北方領土問題の経緯【第 4 版】

ISSUE BRIEF
北方領土問題の経緯【第 4 版】
国立国会図書館 ISSUE BRIEF NUMBER 697(2011. 2. 3.)

 

Ⅰ 前史

1 露帝アレクサンドル1世の勅令

2日魯通好条約

3 北海道の国郡制施行

4 樺太千島交換条約

5 ポーツマス条約

6 大西洋憲章・連合国共同宣言・カイロ宣言

7 ヤルタ協定

8ポツダム宣言

9 一般命令第 1 号

Ⅱ 領土問題の発生

1 SCAPIN-677・ソ連の領土編入

2・3米英両国による講和準備(1)(2)

4サンフランシスコ平和条約

5 日本国内(国会)の論議

6~8 日ソ国交回復交渉(1)(2)(3)

9 日ソ共同宣言

10 米国の対日覚書

11 日米安保条約締結に伴うソ連の対日覚書

12 池田=フルシチョフ往復書簡

13 ブレジネフ時代の状況等

Ⅲ 冷戦終焉後の状況

1 ゴルバチョフ訪日・英国による日本政府見解支持

2 ソ連からロシアへ

3 東京宣言

4 政経不可分・拡大均衡・重層的アプローチ

5 いわゆる川奈提案

6 その後の首脳会談

 

国後・択捉・歯舞・色丹のいわゆる北方四島は、かつて他国の領土であったこ
とのない日本固有の領土である。第二次世界大戦後、ソ連が四島を含む地域を国
内的措置により自国領土に編入し、領土問題が生じた。サンフランシスコ平和条
約は「千島列島」の日本による放棄を規定したが、四島は放棄した千島列島に含
まれないとするのが、連合国自身の掲げた領土不拡大原則に適合した解釈である。
冷戦終結後、ロシアも四島について領土紛争があることを認めた。四島の帰属問
題を解決することにより日露間で平和条約を締結することが現下の課題である。
この資料は、この課題検討の参考に供するため、長い歴史を持つ北方領土問題
の経緯を前史から現在まで年代順に 28 項目に分け、各々の項目につき簡単な説明
を付したものである。なお、脚注に掲げた文献は引用注ではなく、多くの場合“参
考文献”である。

 

Ⅰ 前史

1 露帝アレクサンドル 1 世の勅令(1821 年)

北海道からカムチャツカ半島に連なる諸島は、松前氏による住民との交流を通じ古くか
ら我が国と深い繋がりをもっていた地域であり、1670 年ころ(寛文年間)完成した官撰地
図である『正保日本総図』にも描かれているところである。他方、シベリアからアラスカ
方面へ進出したロシアの勢力は、18 世紀以降カムチャツカから順次千島(クリル)へ及ん
だ。しかし、19 世紀初頭までに、我が国は幕吏を置き兵を常駐させるなど国後、択捉両島
に対する実効的支配を確立し、ロシアも自国の版図をウルップ島までと認識するに至った。
外国人の商業・漁業活動禁止に関する 1821 年のアレクサンドル 1 世の勅令は、露領クリル
諸島の範囲をウルップ島南岬までと規定している1。

2 日魯通好条約(1855 年)

幕末期の安政元年旧暦 12 月 21 日(1855 年 2 月 7 日)、日露間の最初の条約である「日魯
通好条約」が締結され、第 2 条で日露国境が択捉島とウルップ島の間に正式に引かれた。
この条約締結交渉でロシア全権プチャーチンは択捉島にもロシアの権利があると主張した
が、それは交渉戦術上の主張であり、ロシア側は先の 1821 年の勅令と同じくウルップまで
を自国領と考えていたことが、近年ロシアの外交文書(プチャーチンあて訓令、プチャーチン
復命書)で裏付けられた2。

3 北海道の国郡制施行

明治 2 年 8 月 15 日(1869 年 9 月 20 日)、政府は蝦夷を北海道と改称し、11 国 86 郡を設
置した3。今日いわゆる北方四島について見れば、国後、択捉は両島をもって千島国を構成
し、国後島には国後郡(一島一郡)、択捉島には択捉、振別(ふれべつ)、紗那(しゃな)、蘂
取(しべとろ)の各郡が置かれた。歯舞諸島及び色丹島は、根室国花咲郡に属した。

4 樺太千島交換条約(1875 年)

