で、実験は大成功だ。これで人類は様々な世界を行き来する事が可能となる。
さて、北杜君にはあの世界はどう映って見えたかい? 君の存在一つで、世界がかなり変わる事を実感できただろう。また、自分自身の存在について前向きなベクトルで捉える姿勢も養えたのではないかな。いずれにせよ、君自身についての真実を知る事が出来たこの旅は、今後の君の人生を刷新したに違いない。北杜君にとってあの世界が、自己の望む道への扉になったことを願う。
最後に、これは私から今回の実験に参加してくれたささやかなお礼だ。手紙の裏面を見て欲しい。そこに、君の世界に住んでいる私と寧子、息子の二朗の住所を記しておいた。余談だが、二朗って名前は雪弐の『二』と吾朗の『朗』から付けられた名前らしい。
では、またいつか君の夢の中に私が入った時にでも話そう。それでは、お元気で。
――――デザイアランドへの導き人 来栖吾朗」
僕は手紙を読み終えると、裏に返して書かれていた住所を見た。彼らの家は同じ湯河原町内にある。僕はスマグラの連絡先に母さんの住所を記してから、手紙を封筒に仕舞い、ショルダバッグに戻した。そして、僕は考える。行くべきか、まだ行くのは早いか。
程なくして、答えは出た。僕はゆっくり立ち上がると、手を翳して青空を眺める。
それから僕は歩みだす。自分の意思で、己の信じる道をゆくままに。

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