日魯通好条約では樺太は日露両国民混住の地とされていたが、1875(明治 8)年5月7日
の樺太千島交換条約により日本は樺太に有していた領土権をロシアに譲り、これと交換に
ウルップからシュムシュに至るクリル諸島の領土権を取得した。翌 1876 年 1 月 14 日、政
府は同クリル諸島を千島国に併せ、得撫(うるっぷ)、新知(しむしる)、占守(しむしゅ)の
三郡を設置した。なお、1885 年 1 月 6 日、色丹島も色丹郡として千島国に編入された4。

5 ポーツマス条約(1905 年)

日露戦争の結果締結された 1905(明治 38)年 9 月 5 日の講和条約(ポーツマス条約)によ
り、ロシアは樺太の南半を日本に割譲した。ロシア革命後 1925(大正 14)年 1 月 20 日の
日ソ基本条約では、ポーツマス条約の効力存続が約された。
6 大西洋憲章・連合国共同宣言・カイロ宣言
第二次世界大戦に際し連合国は、領土不拡大の原則を宣言していた。1941(昭和 16)年
8 月 14 日の英米共同宣言(大西洋憲章)は、「両国は領土的その他の増大を求めず」と言い、
1942 年 1 月 1 日の連合国共同宣言(ソ連も署名)は、大西洋憲章に賛意を表すると言い、
1943 年 12 月 1 日発表のカイロ宣言(米英中)は、「自国のためになんらの利得をも欲する
ものに非ず、また領土拡大のなんらの念をも有するものに非ず」「同盟国の目的は日本国よ
り 1914 年の第一次世界戦争の開始以降において日本国が奪取し又は占領したる太平洋に
おける一切の島嶼を剥奪すること並びに満州、台湾及び膨湖島のごとき日本国が清国人か
ら盗取したる一切の地域を中華民国に返還することにあり。日本国はまた暴力及び貪欲に
より日本国の略取したる他の一切の地域より駆逐せらるべし。」としていた5。
7 ヤルタ協定(1945 年 2 月)
1945(昭和 20)年 2 月 11 日のヤルタ協定(米英ソ)において、ソ連の対日参戦の条件の
一つとして、ソ連への南樺太の「返還」と千島列島の「引渡し」が協定され、「三大国の首
班はソ連邦の右要求が日本国の敗北したる後において確実に満足せしめられるべきことに
意見一致せり」とされた。「返還」「引渡し」の用語の違いは、南樺太が日露戦争の結果日
本に割譲されたものであるのに対し、千島列島は元来日本の領土であることを認識した上
での修文であると考えられる。なお、ヤルタ協定は、1946 年 2 月まで秘密にされた。

8 ポツダム宣言(1945 年 7 月)

1945 年 7 月 26 日のポツダム宣言(米英中、後にソ連参加)は、「カイロ宣言の条項は履行
せらるべくまた日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国並びに吾等の決定する諸小島
に局限せらるべし」とした。カイロ宣言が領土不拡大を謳い日本が奪取した領土を剥奪す
ると規定していたのに対し、ポツダム宣言がカイロ宣言に言及しつつも“われらが決定す
る諸小島”のみを日本に残すとしたのは、領土不拡大原則と相いれない千島条頃を含むヤ
ルタ協定の存在(さらに琉球等のこと)が念頭にあったためであると考えられる6。日ソ中立
条約の有効期間中であった同年 8 月 9 日ソ連は対日攻撃を開始、同 14 日日本はポツダム宣
言を受諾、9 月 2 日「降伏文書」に署名しポツダム宣言の履行を法的に約した。
9 一般命令第 1 号(1945 年 9 月)
1945 年 9 月 2 日付け「一般命令第 1 号」で日本軍隊の降伏先が定められ、満州、北緯 38
度以北の朝鮮、樺太及び千島諸島にある日本軍はソ連極東最高司令官に降伏すべきものと
された。最初 8 月 15 日付けでトルーマンからスターリンに送った原案にはソ連への降伏地
として千島が入っていなかった。スターリンは、翌 16 日付けの書簡で「千島列島の全部」
と北海道の北半を加えるように要求した。これに対しトルーマンは、8 月 18 日にソ連に着
信した返信で、北海道北半については拒否したが千島については同意した。ただし、一連

の往復書簡の中で米国は、ヤルタ協定によって直ちに千島がソ連領になったのではなく、
平和条約の策定に際しソ連の領有主張を米国が支持することを約したものである旨述べて
いる7。ソ連は、9 月 3 日までの間に歯舞・色丹を含めこの方面の諸島を占領した。

Ⅱ 領土問題の発生

1 SCAPIN-677・ソ連の領土編入

1946 年 1 月 29 日付け連合国最高司令官総司令部覚書(SCAPIN)677 号「若干の外郭地域
を政治上行政上日本から分離することに関する覚書」は、日本政府による「日本国外の総
ての地域」に対する政治上行政上の権力行使停止を指令し、「この指令の目的から日本とい
う場合は次の定義による」として「千島列島、歯舞諸島、色丹島」を“日本”の範囲から
除いた。この指令は行政権の停止であって領土の処分でないことは総司令部の権限に照ら
して明らかであり、同指令中にも「この指令中の条項はいずれも、ポツダム宣言の第 8 項
にある小島嶼の最終的決定に関する連合国側の政策を示すものと解釈してはならない」と
断ってあった。しかし、ソ連はこの指令発出の後、同年 2 月 2 日以降数次の国内法的措置
により、平和条約を待たず、北方四島を含め千島、南樺太を自国領土に編入した8。

2 米英両国による講和準備(1)

1947 年 3 月以降、米国国務省内において数次にわたり対日平和条約草案が作成された。
このうち 1947 年 8月から 1949年 10月までの草案には北方四島を日本に残すとしたものも
あった。1949 年 11 月の草案では一転四島とも日本から除かれた。しかし国務省内の法律
顧問官が二島の線を出し、同年 12 月の草案では歯舞・色丹のみ日本に残すとされた。この
判断には、米国が琉球の統治を継続するつもりであったことも関係していた9。
1950 年夏以降 J.F.ダレスが国務長官顧問として各国と協議しながら自ら草案を起草し
た。従前の国務省草案が日本に残す島を列挙し附属地図で日本の領土的範囲を示していた
のに対し、ダレスの起草した草案は、そのような方式を廃し、簡潔なものとなった。なお、
ダレスはソ連の条約参加の余地を最後まで残す姿勢をとり、ソ連には、参加するなら千島、
南樺太のソ連帰属を規定する等と述べていた。

3 米英両国による講和準備(2)

英国は、ヤルタ協定を遵守する立場から、一貫して千島のソ連への割譲を規定すべきで
あると考えていた。歯舞ないし歯舞・色丹が千島とは別であるという認識はあった。
米国においては冷戦の進行につれて、ソ連が対日講和に参加しない場合には千島、南樺
太のソ連領有を認めるべきでないとの見解が生まれていた。1951 年 3 月の草案ではヤルタ
協定同文の規定をおく一方、条約の締約国以外には利益を与えない旨の規定を設けた。
英国との調整を経た 1951 年 5 月の米英共同草案は、英国の主張を採り入れて千島、南樺
太をソ連に割譲すると規定したが、締約国以外に利益を与えないという米国案の条項が残された。同年 6 月の改訂米英草案では、ソ連が締約国にならない場合でも千島、南樺太に
対する日本の領有権を失わせる等の目的で、割譲ではなく日本による放棄が規定されるこ
ととなった。ただし、締約国以外に利益を与えない旨の条項は維持された。

4 サンフランシスコ平和条約

1951 年 9 月 8 日調印の「日本国との平和条約」(サンフランシスコ平和条約)では最終的に
日本による千島列島、南樺太に対する「権利、権原、請求権」の放棄が規定された(第 2
条 c 項)。サンフランシスコ講和会議の席上、米国の全権代表(ダレス)は、千島等日本の
放棄した領域の帰属先については「この条約以外の国際的解決策に訴えることによって疑
点の解決を将来に残す」と述べた。日本の全権代表(吉田茂首相)は、日本開国の当時「千
島南部の二島、択捉、国後両島が日本領であることについては帝政ロシアもなんらの異議
を挾まなかった」と述べたが、領有権を国際法上留保したというには当たらなかった。
他方ソ連は、条約の締約国とならず、この条約によっては「いかなる権利、権原、利益
も」与えられないことになった。このことに関し、米国上院でダレスは、ソ連は欧州でも
アジアにおいてもヤルタ協定に違反している、対日平和条約は米国がヤルタ協定を明白に
廃棄したことになる最初の正式な行為である旨述べた。上院は、条約の批准承認について
の決議で、対日平和条約の承認は「合衆国としてヤルタ協定に含まれているソ連に有利な
規定の承認を意味しない」旨宣言した。

5 日本国内(国会)の論議

終戦から講和に至る時期を通じて、国会においては、侵略によって他国から奪った領土
でない千島、樺太(特に千島)については、カイロ宣言=領土不拡大原則に照らし日本に主
権を残してもらいたいとする議論が一般的であった。歯舞・色丹はもとより、国後・択捉
が千島(クリル)の内ではないとする論議も早くから行われた。1947 年 10 月 6 日衆議院外
務委員会で紹介された請願が、会議録に残る最初の“国後・択捉非クリル論”である10。
他方、サンフランシスコ平和条約を審議した第 12 回国会では、条約第 2 条 c 項に関して、
“南千島”(国後・択捉)も放棄した千島列島に含まれる、との答弁がなされた(1951 年 10
月 19 日、同 20 日の衆議院特別委員会、11 月 5 日の参議院特別委員会)。ただし、当時は条約を
成立させて独立を回復することが最優先課題であり、また占領下にあって実際上政府に行
動(答弁)の自由がなかったことが考慮されるべきである。

6 日ソ国交回復交渉(1)

サンフランシスコ平和条約にソ連が参加しなかったため、日本とソ連との間の法的な戦
争状態はその後も継続した。1955 年 6 月日ソ平和条約締結交渉がロンドンで始まったが、
我が国は、戦争状態の終了に加え、シベリア抑留未帰還者問題、北洋漁業(拿捕漁船)問題、
国連加盟がソ連の反対で実現しない問題等の難問を抱え取引材料のない状況にあり、領土
問題を有利に解決することは最初から困難であった。日本政府の交渉に臨む立場は、歯舞・
色丹、千島、南樺太が歴史的に日本の領土であると主張しつつ、交渉の終局においてはこ
れを全面的に返還させるという考えではなく、弾力性をもって交渉に当たる、というもの
であったと言われる11。

同年 8 月、ソ連側は、他の懸案の解決と合わせた最終解決として、歯舞・色丹の日本へ
の引渡しを認める旨述べた。日本側全権(松本俊一衆議院議員)は本国に請訓した後、国後、
択捉、歯舞、色丹の主権回復、南樺太、千島については、ソ連、日本を含む関係国の国際
会議で所属を決定する、という対案を出した。ソ連は拒否し、交渉は行き詰まった。

7 日ソ国交回復交渉(2)

1956 年 7 月、モスクワで日ソ交渉が再開された。この交渉では重光葵外相自身が全権代表としてモスクワヘ赴いた。同氏はかねて日米関係を重視し、対ソ強硬派と目されていたが、二島(歯舞・色丹)を最終譲歩とするソ連の意思が動かし難いことを知り、ソ連案―二島引渡しプラス国境画定(すなわち国後・択捉を含め千島及び南樺太はソ連領として認める)―
で平和条約を締結しようとした。しかし、東京からは、この際直ちにソ連案に同意することについては閣内こぞって強く反対し、また国内世論もすこぶる強硬であると判断される、として妥結を見合わせ、冷却期間をおくため、折から開催されたロンドンのスエズ運河会議に出席するよう要請する訓電が届いたといわれる。

同年 8 月 19 日にロンドンで行われた米国ダレス国務長官と重光外相との会談において、重光外相が日ソ交渉の状況を説明したのに対し、ダレス長官は「もし日本がソ連に千島の完全な主権を認めるなら、我々は同様に琉球に対して完全な主権を主張しうる地位に立つ。」、「もし日本が千島の主権を南北に分けることが可能かどうかを問うのであれば、米国は再考するかもしれない。米国はすでに北部琉球(注.奄美のこと)を返した。」と述べた。

重光外相は、米国の解釈がそのように固いのであれば日本は再度対ソ努力を継続する、日本の論議は国後・択捉が固有の領土だというにある等と答えた12。

8 日ソ国交回復交渉(3)

かねて日ソ関係正常化を政策目標に掲げていた鳩山一郎首相は、事態打開のため自ら訪ソしようと考えた。しかし、領土問題を棚上げにして戦争状態の終了、未帰還者問題の解決等を実現する国交回復方式(ドイツの例によりアデナウアー方式と呼ばれた。)によるほかないというのが当時の状況であった。

アデナウアー方式による場合、国交回復後も領土問題に関する交渉を継続する旨の約束をソ連から取り付けることが重要であった。このため鳩山訪ソに先立って、前年以来日ソ交渉に従事してきた松本俊一が訪ソし、1956 年 9 月 29日、グロムイコ第一外務次官との間で「領土問題をも含む平和条約締結交渉」の継続を合意する書簡を取り交した。

同年 10 月 12 日鳩山首相はモスクワ入りし、ブルガーニン首相らソ連首脳と会談した。

実質的な交渉は河野一郎農相とフルシチョフ党第一書記との間で行われた。日本側は結局歯舞・色丹返還と国後・択捉の継続協議を共同宣言に盛り込むよう主張した。このときの日本側の交渉記録というべきもの(通訳を務めた野口芳雄氏のメモ)が 2005 年 3 月に元時事通信記者で河野一郎の秘書となった石川達男氏によって公刊された13 14。

10 月 16 日の会談でフルシチョフは、歯舞・色丹を書いてもよいが、その場合は平和条約交渉で領土問題を扱うことはない、歯舞・色丹で領土問題は解決とする旨主張した。18 日午後の会談で
は、河野が提示した案文に対し、フルシチョフは「領土問題を含む」〔平和条約締結交渉の
継続〕という字句を削除したい、そうでないと日本とソ連間に、歯舞・色丹以外に何か別
の領土問題があるようにとられるからだ、と述べた。河野は、これは前夜ソ連側からもら
った案文をそのまま採用したものである、本国の承認をすでに取り付けたから直せないと
述べた。同様のやりとりが繰り返された後、河野は、総理と相談すると言って辞し、同日
中にフルシチョフを再訪して、(領土問題を含むという字句の削除の)受入れを伝えた。ただ
し、日本側は、後刻「松本・グロムイコ書簡」を公表することで説明をつける考えであり、
実際にソ連側の了解を得て公表された。

9 日ソ共同宣言(1956 年)

1956 年 10 月 19 日に調印された日ソ共同宣言では、日ソ両国は「正常な外交関係が回復
された後、平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する」、ソ連は「日本国の要
望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに
同意する。ただし、これらの諸島は、…平和条約が締結された後に現実に引き渡されるも
のとする。」と規定された。なお、日ソ共同宣言は、平和条約と区別してこの名称が与えら
れたが国家間の条約であり、両国の国内手続きを経て批准され、同年 12 月 12 日発効した。

10 米国の対日覚書

日ソ交渉中の 1956 年 9 月 7 日、米国国務省は対日覚書を発出し、その中で、①ヤルタ協
定は当時の首脳が共通の目標を陳述した文書にすぎず、領土移転の法的効果をもつもので
はない、②サンフランシスコ平和条約は日本の放棄した領土の帰属を決定しておらず、別
個の国際的解決手段に付せられるべきものとして残されている、③日本は放棄した領土に
対する主権を他に引き渡す権利をもっておらず、このような性質の行為がなされればサン
フランシスコ平和条約の当事国は一切の権利を留保するであろう、④「米国は、歴史上の
事実を注意深く検討した結果、択捉、国後両島は(北海道の一部たる歯舞諸島及び色丹島
とともに)常に固有の日本領土の一部をなしてきたものであり、かつ、正当に日本国の主
権下にあるものとして認められなければならないものであるとの結論に到達した。米国は、
このことにソ連が同意するならば、それは極東における緊張の緩和に積極的に寄与するこ
とになるであろうと考える。」という見解を表明した15。この覚書は、同年 8 月の二回の重
光・ダレス会談をうけて米国国務省内で検討がなされた結果発出されたものである。
日本政府の国会答弁においても、1956 年 2 月 11 日(衆議院外務委員会)以来、国後・択
捉両島はサンフランシスコ平和条約の千島列島中に含まれないと言明されている。

11 日米安保条約締結に伴うソ連の対日覚書

1960 年 1 月 27 日、ソ連グロムイコ外相は駐ソ日本大使を招致して、新安保条約がソ連、
中国に向けられたものであることを考慮し歯舞・色丹を日本に引き渡すことによって外国
軍隊により使用される領土が拡大するがごときことを促進することはできない、とし、「日

本領土からの全外国軍隊の撤退」を、日ソ共同宣言で取り決められた歯舞・色丹の引渡し
条件として付加することを申し入れた16。これに対し日本政府は、同年 2 月 6 日付けで、
安保条約は純粋に防衛的性格のものであるとしたうえ、「国際条約の内容を一方的に変更し
得ないことは論ずるまでもない」と反論した。
12 池田=フルシチョフ往復書簡
1961 年 8 月 12 日、フルシチョフ首相は、ミコヤン閣僚会議議長代理の訪日に際して池
田勇人首相に親書を送った。これに対し池田首相は、返簡の中で領土問題に言及し、日本
固有の領土を返還すべきであると述べた。これを契機として同年 12 月まで数次にわたり両
首相名の書簡による領土問題の応酬が行われた17。
日本側は、①元来戦後の領土問題は平和条約で確定されるものであるが日ソ間には平和
条約が締結されていない、②ヤルタ協定は領土移転の法的効果をもつものでなく、また日
本は当事国でないからこれに拘束されない、③サンフランシスコ平和条約で千島列島を放
棄したがソ連のために放棄したわけではない、(以上により領土問題は未解決である。)④日本
が受諾したポツダム宣言にはカイロ宣言の条項が履行されるべき旨明記されておりカイロ
宣言では日本が暴力及び貪欲により略取した地域から駆逐される、連合国は自国のために
利得を欲求するものでなく領土拡張の意思がないと宣言されている、かつて他国に領有さ
れたことのない国後・択捉にまでソ連が領有権を主張していることはカイロ宣言の条項に
矛盾する、⑤帝政ロシアも 1855 年の日魯通好条約で両島が日本の領土であることを承認し
ている、⑥1875 年の樺太千島交換条約は「千島列島」としてウルップ以北の 18 島を挙げ
ているところ、サンフランシスコ平和条約で放棄した「千島列島」はこの歴史的な概念で
ある 18 島を指すものであって国後・択捉については放棄していない、と主張した。
これに対しソ連側は、①ポツダム宣言は日本の主権を本州、北海道、九州及び四国並び
に若干の小島に局限しており千島は日本の主権の下に残された領土から除外されている、
②日本は放棄した以上サンフランシスコ平和条約に帰属先が記載されていなくても千島を
要求しえない、③千島はヤルタ協定によって無条件にソ連に引き渡された、④ヤルタ協定
は日本と戦った諸国間に締結されたものである以上日本が当事国でないのは当然であるが
日本は降伏して連合国の決定した条件を受諾した、⑤米国もかつてヤルタ協定が自国を拘
束するものと認めた、⑥ヤルタ協定にも一般命令第 1 号にもサンフランシスコ平和条約に
も千島列島の区分はない、⑦国後・択捉が千島に含まれることは 1937 年の水路誌をはじめ
戦前の多くの日本出版物において明らかであり、戦後においても政府が一再ならず認めて
いる、⑧1855 年、1875 年の条約は 1904 年に背信的に攻撃し樺太の南半を奪取するなどこ
れらの条約を破ったから日本は引き合いに出す権利を失った、と主張した。

13 ブレジネフ時代の状況等

1960 年代後半、70 年代、80 年代前半を通じ、北方領土問題をめぐる日ソ両国の立場に
は基本的に変化がなかった。この間、1968 年 6 月南方諸島(小笠原等)の返還が実現した
のに続き、1972 年 5 月日米沖縄返還協定が発効し、我が国は沖縄及び大東諸島に対する施
政権を回復した。(奄美大島は 1953 年 12 月に返還されていた。)
1973 年 10 月の田中角栄首相訪ソに際しての日ソ共同声明には、第二次大戦の時からの

未解決の諸問題を解決して平和条約を締結することが善隣友好関係の確立に寄与するとの
文言が盛り込まれた。しかし、ソ連はその後も問題が解決済みであるとの態度をとった。
1977 年には、いわゆる 200 海里規制問題が起こった。同年 2 月 24 日、ソ連は閣僚会議
決定をもって北方四島を含めた漁業水域の線引きを行い、北洋漁業関係者の生活と領土問
題が二者択一の形で絡むという深刻な事態が生じた。このときは、国会内で党首会談を開
いて全党一致の方向づけが行われるなど国論がまとまり、これを背景にかろうじて日本の
立場を留保する漁業協定が締結された。その他、歯舞・色丹墓参の査証要求問題、軍事施
設増強問題が生じるなど、北方領土問題に前向きの材料はなかった。

Ⅲ 冷戦終焉後の状況

1 ゴルバチョフ訪日・英国による日本政府見解支持

1985 年 3 月のゴルバチョフ党書記長就任以来、北方領土問題をめぐる状況にも変化の兆
しが現れた。ゴルバチョフ訪日に向けた準備作業の一環として、1988 年 12 月の合意によ
り「外務次官級日ソ平和条約作業部会」が設けられた。パノフ元駐日ロシア大使の回想に
よれば、同ワーキング・グループは、1991 年 4 月の首脳会談開催までに 7 回の会議を行い、
あらためて双方が領有権主張の根拠を提示し合い、検討が行われた18。
1991 年 4 月ゴルバチョフ大統領がソ連最高首脳として初めて訪日した。海部俊樹首相と
の間で調印された日ソ共同声明(1991.4.18)では、「歯舞群島、色丹島、国後島及び択捉島
の帰属についての双方の立場を考慮しつつ領土画定の問題を含む日本国とソヴィエト社会
主義共和国連邦との間の平和条約の作成と締結に関する諸問題の全体について詳細かつ徹
底的な話合いを行った。」との一文が盛り込まれた。同共同声明にはまた、ソ連側が住民の
交流拡大・訪問の簡素化(いわゆるビザなし渡航)、地域における互恵的経済活動、軍事力の
削減について提案を行った旨記録された。(ビザなし渡航は、1992 年春実現した。)
なお、この間 1988 年 8 月、「自由民主党北方領土地図ミッション」がロンドンを訪れグ
レンアーサー外務担当閣外大臣と面談した際、同大臣は、北方領土問題に対する英国政府
の公式見解を読み上げるとし、「我々は、連合国は戦争によっていかなる領土的な利益も追
求しないという一般原則にかんがみて、戦後 40 年以上、ソ連が継続して北方領土を統治し
ていることは正当化されない、という日本政府の見解を支持する。」と述べた19。英国はこ
こにおいて、米国同様、正式に日本支持の姿勢を打ち出した。

2 ソ連からロシアへ

1991 年 12 月、ソ連の連邦制が崩壊し、旧連邦構成共和国のうちロシアがソ連と継続性
を有する国家として国際法上の権利義務を引き継いだ。これに伴い平和条約締結交渉も日
ロ間で行われることとなった。1992 年 8 月 14 日付けのロシア紙『イズベスチア』は、長
文の論説記事の中で、北方領土問題の国際司法裁判所への付託の可能性に言及した。同年
9 月 11 日には、ペトロフ大統領府長官が国際司法裁判所付託に言及したと伝えられた。
1992 年 9 月 29 日、日ロ両国外務省は、『日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料集』
を公刊した20。この資料集は、元来同月に予定されたエリツィン大統領の訪日に向けて刊行し、両国国民が問題を客観的に検討し理解することに資するはずのものであった。

3 東京宣言

1993 年 10 月、ロシアのエリツィン大統領が公式に日本を訪問し、細川護煕首相との間
で「日露関係に関する東京宣言」が調印された(1993.10.13)。東京宣言では、「日本国総理
大臣及びロシア連邦大統領は、両国関係における困難な過去の遺産は克服されなければな
らないとの認識を共有し、択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島の帰属に関する問題につ
いて真剣な交渉を行った。双方は、この問題を歴史的・法的事実に立脚し、両国の間で合
意のうえ作成された諸文書及び法と正義の原則を基礎として解決することにより平和条約
を早期に締結するよう交渉を継続し、もって両国間の関係を完全に正常化すべきことに合
意する。」と謳われた。1991 年 4 月のゴルバチョフ訪日に際しての日ソ共同声明で四島へ
の言及がなされたが、東京宣言は、四島全部が帰属問題の対象であることを明確にした点
及び帰属問題を法と正義の原則を基礎に解決するという方針を打ち出した点で重要である。
東京宣言は、条約ではないが、その後も、両国の首脳会談において繰り返し言及されるこ
とによって両国間の合意としての確認がなされている。

4 政経不可分・拡大均衡・重層的アプローチ

1997 年 11 月クラスノヤルスクにおいて橋本龍太郎首相とエリツィン大統領との首脳会
談が行われ、「東京宣言に基づき、2000 年までに平和条約を締結するよう全力を尽くす」
ことを合意するとともに(クラスノヤルスク合意)、貿易経済関係の発展に関する「橋本・エ
リツィン・プラン」が発表された。従来、冷戦下では領土問題と経済関係の進展をリンク
した「政経不可分」の政策が行われ、その後、政治・経済両面での動きが相互によい影響
を与えながらともに前進していくという意味合いで「拡大均衡」という言葉を使うように
なったが、1996 年 2 月に池田行彦外相は国会で「重層的アプローチ」という考え方を表明
し、1997 年 7 月には橋本首相が経済同友会会員懇談会における講演で、信頼、相互利益、
長期的視点の対露三原則を打ち出していた21。

5 いわゆる川奈提案

1998年 4月 18日 19日の両日川奈で行われた橋本首相とエリツィン大統領との会談では、
「平和条約が東京宣言第 2 項に基づき四島の帰属の問題を解決することを内容とし、21 世
紀に向けての日露の友好協力に関する原則等を盛り込むべきこと」で一致した(川奈合意)。
川奈においては、日本側から、択捉とウルップの間に国境線を引くこととし、当分の間四
島に対するロシアの合法的な施政を認める、つまり、平和条約では、国境が択捉とウルッ
プの間にあること及び別途の協定で施政権の返還を定めるまでの間は(1956 年の日ソ共同宣
言で平和条約締結後の引渡しが規定された歯舞・色丹を含め)四島にロシアが施政権を行使する
ことを規定する旨の提案が行われたといわれる22。
同年 11 月の小渕恵三首相とエリツィン大統領とのモスクワ首脳会談では、「日本国とロシア連邦の間の創造的パートナーシップ構築に関するモスクワ宣言」(1998.11.13)が発表
されたが、先の川奈における日本側提案に対しては、ロシア側から、日本側提案は四島に
対する日本の主権を認めよということであって受け入れられないとした上、平和友好協力
条約を締結することとし、同条約で四島交流の拡大(経済活動の法制度も整備)及び国境画
定条約交渉の継続を規定するという提案があったといわれる23。その後日本国内において
は、日露の関係拡大を是とする立場から平和友好協力条約方式を評価する意見が出される
一方、平和と名のつく条約を結べばそれで領土問題は終わりになってしまう、四島の帰属
問題を解決して平和条約を締結するとの立場を堅持すべきであるとの意見も出された24。

6 その後の首脳会談

2000 年 9 月プーチン大統領が訪日し、森喜朗首相との間で「平和条約問題に関する日本
国総理大臣及びロシア連邦大統領の声明」(2000.9.5)が出された。同声明は四島の名を挙
げ、その帰属問題を解決することにより平和条約を策定するための交渉を継続するとした。
2001 年 3 月、森首相が訪露し、プーチン大統領との間で、「平和条約問題に関する交渉
の今後の継続に関する日本国総理大臣及びロシア連邦大統領のイルクーツク声明」(2001.
3.25)が出された。同声明では、「1956 年の日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共
同宣言が、両国間の外交関係の回復後の平和条約締結に関する交渉プロセスの出発点を設
定した基本的な法的文書であることを確認した。」「その上で、1993 年の日露関係に関する
東京宣言に基づき、択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島の帰属に関する問題を解決する
ことにより、平和条約を締結し、もって両国間の関係を完全に正常化するため、今後の交
渉を促進することで合意した。」との文言で、1956 年の日ソ共同宣言への言及がなされた。
イルクーツク声明で特に 1956 年の共同宣言に言及されたことに関しては、歯舞・色丹の返
還にめどが立ったので二島の返還協議を先行すればよいとか、二島の問題と国後・択捉の
問題を並行して協議すればよいという意見が出る一方、1956 年の日ソ共同宣言を基にした
のでは歯舞・色丹の引渡しをもって最終解決とされてしまう、1993 年の東京宣言こそ交渉
の指針とすべきであるとの意見も聞かれる25。
2003 年 1 月、小泉純一郎首相が訪露し、プーチン大統領との首脳会談の成果として「日
露行動計画」(2003.1.10)が発表された。この文書の平和条約関係部分は、1956 年の日ソ
共同宣言、1993 年の東京宣言、2001 年のイルクーツク声明及びその他の諸合意が、諸島の
帰属の問題を解決することにより平和条約を締結し、もって両国関係を完全に正常化する
ことを目的とした交渉の基礎であるとの認識に立脚し、引き続き残る諸問題の早期解決の
ために交渉を加速する、とする。日露行動計画は、政治対話の深化等 6 項目からなってお
り、領土問題の比重が相対的に下がったとの意見も聞かれた26。
小泉首相の訪露(2003.5、2005.5)、プーチン大統領の訪日(2005.11)、福田康夫首相の訪
露(2008.4)、麻生太郎首相のサハリン訪問(2009.2 メドヴェージェフ大統領)、各年のサミッ
ト・APEC 首脳会議等の機会にも平和条約に関する対話の継続等が確認されている。

 

 

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